トレインスポッティングのレビュー・感想・評価
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A Tale of a Hustle to Escape Euro Misery
Trainspotting has reached antiquity and still stands as the stylish film it was. As much a drab portrayal of the Scottish low-life, it's also a considerably convincing education piece against heroin abuse. Gross-out squibs aside, its script is highly poetic and well-transcribed by Boyle's filmmaking, who established himself as a leading auteur here. The soundtrack adds additional nostalgia.
だから僕は、人生の節目を迎えたとき、なんとなく本作を見る。シーンとともに、記憶がドッと溢れ出す、そんな類の作品。
「未来に何を選ぶ?」。レントンはタバコやら財布やら、ポケットの中身をボロボロ落とすのも構わず走り、画面越しの僕らに問いかける。僕が本作を初めて鑑賞したのは、就職活動を控えた大学3年生のときだった。
あのころの僕は、未来に何を望み、何を選ぼうとしていたのだろう? 手際よくヘロインを摂取し春の雪崩のように堕落していくレントンたちを「こうはなるまい」と嘲笑する一方で、彼らが茫漠たる不安にまとわりつかれる姿に、自分自身を重ね合わせていたのかもしれない。
「未来に何を選ぶ?」。その問いは、当時の僕の致命的な部分に届いたばかりか、今もなお頭のなかでリフレインし続けている。
レントンを筆頭に、登場人物たちはクソみたいな日常を脱するべく、破滅という名の救いを求める。酔っ払うにもラリるにも金がいる。しかし1秒たりとも働きたくない。いかに楽に稼ぐか、いかに国家にタダ乗りするか、いかに手っ取り早くトリップするか。それだけが彼らを取り囲む日常だ。シンプルでクリアな世界。退廃的で甘美な地獄。
スパッドが失業手当で暮らすため、面接で「就職しちまわねえように」荒唐無稽の戯言を繰り返す。レントンが“スコットランドで最悪のトイレ”に頭から潜り込み、アヘンの座薬を探し出す。レントンがバッドトリップし、かび臭そうなカーペットにズブズブと沈んでいく。
しかし若者たちは、宿命的な絶望から逃れようともがき、のたうつ。「未来を選べ 人生を選べ」「こんな国クソッたれだ! 最低な国民 人間のカスだ」「生きていくのさ 未来を見すえて 死ぬその日まで」。そうして物語は、なんとも言えず爽快な結末へと疾走していく。
こんなことを言ったら「甘えんなボケ」と怒られるが、大学3年生の時の僕は、できれば働きたくなんかなかった。就職活動なんてしたくなかった。森見登美彦やヘルマン・ヘッセの言葉をまんま借り「詩人か、高等遊民か、でなければ何にもなりたくない」とつぶやく、そんな痛いタイプの学生だった。
しかしレントンの決して器用ではない生き様と、破れかぶれとも思える決断を見ていると、僕の悩みなどとてもちっぽけなものに思えた。鑑賞する間、ふわふわとした浮遊感に包まれ、不思議と頑張れるような気がした。もちろん、この物語はシニカルなメッセージを投げかけてもいる。でも本作は僕にとって、“何か”を埋めてくれた大切な作品なのだ。
だから僕は、人生の節目を迎えたとき、なんとなく本作を見る。誰かにとっての「ニュー・シネマ・パラダイス」が、僕にとっての「トレイン・スポッティング」。シーンとともに、記憶がドッと溢れ出す、そんな類の作品。
