ケネス・バーク : ウィキペディア(Wikipedia)
ケネス・バーク | |
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生まれ | Kenneth Duva Burke1897年5月5日 ペンシルベニア ピッツバーグ |
死 | 1993年11月19日 (96歳) ニュージャージー州 アンドーバー |
仕事 | 文学理論、哲学者 |
哲学的仕事 | |
研究機関 | シカゴ大学 |
ケネス・デュヴァ・バーク(、1897年5月5日 – 1993年11月19日)は、アメリカの文学理論家・詩人・エッセイスト・小説家であり、20世紀の哲学、美学、批評、修辞理論について執筆した人物である。文学理論家としてのバークは、知識の本質に基づく分析で最もよく知られている。彼は、従来の修辞学から逸脱し、文学を「象徴的行為(symbolic action)」として捉えた最初期の理論家の一人であった。
バークは正統的な枠に収まらない理論家であり、文学テクストそのものだけでなく、読者と相互作用するテクストの諸要素――すなわち社会的・歴史的・政治的背景や作者の伝記など――にも関心を寄せていた。
バークの業績について、『ジョンズ・ホプキンズ文学理論・批評ガイド』は、彼を「20世紀における最も非正統的で、刺激的かつ理論的に洗練されたアメリカ生まれの文学批評家の一人」と評価している。彼の仕事は、今日においても修辞学者や哲学者によって議論され続けている。
来歴
ケネス・デュヴァ・バークは1897年5月5日、ペンシルベニア州ピッツバーグに生まれ、ピーボディ高校を卒業した。在学中にマルカム・カウリーやジェームズ・ライト(演出家)と親交を深めた。彼はオハイオ州立大学に進学し、フランス語、ドイツ語、ギリシア語、ラテン語の授業を履修した。その後、両親と共にニュージャージー州ウィホーケンに転居し、コロンビア大学に入学した。コロンビア在学中には「ボアズ・ヘッド協会」の一員でもあった。
しかし、制約の多い学習環境に嫌気がさし、バークはコロンビア大学を中退し、学位を取得することはなかった。ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジでは、ハート・クレイン、マルカム・カウリー、ゴーハム・マンソン、のちにはアレン・テイトといったアヴァンギャルドな作家たちと交流を持った。クリスチャン・サイエンスの信仰を持つ母親に育てられたが、後年バーク自身は明確に不可知論者を名乗るようになった。
1919年、バークはリリー・メアリー・バターハムと結婚し、彼女とのあいだに3人の娘をもうけた。長女はフェミニストでマルクス主義的立場の人類学者エレノア・リーコック、次女は音楽家の(ジャンヌ)エルスペス・チャピン・ハート、三女は作家・詩人のフランス・バークである。その後、リリーとは離婚し、1933年には彼女の妹エリザベス・バターハムと再婚し、2人の息子マイケルとアンソニーをもうけた。
バークは1923年にモダニズム系文学雑誌『ザ・ダイアル』の編集者を務め、1927年から1929年までは同誌の音楽批評家であった。彼は熱心なピアニストでもあり、1928年にはアメリカ文学への顕著な貢献により「ダイアル賞」を受賞した。1934年から1936年までは『ザ・ネイション』誌の音楽批評家を務め、1935年にはグッゲンハイム・フェローシップを授与されている。
彼の批評に関する業績は、彼を再び学問の注目の的に押し上げる原動力となった。その結果、彼は文学活動を続けながら、ベニントン大学をはじめとする様々な大学で教鞭を執り、講義を行うことができた。バークの個人的な書類や書簡の多くは、ペンシルベニア州立大学の特別収蔵図書館に所蔵されている。しかし、大学での講義経験があるにもかかわらず、バークは独学者であり、自ら学び取った学者であった。
晩年、ニュージャージー州のバークの農場は、親族一同にとって人気のある夏の避暑地となっていたことが、孫であり著名なシンガーソングライターであるハリー・チャピンによって報告されている。バークはニュージャージー州アンドーバーの自宅にて心不全のため死去。享年96であった。
影響
20世紀の多くの理論家や批評家と同様に、バークはカール・マルクス、ジークムント・フロイト、フリードリヒ・ニーチェから強い影響を受けた。彼はシェイクスピアの生涯にわたる解釈者であり、ソースティン・ヴェブレンからも顕著な影響を受けた。彼は特定の哲学的または政治的思想の流派の追随者として分類されることを拒み、1930年代の文学批評界を支配していたマルクス主義者たちと公然と決別したことで知られている。
