松本麗華 : ウィキペディア(Wikipedia)

松本 麗華(まつもと りか、1983年4月 - )は、日本の著述家。元オウム真理教幹部(ただし実権は全く無く、教祖が教団内での家族の地位を上げるために地位を与えたにすぎず、従ってオウム真理教とは現在無関係と本人は主張するが、少なくとも2014年前後までは、麻原の子息に特別に与えられた位階「皇子」「正大師」の権威をもってアレフ(Aleph、オウム真理教から2000年に改称)教団に裏から関与して公安調査庁に教団幹部と認定されるなど、大きな影響を与えるだけの実権があったことや、その後に関しては、アレフを離れつつも、オウムの信仰を維持する者(いわゆる「脱会信者」)と一定の関わりがあるとの見解がある)。

来歴・人物

本節は松本麗華本人による著書、およびブログにおける主張に基づく。

略歴

千葉県船橋市に、麻原彰晃(松本智津夫)と知子(現:松本明香里)の三女として生まれる。

家族のもとで暮らしたが、2歳ごろからはオウム真理教の幹部であった石井久子や新実智光、村井秀夫、岐部哲也、山本まゆみなどから世話をされて育つ。3歳からは幼稚園にも通っていたが、5歳の頃、家族とともに静岡県富士宮市のオウム真理教富士山総本部へ移住した。

「幼いころより後継者としての教育と寵愛を受けた」とマスコミに報道されているが、実際には実弟がその教育を受けており、麻原彰晃を開祖とし教祖として指定されたのも実弟であると麗華は主張している松本麗華『止まった時計』三女・アーチャリーの手記(講談社)。ただし、1992年以降に実弟(長男・次男)が生まれる前までは、実際に救世主・後継者として扱われていた事実があり、その存在は年上の信者達にも大きな影響を与えた。

オウム真理教解体後は、通学拒否や転入反対運動を受けたことなどから小学校や中学校には通えず、入学には1ヶ月間の観察期間が必要であったため、小学校3年時から通信教育を受けたと麗華は述べているお父さん分かりますか?麻原彰晃の三女 アーチャリーのブログ

日出高等学校の通信制(単位制)を経て、2004年に文教大学人間科学部臨床心理学科に入学。大学では心理学を学び、2008年卒業。その後はアルバイトをしながら心理カウンセラーの勉強を続けている。この間、テレホンオペレーターのアルバイトを行っていた際には、社長から「アーチャリー(松本のホーリーネーム)に似ている人がいる」と電話が入り、解雇されたと麗華は語っている。

手記

2015年(平成27年)3月20日には、講談社より本名で半生を振り返った手記を公開した。

この中で松本麗華は、松本智津夫死刑囚(当時)を「大好きな父」と表現したことについて、「受け止められない人や多くの批判があることは理解しているが、そうした意見を聞いて、自分自身を作り上げていきたい」と語っている。

本を出版した理由として、「”このままでは父の真相が分からないまま葬られてしまう”との危機感があった」ことと、「自分自身が”自分の人生を生きていない”という甘さがあることを知った」ことなどを述べている。

手記中には、父・松本智津夫を一貫して「麻原彰晃」と記しているが、本人は幼少期から父を「麻原彰晃」として、あるいは「オウム真理教の教祖」として見ていたため、”松本智津夫”と聞くとまるで「どこかの知らないおじさんみたいな感じがする」と述べている。父である松本智津夫に対しては、「今もかけがえのない存在であり、今も温かくて包容力のあるどっしりとした父としてのイメージもある」という。

また、麻原が逮捕される1995年(平成7年)5月16日前日には麻原に呼ばれたものの、眠さのために行かず「お別れ」ができなかったことで罪悪感を持っているという。

自分自身の信仰心については、物心ついた頃から教団があり、そこにいるのが自分にとっては自然なことで「オウムという“街”に住んでいた感覚に近い」と感じており、「入信も出家もしていない」と語っている。