コロナ禍により自宅を出ずに過ごす2020年4月某日、何度目かわからない鑑賞を終えた。「未来に何を選ぶ?」。レントンの言葉が、また身体の奥深くに染み込んできた。ここにある“現在”が、すぐそこにある“未来”をつくる。世の中はこんな状況だけれども、不思議と、また頑張れるような気がしてきた。
この映画は、見る者に勇気をくれる。次に本作を見るときは、僕はどんな未来を選び取っているだろう。
今の時代で見ると価値観の違いで評価は割れそう
今年157本目(合計1,249本目/今月(2024年4月度)31本目)。
(前の作品 「メメント」→この作品「トレインスポッティング」→次の作品「ヘレディタリー 継承」)
新テアトル梅田(旧シネリーブル梅田)で、旧テアトル梅田(現在は閉館)の人気作品の復刻上映という扱いで見に行ってきました。1995年の映画だそうです。
個人的には他の方も書かれている通り、(演技であるとはいえ)コカイン中毒などの描写が生々しいので、「薬物はダメですよ」という学習映画的な意味合いも多少はあるのかな…と思ったものの、ミニシアターが中心であったであろう本作品(新テアトル梅田もミニシアター)でそういうのは難しいのかな…というところがあります。
個々、ことわざや格言を持ち出して何の説明もなく進むところがありますが、どうも原作小説からきたらしく、その部分まで完全に理解するにはかなりの知識を要するのかな…というところです。
結局のところ、日本ではこうしたコカインやらヘロインやらこういったものは厳しく規制されますが、いわゆる「薬物中毒でよくあるもの」として描かれているあたり、このあたりは国は違ってもだいたい同じで、映画としても国は違っても言いたいことはだいたい理解できるし、多少字幕が丁寧ではないかな、といったところはあるものの復刻上映なので仕方なしかなといったところです。
なお、上述通り原作小説があるので知っていれば有利であろうとは思うものの、アマゾンなどでみても特段高騰しているわけではないのですが、お届けまでに2か月とあったり品薄なのか流通数が少ないのか、現在(新たに)入手するのは難しいのかなといったところです(大阪市の一般的な書店のオンライン検索では在庫なしの扱い)。
採点に関しては特に気になる点までは見出せなかったので(コカインだのヘロインだの、一部のアダルトシーンなど、R15であることも考慮して)フルスコアにしています。
ファンが多い理由もわかるが
前半までは若者に薬物防止に見せるといいんじゃないか、と思うくらい薬で破滅していく主人公達。
レントンだけ更生してからも友達が転がり込んできて地元の友達の悪質さがよくわかる。
最後の逃亡は気持ちいいような後味悪いような。
作品全体に絶望感が漂っていてファンが多い理由もわかる。主人公グループが貧困やら家族不全など起こしてないあたりも話が暗くなりすぎなくていい。
ただ、面白いかと言われると特に面白みを感じる部分もない気もする。
脳みそ溶けてる
若きユアン・マクレガーはかわいい。が、内容はヤク中の青年の話なので、興味も共感も持てない。その時代の空気を描いたという意味では、価値があるかもしれない。あと、薬のためにはどんな汚いことでもできるんだー、って勉強になった。赤ちゃんの世話もどうでもよくなっちゃうし。こうやって人間を辞めていくんだね。
BS-TBSの放送を録画で視聴。
"Choose Life"を笑い飛ばし破滅に向かって暴走する危険でポップな青春
1 "Choose Life"とは何か
映画の冒頭、主人公レントンは”Choose Life”に対する皮肉と嫌みの言葉を洪水のように吐き出し、「そんなもの、俺は御免だ」と宣言する。そして同じ文句のアドリブがラストでも繰り返される。つまり、これが映画を貫くテーマである。
この"Choose Life"とは、1980年代の英国政府によるアンチドラッグ・キャンペーンのキャッチコピーで、日本語にすれば「死ではなく生を選べ」=「死ぬな。生きろ」である。
日本でも「覚醒剤やめますか?それとも人間やめますか?」なるコピーが1980年代に盛んにTV等で放送されたが、その文脈では「人間やめるな」ということだ。