バークは、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、マルカム・カウリー、ロバート・ペン・ウォーレン、アレン・テイト、ラルフ・エリソン、アルバート・マレイ、キャサリン・アン・ポーター、ジーン・トゥーマー、ハート・クレイン、マリアンヌ・ムーアなど、多くの文学批評家、思想家、作家と長年にわたり文通を行った。後にバークの影響を認めた思想家には、ハロルド・ブルーム、スタンリー・カヴェル、ジョセフ・ヒリス・ミラー、スーザン・ソンタグ(シカゴ大学での彼の学生)、アーヴィング・ゴフマン、ジェフリー・ハートマン、エドワード・サイード、ルネ・ジラール、フレドリック・ジェイムソン、マイケル・カルヴィン・マギー、デル・ハイムズ、クリフォード・ギアツが含まれる。バークは、トーマス・マンとアンドレ・ジッドの重要性を高く評価し、明確に表現した最初の著名なアメリカの批評家の一人であった。彼は「ヴェニスに死す」の最初の英語訳を制作し、これは1924年に『ザ・ダイアル』誌に掲載された。この翻訳は、H・T・ロー・ポーターのより有名な1930年の翻訳よりも、はるかに忠実で明確であると現在では考えられている。
バークの政治的関与は明白である。『動機の文法』(A Grammar of Motives)は「戦争の浄化へ」(ad bellum purificandum)という言葉を序文に掲げている。
アメリカの文学批評家ハロルド・ブルームは、バークの『反論』(Counterstatement)および『動機の修辞学』(A Rhetoric of Motives)を自著『西洋の正典』(The Western Canon, 1994)に取り上げた。
バークは同時代の影響を超えて、修辞学に関する理論を構築する際にアリストテレスの教えを考慮した。彼の思想の重要な源泉はアリストテレスの『修辞学』である。これを踏まえ、バークは言語についての著作を特にその社会的文脈に向けて方向付けた。同様に、彼は言語を論理的な議論や文法構造以上のものとして研究した。なぜなら、言語の社会的文脈は純粋理性の原理に還元できないと考えたからである。
バークは修辞学について、プラトン的な見解とより現代的な見解とを区別し、それぞれを「古い修辞学」と「新しい修辞学」と呼んでいる。前者はあらゆる手段による説得を特徴とし、後者は「同一化」に関心を持つ。バークが用いる「同一化」という言葉は、話者が特定の集団、例えば対象となる聴衆と自らを結びつける過程を指す。彼の同一化の概念は古典修辞学のエトスに類似しているが、聴衆に強い印象を与えるためにロゴスやパトスの使用も説明している。同一化は、話者の言葉がわれわれが生きる世界のように見える世界を表している限りにおいて、その話者の修辞学と「同一化」することによって特徴付けられる。この理論は、バークが「雄弁こそ芸術の目的であり、その本質である」と考える芸術的コミュニケーションの概念において、エトスと最も大きく異なる。修辞学の使用は美的かつ社会的な能力を伝達し、したがってバークによれば、テクストはめったに純粋に科学的あるいは政治的な意味に還元されることはない。修辞学は主に言語学に基づく一連の出来事によって、より一般的には象徴的な表象の使用によって、われわれの社会的アイデンティティを形成する。この点を説明するためにバークはドラマの比喩を用いており、そこでは互いに依存し合う登場人物たちが話し合い、互いにコミュニケーションを行いながら、相手にも同様の行為を許している。バークはまた、同一化を説得的魅力の機能としても説明している。
バークは修辞学を「人間の主体が他の人間の主体に態度を形成させたり、行動を促したりするために言葉を用いること」と定義した。この定義は、修辞学の意味に関する従来の理解を土台として構築されたものである。バークは、修辞学とは人を動かし、行動を促すために言葉を用いることであると述べている(※要出典)。さらに、彼は修辞学をほぼ説得と同義であると考えており(『動機の修辞学』[1950年])、修辞学は人びとに変化をもたらす働きをするものだと主張した。この変化は、態度、動機、意図といった内面的なものだけでなく、身体的な変化としても現れる可能性がある。例えば、助けを求める叫びは修辞的行為であり、修辞学は人を身体的な行動へと駆り立てる象徴的行為である。最終的に、バークにとって修辞学と説得は置き換え可能なものである。
