「夜のタクシーで繰り広げられる五者五様の「素敵なマウント合戦」。個人的にはNY編推しです。」ナイト・オン・ザ・プラネット じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0夜のタクシーで繰り広げられる五者五様の「素敵なマウント合戦」。個人的にはNY編推しです。

2024年2月24日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

ちょっと、深夜ラジオを聴いているような感覚のする映画だ。

冒頭とエンディングの印象的な音楽。
19時から聴き始めて、朝の日の出で終わる。
このラジオでは、局の代わりに国を乗り換えていく。
時間帯ごとに、チャンネルごとに、テイストが変わる。
サーフィンしながら、眠れない夜を夜明けまで。

深夜特有の、なにかわくわくすることが起きそうな感覚。
狭いところに相手と二人きりの、インティメットな空気感。
マシンガントーク、猥談、酔いどれ節など「話芸」を愉しむ。
ゲストによって、パーソナリティのトークにも変化が生じる。
やっぱり、『ナイト・オン・ザ・プラネット』はラジオっぽい。
地球儀の同じ映像が毎回挟まるのも、なんだかジングルみたいだしね。

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僕は基本的にポリコレ系の映画を大変苦手としているが、これだけ人種問題や階級格差や障碍者差別や移民問題にズバッと切り込みながら、ちっとも嫌味を感じさせない映画というのも、なかなかないのではないか。
けっきょくそれは、種々の問題を「キャラクター」にしっかりのっけて「個の問題」として呈示できているからであり、説教臭い「作り手の思想」が顔を出してこないからだろう。

一話目は、ブルーカラーの整備工志望とビヴァリーヒルズのキャスティング・ディレクター。下町と山の手の対比を、白人女性のきれいどころで見せる趣向だが、「理想的ないけてる女性」の「世代差」を体現する組み合わせでもある。
二話目は、いかにものダウンタウン育ちの黒人の若者と、東ドイツから来た初老の白人(ドイツ統一がちょうど1990年)。NYになじみきった移民●世と、まだ初々しい移民一世の対比でもあり、通常の差別被差別の関係性の逆転が面白い。
三話目は、最初は黒人×黒人の取り合わせで意表を突いたあと、「ハンディキャップのある超美人」と「野卑で不躾な黒人男性」の対比に切り替わって、「差別のベクトル」がゆれる。
四話目は、(外国人から見た)イタリア人の典型としての「おしゃべりで無鉄砲で好色な庶民」と「詰襟の僧服で権威を身にまとった聖職者」の階級差の対比。
五話目は、(外国人から見た)北欧人の典型としての「ホモソーシャルな酔っ払い労働者」と「哀しみを背負った無骨なマッチョマン」を並べて、盟友アキ・カウリスマキに敬意を表する。

タクシーはまさに国の縮図であり、街の縮図だ。
それぞれのお国柄と、人種組成と、貧富の問題が、狭い車内にすべて凝縮されている。
ただし、そういった問題は、ここではただ環境として呈示されるだけだ。
そこに社会変革や意識革新を促すような、上から目線の生臭い説教臭はまったくない。
でも、映画内に生きる人々の切実な問題としてリアルに提示されているぶん、観客は「共感」し、登場人物に寄り添って「何かを」考えるように仕向けられる。
タクシーの中という「赤の他人どうしが同一空間をシェアする」「一触即発で何か起きてもおかしくない」少し緊迫したピーキーな場で、人種差が、性差が、階級差が、濃度とテンションを高めて立ち上がる。表面化する。皮膚感覚にひりひりと伝わってくる。
今の下品で押し付けがましいフェミ映画やポリコレ映画の何十倍も、ちゃんと映画で社会の問題を物語っている。
どうせ社会派ネタをやるなら、こういう感じでうまくやらないとね。

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フェイス・トゥ・フェイスの会話劇に、「差別」を落とし込むとどうなるのか。
それは結局のところ、「マウント合戦」の様相を呈することになるだろう。

誰かは誰かを差別せざるを得ない。
=誰かは誰かにマウントを取らざるを得ない。

一話目で、ビヴァリーヒルズのハリウッドセレブ(仕事にも男女関係にも煮詰まっている)は、タクシー運転手の美少女(夢も希望もいっぱいで自己肯定感高し)に、「上から」芸能界に入らないかと声をかけて、容赦なく断られる(笑)。モノホンの大御所だが、かつてはハンサム・ウーマンの象徴的存在であり、非ハリウッド系インディーズの象徴的存在でもあったジーナ・ローランズと、当時もっとも輝いていた期待の新星ウィノナ・ライダーという配役の妙が素晴らしい。