字幕では「人生に何を望む?」などという頓珍漢な翻訳がされており、ネットには「人生を選べ」「生き方を選べ」などと訳しているサイトもある。しかし、それではレントンがこのコピーを茶化して、小馬鹿にする文句が生きてこない。残念ながら原語を聴き取れないので、原作を紹介すると、次のようになる。
「生を選べ。ローンを背負った生を選べ。洗濯機を選べ。車を選べ。ソファに座り、ジャンク・フードをほおばりながら、退屈で気が滅入るクイズ番組をながめる暮らしを選べ。自分が産んだ、わがままでバカなガキどもにとっては居心地が悪いだけの家庭で、自分を呪いながら朽ち果てる生涯を選べ。生を選べ。/だが、俺は生を選ばないことを選ぶ。それを認めないと言うなら、それはやつらの問題だ」
つまり、ここでは「生きろというが、生きたってローンを背負ったり、洒落た車を買ったり、退屈なTV番組を見るだけの話じゃないか」と、ろくに選択肢のない社会を皮肉っているのである。
ところが「人生を選べ」と訳す場合、いろいろな人生の選択肢があるという前提になり、その後に続く否定的な人生が直接つながらないし、最後の「選ばないことを選ぶ」も選択肢の一つに過ぎなくなるから、皮肉が成立しないだろう。
そこで原作のこの部分を意訳すると、こんな感じだろうか。
<生きろだって? そりゃ、あんたたちが毎日やってるように、死ぬほどどうでもいい日常の細々したことにかかずり合って、バカな他人と調子を合わせ、愚かな自分のDNAを再生産しろってことか。そんなこと、金輪際お断りだ! 俺は「生きねえ」よw>
ま、そんなことを言っている訳だ。別に「自殺する」という明確な意志表示ではないにしても、「人生などどうでもいい」という態度――それは別に新しいことでも何でもない。今も昔も若い頃には誰だって、そんなことを考えたりするものじゃないか。
例を2、3挙げようか。
1)P・タウンシェンドの場合
大人の奴ら俺たちをこき下ろそうとしやがる
ただうろついてるってことだけで
奴らのやることなすこと全部クソ寒くなる
歳なんてとる前に死んじまいたいね
これが俺の世代だ
(『マイ・ジェネレーション』)
2)D・ボウイの場合
さて、ビリーは一晩中、自殺について喚き散らした
25歳になったらどうやって一発ぶちかますかを
覚醒剤とマリファナでね
25歳じゃ生きていたくもないだろうさ
(『すべての若き野郎ども』)
3)T・S・エリオットの場合
なぜなら、僕はもうすっかり知っている、すっかり知っている――
夕方も、朝も、午後も知っている、僕はコーヒーの匙で自分の人生をはかりつくした
はてさて、それだけの値打があるだろうか、わざわざやるだけの値打が、
日暮や前庭や水を撒いた大通りのあとで、小説のあと、お茶のあと、床をひきずるスカートのあとで――
さらに、あれやこれやたくさんの?――
赤や茶いろの海藻を巻きつけた海の魔女たちのそばにいて
僕たちは海の部屋でだらだら長居をした
人声が呼びさましたとおもったら、僕たちは溺れてゆくのだ。
(『J・アルフレッド・プルフロックの恋歌』)
2 明日なき暴走
ボウイは晩年、禁煙して健康維持に努め69歳まで生きた。エリオットは76歳まで生きて『キャッツ』なんてのも書いた。
本作の原作者アーヴィン・ウェルシュも今年で御年65歳である。『トレインスポッティング』でブッカー賞を獲った時だって、もう35歳になっていた。
そりゃ慶賀の至りではあるが、若い頃には社会の権威や良識に反抗し、世の中に背を向けて人生をないがしろにしたり、死を夢想するのはありがちなことで、彼らは現にそうしたのだった。ロマンティックな自殺願望、あるいは生の蕩尽への意志は若者の特権と言っていい。
本作に登場する若者たちは、別に自殺しようとしているわけではないが、長生きしてもろくなことはないとも思っている。だから未来など毛頭考えず、ひたすら現在の快楽追求に没頭する。サッカー、ロック、喧嘩、セックス、アルコール、そしてドラッグであり、それらを手に入れるための窃盗、詐欺、恐喝、売春等々の犯罪である。
