前田日明 : ウィキペディア(Wikipedia)

前田 日明(まえだ あきら、1959年〈昭和34年〉1月24日 - )は、大阪府大阪市大正区出身の格闘技プロモーター、YouTuber、元プロレスラー。在日韓国人三世として生まれ、その後日本に帰化した韓国系日本人である。韓国名は高 日明(コ・イルミョン、)。

元リングスCEO、元THE OUTSIDERプロデューサー。

来歴

少年時代

少年時代は特撮テレビドラマ『ウルトラマン』に熱中し、1967年4月9日に放送された最終話「さらばウルトラマン」の作中でウルトラマンがゼットンに倒されたシーンを見てショックを受け、ウルトラマンの仇を討つためにゼットンを倒そうと、少林寺拳法を習い始めた(小学生で初段を取得)。両親が離婚(後述)する前までは普通の生活をしていたが、両親は戦前生まれであったため食べ物を残すことには厳しく、前田の嫌いなニンジンやピーマンは無理にでも食べさせられた。

北陽高校時代は空手とオートバイに熱中した。オートバイは家庭をほったらかしにして家にあまり帰って来ない父親がいなくても食事にありつく手段に辿り着けるように、父親に無理を言って買わせた。空手は、当時の友人から「お前よりも強いやつがいる」として紹介された田中正悟前田よりも1歳年下だが、当時ある空手道場の支部長だった。に師事したほか、無想館拳心道館長の岩崎孝二から学んで二段を取得し、極真空手の大山倍達の弟子たちのようにアメリカで空手道場を開きたいという夢を持っていた。北陽高校の一学年先輩には岡田彰布がいた。大学受験に失敗し、アメリカに行く金を貯めようとアルバイトに明け暮れる佐々木徹『無冠 前田日明』集英社。職種は運送業の仕事を中心に行ったといい、たまに長距離トラックの助手となり、運転手に食事を奢ってもらうなどした。

新日本プロレス

1977年、新日本プロレスへ入門。入門の経緯については、前田本人が「田中正悟が夜中に公園で空手の練習をしていたところ佐山聡と出会い、その流れで佐山と1週間ほど共に練習をしていたところ、佐山から新間寿に話が行った」と語っている。前田はプロレスをやるつもりはなく新間に「ボクシングならやりたい」と語ったところ、新間から「モハメド・アリのジムと提携してるので、新日本のジムで体作りをしてアリのところでデビューすれば良い」と言われ、前田もその気になったという【前田日明氏コラム】「新日で体をつくってモハメド・アリのジムに入りなさい」 - 東京スポーツ・2022年9月3日。金を貯めなくてもアメリカに行け、ベニー・ユキーデと戦うこともできると考えていた。しかし実際には提携の事実はなく、新間が半ばだました形で入団をさせた(当時、ユキーデは新日本の主催興行に出場していたが、前田とは対戦する機会はなかった)。

入門して1ヶ月ほどで、アントニオ猪木の付き人だった佐山が『格闘技大戦争』出場に向けたトレーニングに専念するため、代わりとして猪木の付き人となった【前田日明氏コラム】初スパーで天下の猪木さんに「目突き」「金蹴り」 - 東京スポーツ・2022年9月5日。以後1年ほど、藤原喜明らとスパーリングを行う日々を過ごす。

1978年8月25日、長岡市厚生会館の山本小鉄戦でデビュー。デビュー戦は長岡大会当日の試合開始前のトレーニング中に、猪木から「本日デビューさせる」と直接告げられた。

若手時代当時の夏場の練習に関しては、当時冷房も無く室温が最高40度の高温に達する蔵前国技館、愛知県体育館、改装前の大阪府立体育館に適応できるように、47度か48度に達する密閉状態の道場でやらされたといい、しかも当時の時代柄上練習中の水分補給は禁止されていた。あまりに喉が渇くため、トイレの便器の水を飲もうかと迷う程であった。プロレス界の仕来りである1日2食のまとめ食いも、入門前は1日に5食から6食に小分けにして食べていた前田にとっては苦痛であったリングに革命を起こし続けた前田日明の「新日本プロレス時代の豪快すぎるメシ話」【レスラーめし】 メシ通 2018-04-03 (2020年3月18日閲覧)。入門半年が経過した頃、花見の席でミスター高橋が「お前らこれからなにかと酒を飲まなきゃいけなくなるから、酒癖が悪いかどうかチェックするぞ」と無理やり前田に酒を飲ませたが、前田は泥酔して包丁を持って暴れたという。

体格が大型であることから、新日本からは将来のエース候補として期待され、1982年2月に海外修行でイギリスへ渡り、「サミー・リー」(佐山聡)の弟というギミックのもと、クイック・キック・リーKwik-Kik Lee)のリングネームで活躍『THE WRESTLER BEST 1000』P143(1996年、日本スポーツ出版社)。1983年1月25日にはを破り、かつてはビル・ロビンソンやホースト・ホフマンも戴冠したヨーロッパ・ヘビー級王座を獲得。英国マットでは、マーク・ロコ、ピート・ロバーツ、パット・ローチ、フィット・フィンレイ、クラッシャー・ブラニガン、、とも対戦した。

1983年4月21日の凱旋帰国試合では、ポール・オーンドーフを相手にリバース・アームサルトにてピンフォール勝ちを収めた。5月開幕のIWGP決勝リーグ戦には「欧州代表」として、11月開幕の第4回MSGタッグ・リーグ戦には藤波辰巳とのタッグチームで出場した。IWGPではメキシコ代表のカネックとエンリケ・ベラからは勝利を収めたが、北米代表のアンドレ・ザ・ジャイアント、アメリカ代表のハルク・ホーガン、ビッグ・ジョン・スタッド、日本代表の猪木、キラー・カーン、ラッシャー木村には敗退した(同じ欧州代表のオットー・ワンツには不戦勝)。