二話目で、他のタクシーには止まってすらもらえない最下層の黒人であるヨーヨーでも、英語もろくに話せず、街の地理にも疎く、オートマ車も運転できない白人のヘルムートになら「気持ちよくマウントをかます」ことができる。ヘルムートのほうも、要所要所では相手に逆襲をかましながらも、気のいいヨーヨーにほのかな友情を感じて、あえて「マウントをとらせてやっている」きらいがある。
いつもはきっとサンドバッグとして生きているだろうヨーヨーは、義理の妹に対してもマウントをとりたがり、義妹からは猛烈にウザがられているが、お互い丁々発止とFワードを連発するなかでも、しっかり「家族としての愛情」は感じているようだ。
「マウント」は「思いやり」の押し付けがましい一形態でもあるわけだ。

三話目で、主人公のタクシー運転手は、客の「インテリ」黒人組の揶揄に耐えかねて夜の街に放り出す。彼は思い切り外交官たちから蔑まれ、マウントをとられたわけだ。コートジボワールというのは、要するに「象牙海岸」で、ジボワールのなかに英語でいう「アイボリー」が隠れていて、だからそこの出身者はフランス語で「ivoirien」なわけだ。で、これが「ものが見えない」のフランス語と空耳アワー的に音が似ていると。
そんな運転手が次に乗せたのが、ベアトリス・ダル演じる色気むんむんの盲人(徹頭徹尾きれいに白眼を剥いてるが、演技なの? それともコンタクト?)。
今度は、運転手のほうがマウントをとろうとする番だ。相手から見えないのをいいことに、明け透けなエロい視線を胸元に熱く向けながら、不躾な質問を次々とかましていく。
しかし、ベアトリス・ダルもさるもの。「強い障碍者」として、運転手のセクハラ&障碍ハラのつるべ打ちをものともせず、気丈にやり返していく(下車する先が河岸というと性的職業の人らしい気もするが)。ラストで先の伏線が回収され、盲人ネタに思いもかけぬオチがつくのが楽しい。

四話目で、本来ならマウントをとるのは神父様のほうで、とられるのは運転手のはずなのだが、運転手がエキセントリックすぎてそうなっていない。調子の悪い聖職者は防戦一方で、躁病のようにしゃべり続ける運転手に気圧されている。
ここでは「懺悔する」といいながらマウントをとっているのは運転手のほうだ。昔ジャック・ヒギンズの『死にゆく者への祈り』という小説で、テロリストが目撃者の神父を黙らせるために、無理やり犯罪行為を告解するというネタがあったが、たぶん今回のは、タクシーの「前後の小部屋に分かれていて仕切りがある」構造が「告解室」を想起させるところから来てるんだろうね。

五話目は、「不幸自慢」のマウント合戦の話。病気自慢と似て、Yahoo!ニュースのコメント欄などでもよく見られるおなじみのやりとりだ。
コワモテだが、やけに素直に感情をぶつけ合って、素直に感動し合う北欧の「聖なる酔っ払い」たちは、まさにアキ・カウリスマキの映画の登場人物と地続きの存在であり、「オフ・ビート」映画仲間としてのジャームッシュとカウリスマキの「連帯」を感じ取ることができる。

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「タバコ」もまた、マウント合戦の重要な小道具だ。
「煙幕を張る」という常套句があるけれど、タバコの紫煙は攻撃手段でもあり、防御壁でもある。
相手のしゃべっているときに火を付ける。相手が嫌がっているのに喫い続ける。チェーンで喫い続ける。相手の火を付けてやる。相手に火を付けさせる。やり方はいろいろだが、この映画の登場人物たちは、タバコで相手との距離感をはかったり、あるいは相手への「無関心」を表わしたりと、タバコで対人関係を表現していることが多い。
ついでに、あまりのチェーンスモーカーの場合は、精神的にどこか不安定な部分を抱えていることが示唆されている(ウィノナ・ライダーとロベルト・ベニーニ)。