特にドラッグは依存性が高く心身に大きなダメージをもたらすものが多いし、ヘロイン等には注射針を通じたエイズ感染という副産物もある。エイズは1980~1990年代には致命的な病気だったから、死刑宣告みたいなものだ。その意味では彼らが行っていることは、ブルース・スプリングスティーンではないが「明日なき暴走」と呼ぶに相応しい。
そこにはロマンティックな自殺願望などとはケタ違いに大きな危険が潜み、未来はもちろん生命さえ奪われかねない。半端な覚悟で出来ないことは確かであり、だからこそ怖いもの見たさ半分で小説を読み、映画に見入ってしまう。
しかし、見ていると、そこにあるのはおよそ「覚悟」などとはほど遠いポップな冒険とポップな危険の受容であり、「生」が限りなく軽くなっていく感覚ではないか。良くも悪しくもそのポップさが時代感覚だったろうし、ウェルシュの新しさだったのだろう。
暴走の果てに仲間さえ裏切ったレントンは、もはや元の場所には戻れない。あの日々も終わりだ。レントンの最後の述懐を見てみよう。
映画では「俺は悪い人間だが、これを最後に変わろうと思う。足を洗ってカタギの生活を送る。あんたと同じ人生さ。楽しみだ」と語る。ところがその内容は、冒頭で彼が皮肉った日常の些事で埋め尽くされている。
原作はどうか? 「あの場所にいれば、いまの自分以上の自分にはなれない。すべてから永遠に解放されたいまなら、なりたかった自分になれる。すべては彼自身にかかっている。不安でもあり、楽しみでもあった。レントンは、アムステルダムで始まる新しい人生をまっすぐに見つめていた」
映画よりは前向きな表現とはなっているものの、そこには未来を楽しみに感じさせる何ものも書かれていない。
映画、小説ともに、彼が前向きにlifeをchoseしたとは誰も思わない。明日なき暴走という人生の一つの季節に限界を感じ、変えたかったということだろう。その一季節を描くのが本作のテーマに他ならない。
3 政治経済的な背景
1)サッチャーへの不満と怒り
登場人物がドラッグにのめり込む主な理由は、若さゆえの生の蕩尽への意志である。しかし、それとは別に社会的、時代的な原因もあると思われる。
原作にはこんな一節がある。
「労働党が今世紀中にまた政権を握る可能性なんかあるわけない。それから、もし万が一政権を握っても、何一つ、ほんのちょっとだって変わるわけない」
1997年5月総選挙では労働党が勝利しブレア政権が発足したし、1992年の事実上のポンド切下げ以後、英国経済は成長軌道に乗り、その後、同国近現代において最も長い16年もの持続的成長を記録するから、政治経済的にはこの予測は間違っていたわけである。
それはさておき先のセリフから窺えるのは、1979年5月~1997年5月の18年間も続いた保守党政権、なかんずくサッチャー政権に対する不満や怒りである。
原作には政治家の名前はほとんど出て来ないのだが、何故かサッチャーだけは2回も登場するのだ。その一つ。主人公は兄ビリーの葬儀後、兄嫁とセックスして、次のような感想を抱く。
「ビリーにはあまりにももったいない女だ。いや、マイラ・ヒンドリーだってマーガレット・サッチャーだって、あいつにはもったいないくらいだ」
マイラ・ヒンドリーは全英最凶の女と呼ばれた連続殺人鬼である。
2)サッチャー政権の行ったこと
サッチャー政治の基本スタンスは、①経済活動に関わる規制をできるだけ除去しようとする経済的自由主義、②モラルや規範の領域への国家介入を是認する社会的・文化的介入主義だった。
経済的自由主義による影響は、業種や階層によってさまざまに異なる形で表れた。
その一つ、「ビッグ・バン」と呼ばれる金融自由化政策は、証券・金融市場を海外へと解放して、海外の投資を呼び込むのが狙いだった。これにより実際、海外から投資が増え、金融やサービス業にヤッピーが急増する。
他方、こうした金融業界の重視と北海油田による税収増は、急速な脱工業化を伴った。金属、機械、化学等の伝統的な産業部門は急速に縮小。それらの地盤であるスコットランド等には失業が直撃し、1993年には男性失業率が戦後ピークの12.3%に達した。