父・麻原彰晃に対する評価

松本麗華は実父である麻原彰晃(松本智津夫)について、著書やブログ、また週刊誌の取材などにおいて次のように語っている。

  • 世間のイメージと実像とのかい離があまりにも大きかった。
    • 2004年、逮捕から9年以上たち接見したが、別人のように痩せこけ髪も歯も抜け落ち老人のような姿であった。詐病だと思っていたが、面談を重ねても何の反応もなく、精神が崩壊した姿に衝撃を受ける。
  • 「父と会ったら、何を言おう。優しい声で、わたしの名前を呼んでくれるに違いない」と夢想していたが、父は完全な廃人になっており、「父と言葉を交わしたい」という望みは、数十回の接見中、一度も叶えられなかったため、うつ状態になった。
  • 裁判時には麻原はすでに精神が崩壊しており、何も語らないままに裁判が進行し死刑が確定したことや、幹部らが父のメッセージを自分に都合のよいように変えたり、アーチャリーの名を無断で使いその後の教団運営がなされた事実から、父の事件への関わり合いについては保留にという立場を保っている。
  • 麻原の空中浮揚については、見たことがなくやって見せてほしいといったが「疲れているから」と断られた。ただし、体が勝手に跳びはねる空中浮揚の前段階とされるダルドリー・シッディ現象は何度も目撃している。
  • 麻原の精神鑑定書はかなりの部分が嘘にもとづく報告からなっており、例えば鑑定書には食事をこぼさずに食べたとあるが、麻原はもともと目が見えないので食事はこぼすため、胸にバスタオルを巻いて食事していた。
  • TwitterなどのSNS上で「松本麗華は麻原彰晃の無実を主張している」と批判する者もいるが、実際には「法に従い裁判を執り行ってほしかった」と主張しているだけで、事実についての判断は留保したままである。

批判

  • オウムに殺害された坂本堤弁護士の知人であり、自身もオウムに命を狙われた江川紹子、滝本太郎は、大学入学拒否問題の頃は麗華を擁護していたが滝本太郎ウェブ日記 2018/6/27閲覧、その後麗華がオウム真理教事件に関して歴史修正主義的な主張をする者たちと交流を持ち同調するようになると、批判に転じた。
  • 麻原の四女は自著『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』で三女である麗華を批判している。
  • 元アレフ幹部の上祐史浩・野田成人・村岡達子や、麻原の四女は過去、アレフの教団運営に母親である松本知子と一緒に関与したと証言する。ただし、野田成人・村岡達子は松本知子が主導的に関与していたと思わせる記述をしている。『週刊新潮』2011年8月11・18日号
  • 麗華はオウム真理教長老部会議(麻原逮捕後のオウム指導体制)の座長を務めたことは認めるものの、その後継であるアレフ(現Aleph)との関係は入会すらしていないとして明確に否定し、アレフで名前が出てきたのは松本知子が名前と権威を利用していたからとしている。
  • しかし、東京地方裁判所は、麗華が、2002年以降、「(アレフ)教団運営は自分がやる」と述べて現実に「組織運営に介入し」、上祐による従来の教団改革を封じ込め、「松本(麻原)への絶対的帰依を明示的に強調する指導を復活させ」たこと、そして当時のアレフ教団内には、「(麗華の)団体内での名称(アーチャリー)の頭文字から「A派」とも呼ばれる」グループが実際に存在していたことを、以下の通り事実認定している。

松本の妻であり正大師の位階にある知子が,平成14年10月に刑務所を出所すると,従来の活動形態を維持し,松本を前面に出して活動することが松本に対する真の帰依であるとして「麻原隠し」に反対する姿勢を示して,松本の三女麗華と共に,Alephの組織運営に介入するようになり(中略)、上祐は形式的にはAlephの代表者の地位にとどまったものの,平成15年6月頃から,修行入りと称してAlephの運営に実質的に関与しなくなり(中略),以降、麗華を中心とした松本家の組織運営に対する関与が強まっていった。Alephは,平成15年10月頃に(中略)松本への絶対的帰依を明示的に強調する指導を復活させ,松本の説法などを集約した「尊師ファイナルスピーチ」の改訂版を発行するなどして,松本への絶対的帰依を強調し始めた。