凱旋当時は「七色のスープレックスを持つ男」と紹介され、相手をロープに飛ばしてのフライング・ニール・キックなど、ダイナミックな技で人気レスラーとなった。また、甘いマスクで女性ファンも多く、帰国した年のファンクラブの集まりでは女性が多かったことが週刊プロレスで報じられている。

若手時代、前田はジョージ高野に1勝35敗15分と大きく負け越しており、前田は「新日本プロレスの歴史上、最も素材が良く素質もあったのは間違いなくジョージ高野だ」と断言しているが、ジョージ高野は「新日本プロレスは強さを追求する大型の前田をエースにするべきだった」と述べているシュートマッチ プロレス「因縁」対談 10番勝負

第1次UWF

1984年2月29日の合同練習を最後に前田は新日本プロレスを離脱し、WWF会長でもある新間寿の仲介で3月より、WWFに遠征『Gスピリッツ Vol.32』P34-38(2014年、辰巳出版、ISBN 4777813304)。同月25日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてカナダのピエール・ラファエルを破り、新設されたWWFインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。ベルトには「UWF」の文字が中央に大きく施されており、その後、前田は第1次UWFへの移籍を表明した。なお、このWWF遠征における前田はベビーフェイスのポジションで、アイアン・シーク、レネ・グレイ、ワイルド・サモアンズ、ジェリー・バリアント、タイガー・チャン・リー、ミスター・フジ、デビッド・シュルツ、ジョージ・スティールなどのヒール勢と対戦し、トニー・アトラスやS・D・ジョーンズ、トニー・ガレアらとタッグを組む一方、ロッキー・ジョンソンやブライアン・ブレアーなど同じベビーフェイス陣営との試合ではヒールの役割を担った。また、新日本プロレスでの若手時代に世話になったロディ・パイパーや、前年の凱旋帰国時の対戦相手だったポール・オーンドーフとも再会して旧交を温めたという。アンドレ・ザ・ジャイアント、マスクド・スーパースター、サージェント・スローター、ジミー・スヌーカ、ティト・サンタナなどが参加したバトルロイヤルにも出場した。

UWF参加は理想や夢のためではなく、母親が怪我で入院したため移籍金が必要だったと前田は証言している山本小鉄・前田日明『日本魂』講談社。母親の件がなければ「試合の経験を積みたいと思っていたから藤波(辰爾)さんみたいに海外へ行っただろう」というが、結局「俺らの時代は "イエス" しかないから "UWFに行け" と言われたら行くしかない」として入団を決めた。また前田は、猪木が当時アントン・ハイセル事業の失敗で抱えていた多額の借金返済に付き添っていたため、猪木側の資金繰り事情も知っており、後にそれを踏まえ「そこで苦労してる姿も目撃してるから "まあまあ" ってね」とも語っている【前田日明氏コラム】表向きは猪木さんを裏切ってUWF結成 - 東京スポーツ・2022年9月9日。

UWFでは若きエースとして迎えられ、4月11日に開幕したオープニング・シリーズでは、旗揚げ戦のメインイベントでダッチ・マンテルに勝利。最終戦の蔵前国技館大会では、当時まだ新日本プロレスに所属していた藤原喜明と流血戦を演じた(裁定は両者KO)。その後、UWFは佐山聡の影響によりキックと関節技を中心とした格闘技色の濃いプロレススタイル(後にUWFスタイルと呼ばれる)に移行するが、「格闘技の試合は月に一度」と言う“競技志向”の佐山と「会社が大変なんだから試合を増やそう」という“興行志向”の前田が対立し、佐山は退団、後にUWFは解散。後の第2次UWFやリングスでは、佐山の提唱していた「試合は月に一度」という形を踏襲しているが、この点について前田は後に「第1次の時は信用もないし、協力者もいないし、カネもないし、観客動員もなかった。やりたくてもできなかった」「新生UWFはニッポン放送とマザーエンタープライズが応援してくれたから」と語っており、周辺環境が異なることを指摘している【前田日明氏コラム】第2次UWF旗揚げも早い段階から問題が… - 東京スポーツ・2022年9月20日。

新日本プロレス提携時代

1985年12月6日、藤原、木戸修、高田伸彦、山崎一夫らと共に業務提携という形で新日本プロレスに復帰。前田はリング上で「1年半UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」とマイクアピールを行った。

1986年1月3日に開幕した「ニューイヤーダッシュ'86」でアントニオ猪木への挑戦権を賭けUWF所属選手総当たりの「UWF代表者決定リーグ戦」を開催。2月5日大阪城ホールでリーグ戦同点の藤原喜明と対戦し延長戦の末、足固めで敗れ猪木への挑戦権を逃した。翌2月6日、両国国技館で行われた猪木vs藤原戦の終了直後リングに雪崩込み猪木を蹴撃、3月26日東京体育館において前田と猪木の一騎打ちが発表されるも中止になり、新日本vsUWFの5対5イリミネーションマッチとなった。

新日本再上陸直後は力抜山や星野勘太郎などの中堅レスラーを蹴りと関節技で蹂躙し、UWFの脅威を植え付けた。ロープワークを拒み従来のプロレスの技を受けないUWFのスタイルと新日本スタイルのかみ合わない試合が独特の緊張感をもたらし、格闘技的雰囲気が濃くなった。かつて格闘技世界一と呼ばれた猪木との対戦が待望されたが、復帰後にシングルマッチで実現することはなかった。

