原爆投下後の広島をカラー撮影した映画キャメラマン三村明の軌跡 : 清水節のメディア・シンクタンク (2)

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コラム:清水節のメディア・シンクタンク - 第13回

2015年8月5日更新

第13回:原爆投下後の広島をカラー撮影した映画キャメラマン三村明の軌跡

■撮影監督グレッグ・トーランドに師事した助手時代

ではここで、番組では触れることが出来なかったエピソードを中心に、三村明の半生を紹介していこう。三村は、日本人が苦闘した不遇の時代、執念によって規約を突破し、ハリウッドの撮影ユニオン加入を許可される。積極果敢な三村はすぐに頭角を現わしていく。女優グロリア・スワンソンの初トーキー作品「トレスパッサー」(1929年)でジョージ・バーンズの助手に就いた。後にヒッチコック監督作「レベッカ」(1940年)でアカデミー賞を受賞する撮影監督だ。バーンズの一番弟子にはグレッグ・トーランドがいた。後にパンフォーカス撮影によって映画表現を拡げる彼は、オーソン・ウェルズ監督作「市民ケーン」(1941年)の撮影監督として著名となる。彼らに認められ、撮影助手を任されることで三村は腕を磨いていった。とりわけトーランドは芸術家肌で、ピント送りひとつとっても厳しく、付いていけない撮影助手も多かったが、撮影のすべてを完璧にこなした三村は重用されることになる。

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映画評論家・淀川長治の著書「淀川長治自伝」(中央公論社)に、次のようなくだりが登場する。旧制中学時代の淀川青年は、三村宛てにファンレターを出した。「こんどは神戸の私宛てに当の三村明氏から丁寧なる手紙が届き、しかもその手紙の中には「ブルドッグ・ドラモンド」(1929年)の主演者ロナルド・コールマンのクローズアップのフィルムのひとコマが入れてあったのだ。(略)三村氏がバーンズとトーランドという2人の第一級キャメラマンの弟子であることが改めてわかったのであった。感激した私は、それ以来長い間、三村氏と手紙のやりとりをした。(略)私は三村明氏のレターによって、ユナイテッド・アーティスツのスタジオ内の生々しい香りを嗅ぐことができたのであった」。後に語り部として洋画の魅力を伝える淀川のハリウッド原体験のひとつは、夢の都の空気を直送してくれる三村との交流だったのだ。すでに三村は、日米の架け橋になりつつあった。

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この頃三村は、ハリウッド周辺の日本人を集め、コミュニティを組織している。その名は「5050(フィフティ・フィフティ)クラブ」。せめて我々は平等にやろうじゃないかという主旨の命名には、社会へのアンチテーゼが感じられる。ひと世代前には、国際的スター早川雪洲を中心とする日本人コミュニティがあったが、三村を中心に集まったのは第2世代。俳優の上山草人チャップリンの秘書を務めていた高野虎市ら、20名弱が家族ぐるみで親睦を深めていった。しかし、三村の運命を左右する事態が発生する。時あたかも大恐慌時代。ユニオンの大ストライキが勃発し、組合員全員に、撮影所出入り厳禁の通達が発せられた。ユニオンによって仕事を得た三村は、後に続く日本人を思い、ユニオンに忠誠を尽くすことで、ハリウッドの第一線から退くことになる。

■帰国後、一本立ちし日本映画の撮影技術を変革

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次なる舞台は日本映画界。ハリウッドに立ち遅れたもののトーキーも始まっていた。彼の帰国を待ち構えていたかのように迎え入れる映画会社があった。新興勢力P.C.L.、後の東宝だ。三村は、新型ミッチェル・キャメラを使いこなすキャメラマンとして一本立ちする。まず眼を惹いたのが美しき女優のショット。ハリウッド仕込みのフィルターをかけ、けむるようなショットが生まれた。高峰秀子は「女優さんはみんな、ハリーさんに写してほしい、写してほしいと大変でした」と回想し、マキノ雅弘監督は「綺麗だなと思う映画には、いつもあの人の名前が出た」と瞠目した。そして山中貞雄監督の名作「人情紙風船」(1937年)の撮影を手掛ける。フランソワ・トリュフォー監督も本作に惜しみない称賛を送っている。「最も心打たれたのは、キャメラと演出が緊密にからみあって一分の隙もない完璧な画づくりに成功している点です」(「トリュフォー 最後のインタビュー」平凡社)。

■黒澤明の監督デビュー作「姿三四郎」撮影秘話

後に世界的な巨匠となる黒澤明は、独特なフレーミングによって「アメリカ映画風」のタッチになる三村の撮影をこよなく愛し、初監督作「姿三四郎」(1943年)の撮影を依頼する。三村は、「ススキの穂が倒れるほどの強風」が吹き荒れるクライマックスの決闘シーンの撮り方をめぐり、手記にこう綴っている。「ステージ内にススキの原を作り、強力な送風機で風を送るというところまでは決まったが、脚本にある、飛ぶように走る雲をどうするかで壁にぶつかってしまった。特殊撮影の円谷君に相談してみると、空半分を合成にして雲の流れの速い絵を入れるという。私は凄い風に揺れているススキの穂で合成ラインを合わせることは不可能だと思ったし、第一、ステージ内にいかに巧く作っても、本物のススキの原の広さが出る筈はないと、意見は合わなかった」「会社側の意向もあって、ステージ内にススキの原のセットが出来上がった。もちろん黒澤監督のイメージとは程遠い。チャチなものになってしまい、彼は激怒した」。三村は黒澤と共に撮影所を車で飛び出して、箱根の仙石原に見事なススキの原を見つける。「風は強くなる一方。空は晴れ、雲はちぎれて飛び出した。そのスピードたるや、まさに我々が願っていた通りである。こんな偶然の幸せがあるもんだろうか。黒澤監督の第1回作品に天が援助したに違いない」。奇蹟的な瞬間を抜かりなく写し取ることもまた、キャメラマンの技量の内である。

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[筆者紹介]

清水節

清水節(しみず・たかし)。1962年東京都生まれ。編集者・映画評論家・映画ジャーナリスト・クリエイティブディレクター。日藝映画学科中退後、映像制作会社や編プロ等を経て編集・文筆業。映画誌「PREMIERE」やSF映画誌「STARLOG」等で編集執筆。海外TVシリーズ「GALACTICA/ギャラクティカ」日本上陸を働きかけ、DVD企画制作。著書に「いつかギラギラする日/角川春樹の映画革命」、新潮新書「スター・ウォーズ学」(共著) 。WOWOWのノンフィクション番組「撮影監督ハリー三村のヒロシマ」企画制作でギャラクシー賞、民放連賞最優秀賞、国際エミー賞受賞。

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