この結果、サッチャーが福祉削減政策を取ったにもかかわらず、失業者の増大により、手当の受給者は120万人(1979)から303万人(1990)へと2.5倍に増えている。
『トレインスポッティング』はまさにこの時代を舞台にしており、地元スコットランドではろくに仕事がなく失業者が溢れ、ロンドンに行けば金融・サービス業が好況で稼ぎたい放題という業種間・地域間格差が描かれている。
3)福祉国家の弊害とサッチャーの功罪
映画ではスパッドがスピード(覚醒剤)をキメて就職面接を受け大チョンボするシーンがある。これはサッチャー政権下の社会保障法改正(1988)で、失業者が手当を請求する条件として「仕事を探している」ことを示す義務を負わされたから、面接に行かなければならなくなった顛末を描いているのである。
しかし、本気で就職する意思がないと判定されたら手当は打ち切り、逆に採用されてしまっても打ち切りであるw
小説によると、内心では「俺にとっちゃ、ひでえ災難だぜ。仕事なんか、いらねえってのによ。悪夢だ」(レントン)、「いまのとこ、失業手当もらってる方が幸せなのになあ」(スパッド)と思っている。
おまけにレントンは地元エディンバラだけでなく、ロンドンも含め計5か所で失業手当を受け取って、荒稼ぎしたカネをせっせとヘロインに注ぎ込んでいるのだから始末に負えない。
英国は階級社会だが、こうした脱工業の中で職を失い長期的な福祉給付への依存に陥った人々は、「ワーキングクラス」ではなく「アンダークラス=底辺層」と呼ばれる。レントン、シック・ボーイ、スパッド、ベグビー全員が社会の底辺層の人間だから、福祉抑制策で自分たちの生活やドラッグの資金を削ったサッチャーに怒りを向けたのだ。
依存文化にどっぷり浸かった人々は怠惰に流れるばかりであるから、経済成長の担い手になれない、レントンたちのようなろくでなしに福祉給付でヘロインを射たせるようなバカな政策はやめろと、福祉抑制に乗り出したのがサッチャーである。その点に関しては、サッチャーの方が正しいに違いない。
しかし、産業構造が第二次産業中心から第三次産業中心にシフトする中、その煽りをくらった階層への福祉切り捨てというダブルパンチを見舞った点から見ると、レントンたちの「人生に選択肢なんかろくにねえじゃねーか」という怒りももっともということになる。
そもそも"Choose Life"したくない連中を増やしたのは、サッチャーだったんじゃないか、ということだ。功罪いずれを重視するかは、見る者の立場による。
これにより保守党の新自由主義は現在に続く格差社会を招き、出口はまだ見つかりそうもない。
(注)
「3 政治経済的な背景」は次の書籍を参照した。
『イギリス現代史』(長谷川貴彦 岩波新書)
『イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ』(小関 隆 中公新書)
「本当の自分」にたどり着くことは困難
スコットランドでドラッグまみれで生きる若者たちの物語。
「本当の自分」はこんなもんではなく、いまは「世のを忍ぶ仮の姿」であるとデーモン小暮閣下ばりの理屈を振りかざし、時間を過ごす若者は多い。
ただ、実際には、経済、社会、何より自分自身など、様々な問題によって、で、それを閉塞感と呼んだり、モラトリアムと呼んだりする。
そんな曖昧で、他責的で自責的な時間と空間を、ダニー・ボイル特有の生々しく、色彩の強い、時に汚い映像で描く。若かりし頃のユアン・マクレガーの、ドラッグ中毒感溢れるガリガリの身体が魅力的。
生々しいドラッグムービー
序盤から、テンポよくトリップシーンが続いて、観てて飽きない。
「スコットランド1最悪なトイレ」に頭から突っ込んでアヘン座薬探すシーンやらトミーの自作ポルノやら2組のカップルのセックス談義やら…
次から次へと面白いエピソードが湧いて出てくるので、「うわぁ」と思いながらも一緒にトリップしてる感覚で楽しめる。シックボーイがキマると007の話をし始めるのもお決まりで楽しい。音楽もかこいい!!