  • そして、実際に、上記判決の事実認定どおり、当時の多くのアレフ出家信者が、麗華による教団運営への関与を実体験したと述べている。
  • また、警視庁が、2011年に、教団施設を家宅捜索した際には、信者が麗華と知子(麻原の妻)あての教団運営等に関する質問をしている文書多数を押収している。さらには、2013年に次男が教団復帰を計画すると、麗華は、それを推す知子と次男に反対して、教団施設外に多くの幹部信者に呼び出して説得したり、教団幹部に文書を送付したりするなど、強く教団の運営に関与するに至った。この文書においても、麗華は教団に(裏から)関与していないと主張しているが、これに対しては、知子・次男の立場に立った二ノ宮耕一は「嘘としか言いようがない」と批判している(アレフ内で出家信者向けに発行された法友新聞『メールマガジン7号 2014/10/17』より)。こうした結果、公安調査庁は、2014年12月の観察処分の更新請求において、麗華を教団幹部と認定した。これを不服とした麗華は、国に対して損害賠償請求訴訟を提起したものの、敗訴が確定している。
  • こうして、麗華と知子が裏から関与し、上祐の教団改革を否定したアレフは、上記の通り麻原への絶対的な帰依を強調し始めるとともに、2000年に締結したオウム事件の被害者賠償契約の履行に対して消極的となり、被害者団体(オウム真理教犯罪被害者支援機構)と対立し、同支援機構は、2012年に、アレフとの調停を東京簡易裁判所に申し立てることになった。また、被害者賠償を停滞させるとともに、アレフは、各地で、事件を謝罪するのではなく、正体を隠した覆面ヨーガ教室などを開催し、その中で、「オウム事件はオウムの仕業に見せかけた陰謀である」と主張する詐欺的な教化によって、多数の信者を獲得し、多額の資産を形成していった。
  • その後、2014年ごろ以降、次男・知子と対立した麗華は、アレフ本体から距離を置いて活動を開始したが、2018年になって、弁護士の滝本太郎が、自身のブログに「オウム集団には「三女派」が存在しており、監視されるべきものである。「山田らの集団」も三女派である。三女は、お付きの人の支援で生活し、オウム集団から離れていない」と記載した公安調査庁あての上申書を掲載した。こうして「三女派」という表現を使用した滝本太郎に対して、「三女派などはない」などとして、麗華は、名誉毀損の損害賠償請求の訴訟を起こしている。同訴訟では、麗華の請求が棄却されたが(麗華の敗訴)、その判決は、滝本弁護士には「三女派」の存在の証明はなかったが、その存在が真実と信じるに足る相当の理由があったとしており、同弁護士に責任はないとされた。その中で、真実と信じるに足る相当な理由として、1996年頃に麗華が「長老部」(当時のオウム真理教の最高意思決定機関)の座長とされたことや、2005年より前に麗華や家族が教団から経済的支援を受けていた旨の新聞報道がされたこと、2012年に弟の教団復帰について反対意見を述べたことなどがあったとされる。
  • 同訴訟でも取り上げられた「山田らの集団」については、公安審査委員会は、「平成25年(2013年)末頃、麻原の妻・松本明香里及び正悟師・二ノ宮耕一らが、麻原の二男を「Aleph」へ復帰させようとしていたのに対し、麻原の三女・松本麗華らが、これに反対するよう「Aleph」の幹部構成員らに働き掛けたことにより、「Aleph」内に意見対立が生じ、平成27年1月、「Aleph」の幹部構成員であった山田美沙子を中心とする集団(以下『山田らの集団』という。)が、かかる意見対立の結果、「Aleph」とは一定の距離を置いて活動を開始した」と認定しており(官報:平成30年1月30日)、次男が教団復帰してアレフを主導することに反対する麗華に同調して、次男・知子が主導することになったアレフを麗華が離脱すると共に、「山田らの集団」も教団を離脱した経緯を読み取ることができる。
  • また、このように上記訴訟では真相が解明されたとは言い切れない中で、麗華が(アレフには籍を置かない出家信者である)お付きの人の支援で生活し、オウム集団から離れていないという疑惑がある。その点に関しては、1999年までは長老部の座長として教団の運営に関与していた麗華が、2000年に長女の自宅に対する不法侵入事件を起こして拘束されて家裁送致となり(後記「旭村事件」)、長男・次男は児童相談所に収容されたという経緯から、同事件の直前に創設されたアレフ(オウム真理教から改称)には籍を置くことができなくなったために、当時の教団で麗華ら麻原の子女の周りの警備班・お世話係といわれる者達も、同時にアレフに籍を入れることはせずに、アレフの外で、麗華ら家族を中心とした出家信者のグループを形成したという事実があることが、アレフが公安調査庁に対して行った観察処分における構成員報告から明らかになっている。
  • その後、麗華らを中心とした(アレフには籍を入れない)出家信者のグループは麗華らを離れて相当数減ったともされるが、今もなお、麗華の経済的な支援などをしている同人周辺の(アレフには籍を置かない)出家信者が存在するという脱会した元(幹部)信者らや、近年も麗華から、アレフを脱会した後にお布施をしないかと声をかけられたという元出家信者や、同じくアレフから脱会した後に、麗華を経済的に支援して同人の近くにいると思われる出家信者から、その仕事に協力を求められた元幹部出家信者などが存在するという指摘があり、滝本弁護士との裁判では必ずしも明らかにならなかった麗華と脱会信者の関係に関する指摘も元信者らからなされている。
  • 上祐は、麗華が社会からの批判が激しかった2000年まで教団に在籍している際は、父親(麻原)の事件の首謀を認められないとの話は麗華から全くなく、同年にアレフに改称した教団の賠償の開始を上祐の前で支持していたにもかかわらず、現在父親の事件関与を素直に認めて謝罪しない麗華の姿勢を「のど元過ぎればということ」と批判している。さらに、父親の事件関与とその謝罪の前に、麗華自身の過去の犯罪的な行為、命にかかわる信者の重大な犯罪を防ぐ上での度重なる不適切な対応、アレフ教団を裏支配した時期に、教団がオウム事件の賠償を停滞させたことや、正体を隠してオウム事件を陰謀として騙す詐欺的な教化で多くの若者等を入信させる布教活動をしたことを(主導したのでなければ少なくとも)止めなかったことを批判している。