他の学者たちもこれと類似した定義を提示している。アリストテレスは、話者がその方法を理解していれば、修辞学は人を説得するための道具であると同時に、情報を得るための手段でもあると述べた。アリストテレスが自らの議論を構築する際に用いた手法のひとつが三段論法である。また、修辞学が説得の手段として用いられたもう一つの例は「討議的言説」である。ここでは、政治家や弁護士たちが、政策を通すか否かを決定するために演説を行った。
サリー・ギアハートもまた、修辞学は説得によって変化を引き起こすと述べている。彼女は、説得は暴力的で有害であると主張する一方で、自らもその説得を手段として用い、変化をもたらそうとしている。
哲学
記号のもつ政治的・社会的な力は、バークの学問において中心的なテーマであった。彼は、「人々が何をしており、なぜそれをしているのかを語るとき、そこに含まれているものを理解することによって」、われわれが世界をどう認識しているかという認知的基盤への洞察が得られると考えた。バークにとって、物事をどのように語るかという選択は、ある特定の性質に他の性質よりも重要性を与える行為である。彼は、この語りの選択が、われわれが世界をどのように見ているかを如実に物語っていると信じていた。
ドラマ主義
バークは、社会的および政治的な修辞分析を「ドラマ主義(dramatism)」と呼び、そのような言語分析および言語使用へのアプローチによって、対立の根本、協力の美徳と危険性、そして同一化や「実質的一体性(consubstantiality)」の可能性を理解する助けになると考えた。
バークは、言語の修辞的機能を「記号に本質的に反応する存在に対して、協力を促す象徴的手段」であると定義した。彼による人間の定義は以下のとおりである──「人間とは、記号を使用し、創造し、誤用する動物であり、否定の概念の発明者であり、自らの創り出した道具によって自然状態から引き離され、ヒエラルキーの精神に駆り立てられ、そして完全性によって腐敗した存在である」。
バークにとって、人間行動におけるもっとも深刻な問題のいくつかは、人間が記号を使用するのではなく、記号のほうが人間を使用するような場面において生じると考えられている。
バークは、われわれが他者に動機を帰属させる際に、「行為(act)」「場面(scene)」「行為者(agent)」「手段(agency)」「目的(purpose)」という五つの要素の比率に依拠する傾向があると提案した。これは「ドラマ主義的五角形(dramatistic pentad)」として知られるようになった。この五角形は、バークのドラマ主義的方法に基づいており、人間のコミュニケーションを一種の行為として捉える立場である。ドラマ主義とは、「動機という問題を、ドラマの分析から発展させた観点において考察するよう促すものであり、言語と思考を本質的に行為の様式として扱うものである」(『動機の文法』、序文より)。
バークは文学批評を形式主義的な営みとは見なさず、むしろ社会学的に重大な影響をもたらす営みとして追求した。彼は文学を「生のための装備(equipment for living)」と捉え、人々に民衆の知恵や常識を提供し、それによって彼らの生き方を導くものと考えた。
ドラマ主義を用いることによって、最終的にはバークの「再生のサイクル(Rebirth Cycle)」を活用することができる。このサイクルは、「罪/汚れ(Guilt/Pollution)」「浄化(Purification)」「贖罪(Redemption)」という三つの明確な段階から構成されている。バークはこの三段階とその機能を、以下の詩を用いて提示した。
この詩は、三段階の相互関係に基盤を与えるものである。秩序が人間の生活に導入されることによって、罪の意識が生まれる。その罪によって引き起こされる結果を緩和するためには、贖罪が必要となる。そして、その贖罪という抽象的行為を通じて、バークはこのサイクルの完成に至るのである。
「汚れ(Pollution)」とは、罪(Guilt)を生み出す行為を最初に構成するものである。罪の創出は、ヒエラルキーの否認によって生じる。人間関係への挑戦、権力構造の変化、あるいは行動の適切性に対する変化などが、それぞれ罪の形成に寄与する要因である。
罪の創出と「原罪」とのあいだには、一定の類似が見出される。「原罪」とは、「避けることのできない過失、あるいはすべての人が共有する状態」であるとされる。罪とは、ある状況から想定されていた純粋性を奪い取る最初の行為である。