…と、「イカしてる」のは前半の話で、後半からはまさにバッドトリップ。
赤子の死、真面目だった友人が堕落→死、禁断症状…
前半より後半の方が生々しく(特に禁断症状のときの部屋での幻覚のシーンが脳裏を離れない)、悪夢を見ているかのような気分。
薬をやめて地元を離れ、まっとうな職に就いても、昔の悪友との縁が断ち切れずにまた悪い方向へと向かってしまうというのは、とてもリアルな流れだと思った。
主人公が更生しようとしたりなんだりしながらも、結局悪い方へ戻ってしまうのにヤキモキさせられる。
ラストは爽快に前を向いて終わるけど、きっと主人公はまた同じようなことを繰り返すのだろうなと思わずにはいられらない。薬から、悪友から、縁を切るというのはとてもとても時間がかかるものだから。
あとは…
カーペットに体ごと埋まっていく、部屋がどんどん長く遠くなっていく、音が遠くなっていく…そういうトリップしたときの感覚をリアルに体験できるのはドラッグムービーの醍醐味だなぁと思った。映画館で観てよかった。
見たくないものが写っている、もはやトラウマ
ちかごろ続編が公開され、少しだけ興味をそそられた。
それまでは、見てみようとも思わない類のジャンルだった。
セックスとドラッグをテーマにした映画に、共感を覚えたことなど一度もない。犯罪者が主人公で、結果的にドラッグやセックスシーンが挿入される映画とは違う。どちらかというと「あって当然なもの」という視点でドラッグをとらえたジャンル。彼らがなぜ犯罪行為に手を染め、社会からつま弾きになっていくかをリアルに描いてあるが、そこに共感は生まれない。
映画観で見ていたら、観客のブーイングが聞こえてきそうな映像の羅列だった。
不快なシーンがたくさん出てくる。
いっぺん見ておこうと、思ったのは「エレメンタリー」に主演しているジョニー・リー・ミラーがこの映画に出ていたことを、最近知ったから。
「エレメンタリー」では、麻薬中毒で苦しみながら鋭い推理を披露してNY市警に協力する探偵ホームズを演じている。
この映画では、すでにその萌芽が見て取れることが興味深い。映画の中で、いくつかウンチクを披露している。理屈っぽいナイーブな少年役を演じている。
それだけは、収穫だった。
最悪なのは、赤ん坊。これ以上は書きませんが、おそらく映画史上類を見ないほどグロテスクなシーンになったと思う。
とにかく、ひどい映画だった。ポップな音楽と、美しい少年少女たち、躍動する若さをスクリーンに投影しても、無知と暴力で彩られた世界は受け入れがたい。
後味の悪さが際立つ。とても続編を手に取る気にはなれない。なぜ製作されたのか謎でしかない。
いったいなぜ。。。
ダサい不良のものがたり
一言で言えば、理屈以前にとにかくつまらない。
ほぼ感覚派な作品で、ストーリーは不良の日常生活か延々続くだけで、あってもなくてもいいようなもんで、生理的に合うか合わないかでしょう。開始5分でコリャだめだ、ってとこです。
通常自分がつまらなくても、好きな人が面白がるポイントはわかるものですが、これに限ってはサッパリわからない。
若い人には一定の支持を受けるでしょうが、大人には無理です。まあ私は若いころに観たとしても多分受けつけなかったと思いますが。
セックス・ピストルズがデビューしてパンク・ロックが誕生、ブームが起きたのに似てます。
アメリカ文化で育った世代としてアメリカ映画と比較すると、イギリス映画は王室や軍人や紳士なんかが主題だと妙に格調高いことが多いですが、若者とか庶民の日常だと野暮ったくてダサいですね。
そういえば、昔の寺山修司作品のワケわからなさに似てる。
続編を観る前に久々に再鑑賞。 すっかり続編を観るのを忘れていました...