1986年4月29日、三重県津市体育館において新日本サイドの不可解なマッチメイクで、アンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。セメントマッチだと言われているが、最後はアンドレが試合を放棄してしまい、26分35秒ノーコンテストに終わる。復帰後の新日本プロレスではディック・マードックとの対戦が23回と対外国人では最多、日本人選手では越中詩郎が34回、木村健吾が33回、上田馬之助が29回。

1986年10月9日、両国国技館で行われた「INOKI 闘魂 LIVE」における異種格闘技戦で、ドン・中矢・ニールセンを逆片エビ固めでギブアップを奪い勝利。この試合を期に「新格闘王」と呼ばれ、プロレス界以外からも注目を浴びるようになった。この試合について、後年、ニールセンは「ここはこうやって、その次はこう、と流れを決めたわけではなかった。でも、ボクが言われたのは“試合を盛り上げてくれ”ということ。そして、1Rにいいパンチが入ったのに、セコンドに“アーリーノックアウトはダメだ”って言われた」と、プロレス雑誌『kamipro』で証言した。

1987年11月19日、後楽園ホールにおけるUWF軍対維新軍の6人タッグマッチにおいて、木戸にスコーピオン・デスロックをかけていた長州力の背後から正面へ回り込み、長州の顔面をキック(敵の固め技から味方を救う同様の攻撃はカットまたはセーブと呼ばれる)、長州に右前頭洞底骨折、全治1か月の重傷を負わせた(長州vs前田 顔面蹴撃事件。前田本人は「長州さんに蹴りを入れる前に肩を叩き ”今から蹴りますよ” と合図を送ったが肩を叩かれた長州さんが横を向いてしまった」「事件ではなく事故」と語っている)。このことを理由に、新日本プロレスは前田に無期限出場停止の処分を下す。その後、出場停止解除の条件として、メキシコ遠征することを指示されたが、それを拒否したことにより1988年2月1日に新日本プロレスからプロレス道にもとる行為を理由に解雇される。後に前田は、プロレス雑誌「Gスピリッツ」におけるインタビューで、全日本プロレスでの天龍・輪島戦の衝撃に対抗するため顔面蹴りを試みたところ、長州が顔を逸らしてしまったためにアクシデントに至ってしまったと証言している(和解済み)。また当時マッチメイカーであり、またこの試合でレフェリーを務めていたミスター高橋によれば、セーブとしては激しい攻撃でありまた当たり所も悪く、「プロレスでやってはいけない攻撃」ではあり、長州の怪我の状態が深刻であること、および長州がリング上での報復を意図していた事を鑑み予定を変えその場で試合終了とした。高橋によればこのように、強力な攻撃が急所に入ってしまう事故は珍しいものではなく、通常は後に謝罪すれば収まるものであるのだが、そこを猪木が(危険な攻撃は)「プロレス道にもとる」として追放処分にしてしまった判断は、「プロレスとは相手に怪我をさせないように執り行う物である」と言ったようなものだと疑問視し、むしろ遺恨試合というアングルに繋げるべきではなかったかと指摘している。しかし、実際に前田を追放したのは長州派閥であり、猪木は前田を伴って座禅を組みに行く等離脱前に関係は修復されていた。高橋によればほとんどの選手が「あれを言ってはおしまいだ」などと同様の指摘を行っていたという。なお高橋によれば、長州は網膜剥離を起こし長期欠場。引退も危惧される状態であったという。また、猪木は前田を危険分子として見ていたのではないかとも指摘している。。

第2次UWF

第2次UWFは、1988年5月12日に後楽園ホールにて「STARTING OVER」と銘打ち旗揚げ戦を行った。当時、創刊されたばかりの格闘技通信は「プロレスという言葉が嫌いな人この指とまれ」と、前田を表紙に抜擢した。

その後、前田とUWF社長の神新二との間で、神社長の会社の株式の無断の独占問題と不明朗な経理で問題が発生。1990年10月、前田は船木誠勝戦直後に、フロントを非難。これを受けたフロントは前田を出場停止処分とする。この一連の前田とフロントとの確執は前田と所属選手間にも波及。翌1991年初頭に、前田は自宅マンションに選手を招集し団体の存続性を探ろうとしたが、「前田さんの言う事だけを一方的に信用するのは不可能。」(宮戸優光)、「なんか強制されてるみたいで嫌だなぁ・・・。」(安生洋二)、などの不協和音も飛び出し、話し合いは紛糾。やむを得ず前田は解散を宣言し、第二次UWFは隆盛を極めながらも、活動期間僅か2年8ケ月という短い歴史にピリオドを打った。

リングス

リングス設立

第2次UWF解散後の1991年春、リングスを設立。同年5月11日に横浜アリーナで旗揚げ戦を行った。リングスの興行はWOWOWで生放送された。さらには、UWF時代の人脈からオランダのクリス・ドールマンの全面協力を得ることになった。正道会館からは、石井和義館長が佐竹雅昭ら空手家をリングスに派遣した。石井館長はリングス参戦によって大型興行のノウハウを蓄積しそれが後のK-1の飛躍へとつながった。

前十字靭帯の断裂、側副靭帯損傷

旗揚げ第2戦前の練習で、前田は前十字靭帯断裂、側副靭帯の重傷を負った。その後しばらくはニーブレスをつけて強行出場を続けるが、最終的には手術を行い長期欠場となった。エース不在の興行的な穴はディック・フライ、ヴォルク・ハン、高阪剛、田村潔司、山本宜久、長井満也、成瀬昌由らが埋めることになる。この頃、リングスは旗揚げ当初より続いた外国人頼りのカードから脱却する。