それにしても、みんな本当によくタバコを喫う映画である(笑)。
考えてみると、1991年といったらタバコはタクシーで喫えるどころか、飛行機でも大学の教室でも会社の机でも喫えた。僕はタバコをなんとなく辞めてもう15年以上になるが、あの頃はチェーンスモーカーで、一日ひと箱は喫っていた(社会人10年目くらいには、それが一日ふた箱くらいに増えていたw)。
当時は、タバコを小道具に「人と人との関係」を表現するのは、映画的手段としてはきわめてふつうの演出だった。それが、「簡単に喫えない世界」になってまだ10年程度なのに、「こいつらよく喫うなあ」という気分になるのは、いかに人間は環境が変われば思考も変わるかの好例だ。
ちなみに去年の終盤あたりから、『マエストロ』『枯れ葉』『レザボア・ドックス』『バッド・ルーテナント』『アンダーグラウンド』と、チェーンスモーカーの出てくる映画ばっかり観てるような(笑)。古い映画はさておき、『PERFECT DAYS』や『瞳をとじて』でも主人公に喫煙させていたし、映画界でも、いっときの浄化作戦みたいな嫌煙感が薄れて、昔の監督さんがノスタルジーの演出として取り込むくらいなら許される空気になってきているのかもしれない。『マエストロ』の場合は、敢えて嫌煙厨に喧嘩を売るような挑発的な作りになっていたけど(笑)。

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本当はこの日、別の映画を観るつもりで映画館に足を運んだのだった。
レイトショーで『サイレント・ラブ』を(笑)。
ふつうはまず観ないタイプの邦画だけど、浜辺ちゃんが出てるし、もうすぐ終映だし、1300円ならまあ観てもいいかなあと。
ところが! 映画館でチケットを買おうとすると、グランなんとか上映ということで3000円もすることが判明。えええ、さすがに3000円は払いたくねーな……。というわけで、急遽別のに切り換えようと思ったら、20時45分から『ナイト・オン・ザ・プラネット』をやるらしい。ちょうど未見だし、じゃあ入ってみるか。1600円で、レイトショー価格ではないけどちょっと安めだし。
という経緯で、お洒落映画かと思ってなんとなく敬遠していた名画をちゃんと映画館で観て、想像以上に良い映画だったと認識することができた。
ありがとう、シアタス調布!

その他、よしなしごとを。

●原題より邦題のほうが素晴らしいという、稀有なケースだな、これ(笑)。

●個人的にはダントツでNY編が面白かったのだが、ざっとみなさんの過去の感想を見ると意外に好きなエピソードはまちまちなんだね。大切、多様性。というわけで、短編5本というのはちょっと長い気もしたけど、5本それぞれにファンがついてるってことは、結果的にはジャームッシュの戦略的勝利なんだろう。

●ウィノナ・ライダーの透明感のある美しさは、およそ筆舌に尽くしがたい。でも、のちの「壊れ方」を見ると、ジム・ジャームッシュってこの娘の「危うさ」や「依存体質」をすでにこの頃から見抜いてて、病的なチェーン・スモーキングに込めていたのかも。

●ドイツから来た元道化の漂わせる、えも言われぬ「元・天使」感は、師匠筋にあたるヴィム・ヴェンダースへのお茶目な目配せなのかもしれない。

●黒人同士の差別ってのは題材として面白い。前に会社から行かされた差別啓蒙関連の講演会で聞いた、大阪で昔、被差別部落(牛を飼ってる)と在日部落(豚を飼ってる)がいがみ合って血みどろの喧嘩を繰り広げてた話を少し思い出した。

●ロベルト・ベニーニのしゃべくり芸もすごい。話の内容がいかにもイタリアの艶笑譚ふうになっているのも、映画が聖職者をコケにする内容になっているのも、じつは『デカメロン』の伝統にのっとった、きわめて正統なイタリア文化の継承ではあるんだよね。

●しっかし5話あって、まともな運転手がヘルシンキにしかいないのってどうよ(笑)。ろくでもない運転手たちのろくでもない荒っぽい運転×4。こう考えるとやっぱり日本は住みよいし、タクシーもホントに使いやすい。良い国だよなあ。

じゃい
Mさんのコメント
2024年2月25日

日本は住みよい、タクシーも便利、確かにそう思います!

M