続編を観る前に久々に再鑑賞。
すっかり続編を観るのを忘れていました(´∀`;A
小説も読んだのに案外忘れているものですね。
自分の記憶力の悪さのお蔭で再鑑賞にもかかわらず楽しめました。
いろいろ考えさせられる作品でありながら、暗く重い方には向かわず、スタイリッシュで尚且つ楽しめるのが良いですよね。
このラストから、どう20年後の続編に繋がるのでしょうね?
楽しみです。
イギリスのスコットランドという地方の若者と、日本の氷河期世代と何ほどの違いがあるというのだ
原題の意味は、鉄道の些細なことが気になる連中のこと
つまり鉄オタ連中という意味あいだろう
しかし、本作には鉄道のシーンはあるにはあるが、そんなことには全く関係ない
では何故、鉄オタ?
真面目でダサい連中という意味合いで使われているのだと思う
でもそんなダサい連中が、実は人間らしい人生を手に入れているといいたいのだろう
不条理だとやっかんでいるタイトルなのだと思う
ラストの台詞を引用する
これで終わりにして、まともになり、人生を探そう。ずっと探し求めていた、あんたと同じような人生を
この「あんた」とは誰のことだろう?
鉄オタ連中のような真面目でダサい普通の暮らしを、普通の人生を送る人々のことだ
あなたのことかも知れない
そして続く言葉はこうだ
仕事、家族、大きなテレビ、食器洗い機、車、CD、電動缶切り、健康、低コレステロール、歯の保険、住宅ローン、遊び用の服、バッグ、スリーピースのスーツ、DIY、クイズ番組、ジャンク・フード、子ども、公園に散歩、9時から5時、ゴルフ、洗車、セーター選び、家庭的なクリスマス、年金、税控除
彼は、そんなものくだらないと言っているのだろうか?
否、違う!断じて違う!
そこを間違えると本作の意味が何も伝わらない
欲しいのだ、憧れているのだ
そんなもの彼には手に入らないと諦めていることだからだ
普通の人間らしい暮らしや退屈でも幸せな人生を手に入れたいという、火の出るような強烈な渇望の言葉なのだ
本作冒頭のレイトンの独白も思い返そう
人生を、仕事を、キャリアを、家族を求める
クソでかいテレビを、食器洗い機を、車を、CDプレーヤーを、電動缶切りを求める、健康を、低コレステロールを、歯の保険治療を求める
固定金利の住宅ローンを、マイホームを、友だちを求める
遊び用の服を、バカ高級な生地のスリーピースのスーツを求める
日曜日の朝にクソDIYをして過ごすことを求める
カウチに座って、ジャンク・フードを口に運びながらくだらないTV番組を見ることを求める
腐った体をみじめな家でムダに過ごすことを求める
未来を求める
人生を求める
具体的で詳細なのだ
身をよじるほど強烈に憧れて渇望して、どうしても手に入れたい、実現したいことだからだ
だが続く台詞はこうだ
どうして、こんなことを求めるんだ?