妹・聡香との対立関係

麗華の実妹であり、松本智津夫の四女でもある松本聡香(仮名)は、父の松本智津夫と母の知子によって教団の教義を教え込まれるなどの虐待を受けたとして、両親との関係を解消したいという思いから、両親を相続人から除外するよう訴えを起こした。2017年10月に横浜家庭裁判所が四女の希望を認めた。

聡香は最初で最後の会見として、今もオウムの後継団体に若い信者がいることについて問われると、「教団が言っていることをうのみにせず、自分で考えてほしい」と投げかけた。父親の死刑の是非を問われると「私は死刑執行を望むとは思ってないし、言ったこともありません。父の罪の重さを考えると死刑の執行以外に責任を取る方法はないと思うので、当然だと思いますし、執行されるべきだと思っています。」と述べて、死刑が当然と述べているhttps://www.asahi.com/sp/articles/ASKCP54BZKCPUTIL041.html 麻原彰晃・死刑囚の四女が訴える 「親と縁を切れる制度を」

聡香の会見を受けて、麗華は聡香の主張を否定、言動を批判して「妹の聡香(仮名) 麻原彰晃の四女の記者会見について思うこと」にて「妹(聡香)は家族の元を離れたあと、父からもらったこの宗教的階位を盾に、教団のトップに立とうとしています。」と主張しているhttp://blogos.com/article/260860/ 。この点につき、村岡達子は、聡香は教団施設で暮らすようになったと言い、元教団幹部は、「教団のほとんどの正悟師が聡香の支持に回り、上祐氏も聡香の取り込みに動いたことがあった」と述べているとされるが、これは事実に反しており、実際には、麗華・知子との対立に負ける形でアレフを去り、江川紹子に後見人を依頼することになった。

知子(麗華の母)・次男との対立関係

2003年に上祐の教団改革を妨げた時は、麗華は知子と協調したが、その後、2013年頃から、アレフに復帰しようとする次男やそれを支持する知子と対立するようになり、知子と次男が主導することになるアレフの教団運営から離れたとされる。一方、麻原の遺骨を家族の中の誰が引き取るかという問題においては、麻原が自分の遺骨・遺髪を委ねたとされた四女が、それらを散骨するという意思を表明していたことに対して、麗華は次女・長男と共に、知子・次男と協調・共闘して、四女と争うことになった(四女の代理人弁護士は上記の滝本太郎弁護士)。