KOKルールの採用

1993年から始まったUFCの影響を受けて、1999年からリングスもバーリトゥードに近い完全な真剣勝負であるKOKルールを採用した。KOKルールは、グラウンド状態での顔面への打撃は禁止であったが、スタンド状態での顔面打撃を認めた画期的なルールであった。また、従来の(一部の特別な試合を除く)リングスの試合とは異なり完全な総合格闘技の試合形式で行われた。佐山は初期の修斗ルールと同じと言っていたが、グラウンドでの腹部・腰部・足部への打撃有無の違いがある。

ヒクソン・グレイシーとの対戦宣言

1997年に開催されたPRIDE.1では、高田延彦がヒクソン・グレイシーに敗北。これを機に、前田はヒクソンとの対戦を宣言し交渉を進めるが、ヒクソン側が高田延彦との試合を決めたため、実現することはなかったと1998年に前田が記者会見を開き説明した。

リングス活動停止

1999年2月21日、前田の引退試合としてアレクサンダー・カレリンと対戦し、判定(ポイント)負け。しかしながら、ロシアの英雄であるカレリンをレスリング以外の場に唯一立たせた意義は大きい。カレリンとの引退試合は民放のニュース番組で特集されるほど、世間から注目されていた。後に前田は、引退試合の相手にカレリンを選んだ理由について「本当に強い人間っていうのは、こういうことだよっていうのを証明したかった」と語っている。週刊プロレス 2010年11月10日号。

WOWOWによる次年度よりの放映打ち切り決定により、2002年にリングスは活動停止。しかし、リトアニア、オランダ、ロシアでは大会は継続され、日本国内でもリングス出身スタッフが運営し、リングスKOKルールを採用した格闘技イベントZSTが開催されている。

ビッグマウス(ビッグマウス・ラウド)

2005年、元新日本プロレスの上井文彦に請われ、上井が旗揚げした新プロレスイベントビッグマウスにスーパーバイザーとして参画。同時に、船木誠勝と和解。

2006年2月26日、新生ビッグマウス・ラウド旗揚げ記念大会・徳島興行で、前田は船木と共にビッグマウス・ラウドを脱退。上井による会社資金の横領の露見、それによる資金難による団体所属選手および社員の給与未払い、道場を用意しようとしなかった等、上井の資金の使い込みをめぐる確執が脱退理由であった。

HERO'S

ビッグマウスとK-1との提携で、「HERO'S」(総合格闘技イベント)発足時より「スーパーバイザー」として参加。同興行の看板役の他に、試合ルールの運用、選手発掘などを行う。しばしば記者会見等の公の場に姿を現した。

2007年10月5日、「HERO'S KOREA 2007」の開催発表記者会見に出席。前日10月4日にPRIDE事務所が閉鎖され活動停止となったことに関し「天網恢々粗にして漏らさず」と発言。同日深夜、HERO'S公式サイトで谷川貞治が「不適切な発言」と謝罪文を掲載する事態となったHERO'S 前田日明氏の発言に対する謝罪 HERO'S公式サイト 2007年10月5日(2007年10月11日時点のアーカイブ)。

同年12月31日、「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」で田村潔司vs所英男の試合後のリング上にプレゼンターとして登場。勝利者賞のトロフィーを田村に放り投げるように押しつけるトラブルを起こしたHERO'S 「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」第6試合 スポーツナビ(2008年1月3日時点のアーカイブ)。

2008年2月15日、「THE OUTSIDER」(後述)の記者会見を開き、HERO'Sの発展的解消に伴い同イベントのスーパーバイザーを降板したことが発表された。それまで確執が取り沙汰されていた旧PRIDEとHERO'Sとの連立イベントDREAMについては「めでたいこと」と述べた前田日明氏がSV降板、アマMMA大会「THE OUTSIDER」開催へ スポーツナビ 2008年2月15日(2008年2月21日時点のアーカイブ)。

THE OUTSIDER

2008年1月21日、RINGS公式サイトで、いわゆる「不良」を主な対象としたアマチュアの格闘技大会「THE OUTSIDER」の立ち上げを発表し「ジョーがいたら俺が段平になる」前田が総合格闘技のアマチュアを確立する! angle JAPAN 2008年1月15日THE OUTSIDER 参加者募集 RINGS公式サイト 2008年1月21日(2008年2月18日時点のアーカイブ)、3月30日にディファ有明において旗揚げ大会を開催した第1回THE OUTSIDERを、前田CEOは「70点」「(乱闘の数は)想定以下」と評価 angle JAPAN 2008年3月31日。

タイトル歴

  • ヨーロッパ・ヘビー級王座
  • UWFヘビー級王座(初代)
  • IWGPタッグ王座(パートナーは第2代:木戸修、第5代:高田延彦)
  • リングス バトルディメンション・トーナメント'93 優勝
  • リングス メガバトル・トーナメント1995 優勝

得意技

キャプチュード

キャプチュード(Captured:捕獲投げ)は前田が開発した変形のフロント・スープレックス。相手のキックをキャッチし、腕と片足をフックして後ろに反り投げる。投げた後そのままピンフォールが出来る。落とす角度によっては相手を脳天から落とす事も出来る。技の名は入場テーマ曲のタイトル(『CAPTURED』)に由来(それ以前は「アキラ・スペシャル」と称されていた)。

