劇場公開日 1999年5月1日

「護られるべき人権について」39 刑法第三十九条 Kenjiさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0護られるべき人権について

2021年12月24日
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「精神鑑定は確かに犯罪の抜け道になる。だけど、それで鑑定人の心までは抜けられない」

刑法第39条
犯行時に心神喪失、心神耗弱状態にあった場合、善悪の判断ができない状態であるため罪には問わない、あるいは減刑する。
それは、そのような状態で犯行を犯してしまった被告人の人権を守るための法律である、という建前で成立しているが、本当にこの法律にその機能が果たせているのだろうか。

ただ単に「罪を罰しないこと」が人権を守ることではない。
「罰しない」という判断によって奪われている人権が、被害者だけでなく加害者の側にもいくつあるだろうか。その判断によって単に心神喪失者とみなされることで、加害者の心の中にある問題がこぼれ落ち、抱えている問題が見落とされてしまう。加害者の人権を守るための法律ならば、本来はその問題に立ち向かい、解決するためのものでなくてはならない。「罪に問わない」ことは、その問題を解決するどころか、むしろ蓋をしてしまう。永遠に闇の中に葬られ、事件は「運の悪い事故」として処理される。加害者は振り返りの機会をなくし、社会に適応してなかった、未成年だった、病気だった、善悪の判断ができないなかで犯罪をしてしまったという「ただ運が悪かったうちの1人」として処理され、彼の内面はこの法律によって蓋をされる。
結局何の裁きもないまま社会に出て再犯を繰り返す、という負のループである。

そして被害者はただ泣き寝入りするのみである。

それこそが、本来人権を守るはずの現行の刑法第三九条が、結局は誰の人権も守っておらず、逆に人権を大きく侵害してしまっているという最大の落とし穴である、と。
これは被害者であり、加害関係者でもあったカフカだからこそ立ち止まれた問題であったと思う。
だから「刑法第三九条にナイフを突きつける」という工藤の「共犯者」になり得たのだと思う。

カフカが工藤に感じた違和感。「鑑定書に書かれているものはただのデータだ」と言い切れたのは、犯罪加害者の家族として生活してきたから感じられたこと、その中での苦悩や、身近な人物である母親が、おそらく(その心理的な負荷によって)なんらかの精神疾患を患っているのを身近でみてきたから感じられたものなのかもしれない。「直接感じたこと」を信じたからこそ、工藤の心の中を抜けることができたのだと思う。

ラストシーンで、工藤の目には周囲が異質に見えていた。
それはもしかしたら、彼がなんらかの精神病症状を呈していた、ということなのかもしれない。それを主張すれば、あるいは刑法第三九条の適応になったかもしれない。だが彼は必死にその幻覚を振り払い、踏みとどまった。(現実的にそんな症状コントロールが可能かどうかというより、そういう演出として)
それは彼自身が、自分の行いに向き合うためであり、自分の人権を守るための、社会に対する必死な最後の抵抗だったように思う。
加害者の人権を守ることとは、罪に問わないことではない。加害者が自分の罪に向き合うことができる権利を守ることである。罪を理解できないただの病人ではなく、1人の人間としてなぜその罪を犯したのかということを考える権利のことであり、それを考える人間として罪を償う権利を守ることである。それによって、罪によって奪われた被害者の人権を守ることである。刑法第三九条は、罪を問わないことによって犯罪加害者やその関係者からその権利を奪ってしまっているのだ。

この映画ができた時代からかなり時間も経っているため、細かな運用や医療観察法のあり方などに変化はあるとは思う。池田小の事件をきっかけに「医療観察制度」ができたこともある。精神病患者の場合、刑務所に行くよりも適切な治療を受けた方が再犯率も低いことや、刑務所からの出所者に比べ、医療観察のもとで治療を受けた人の方が再犯率は低いなどの実態も事実としてはあるらしい。しかし、今でもこの法律の適応が広すぎることなど、疑問、問題は多いように思う。つまり、この映画で提起されている問題自体は、未だに現代的な問題として十分考えうることでもある。そういう意味でも、意義深い作品だったと思う。

けんじ