罪が確立されると、それを認識した当人が浄化を受ける必要性が必然的に生じる。したがって、浄化は「儀礼的浄化(ritual purification)」の二つの形式によって実現される。それがすなわち、「自己抑圧(Mortification)」と「身代わり犠牲(Victimage)」という浄化の経路である。
社会におけるヒエラルキーによって生じる階層化は、社会内部における周縁化(marginalization)を可能にする。かくして周縁化は、罪(Guilt)を生み出す主要な要因となり、自己抑圧(mortification)を必要とする状況へと導く。バークはこう述べている。「強調して言うならば、自己抑圧とは『徳』における自己修練である。すなわち、無秩序に対して“否”を突きつけ、秩序に対して従順に“然り”と答える体系的な方法である」。
自己抑圧は自己犠牲を可能にし、それによって人は自身の「汚れ(impurities)」を清めることができる。ただし、この浄化は、自らの罪の程度と同等である場合にのみ達成される。もし自己抑圧による浄化が果たされない場合、人は最終的に「その内にある混乱を、外部のものとして発散させるべく、それをスケープゴートに投影し、『責任転嫁(passing the buck)』を行い、犠牲の器(sacrificial vessel)を求める」ことになる。犠牲の器とは、自らの罪を根絶するための存在でありつつ、その人物が徳を保ったままでいられることを可能にする。身代わり犠牲(victimage)は、儀礼的浄化の第二の形式である。バークは、社会が自らの内部における分裂を修復する必要性を強調する。彼は次のように記す。「人々は分裂という観念を極端に嫌うため、それを指摘する者、ましてや実際に行動に移そうとする者に対して、容易に敵意を向ける」。
身代わり犠牲によって、特定の社会にとって異質な存在に対抗するため、汚れの受け皿として機能するスケープゴートが創出される。このスケープゴートは、不浄な者の罪を背負うことで、有罪者に贖いの機会を与える。こうした一連の過程において、スケープゴートは有罪者の罪を負わされるのである。
贖罪(Redemption)は、二つの選択肢のいずれかを通じて達成される。第一の形式は悲劇的贖罪(tragic redemption)であり、これは罪が「完全性(perfection)」および「代替(substitution)」という原理と結びつくことによって、身代わり犠牲(victimage)が機能可能となる構造である。言い換えれば、「罪ある者がスケープゴート化または自己抑圧(mortification)を通じて修辞的共同体から排除される」ことによって贖罪がなされる。
第二の形式は喜劇的啓発(comic enlightenment)である。この場合、罪ある者の罪が社会全体によって引き受けられ、最終的には社会そのものが「連帯責任」によって罪を負うこととなる。
ターミニスティック・スクリーン(用語的スクリーン)
バークにとって重要なもう一つの概念は、ターミニスティック・スクリーンである。これは、シンボルの集合であり、世界を理解するためのスクリーンまたは知性のグリッドとなる。バークはここで、修辞理論家や批評家に対し、言語とイデオロギーの関係を理解する方法を提供する。バークは、言語は単に現実を「反映」するだけでなく、現実を選択し、さらには現実を逸らす役割も果たすと考える。『言語の象徴的行為』(1966年)において、彼は次のように述べる。「たとえ特定の用語が現実の反映であったとしても、用語としてのその性質上、必然的に現実の選択でなければならない。そして、その限りにおいて現実の逸らしとしても機能する。」バークは、ターミニスティック・スクリーンを現実の反映として描写し、これらのシンボルは我々の注意を当面の話題に向けるものとみなす。例えば、同じ対象の写真に異なるフィルターをかけると、視聴者の注意がそれぞれ異なる方向に向けられる。これは、学術分野の異なる主題が注意を異なる形で引きつけるのと似ている。バークは次のように述べる。「我々はターミニスティック・スクリーンを使用せざるを得ない。なぜなら、用語を用いずに何かを言うことはできないからだ。我々がどの用語を使用しようとも、それらは必然的に対応する種類のスクリーンを構成する。そして、そのようなスクリーンは必然的に注意をある領域に向け、別の領域から逸らす。」バークは、シェイクスピアやソフォクレスだけでなく、ポップカルチャーにおいて重要な映画やラジオからも着想を得た。それらは「象徴的かつ修辞的な要素」に満ちていたからだ。我々は、目の前に提示されたスクリーンを受け入れるよう誘導されることがあり、テレビやウェブサイトなどのマスカルチャーがその原因となることがある。今日のメディアはターミニスティック・スクリーンを変容させ、リチャード・トイが『修辞学:非常に短い入門』で述べたように、「我々が状況を特定の形で捉える原因となる言語的フィルター」を生み出している。
