劇場公開日 1976年12月25日

「名脚本家スターリング・シリファントの落日と影響を受けたベトナム帰還兵ランボーとは」ダーティハリー3 ミラーズさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0名脚本家スターリング・シリファントの落日と影響を受けたベトナム帰還兵ランボーとは

2021年5月30日
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鑑賞方法:映画館

公開当時のコピーに「巨大な10大見せ場を引っさげてダーティハリーが帰ってきた!」とあり、ハリーキャラハン刑事と新人女性刑事が、コンビを組んで武装組織の捜査する展開だが、重くて暗い雰囲気が魅力の2から、若干明るい方向修正したシリーズ3作目。(あれ?2の見せ場が12なので2つ減っているけど)

冒頭に犯人たちの行動を見せたあとに、ハリーが強盗団相手に大立ち回りをするフォーマットは、変わらずだが人事部に移動させられるくだりや新しいパートナーを押し付けられて呆れる姿が微笑ましい。

イーストウッドのハリー役は、渋い表情が多いが、風俗店に潜入する場面でのくだけた演技や新しい相棒のケイトとのやり取り捜査を通じて心が通いあい微笑む場面もあり今作ではユーモアを多めに感じる。(テレビ放映時の山田康夫の吹き替え版は、もう少しくだけた演技を強調していてこちらも面白い)

新人刑事のケイト・ムーアを演じるタイン・デリーは、大きな瞳とイーストウッドと並ぶと小柄な体格の凸凹コンビ感を強調されて微笑ましい。
性格も真面目な堅物に見えて、性的な会話もさらりとする先進的女性を愛敬も含めて印象的に演じておりラストで殺されてしまうのが惜しいほどの役柄。彼女は、その後テレビドラマの女性コンビの刑事シリーズで一躍人気ものになっていったと記憶している。

監督のジェームズ・ファーゴの演出は、前二作の様なパンチ力やキレやダークな雰囲気はないが、明るめな画面構成とそつなく分かりやすい語り口は、観客にストレスを抱かせずに映画を鑑賞させておりデビューの本作を娯楽性のある手堅い佳作に仕上げている。
個人的には、初夏の昼下がりにビールとポップコーンを片手に若干寝そべっりながら観るのには、最高の映画でもある次作のブルーカラー向けアクションコメディの『ダーティファイター』で明るくて悩まない喧嘩好きのトラック野郎で、新しいイーストウッド像を創り上げて、当時のイーストウッド映画では、一番のヒットと興行収益を上げており上記の点が、原動力にもなっていると思う。

ちなみにジェームズ・ファーゴは、イーストウッドの製作会社マルパソで長年助監督を務めていて、ハリーシリーズ3作目をやるのかと、鷹揚に構えていたらイーストウッドから突然「今回はキミが監督だよ」と言われて焦ったそうです。

今回の音楽は、シリーズ5作で唯一ラロ・シフリン担当しておらず、イーストウッドの監督作品で傑作西部劇の『アウトロー』や後にこれも傑作の監督作品の『ガントレット』を担当したジェリー・フィールディングが、力強くて都会的なジャズを提供している。
特に中盤の爆弾犯人を追跡する場面のスコアが撮影や演出もマッチしてとても心地良くて印象的。(個人的には、サム・ペキンバーとのコンビでのサントラも良いけど)

今回のもう一つのデビューとしての撮影のチャールズ・W・ショートは、イーストウッドの前作『アウトロー』の撮影監督ブルース・サーティスの助監督(もしくは本編も代行撮影してるかも)などをしていてサーティスが、イーストウッドの友人で師匠でもあるドン・シーゲルがジョン・ウェインと初めて組んだ『ラスト・シューテイスト』にかかっていたので、抜擢されたと思われるが、上記の通り良い意味で大役をそつなくこなしていて、後に映画本編はほとんど無いが、多くのテレビドラマやテレビ映画などで活躍していた。

最終的に別の人がリライトしているが、本作のメイン脚本のスターリング・シリファントは、『夜の大捜査線』でアカデミー賞を受賞した後も多くの話題作や娯楽大作を担当していた当時の売れっ子で、イーストウッド作品には初だが、長年のテーマと思われる、人種や性別や障害などで社会的に抑えれた人々の公民権をベースに描く事が多くて本作も男性社会(警察組織)に紛れた女性を当時のウーマンリブ運動や敗戦直後のベトナム帰還兵などの社会的状況も踏まえて扱っていると思う。

スターリング・シリファントが脚本を担当した作品を思い起こすと、人種差別や身体的障害などを克服して進もうとする人々が多くて、『夜の大捜査線』や名匠ワイラー監督の『L・B・ジョーンズの解放』などの人種差別や、「アルジャーノンに花束を」の最初の映像化でもある『まごろろを君に』の知的障害者やペキンパー監督作の『キラーエリート』での友人の裏切りで身体的障害者になってしまった殺人エージェントの復讐劇や爆発物によって視力を失った保健調査員が活躍するテレビシリーズの『ロング・ストリート』(ブルース・リー助演!)など様々である。
特に当時アメリカで活動していたブルース・リーとは道場の弟子としてや友人としても意気投合しており、アジア人に差別的なアメリカ映画界に仕事紹介するなどして親身なっていた。

