チャーリー・パットン : ウィキペディア(Wikipedia)

チャーリー・パットン( () , 1891年 - 1934年)はデルタ・ブルースのギタリスト、シンガー。戦前の黒人の間では、デルタ・ブルースの人物中でも、最も人気があった歌手と伝えられている。

来歴

1891年(1881年、1885年、1887年など諸説あり)、ミシシッピ州ハインズ郡の近郊に十二人兄弟の一人として産まれるCharley Patton Birthplace, Mississippi Blues Foundation. 2023年3月2日閲覧。家族は当時ジャクソンとヴィックスバーグの間にある農場で農園労働者、物納小作人(en)として働いていた。

1897年、家族は100マイル北のドッカリープランテーションへと移住。綿花の摘み取り等の仕事に従事した。チャーリー・パットンは、厳格な父の目を盗んではパーティーや盛り場へ出かけ、チャットマン一家(ミシシッピ・シークス)と共に演奏を繰り広げたり、その地に住んでいたギタリスト、ヘンリー・スローン(1918年、シカゴに移住)にギターを学んだりしながら、腕を上げていった。頻繁に演奏を共にしたミュージシャンとしてウィリー・ブラウン、トミー・ジョンソン、ジョー・マーティン、のちにサン・ハウスやハウリン・ウルフロバート・ジョンソン、ヘンリー ”サン” シムズらがいる。

1929年6月14日、彼はインディアナ州リッチモンドに位置するゲネット・レコードのスタジオで初のレコーディングを行い、14曲を録音、その中の「ポニー・ブルース(en)」が「バンティー・ルースター・ブルース」とカップリングされてパラマウントより発売され、これは彼の代表曲の一つとなった。パラマウントではその後、グラフトンのスタジオにて二度のレコーディングが行われている。1929年冬のセッションではフィドラーのヘンリー・シムズが、30年においてはウィリー・ブラウンが四曲中二曲で参加している。

それ以降、極度の飲酒と煙草、不規則な生活のため、ひどい体調不良へと陥っていく中、1934年1月、彼はニューヨークにて内縁の妻バーサ・リーと共に、生涯最後となるレコーディングに臨んだ。その中には有名な「34ブルース」や「オー・デス」等が含まれている。約一ヶ月後、彼はニューヨークから自宅のあったホリー・リッジ(en)へと帰り、それからしばらく経った4月28日、サンフラワー郡インディアノラ近くのプランテーションにて、心臓発作を起こして死去。死亡証明書によると死因は「僧帽弁障害「ディープ・ブルーズ」 ロバート・パーマー(en)著、五十嵐正訳 シンコー・ミュージック ISBN 4-401-61648-0」。死に至るまでの数日を、彼は説教を行って過ごしたという。

1960年代には、ローリング・ストーンズやクリームのおかげで、ロバート・ジョンソンが有名になったが、ジョンソンは戦前には無名で、実際には黒人の間で人気があったのはチャーリー・パットンだったという「ブラック・ミュージック」 p.178。学研。体格の大きい父と比べ、小柄で細身だったが、彼の声はアンプなしで遠くまで届くと言われた。放蕩である一面、そうした自分の生活に思い悩み、何度か説教師になろうと志したことがある。 B.B.キングはブルースのロバート・ジョンソンについて、インタビューで訊ねられる事が多いが、ジョンソンについて敬意を払いつつも、自分のアイドルはチャーリー・パットンであると答えている。

参考文献

  • 「ディープ・ブルーズ」 ロバート・パーマー(en)著、五十嵐正訳 シンコー・ミュージック ISBN 4-401-61648-0

外部リンク

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