各種スープレックス

イギリス修行から凱旋した当時は「七色のスープレックスを持つ男」とリングアナウンサーの古舘伊知郎が紹介した。実際には、ジャーマン・スープレックス・ホールド、ドラゴン・スープレックス・ホールド、リバース・アームサルト、ダブルリストアームサルト、ウンターグルフ・サルト、リバース・サルト、スロイダー、ハーフハッチ、サルト、ダブルアームロック・サルト、クォーターネルソン・サルト、デアポート・スロイダーの12種類を使用していた。またタイガー・スープレックスも1986年11月21日に行われたケンドー・ナガサキ戦で披露している。

各種関節技
トーチャロイド

縦四方固からの肩関節技。両腕で相手の頭部の後ろで相手の両上腕部を抱え相手の両肩、首を極める。

V2アームロック

V2アームロックは前田が考案した変形の袈裟固め。デアポートスロイダーで相手をマットに叩きつけ、そのまま両腕を離さず相手の腕関節と首を極めて絞り上げるサブミッション・ホールド。別名ピローアームロック

各種キック

藤波辰爾は「橋本のキックや蹴りは、ある程度リーチが分かり距離が取れるけど、前田のキックや蹴りは、膝下が勢いよく伸びるため、距離が取れず避け難い」と語っている。

フライング・ニールキック

前田独特の軌道を描くニールキック(スタン・ハンセンのラリアットを足でという発想から生まれたと言われている)。横にひねりを加えつつジャンプし、踵を相手の顔面や胸元に当てる。

大車輪キック

縦回転で放たれるニールキック。足の長い前田が使用するのが「大車輪」の由来。藤波辰爾を大流血に追い込んだこともある(藤波を流血に追い込んだ時はコーナーに追い詰めてから「直角蹴り」(膝への前蹴り)からのコンビネーション)。また、藤波の額には前田の大車輪キックで負った傷が未だに残っている 『藤波辰巳vs前田日明』の大流血試合を船木誠勝はどう見たのか? 当時、藤波のセコンドについた船木誠勝の証言。

ジャンピング・ニー・バット

ジャンピング・ニー・バットは新日での凱旋帰国後、坂口征二とタッグの際に多用。これは、対戦相手として多く組まれた外人選手がニールキックを受けるのを嫌ったことに起因する。

膝蹴り

膝蹴りは首相撲から相手の腹部や顔面に膝蹴りを叩きこむ。繋ぎで使うことが多い。新生UWF時代に田村潔司を長期欠場(眼底骨折)に追い込んだのもこの技である。

戦績

第1次UWF

旧UWF(1984年4月~1985年9月2日)
勝敗 対戦相手 試合結果 会場  開催年月日  備考
1984年4月11日
1984年4月12日
1984年4月14日
1984年4月16日
1984年4月17日
1984年7月23日
1984年7月24日1984年8月29日
1984年8月30日
1984年8月31日
1984年9月2日
1984年9月4日
1984年9月5日
1984年9月7日
1984年9月8日
1984年9月10日
1984年9月11日
1984年10月5日
1984年10月6日
1984年10月9日
1984年10月10日
1984年10月11日
1984年10月13日
1984年10月14日
1984年10月17日
1984年10月19日
1984年10月20日
1984年10月22日
1984年10月24日
1984年10月25日
1984年11月15日
1984年11月17日
1984年11月20日
1984年11月21日
1984年11月23日
1984年11月24日
1984年11月28日
1984年11月29日
1984年12月4日
1984年12月5日
1985年1月7日
1985年1月8日
1985年1月10日
1985年1月11日
1985年1月13日
1985年1月15日
1985年1月16日
1985年1月17日
1985年1月20日
1985年2月18日
1985年2月20日
1985年2月22日
1985年2月23日
1985年2月24日
1985年2月26日
1985年2月28日
1985年3月2日
1985年3月3日
1985年4月6日
1985年4月8日
1985年4月12日
1985年4月14日
1985年4月16日
1985年4月17日
1985年4月18日
1985年4月20日
1985年4月23日
1985年4月24日
1985年4月26日
1985年5月18日
1985年7月8日
1985年7月13日
1985年7月17日
1985年7月21日
1985年7月25日
1985年8月25日
1985年8月29日
1985年9月2日