同一視(identification)
バークは、「同一視(identification)」を説得における重要な要素であると見なしていた。バークによれば、人が他者の話を聞く際、その話し手が自分とどれほど似ているかを判断するという。我々の意見が話し手と一致すれば、我々はその話し手と修辞的に「同一視」する。そして、話し手との同一視の程度に応じて、その人物の議論の結論や、その含意のすべて、あるいはほとんどを受け入れるよう動かされる可能性がある。
バークは『動機の修辞学(A Rhetoric of Motives)』において、修辞的文脈における自己との同一視だけでなく、自己ではない対象や概念との同一視といった、外的な同一視の在り方についても分析している。さらに、バークの著作においては、「共質性(consubstantiality)」「所有」「自律性」「狡猾さ」といった、同一視に関わる他の側面についても論じられている。
バークによる修辞における同一視の探求は、現代の修辞理論に大きな影響を与えた。彼は同一視の考察を通じて、西洋の修辞学を革新したのである。バークは、修辞とは単に「理性的な議論と感情の結合」だけではなく、人々が言語や互いに結びつく行為でもあると主張した。さらに、バークの同一視理論は彼の音楽に対する批評的関心によって複雑化し、音響的同一視における形式と情報の区別へと転換を促した。
主要な著作
「人間の定義」("Definition of Man", 1966年。『象徴的行為としての言語』収録の第一論文)において、バークは人間を「記号を用いる動物」と定義した(p.3)。彼はこの人間の定義が示すところとして、「現実」とは実際には「我々の記号体系によってのみ構築されてきたものである」と論じている(p.5)。百科事典や地図帳、その他の各種参考資料がなければ、我々は直接的な感覚経験の外にある世界についてほとんど知ることができない。バークによれば、我々が「現実」と呼ぶものは、実際には「過去に関する記号の乱雑な集積と、現在について主に地図や雑誌、新聞などを通じて知る事柄との結合――すなわち我々の記号体系による構築物」にほかならない(p.5)。
大学生が英文学から社会学、生物学、微積分といった授業の間を移動する際、彼らは教室に入るたびに新たな現実に直面することになる。大学の講義目録に掲載された各科目は、「実質的には異なる多くの専門用語にほかならない」(p.5)。したがって、自らをキリスト教徒と考え、その宗教の記号体系を内面化している人々は、仏教徒やユダヤ教徒、イスラム教徒が生きる現実とは異なる現実に住んでいると考えるのが妥当である。自由市場資本主義や社会主義、フロイト派精神分析やユング派深層心理学、さらには神秘主義や唯物論といった信念体系についても同様である。それぞれの信念体系は、世界の仕組みや事物の意味を記述する独自の語彙を持ち、その信奉者に特定の現実を提示するのである。
バークの詩は、批評的な注目をほとんど集めず、またアンソロジーにもめったに収録されていないが、三つの詩集に収められている。すなわち、『Book of Moments』(1955年)、『Collected Poems 1915–1967』(1968年)、そして死後に刊行された『Late Poems: 1968-1993 Attitudinizings Verse-wise, While Fending for One's Selph, and in a Style Somewhat Artificially Colloquial』(2005年)である。彼の小説作品は『Here & Elsewhere: The Collected Fiction of Kenneth Burke』(2005年)にまとめられている。
ほかの主要著作は、以下
- Counter-Statement (1931)
- "Towards a Better Life" (1932), Googlebooks preview, pp. 25–233 not shown.
- Permanence and Change (1935)