また、特に近年、賠償を拒絶して資産を隠していると公安調査庁に指摘されているアレフは、次男によって裏から支配されているとの情報が、脱会したアレフの幹部信者によってインターネット等で公表される中で、麗華自身がかつてそうしたように、次男が自分の存在を役職員・構成員として公安調査庁に報告せずに裏から教団運営に関与することは、実際には団体規制法に違反する疑いがある。そのため、2014年前後の経緯から、次男が教団を裏から支配していくことを知りながらも、それを批判・告発しない麗華(および次女・長男)は、自分の過去の違法の疑いがある裏支配とともに、今の次男・知子による教団の裏支配を隠蔽しているという批判もある。

年表

  • 1983年(昭和58年)- 千葉県にて麻原彰晃と松本知子の三女として生まれる。幼少期からの家庭教師は石川公一だった。11歳にして正大師となり、教団での地位は麻原に次ぐ2位となる。省庁制の際には法皇官房長官を務めたオウム真理教 こちら広報部
  • 1986年(昭和61年)
    • 1月29日 - 初めての海外旅行でインドへ行き2週間滞在。家族と石井久子らが一緒だった。長時間父と一緒にいることや石井らに遊んでもらったことで楽しい記憶となる。その後インドへは10回以上渡航する。このころまでは麻原の弟子と接点はなかったが、このしばらく後、麻原が弟子に車で送迎されるようになり、新実智光ら弟子との接点ができる。
    • 4月 - 3歳から千葉県船橋市の幼稚園へ通う。季節を問わず上裸、素足という方針の幼稚園であった。園内の自由時間には絵の教室に行き、クラブ活動ではバレエ教室で踊る。この当時はおとなしい子供であった。姉らが通っていた水泳教室にも通うようになる。
    • 4月 - 「オウムの会」が「オウム神仙の会」に改称。
    • 12月 - 麻原のヒット作となる『生死を超える』刊行。自身の解脱体験を詳細に綴り話題に。
  • 1987年(昭和62年)7月 - 「オウム真理教」に改称。麻原とともにエジプトへ。
  • 1988年(昭和63年)
    • 2月 - 麻原らとインドへ。
    • 3月 - 静岡県富士宮市の富士山総本部道場建設予定地にてイベントが計画され、道場用地にしばしば家族で訪れる。生活用に改造されたバスの中で寝泊まりする。道場建設開始後も同様の生活が続く。ハイビスカスのお茶を好んで飲む。
    • 5月 - 再度インドへ。
    • 6月 - 麻原がダライ・ラマのイニシエーションを受けるためインドへ。7月には麻原がチベット仏教の高僧カル・リンポチェに会い「ヴァジラヤーナ」他の密教の秘儀を伝授される。
    • 8月6日 - 富士山総本部道場の開設記念式典が決行される。式典後は船橋から家族で道場へ引越すが、その後住むことになるサティアンは未完成であったため、道場1階の部屋で生活を始める。幼稚園(菅長学園)と水泳教室は辞め、加藤学園幼稚園へ転園。第1サティアンビルが竣工すると3階に家族の自宅と麻原専用の住宅の2つが造られた。麻原の瞑想室は非常に高い天井になっており、天井にはスポンジ状のものが貼られていた。これは空中浮揚で高く飛びすぎて頭を打った際の対策であると麻原に説明を受ける。また瞑想室内には子供の身長をはるかに超えるような深い浴槽が設置されたが、呼吸も心臓も停止するサマディを水中で証明するために作られたものであった。子供部屋もユニークな造りになっており、リビングに面した壁側にロフトが造られ、そこに子供らの寝床があり、それを取り囲むようにホワイトボードが貼られ、絵が描けるように工夫されていた。また、壁には小窓が設置され開けるとリビングの様子が分かった。ロフトと反対側の壁には3人分の勉強机が並べられていた。石井久子や新実智光、村井秀夫、岐部哲也、山本まゆみらに世話や相手をしてもらい、大きな兄や姉ができたようで楽しい思い出となる。この頃より、麻原を「お父さん」ではなく「尊師」と呼ぶようになる。この当時は麻原の視力はわずかに残っていた。
    • 12月 - 「大乗のヨーガ」の修業の成就を認定され、アジタナータ・ウマー・パールヴァティー・アーチャリーのホーリーネームを付けられる。当時、麻原がふざけて「遊びの女神はいらっしゃいますか~」と麗華を呼ぶことがあったため、このホーリーネームの意味を「遊びの女神」と長く解していた。ウマーは「光」、パールヴァティーは「山の娘」の意味であることを手記の執筆にあたり調べて初めて知る。