UWFと新日本プロレスの業務提携時代

新日業務提携時代(1986年1月3日~1987年11月19日)
勝敗 対戦相手 試合結果 会場  開催年月日  備考
1986年1月3日
1986年1月8日
1986年1月10日
1986年1月14日
1986年1月15日
1986年1月16日
1986年1月18日
1986年1月20日
1986年1月22日
1986年1月24日
1986年1月26日
1986年1月31日
1986年2月2日
1986年2月3日
1986年2月5日
1986年2月28日
1986年3月1日
1986年3月3日
1986年3月4日
1986年3月5日
1986年3月7日
1986年3月8日
1986年3月10日
1986年3月12日
1986年3月13日
1986年3月14日
1986年3月15日
1986年3月17日
1986年3月19日
1986年3月20日
1986年3月21日
1986年3月22日
1986年3月23日
1986年3月24日
1986年3月26日
1986年4月11日
1986年4月13日
1986年4月15日
1986年4月16日
1986年4月17日
1986年4月18日
1986年4月19日
1986年4月20日
1986年4月21日
1986年4月22日
1986年4月24日
1986年4月25日
1986年4月26日
1986年4月27日
1986年4月29日不穏試合
1986年4月30日
1986年5月1日
1986年5月16日
1986年5月17日
1986年5月16日
1986年5月19日
1986年5月21日
1986年5月22日
1986年5月23日
1986年5月24日
1986年5月25日
1986年5月26日
1986年5月27日
1986年5月29日
1986年5月30日
1986年5月31日1986年6月1日
1986年6月2日
1986年6月3日
1986年6月4日
1986年6月6日1986年6月7日1986年6月8日1986年6月9日
1986年6月10日
1986年6月11日
1986年6月12日1986年6月13日
1986年6月14日
1986年6月15日1986年6月17日
1986年6月18日1986年6月19日
1986年6月20日1986年7月4日
1986年7月5日
1986年7月8日
1986年7月9日1986年7月10日
1986年7月11日
1986年7月14日
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1986年7月16日
1986年7月18日
1986年7月19日
1986年7月20日1986年7月22日
1986年7月23日
1986年7月24日
1986年7月25日
1986年7月26日
1986年7月27日1986年7月29日
1986年7月27日1986年7月31日
1986年8月1日
1986年8月2日
1986年8月3日
1986年8月4日
1986年8月5日
1986年8月7日
1986年8月29日
1986年8月31日
1986年9月1日
1986年9月2日
1986年9月4日
1986年9月5日
1986年9月7日
1986年9月8日
1986年9月9日
1986年9月10日
1986年9月11日
1986年9月12日
1986年9月13日
1986年9月15日
1986年9月16日
1986年9月18日
1986年9月19日
1986年9月20日
1986年9月23日
1986年9月24日
1986年9月25日
1986年10月9日
1986年11月14日
1986年11月15日
1986年11月16日
1986年11月17日
1986年11月18日
1986年11月20日
1986年11月21日
1986年11月22日
1986年11月24日
1986年11月25日
1986年11月26日
1986年11月27日
1986年11月28日
1986年11月29日
1986年12月1日
1986年12月2日
1986年12月3日
1986年12月4日
1986年12月6日
1986年12月7日
1986年12月8日
1986年12月9日
1986年12月10日
1986年12月11日
1986年12月11日優勝戦
1987年1月2日
1987年1月3日
1987年1月4日
1987年1月5日
1987年1月6日
1987年1月7日
1987年1月9日
1987年1月10日
1987年1月12日
1987年1月13日
1987年1月16日
1987年1月17日
1987年1月19日
1987年1月20日
1987年1月21日
1987年1月22日
1987年1月23日
1987年1月24日
1987年1月25日
1987年1月26日
1987年1月28日
1987年1月29日
1987年1月30日
1987年2月2日
1987年2月4日
1987年2月5日
1987年2月23日
1987年2月24日
1987年2月25日
1987年2月27日
1987年2月28日
1987年3月1日
1987年3月2日
1987年3月4日
1987年3月5日
1987年3月6日
1987年3月7日
1987年3月8日
1987年3月9日
1987年3月11日
1987年3月12日
1987年3月14日
1987年3月15日
1987年3月16日
1987年3月18日
1987年3月19日
1987年3月20日
1987年3月26日
1987年4月6日
1987年4月7日
1987年4月8日
1987年4月11日
1987年4月13日
1987年4月14日
1987年4月15日
1987年4月16日
1987年4月17日
1987年4月18日
1987年4月20日新日復帰初フォール負け
1987年4月21日
1987年4月22日
1987年4月23日
1987年4月24日
1987年4月25日
1987年4月26日
1987年4月27日
1987年5月11日IWGPヘビー級王者決定リーグ戦
1987年5月13日
1987年5月14日
1987年5月15日
1987年5月16日
1987年5月16日IWGPヘビー級王者決定リーグ戦
1987年5月24日IWGPヘビー級王者決定リーグ戦1987年5月25日
1987年5月27日IWGPヘビー級王者決定リーグ戦
1987年6月4日IWGPヘビー級王者決定リーグ戦
1987年6月29日
1987年7月1日
1987年月3日
1987年7月4日
1987年7月6日
1987年7月7日
1987年7月8日
1987年7月11日
1987年7月12日
1987年7月13日
1987年7月14日
1987年7月15日
1987年7月16日
1987年7月17日
1987年7月18日
1987年7月20日
1987年7月21日
1987年7月22日
1987年7月23日
1987年7月24日
1987年7月25日
1987年7月26日
1987年7月27日
1987年7月29日
1987年7月30日
1987年7月31日
1987年8月1日
1987年8月2日
1987年8月19日
1987年8月20日
1987年8月24日
1987年8月25日
1987年8月26日
1987年8月27日
1987年8月28日
1987年8月29日UWF自主興行
1987年8月30日
1987年9月1日
1987年9月3日
1987年9月4日
1987年9月5日
1987年9月6日
1987年9月7日
1987年9月9日
1987年9月10日
1987年9月11日
1987年9月12日
1987年9月13日
1987年9月14日
1987年9月16日
1987年9月17日
1987年9月18日
1987年9月19日
1987年9月20日
1987年10月6日
1987年11月12日
1987年11月13日
1987年11月14日ジャパンカップ公式戦
1987年11月16日ジャパンカップ公式戦
1987年11月17日ジャパンカップ公式戦
1987年11月18日
1987年11月19日新日本最終試合