俺は求めない人生を求めることを選んだ
何かほかのことを
何でかって?理由なんてないさ?
ヘロインをやれば、理由なんていらない
これは諦めの言葉だ
果てしない絶望がそう言わせているのだ
だからヘロインでその渇望を紛らわせるしかないのだ
未来への不安、老後の自分の末路への不安
そんなものをかき消すためにそれが必要なのだ
求めない人生を求めることを選んだ?
鉄オタみたいなダサい連中になりたくなかったと、真面目に勉強もしなかったことを格好つけて粋がっているだけだ
自分もそのくちだった
麻薬の禁断症状の強烈な描写がなぜ、これでもかと執拗に描かれるのか?
それは、この普通の人々の、普通の暮らしや人生を死ぬほど渇望しているのに、普通の努力ではどうしても手に入れられない
それほどの渇望のメタファーなのだ
高卒なのに、一流大卒と偽って就職面接を受けるシーン
そいつのデタラメなダメ男の失業手当の獲得テクニックを紹介するだけのシーン?
違う
これは一度脱落するともうどうにも浮かび上がれないということを示しそうとしているシーンなのだ
彼のたわごとこそ真実の吐露なのだ
90年代中頃の英国
イギリスのスコットランドという地方の若者と、日本の氷河期世代と何ほどの違いがあるというのだ
非正規のワーキングプア
だから結婚もままならない
一体、自分の老後はどうなってしまうのだろう?
先の事を真面目に考えれば考えるほど絶望してしまう
日本には麻薬はない
あるのは、ネット、ゲーム、アニメ・・・だ
だから、そこに溺れていくのだ
禁断症状が怖くてさらに泥沼に転落していくのだ
そうした若者が、自暴自棄の生活から抜け出る道を見つけたのが本作の結末だ
生きていくのさ、未来を見すえて、死ぬその日まで
犯罪でもなにが悪い
彼にとっては、初めて普通の人間らしい暮らしや人生を手に入れられるチャンスだったのだ
気がつけば、この世代ももう40代半ば
レイトンのような道が見つからなければ?
この麻薬の禁断症状のような、人間らしい人生を手に入れられなかった苦しみを、他の人間にも味あわせてやりたい
そう考える人間もいるかも知れない
そのときジョーカーは生まれるのだろう
イギリスではこのような失われた世代を真正面から描いた傑作が撮られた
では、日本にそんな作品はあるのだろうか?
暗澹たる思いだ
日本では氷河期世代は映画界からも見捨てられ、金づるとしかみられていなかったのだ
もしかしたら本作に一番近い日本映画は「さようなら全てのエヴァンゲリオン」だけかも知れない
クールなイギリス映画を代表する作品
久しぶりに観返したが、いつ観ても色褪せないハイセンスなカルチャーと音楽がかっこいい。あの時代を象徴している。
軽やかでアイロニックななかに、しっかり人生において何を大切にするかという価値観のテーマも忍ばせている。
ドラッグの恐ろしさを幻覚の映像体験で表現するダニー・ボイル監督の演出が光る。
怒れる若者のイギリス映画の新たな秀作
近年イギリス映画が面白い。質的にも娯楽的にも水準の高い作品が並んでいる。このダニー・ボイル監督作品も、描かれている内容はハチャメチャな若者の自堕落な生活なのだが、表現の仕方に新しいタッチと面白いモンタージュがなされ、映画として大変楽しめる。例えば麻薬中毒の幻覚描写を沈むベットで視覚的に見せるユニークさはどうだろう。昨年来ミニシアターでヒットを続けたことは、非常に喜ばしいことである。良い映画とは言えないかもしれないが、映画表現の新しさに挑戦するイギリス映画の尖がった才能がある。この面白さは大いに認めなければならない。そして何より、出演している役者たちの際立つ個性と真面目な演技を評価しなければならない。
1997年 11月10日
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