福地泡介 : ウィキペディア(Wikipedia)
福地 泡介(ふくち ほうすけ、1937年6月1日 - 1995年1月5日)は、日本の漫画家、随筆家、アマチュア雀士、放送タレント。福地 泡介(つくりの包の己の部分が巳)の表記も用いた峯島正行『ナンセンスに賭ける』(青蛙房、1992年)pp.182-196「福地泡介 乾いた笑いの底にあるもの」。本名、福地 豊。
略歴
岐阜県関市生まれ。生家は刃物製造会社を経営し、志津三郎兼氏の末裔とされる。岐阜県立関高等学校在学中から新聞や雑誌へ漫画の投稿を行い、プロを志して荻原賢次に弟子入りを志願するが断られ、京都で予備校に通いながら浪人生活を送り、早稲田大学法学部に入学。早稲田大学漫画研究会に入部。2年上級にしとうきねおと園山俊二が、1年上級に同い年の東海林さだおがいた(2年生での入部で、福地と同期入部)。1959年、福地・東海林ほか、他校の学生漫画家を加えた4人で「グループ'59」を結成し、一般誌に合作漫画の売り込みを行ったが、ほとんど採用されずにグループは数か月で解散に追い込まれた東海林さだお『ショージ君の青春記』(文春文庫、1980年)pp.182-209。
在学中に商事会社に就職し、早大を中退。サラリーマン生活をしながら漫画の持ち込み活動を続け、東京スポーツや雑誌『美しい十代』『週刊漫画サンデー』『週刊漫画TIMES』などに作品を描く。1962年にプロ漫画家として独立。1966年4月、園山とともに「漫画集団」に入団(同期入団に多田ヒロシ、水野良太郎ら)漫画集団(編)『漫画集団漫画集』(グラフィック社、1972年)p.29。
1966年より『漫画サンデー』に連載した『ドボン氏』で注目され、人気を得るかたわら、趣味の麻雀の腕を磨き、、さらに翌年、名人位を防衛し、初の2期連続名人となった。このことで雀士として著名になり、麻雀の攻略法に関連する書籍を複数上梓したほか、麻雀に関するテレビ番組の出演をきっかけに、テレビタレントとしても活動した。
1995年1月、肺炎のため57歳で急逝。1985年から日本経済新聞で連載中だった『ドーモ君』はそのまま終了となった。日本経済新聞では『ドーモ君』終了以降、社会面に4コマ漫画を設けていない。
作風
- 一見投げやりなように描かれた人物造形、空白を多く残した構成、展開を放棄したストーリーによって、ニヒリズムを感じさせる「現実感のない、まったく乾いた世界」を表現し、「キラリと光る現代の虚無『漫画集団漫画集』p.179」と評された。
- 「庶民の生活を哀愁あふれる視点で描き、共感を得た」とも評される。
- 『漫画サンデー』初代編集長の峯島正行は、経歴の近い園山・東海林・福地の作風を比較し、「思索型」の園山・「観察型」の東海林に対して、福地を「精神不在をよそおう(略)無意味な行動の面白さ」を「興味の赴くまま」に描く「行動型」と評し、3人の中で「一番ナンセンスの真髄に近い」とした。
人物・エピソード
- 麻雀を通じて近藤啓太郎、吉行淳之介、五味康祐、五木寛之らの小説家や、ジャーナリストらと交流し、マルチタレントとしての足がかりとなる人脈を広げた。
- 早い時期からコンピュータグラフィックスに着目し、パソコンのスキルを習得して作品を作っていた。
- 早大漫研の同志であった東海林さだおとは生涯の親友であり、草野球仲間でもあった。
- 食事に無頓着で、自炊をしなかったという。好きな料理はラーメンで、その理由は「一杯で食事を済ませられるから」と素っ気ないものだったという。
- 映画ファンであり、劇場用映画2本の制作に携わった(後述)。
作品
「福地泡介」の検索結果 国立国会図書館サーチ
漫画
- 連載
- としごろ天使(美しい十代 1960年9月号 - 1961年3月号)
- 作品集・単行本
- :* 福地泡介傑作集 ドタコン(立風書房 1973年) :* 福地泡介傑作集2 ドタコン恋やつれ(立風書房 1974年) :* ホースケ君のなるほど漫画 ザ・ビタミンC(千曲秀版社 1984年) :* ホースケ君のなるほど漫画 電話のマナー教室(千曲秀版社 1986年) :* ホースケ君のなるほど漫画 おしりの健康学(千曲秀版社 1986年) :* ホースケ君のなるほど漫画 新ごはん食のすすめ(千曲秀版社 1986年) :* ホースケ君のなるほど漫画 みそでヘルシー(千曲秀版社 1987年) :* ホースケ君のなるほど漫画 みかんでヘルシー(千曲秀版社 1987年) :* ホースケ君のなるほど漫画 魚食でヘルシー(千曲秀版社 1988年) :* ホースケ君のなるほど漫画 ヨーグルトでヘルシー(チクマ秀版社 1994年)
エッセイ
- 麻雀関連
- 麻雀見る! 読む! 笑う! 強くなる(日本文芸社 1972年)
- その他
- ああ人生哀歌 四畳半で楽しむ本(ベストブック社 1975年)
漫画・エッセイ集成
- ホースケがいた 福地泡介傑作選(東海林さだお編 日本経済新聞社 1997年)
映画
出演作品は下記「出演作品」節で後述。
- 日本の悪霊(ATG 1970年) - 製作
- 正午なり(ATG 1978年) - 脚本
出演
テレビ番組
- クイズダービー(TBS) - 6回ゲスト解答者として出演。1981年4月25日放送分ではスケジュールの都合により出演できなくなったはらたいらの代役で3枠として出演した事があるが、その時は0勝8敗だった。合計22勝36敗(3割7分9厘)の成績だった。
- 世界まるごとHOWマッチ(毎日放送)
- 正解のないクイズ(フジテレビ)
- FNS1億2000万人のクイズ王決定戦(フジテレビ)
- 欽ちゃんのドンとやってみよう!(フジテレビ)
- ザ・ハングマン4 第12話「タイガーキャブの本拠が襲われる!」(1984年、朝日放送) - タクシーの乗車客役で友情出演
- タケちゃんの思わず笑ってしまいました(フジテレビ) - 1984年9月11日に放送されたPart4にて、「すしマージャン実践教室」に出演
テレビCM
映画出演
- 温泉スッポン芸者(東映 1971年)
- 白昼の死角(東映 1979年)
参考文献
- 長谷邦夫『ニッポン漫画家名鑑』(データハウス、1994年 ISBN 4887181965)
- 寺光忠夫『正伝・昭和漫画 ナンセンスの系譜』(毎日新聞社、1990年 ISBN 4620307211)
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2022/05/25 14:10 UTC (変更履歴)
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