第2次UWF

新生UWF(1988年5月12日~1990年10月25日)
勝敗 対戦相手 試合結果 会場 開催年月日  |備考
異種格闘技戦
異種格闘技戦
異種格闘技戦

リングス

RINGS(1991年5月11日~1999年2月21日)
勝敗 対戦相手 試合結果 会場 開催年月日  |備考
メガバトルT1992 1回戦
メガバトルT1992 2回戦
メガバトルT1992 準決勝
メガバトルT1992 3位決定戦
バトルディメンションT1993 1回戦
バトルディメンションT1993 2回戦
バトルディメンションT1993 準決勝
バトルディメンションT1993 決勝
メガバトルT1994 3回戦
メガバトルT1994 準決勝
メガバトルT1994 決勝
メガバトルT1995 2回戦
メガバトルT1995 準決勝
メガバトルT1995 決勝
ワールド・メガバトルT1997 1回戦
ワールド・メガバトルT1997 2回戦
ワールド・メガバトルT1997 準決勝
ワールド・メガバトルT1997 3位決定戦
リングスラストマッチ
引退試合

人物

  • 2006年12月、15年来の親友であったフリーカメラマンの女性と入籍した(2007年3月3日に自身のブログで発表)。2007年5月には長男が誕生。2009年1月17日に結婚披露宴を行った。
  • 現役引退後に自身が在日韓国人三世(韓国名:高 日明)であることを公にした。後に韓国訪問での体験などを経て帰化を決意。1983年に日本に帰化申請を行い、翌年受理された。
  • 中学生の時に両親が離婚。父親について行き兵庫から大阪に引っ越したが、父親は二ヶ月に一度くらいしか家に帰らず、前田は貧困と孤独と一階の町工場からの騒音と煙に苦しめられた。当時の趣味は大日本帝国軍に関する戦記を読む事で、中学校卒業後に自衛官かタンカーの船員になろうと考えたが、自衛隊も高等専門学校も日本人である事が応募資格であり、先述の事情から諦めざるを得なかった。
  • 父は終戦直後の19歳くらいの頃、買い出しに行った帰りの列車で連結部分に掴まり、それを起因とした事故で左腕が不自由になっていた。父は前田が中学3年生になったあたりから日本人の家庭とは別に持っていた韓国人の家庭へ出かけていたという。父は左腕が不自由であったがその分右腕を鍛えていたため腕っ節が強く、空手を習い始めていた中学時代の前田の70 kgの体を右腕一本で吊り上げ、組手でも前田は勝てなかったという。後年の前田の分析によると前田の父親は「発達障害の元祖」とのことであり、常識的なコミュニケーションを知らない人物であった東邦出版『KAMINOGE』vol.85 pp.65-66。
  • 自分のことを「引きこもりが社会問題化する前から引きこもり的な要素があった」と2019年のインタビューで分析を披露しており、自分の家も家から出なくても何でもできるように調整されているという東邦出版『KAMINOGE』vol.85 pp.64-65。
  • 自身をストリートファイトで1万戦無敗と称している『週刊ゴング』1999年11月25日号。
  • 新日本デビュー当時のリングネームは「前田明」であったが、旧UWF旗揚げ時にリングネームを本名の「日明」に改名した。祖父への思いから「前田日明」に改名したと、後に「週刊プレイボーイ」で語っている。また、リングネームを本名に改名した当時の週刊プロレスの巻末クイズには、「Q.前田日明の日はどういう意味? A.日本という意味」と記載されている。
  • 1987年7月には極真会館の空手道選手・松井章圭と巻頭対談が『ゴング格闘技』八月号誌上で行われ、彼らは極真会館の空手家でキックボクサーの山崎照朝から直接指導受けたときの体験を語り合い、前田は山崎の人柄や指導内容を尊敬していると語っていた。
  • 若手時代、最も負けたくなかったライバルは、同期のジョージ高野。当時の前田は対ジョージ戦には大きく負け越しており、「ちきしょー、どうやったらジョージに勝てるんだろう」と思って練習していた。また前田は「新日本プロレス史上、最も素材がよく、最も素質があったのは間違いなくジョージ高野」と断言している。
  • 近年の若手レスラーに対しては批判的なスタンスをとることが多いが、KENTA(のちのヒデオ・イタミ)だけはその反骨的なスタイルが気に入ったのか、高い評価を与えている(月刊Gスピリッツ Vol.3より)。
  • 『ウルトラマン』がゼットンに倒された事が格闘技を始めるきっかけとなったが、2014年1月29日のニコニコ生放送で行われた「ウルトラマン Blu-ray BOX III」発売記念番組にてゼットンとの対決が実現している前田日明、ウルトラマンの敵討ち!宿敵ゼットンを打ちのめす! シネマトゥデイ 2014年1月29日。
  • 前述の少年時代にケンカに明け暮れていた頃、下位の力士に喧嘩を売ろうとしてたら当時横綱だった輪島大士に遭遇した、遠目で見ていてもあまりにも凄い威圧感を受けたためたじろいでしまった、後に輪島がプロレス転向した際は複雑な心境だったとのこと(その当時すでに前田はトップレスラーだったため)自叙伝『パワー・オブ・ドリーム』より。。
  • ダイナマイト・キッドが死去した際、キッドを苦しめたアナボリックステロイドなどの薬物の害について「新日は選手のケアがしっかりしていたからともかく、1970年代のアメリカやカナダのレスリング界なら試合に穴を開けたら使ってもらえなくなり何の保証もないため、もしアメリカやカナダで活動していたなら俺も薬物を使用していたかもしれない」と語り、キッドに同情を寄せていた。また、1970年代のアメリカやカナダのレスラーにおける薬物事情に関して「当時のレスラーの中ではアンフェタミンが流行していたが、使用すると眠れなくなるので睡眠薬を飲み、起きられなくなるのでまたアンフェタミンを使用する」「1回1錠の痛み止めを手に山盛りにしてビールと一緒に飲む選手もいた」と証言した。当時のアメリカやカナダのレスラーはレンタカーを1000kmから1500kmの距離走らせて会場から会場へ移動するのが日常茶飯事で、食事もジャンクフード中心であったため、薬物を使用しないと筋肉が育たないのは当然であったと述べている。その点日本でプロレスをやっていて精神を病むことは無いと話しており、もし日本でやって精神を病むのであればその者はプロレスに向いていないということであるとしている東邦出版『KAMINOGE』vol.85 pp.61-62。
  • 若手時代の食生活は豪勢でありながら量が物凄かったといい、ある時外食に行くと満漢全席を1日で食べさせられたと本人が話していた。またある時は勝新太郎小林旭に100万円もの食事を1度に奢ってもらった。
  • 新弟子時代はあまり酒が強くなかったが、道場のレスラーや琴ヶ梅、益荒雄などの飲み仲間に鍛えられ、海外遠征から帰った頃には飲めるようになった。1991年にロシアに選手を探しに行った時、現地のレスラーから「倒れなかったのはアントニオ猪木と前田だけだ」と評されるほどの酒豪ぶりを見せたが、メタノールの果実酒を勧められたのは断った。
  • 2021年9月9日、8月に新型コロナウイルスに感染し、肺炎を発症して入院治療を受けていたことを公表した。
  • 2024年、プロレスリング・ノアの道場で25年ぶりにリング復帰。丸藤正道と1分1本勝負が実現した。