  • 1989年(平成元年)
    • 5月 - 麻原に同行しインド訪問。
    • 8月 - オウム真理教が東京都から「宗教法人オウム真理教」の認証を得る。
    • 11月 - 麻原らとインド訪問。坂本堤弁護士一家殺害事件発生。
  • 1990年(平成2年)2月18日 - 第39回衆議院議員総選挙で真理党が惨敗。この時麗華が麻原に票のすり替えがあったのではと指摘したところ、麻原も選挙結果は改竄されていると主張するようになる平成7年刑(わ)894号 平成14年7月29日 東京地方裁判所
  • 1994年(平成6年)6月 - 麻原の体調悪化により教団運営ができないのではとの懸念からオウム真理教に省庁制が導入され、11歳にして法皇庁長官に。この頃より麻原は「誰もグルを愛してくれない」、また麗華と2人になると「もう死のうかな」などと頻繁につぶやくようになる。
  • 1995年(平成7年)5月16日 - 12歳。父である松本智津夫逮捕。午前10時ころ、警察官らが家族の閉じ込められた部屋へ進入、「麻原を見つけたから靴を出せ」と怒鳴った。警察の誘導だと感じた麗華が「靴なんてないよ。お父さんいないから」と返答すると、警察官は「じゃあ、裸足のまま連れて行く」と言った。嘘ではないと察した母・松本知子がサンダルを用意し渡した。警察官3人に令状なしに泣き顔を撮られる。その後、寝るたびに記憶が消えていく現象を経験する。強制捜査前1,400人いた出家信者が事件後、500人まで減少する。
  • 1996年(平成8年)8月24日-10月下旬 - 教団引き締めのための観念崩壊セミナーを唯一の正大師として主催し、セミナー内容の監修・指示をした妹と元側近から「あの手記はデタラメ」と非難される麻原彰晃「三女」元P師『幻想の崩壊』オウムとはなんだったのか?。多くの怪我人・心身障害者を出したが、自身も大きな精神的ショックを受け家出、リストカットを繰り返すようになる。なお、後に麗華や麗華に同調する次女は、観念崩壊セミナーは、ある中堅幹部が主導したとの自己弁護を自著等で展開するが、そのセミナーの内容の過激さからして、正大師・皇子の階級を持つ麗華でなければ、そのような内容のセミナーは到底不可能であったと反論されている。
  • 1999年(平成11年)12月 - ロシア人信者ドミトリー・シガチョフによる麻原奪還計画(シガチョフ事件)を聞いた麗華は、シガチョフを「なんと帰依の深い信者がいるのか」と称賛し、その言葉がシガチョフに伝わった。それを聞いた上祐が、ただちに麗華を説得した結果、麗華はシガチョフに奪還計画に反対するメッセージを送った。上祐もメールや電話で、1995年に麻原が(逮捕阻止や奪還のための)破壊活動を停止するよう指示した事実を伝えるなどして、説得を試みた。その結果、シガチョフは、日本側に奪還テロ計画の断念を伝えるに至る。しかし、上祐に伝えられたシガチョフの計画断念の姿勢は表向きのものにすぎず、内実は、密かに奪還テロ計画を進めたが、未遂のうちに検挙された。
  • 2000年(平成12年)2月19日 - 同年1月に茨城県旭村(当時。現・鉾田市)にあった麻原の長女の自宅に、自分の周りの男性信徒と共に、バールで玄関を破壊し、侵入して逮捕される(旭村事件)。これは、長女の元では長男が危険だと考え、長男を連れ去ろうとしたものである。拘束された麗華は未成年のために家裁送致となり、家裁での審判の結果、保護観察処分となる。
  • 2002年(平成14年) - この頃から、母・松本知子と共に、「(アレフ)教団運営は自分がやる」と述べて「組織運営に介入し」、上祐による従来の教団改革を封じ込め、麻原への絶対的帰依を明示的に強調する指導を復活させた。当時のアレフ教団内に、麗華の団体内での名称(アーチャリー)の頭文字から「A派」とも呼ばれるグループが組織された。
  • 2004年(平成16年)- 3月に合格した和光大学を入学拒否されたとして提訴。
  • 2004年9月 - アレフから分派したケロヨンクラブで、竹刀で何度も殴打するなどの過激な修行によって、一人が死亡したが(ケロヨン事件)、同グループは、死亡した者は自分で自分の足を叩いて死亡したと偽装して警察を騙し、事件の隠蔽がなされた。しかし良心の呵責に耐えかねた同グループのメンバーから真相を聞かされた上祐は、警察に通報し、同グループの関係者を説得し、自首させた。こうして、一度はグループによって隠蔽された事件が上祐らによって明るみにされ解決したのであるが、麗華をはじめとする麻原家のメンバーは、警察に通報することに消極的だったと指摘されている。