本作品を手がける頃には、絶好調だったシリファントのキャリア的や作品の質に、やや陰りが見え始めた頃で、個人的には悪役のベトナム帰還兵の画一的なキャラ設定に深みや問題意識もなくただの殺人狂の男として描かれているのが疑問だが、当時の世間の認識だとベトナム戦争での残虐行為や映画の『タクシードライバー』(1976年)や1『ソルジャー・ボーイ』(1972)などで描かれる狂気に暴力を振るったりする側面やあるからなのか。
ただ脚本はリライトされているのでシリファントの元脚本が、どの程度改変されているか分からないが、1971年にはベトナム帰還兵の暴走を描いた代表的な小説の『ランボー 一人だけの軍隊』がデビッド・マレルによって既に出版されて映画界でも話題になっており、本作の悪役であるベトナム帰還兵のボビーは、服装と出立や独特の形状した大型ナイフを持った殺し屋の設定は、スタローンが演じたランボーに近い。(ただ原作のランボーは特殊ナイフを携帯して無かった様に記憶しているが、原作本が手元にないので未確認) ちなみに日本語吹き替え版だと後にボビー役をランボーシリーズでスタローンの吹き替えも担当した玄田哲章が声を当てているのが偶然とはいえいろいろとダブる。

本作以降のスターリング・シリファント脚本作品は、徐々に質が低下してゆき、いわるゆるダメダメな大作などに関わってきて80年代後半には殆ど目ぼしい作品は無い状態になっている。(駄作や凡作と笑われ呼ばれる作品でも個人的に好きなところが有れば、好きな作品になるので、完成度が高いイコールが映画の魅力ではないと思うが)

スターリング・シリファントのもう一つの功績として『ランボー 一人だけの軍隊』の原作者でもあるデビッド・マレルは、学生時代にシリファントがメイン脚本を担当したテレビドラマシリーズの『ルート66』の熱心な視聴者で、特にシーズン3のエピソードで、戦闘後遺症を負ったベトナム帰還兵を描いた話しが、印象に残っていて、デビッド・マレルが作家を志ざした時にスターリング・シリファントへ、質問の手紙を出したところ、本人から長文の返信と激励を受けたのが、創作活動へのきっかけとなりのちのランボーを執筆する際には、上記の帰還兵のエピソードを立脚点に泥沼化し始めたベトナム戦争に興味を持ち参考にさせてもらったと、作家の自伝アンソロジー集に記している。(早川書房 『ヒーローの作り方』 より)

そう言えば、『ランボー』と『夜の大捜査線』の設定を思い起こすと田舎町に寄った凄腕のよそ者と地元の警察署長の物語としてのネガとボジみたいな関係でマレルはこちらも意識していたのかも。

ちなみにデビッド・マレル自身は、映画になった第一作目の『ランボー』には、原作とは違う若干センチメンタルなったランボーのキャラクター性に違いを感じたが、観客に受け入れられる変更については好意的に捉えており、映画版ランボー(原作版ではない)の続編として映画ランボー2・3のノベライズを執筆している。
マレル本人は直接関わりの無い『ランボー4 最後の戦場』での戦う事や人殺しに躊躇しないランボーのキャラクターが自分の創造した姿に一番近いと言っている。(ランボー5には否定的コメントをしている)

本作は、突飛した出来映えでも無くて、現在のリアルなアクション映画からするとアルカトラスのくだりなどは、牧歌的にも映るかもしれませんが、娯楽のツボを抑えた作品になっており、おそらく映画初登場の使い捨てのバズーカ砲や電気銃などの当時は新しくて珍しい小道具などか同時してそれを活かすカタチで、ハリーの怒りを表すクライマックスなどもあり特に新人刑事のケイト・ムーアの遺体の前に佇むハリーの姿からカメラが高く引いてゆくラストまでが印象的。

余談だが悲劇的な最後を遂げた新人刑事のケイト・ムーアを演じるタイン・デリーは、本作の後にスターリング・シリファント脚本でドン・シーゲル監督のスパイサスペンスの良作『テレフォン』にも出演していて、想いを寄せている同僚のCIA局員から、事件解決の重要なヒントを見つけたお礼に、キスをしてもらって中学生ごとく感激して喜びの言葉をパソコンに記入するチャーミングなコンピーターオペレーターを演じていたのが印象的。(脚本は80年代のアクション映画ファン的にもご贔屓だった監督のピーター・ハイアムズも関わっている)

ミラーズ