劇場公開日 2018年7月24日

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「真っ赤にイメージした女性の魂を探求した不協和音の家族劇」叫びとささやき Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0真っ赤にイメージした女性の魂を探求した不協和音の家族劇

2020年4月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

1974年に公開され、その年のベストテンではフェリーニの「アマルコルド」と首位を競った作品だったが、この二作品に優劣を付けることは殆ど意味がない。どちらも世界的巨匠であり、スウェーデンとイタリアの国柄の違いや対照的な表現法を極めた作家の完成度高い作品だからだ。これはもう、観る者の好き嫌いに頼るしかないだろう。
人間を凝視した厳しさで言えば、ベルイマンの演出には揺るぎが無く、フェリーニは表面に出さない。人間の陽性を開放的に捉えるフェリーニに対して、ベルイマンは人間の陰性を深層から捉えようとする。讃歌に酔うか、探求に苦悩するか、映画もこの振幅の広がりを持つまでになったとは素晴らしいことではないか。私的には、「アマルコルド」が分かり易く好きだし、ベルイマン作品では「野いちご」の感動には及ばない。苦しみだけの映画に対する耐性もないし、人生経験と知力も未熟だからだ。
この物語に救いがない訳ではない。子宮癌に苦しむアグネスと彼女を看護する召使アンナとの関係は、実の親子以上の異様さを窺わせるが両者の信頼は厚い。ただ、主人公の三姉妹の家族の絆は蝕まれて、修復の施しようがないところまで行っている。姉妹間の嫉妬からなのか、憎悪と拒絶の関係性に良心の呵責も見えない。孤立した姿は、人間の醜さを露呈する。また彼女らの愛欲も満たされず醜い。唯一血の繋がりを持たないアグネスとアンナの関係も、一方が弱者であると考えると、このベルイマンの女性の業の暴露は恐ろしい。長女カーリン、三女マリアの夫たちも、他人に関与しない無慈悲な男たちである。映画は、各登場人物の顔の表情のアップでほぼ通して、懊悩の感情、其々の孤独、虚無感に包まれた生活空間をイメージ化し、真っ赤なフェイドアウト(溶暗)のカット繋ぎで構成されている。女性の魂の色を象徴化した色彩設計の演出美。その拘りの独善的な作家性が、凄い。音楽の使い方も素晴らしい。近寄りがたいほどの、ある親族の不協和音を映像化した女性暴露映画。
  1976年 9月22日 池袋文芸坐

Gustav