  • 2006年(平成18年)- 入学拒否について東京地裁が違法と認定、和光大学に30万円の慰謝料支払を命じる。その裁判で争点となった教団との関係について、関係はないと虚偽の主張をしたため、捜査当局が詐欺罪で調査したとの情報がある。また、まさにアレフの運営に関与し、上祐らを幽閉していた時に、教団に関与していないという虚偽の主張を裁判で行ったので、その点を滝本弁護士から指摘された。
  • 2013年(平成25年)7月 - ブログを開始お父さん分かりますか?麻原彰晃の三女 アーチャリーのブログ。一時期は3時間に一度は罵倒が書き込まれる状況だった。
  • 2014年(平成26年)1月28日 - オウム真理教元教団幹部の死刑囚4人の間の書籍の受け渡しを仲介していたとして東京拘置所から4人との面会を禁じられていたことが明らかになった『オウム4死刑囚が本回し読み、教祖三女が仲介か』2014年1月28日 読売新聞。
  • 2014年1月中旬及び2月中旬 - 麻原の次男のアレフ復帰の計画に関して、観察処分下の教団運営に次男が参加することを次女・長男と共に反対し、幹部信者多数を教団施設外に呼び出して説得し、また、次男復帰を推している母親や幹部信徒を批判する文書を次女・長女との連名で全国の幹部信徒に送付した(東京地裁平成30年(行ウ)73号事件で国から提出された乙B2-29号証〈2017年10月18日付け公安調査庁作成の調査書「『Aleph』における意見対立」〉より)。これに対する賛否をめぐって麗華に同調する幹部信徒が除名処分となったり、反対が受け入れられず教団の裏関与から離れた麗華・次女・長男の動きの影響を受けて、当時の教団の金沢支部がその支部長の山田美沙子を初め教団から独立するなど(公安調査庁に「山田らの集団」と呼ばれる)、多くの出家信者がアレフから離れる結果を招いた。こうして、その対応で教団内部の対立が顕在化するなど、麗華の教団運営への関与が教団に混乱をもたらしたとされる。なお、上記の幹部信徒に送った次男の復帰に反対する文書の中で、麗華は、自分達は教団に関与していないと主張しているが、最高幹部の二ノ宮は「嘘としか言いようがない」と批判した(アレフ内で出家信者向けに発行された法友新聞『メールマガジン7号 2014/10/17』より)。
  • 2014年12月 - 公安調査庁によるアレフへの観察処分更新請求において、教団幹部と認定される。その後、認定の取り消しと損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こすが、2019年6月の判決において敗訴。
  • 2015年(平成27年)
    • 3月19日 - NNN系列の報道番組『NEWS ZERO』のインタビューに初めて実名で出演。
    • 3月20日 - 地下鉄サリン事件からちょうど20年目に当たるこの日に本名で手記『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』(講談社、ISBN 978-4062194808)を上梓地下鉄サリン事件20年、松本死刑囚の三女「アーチャリー」語る ウォールストリートジャーナル日本版 。ニコニコ生放送に出演して田原総一朗と対談した。
    • 6月21日 - オウム真理教元教団幹部の死刑囚4人との面会許可など(前述のとおり、2014年に禁じられたもの)を国に求めた訴訟を取り下げたと報じられた『松本死刑囚三女、元幹部らとの面会訴え取り下げ』 2015年6月21日 読売新聞。
  • 2017年(平成29年)9月29日 - 読売新聞に対して行った1000万円の賠償請求の敗訴確定「松本死刑囚3女の敗訴確定」 読売新聞 2017年9月29日。
  • 2018年(平成30年)

関連人物

  • 麻原彰晃
  • 松本知子
  • 石井久子
  • 石川公一
  • 村岡達子

関連項目

  • 観念崩壊セミナー

出典

参考サイト

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2025/06/20 12:59 UTC (変更履歴
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