永井智子 : ウィキペディア(Wikipedia)
永井 智子(ながい ともこ、1908年 - 1992年11月2日)は、アルト歌手。作家永井路子の実母。太平洋戦争末期の空襲逃避行に、当時の夫菅原明朗と共に老永井荷風を帯同し、身辺の面倒をみた。
経歴
茨城県古河市の永井家に生まれる。茶、陶漆器をあきなう旧家。小学校卒業後、東京の女学校に学び、続いて私立の音楽学校に進む。
1925年(大正14年)3月、永井擴子(筆名永井路子)を、東京市本郷区で出産。1927年、夫、来島清徳と死別し、のち画家と再婚した。
1927年、日本放送協会の放送オペラに出演し、また、1929年ころから、流行歌のレコードを吹き込む。ムーラン・ルージュ、浅草松竹座のエノケン一座を経て、浅草オペラ館に迎えられる。
エノケン一座にいた1935年、その会報誌に「私の好きな歌手」を連載した。また1938年、浅草オペラ館の楽屋に現れて踊子の写真を撮りまくる「写真のおじいさん」を、永井荷風その人と直感したという。その1938年5月17日より10日間、永井荷風 - 菅原明朗のオペラ「葛飾情話」の主役を勤め、その縁で菅原と、それぞれの家庭を捨てて不倫の形で結婚する。
1945年夏、太平洋戦争末期の空襲を、菅原と明石へ、ついで岡山市へ逃げ、帯同した66歳の永井荷風の面倒を見る。戦後一女を得る。
60歳ころ、菅原明朗と離婚。晩年、後進に発声法を教える。
1992年(平成4年)11月2日、84歳で没。遺品中に、「葛飾情話」のピアノスコアがあった。
作詞、作曲、編曲の記録もある。
出演記録
- 1927年:7月20日、東京放送局の放送オペラ、ヴェルディの『リゴレット』。8月19日、サリヴァンの『軍艦ピナフォア』。
- 1938年:5月、永井荷風 - 菅原明朗のオペラ『葛飾情話』の主役、浅草オペラ館。8月29日、深尾須磨子 - 菅原明朗の「落葉の歌」(のち「みのりの歌」と改題)の初演放送、JOBK。
- 1942年:4月17日、金子多代独唱会を賛助、日本青年館、『アイーダ』、『ジョコンダ』。7月5日、芸能音楽鑑賞会第1回公演、産業会館。9月14日、松竹交響楽団定期演奏会、日比谷公会堂、オネゲルの『ダヴィデ王』の日本初演。(指揮、菅原明朗)
- 1952年:初来日したバリトン歌手ゲルハルト・ヒュッシュの「魔笛」。
- 1959年:6月6日、ヴェルディの『オテロ』より「柳の歌」、同志社大マンドリンクラブ、55回、創立50周年、大阪毎日ホール。(指揮、菅原明朗)
- 1977年:10月2日:「道づれ」、ヤマハ音楽振興会、つま恋エキジビションホール。
吹込み記録
表 吹込み記録 年月曲名共演作詞作曲会社 19299陽気な唄--時雨音羽佐々紅華Vic. 19319おしまの唄--畑喜代司池田不二男Par. 193110船唄------Par. 193110ボルガ行進曲中野耕之助----Par. 19321時雨に濡れた恋の歌------Par. 19321六さん節--サトウ・ハチロー松浦まことPol. 19323あたい一人ぢゃ淋しいの--平山みのる田中良三Pol.
19389私は一人物思い波岡惣一郎永井荷風菅原明朗Vic. 19389恋は破れた波岡惣一郎永井荷風菅原明朗Vic. 19389忘れもしません三年前波岡惣一郎永井荷風菅原明朗Vic. 19389どうぞこの身を波岡惣一郎永井荷風菅原明朗Vic.
- 会社の項の、Vic.は日本ヴィクター、Par.はパーロフォン、Pol.は日本ポリドール。
- 表の下4曲は、上記、永井荷風 - 菅原明朗のオペラ「葛飾情話」の中の唄で、
山野楽器のCD、「浅草オペラ 華ひらく大正浪漫」(YMCD-1056)(1998) に収録されている。
参考文献
- 永井荷風:断腸亭日乗(昭和13年以降)、岩波書店版
- 永井智子:歌劇「葛飾情話」上演まで、二、小屋の中から、(1963) 岩波書店、荷風全集月報10
- 秋庭太郎 考証永井荷風、(1966) 岩波書店
- 永井路子:インタビュー、母永井智子と荷風--オペラ「葛飾情話」に寄せて、「東京人」誌、No.152(2000.4) 都市出版社
外部リンク
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/03/24 01:12 UTC (変更履歴)
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