民衆の敵(1931)のレビュー・感想・評価
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ジェームズ・キャグニー‼️
1930年代に隆盛を極めたギャング映画の中でも、最高傑作の一本‼️シカゴのチンピラ、トムは、暗黒街でのしあがるが、運も尽き、殺される。怒り狂った弟が復讐を果たす‼️ガタガタうるさい女のツラにトムがグレープフルーツをグシャリ、押し付けるシーンは本作の名場面‼️とにかく残忍でワルい‼️ホントにキャグニーはハマり役‼️ただギャングを英雄視するのではなく、警鐘的な筋書きでもあります‼️戸口に立つ死体のトムがバッタリ倒れてくるラストは、いまだに記憶から消えない名場面で、ジェームズ・キャグニーってすごいなぁと感心させられました‼️相手役ジーン・ハーロウのエロも必見‼️
恐るべき早口で、それこそマシンガンのように台詞を繰り出すキャグニーの滑舌と仕草、表情は、当時の誰も観たことのないリアリティだったと思います
邦題は、原題のパブリック・エナミーをそのまま訳しただけのもの
同名のヒップホップグループがいるので、そちらを思い出す向きもあるでしょうが、本作とは関係はありません
「犯罪王リコ」は同年1月公開
「民衆の敵」本作は1931年11月公開
「暗黒街の顔役」は1932年3月公開
どれもワーナーブラザーズの作品
この三作がギャング映画の始祖と言えるでしょう
本作では「犯罪王リコ」のエドワード・G・ロビンソンにも負けないジェームズ・キャグニーの強烈なキャラクターが炸裂しています
サイレント映画の残滓はどこにもありません
現代の映画はこの作品群から始まったと言っても過言ではないと思います
映画のイノベーションだったのです
ヘイズ・コードという米国映画の自主規制は正式には1934年からのことですが、1930年には規制条項が業界紙に掲載されています
つまり検閲を受けることを、作り手側はすでに意識し始めている時期だったと言うことです
だから直接的な剥き出しの暴力をそのまま観せることがないのは「犯罪王リコ」と同じです
しかし本作ではさらに進んで、わざと見せないということで逆に怖さの効果を増すというテクニックに進化させています
直接的な剥き出しの暴力は画面には見えなくとも、展開されているのです
その結果を観て観客はそれぞれがその過程を想像してしまうのです
北野武監督作品のギャング映画が、本作の直系の子孫であることが、本作を観ればすぐに感じ取れると思います
恐るべき早口で、それこそマシンガンのように台詞を繰り出すキャグニーの滑舌と仕草、表情は、当時の誰も観たことのないリアリティだったと思います
土砂降りの雨の中のクライマックスは、「ブレードランナー」の絵作りを思い出しました
絶対に観なければならない映画のひとつです
想像させるための省略
1931年のバイオレンス映画である。
同年代にも同じような映画は作られていたが、ほぼほぼ今日まで続く「ギャング映画」の元祖といっていいだろう。
ストーリーは単純そのもの。
生まれついてのワルだった男が成り上がり、やがて自滅するだけの話である。
主人公が悪人である以上、最後は死ぬしかない。
お決まりのパターンだ。
だが、僕が本作で気に入っている部分は、その撮り方にある。
まず、盗みに失敗し警官を撃つシーンだ。
主人公たちが影から銃だけを出して撃つショット、そして逃げ出すショット、最後に、暗闇の中で倒れている警官の手に持たれた銃のショットという、省略する事による、あっけなくも印象に残るショットで構成されている。
この演出により、警官殺しという「取り返しのつかない事をしてしまった」シーンであることを強調している。
成長し、ギャングのボスに雇われた主人公。
だが、ボスは乗馬をしていた際、誤って落馬してしまい、運悪く馬に頭を蹴られ、あっけなく死んでしまう。
なぜ「あっけない」かというと、撮られてすらいないからである。ただ口で説明されるだけだ。
主人公は怒りに任せ乗馬クラブへ乗り込むのだが、このシーンが凄い。
クラブの経営者へ「ボスを殺した馬はどれだ」と問いただし、その馬をその場で高額で買い取り、画面奥の馬がいる場所に向かう(画面から消える)。
やがて銃声が響き、銃を持って戻ってくる。
これをカメラを固定したまま、ワンカットで撮っている。
並みの映画なら、馬と主人公のカットバックぐらいはありそうなものだが、そんなシーンは一切撮られておらず、無駄なカメラの動きなど一切ない。
自分を裏切った昔の雇い主と再会し、報復をするシーン。
雇い主は狼狽し助けを求め、場を和まそうと自分の部屋のピアノを弾く。
その背後で銃を抜く主人公。
そしてカメラはそのまま部屋の出口にいる主人公の相棒を映す。
すると、カメラの外から銃声と呻き声と不協和音のピアノの音色が響き、主人公が部屋の出口に戻ってきて帰っていく。
これをワンカットで撮っている。事件は常に持続した時間の中で起きている。
またしても無駄なカットは一切撮られていない。
殺害される瞬間は、馬の時と同様、見る側の想像に委ねている。
これは当時の映像倫理の問題では無いだろう。
実際、街中で撃たれて倒れる人物のショットはあるのだから。
僕がいちばん度肝を抜かれたのは、相棒を殺された主人公が、敵対するギャングのアジトに殴り込みをかけるシーンだ。
雨の中、敵のアジトである建物の外に立つ主人公を、カメラは捉えている。
そして、主人公は建物に入っていき、しばらくして無数の銃声が、外に鳴り響く。
やがて、腹を押さえながら主人公が外に出てきて、苦しそうに逃げ出す。
これをワンカットで撮っている。
これは驚いた。クライマックスすら省略している。
決して、予算が無いわけではないだろう。
街角のセットを盛大に爆破しているシーンもある。
普通は、大立ち回りをさせるような派手なシーンではないのか。
あえて、観る側に建物の中の凄惨な様子を想像させるための、大胆な省略をしている。
これはまるで、北野武監督の「ソナチネ」ではないか。
そんな撮り方を、1931年の時点でやっている事が凄い。
主人公の最期にしてもそうである。
病院で家族と和解する主人公。
だが次のシークエンスでは、主人公はすでに殺され、家の前に捨てられている。
この「重要人物の死」における省略の仕方、適当に近年の作品で例えるなら「ノーカントリー」におけるジョシュ・ブローリンの扱いに似ている。
誘拐されるシーンもなければ、拷問されるシーンもなく、もちろん運ばれてくるシーンもない。
ここでも、それら全てを省略する事により、唐突に訪れる死のあっけなさを描いている。
そして、そこに至るまでの凄惨な仕打ちを、観る側の想像に委ねることで、ギャングの世界に対する恐怖心を抱かせるのである。
省略されているのは、当時の倫理的な問題も、もしかしたらあったのかもしれない。
予算的な問題かもわからない。
だが、どちらにしろ、この「ズレた」撮り方。
結果として、それがこの作品の恐ろしさへと繋がっている事には変わりがない。
1930年代という時代。映画が産まれて30年余り。
この時点で、すでにギャング映画は「完成」されている。
恐ろしいほどの傑作である。
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