- Attitudes Toward History (1937)
- The Rhetoric of Hitler's "Battle" (1939)
- Philosophy of Literary Form (1941)
- A Grammar of Motives (1945)
- A Rhetoric of Motives (1950)
- Linguistic Approaches to Problems of Education (1955)
- The Rhetoric of Religion (1961)
- Language As Symbolic Action (1966)
- <i>Dramatism and Development</i> (1972): a description of the contents of the two part lecture devoted to biological, psychological and sociocultural phenomena
- Here and Elsewhere (2005)
- Essays Toward a Symbolic of Motives (2006)
- Kenneth Burke on Shakespeare (2007)
- Full list of his works from KB: The Journal of the Kenneth Burke Society
彼はまた、「One Light in a Dark Valley」という曲も作曲しており、その曲は後に孫のハリー・チャピンによって録音された。
バークの最も注目すべき書簡はここに収められている:
- Jay, Paul, editor, The Selected Correspondence of Kenneth Burke and Malcolm Cowley, 1915-1981, New York: Viking, 1988,
- East, James H., editor, The Humane Particulars: The Collected Letters of William Carlos Williams and Kenneth Burke, Columbia: U of South Carolina P, 2004.
- Rueckert, William H., editor, Letters from Kenneth Burke to William H. Rueckert, 1959–1987, Anderson, SC: Parlor Press, 2003. ISBN
受賞歴
バークは1981年のアメリカン・ブック・アワードにおいて国家文学メダルを受賞した。『ニューヨーク・タイムズ』1981年4月20日号によれば、「故ハロルド・ギンズバーグ(ヴァイキング・プレス創設者)を記念して設立されたこの1万5千ドルの賞は、『アメリカ文学に対して卓越し継続的な貢献をした現存のアメリカ作家』を称えるものである」という。1987年にはニュージャージー州上院が彼の90歳の誕生日にあたり、文学と芸術への功績を讃える宣言を発した。
外部リンク
- <i>Author and Book Info.com</i> offering a list of works and their description
- Kenneth Burke Papers at the Pennsylvania State University
- KB Journal, KB Journal's mission is to explore what it means to be "Burkean"
- The Kenneth Burke Society
- A short introduction to Burkean rhetoric , with all relative concepts defined
- Burke's lecture <i>A Theory of Terms</i>, at Drew Theological Seminary, Complete text and audio
- Works by Kenneth Burke at LibriVox (public domain audiobooks)
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