ジョン・オーウェン : ウィキペディア(Wikipedia)
ジョン・オーウェン(、1702年? – 1754年2月20日)は、グレートブリテン王国の政治家。1741年から1747年までと1753年から1754年までの2度にわたって庶民院議員を務めた。
生涯
弁護士ジョン・オーウェン()と2人目の妻レティス・ウィリアムズ(、デイヴィッド・ウィリアムズ)の次男として、おそらく1702年に生まれた。1719年11月16日、オックスフォード大学ジーザス・カレッジに入学した。1721年に兄ウィリアムが死去すると、その遺産を継承した。
1725年、を務めた。
1741年イギリス総選挙でから出馬した。アングルシー選挙区ではバークリー子爵家(トーリー党の家系)とオーウェン・メイリック()率いるホイッグ党員が議席をめぐって激しく争っていたが、前回の総選挙では野党派ホイッグ党に属するが両者の支持をとりつけて無投票で当選した。1741年の選挙ではバークリー子爵家とメイリックの争いが再燃、第6代バークリー子爵ジェームズ・バークリーがベイリーを支持する一方、ベイリーと同じく野党派ホイッグ党に属するジョン・オーウェンは次の総選挙でメイリックの息子を支持すると許諾して、メイリックからの支持を確保した。選挙戦の結果、オーウェンは232票を得てベイリー(127票)を破った。
議会では常に野党の一員として投票した。1747年イギリス総選挙ではバークリー子爵がベイリーを、オーウェンがメイリックの同名の息子(1705年 – 1770年)を支持するという、1741年の総選挙と同じ構図だったが、投票の3日前にメイリックとバークリー子爵が「ベイリーが立候補を取りやめ、その代償として次回の総選挙でメイリックがベイリーを支持する」という協定を交渉した。オーウェンはこの協定により自分が議会から14年間も締め出されると考えてバークリー子爵側につき、これによりメイリックは勝ち目がないと判断して選挙戦から撤退、ベイリーが当選する結果となった。
1747年の総選挙でバークリー子爵側についたことで、バークリー子爵家はその褒賞として1753年にで行われた補欠選挙でオーウェンを当選させた。
しかし、1741年の総選挙で出費が重なったオーウェンは自領の大半を売却せざるを得ず、ロンドンに向かう道中の1754年2月20日に死去した。生涯未婚だった。
注釈
出典
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/06/14 20:35 UTC (変更履歴)
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