政治

2009年12月28日に2010年夏の参議院比例代表に民主党公認で出馬予定だったが、2010年3月3日には第1次公認候補が見送られ、同年3月21日には出馬辞退の意向が伝えられている。理由としては、外国人参政権について本人は反対しており民主党との意見の違いがあったほか、党の出馬時の金銭的支援についての食い違いがあったという。また前田側は党の姿勢と石井一選対委員長に対し激怒した場面もあったとされる。

その後、民主党と連立与党を組む国民新党が前田と接触を持ち、参議院東京都選挙区に同党公認候補として擁立する方針を打ち出す。しかし、東京都選挙区からの立候補を望む同党と、比例区からの出馬を希望する前田との意思は合致せず、結果、同党からの出馬もなかった。

趣味

  • 釣り - 釣りのために小型船舶も所有している。
  • 読書 - ポルノから哲学、戦記物まで読むというほど読書好き。特に太宰治や、孔子の論語に傾倒し、第二次UWFを旗揚げした際に「選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり」という、太宰治が「」(『晩年』所収)で引用したポール・ヴェルレーヌの「叡智(Sagesse)」の言葉を、孫引きした挨拶を行っている。また、作家の山田詠美とも交流がある。
  • 日本刀の収集・研究。日本刀は50振以上所有している。また、日本刀に限らず、骨董品を見て回るのが好き(『オーラの泉』に出演したときに発言)。
  • 航空機が好きで、結婚した際「子供はパイロットにしたい」とコメントしている【HERO'S】新婚の前田日明SV「息子にはパイロットになって欲しい」 格闘技ウェブマガジンGBR 2007年3月8日。夢は零式艦上戦闘機で太平洋を横断することと語っている。テレビ番組「所萬遊記」で、所ジョージに「一緒にムスタングに乗りましょう」と誘っている。また、元帝国海軍中尉でエースパイロットの坂井三郎を慕っており、対談もおこなった。また富士通AirWarriorからフライトシミュレーターも続けている。2010年まではFighter Aceプレイヤーだったがサービスが終了してしまった。
  • 熱烈なMacintosh信者(エバンジェリスト)。数十MBが主流の時代に1,000MBを超えるメモリーを搭載したMacを使っており、Mac専門誌で取材されたことも有る。
  • サバイバルゲーム - M4カービンのカスタム等、複数の銃を所有し装備や銃等、本気モード全開で楽しんでいる模様。銃や装備は、本人がショップまで出向き、米軍放出品等こだわりを持って購入している。ゲームフィールドが開催する定例会等にも、THE OUTSIDERの選手や複数の関係者らと参加していることがあり、一緒にゲームを楽しめたりすることもある。
  • パイプタバコと葉巻が好きである。
  • 無類のニンニク好き。自身のユーチューブチャンネルの料理動画でも大量のニンニクを使用している。

トラブル

  • 2000年5月、パンクラス社長だった尾崎允実(尾崎正実)が、リングスに出場していた外国人選手とホテルロビーの喫茶スペースで談話していたのを発見し、これを引き抜き工作と判断。尾崎の胸倉を掴み、その際に尾崎がかすり傷を負ったとして傷害罪で起訴された。前田は暴行の事実を否定し無罪を主張し、事件の際に尾崎と談話していたジェレミー・ホーンは「リングスに招聘されている時に、尾崎が連絡をよこしパンクラスへの参戦に興味はないかと聞いてきた。でもそれは日本の文化ではずるいやり方なんだ。前田は怒っていたよ。でも、彼は尾崎の肩を掴んで揺すっていたけど、弟の襟首を掴んでるような感じで暴力はふるっていなかった。だから前田が提訴されたという話を聞いて、僕は日本に飛んで彼の為に法廷で証言したのさ」と語ったExclusive: Jeremy Horn on Japan, Bellator and the UFC が、東京地方裁判所の山室恵裁判長は「粗暴で悪質な犯行だが衝動的なものだった」として、2003年4月22日に25万円の罰金刑を言い渡したリングスの前田日明社長に傷害罪で25万円の罰金刑判決 asahi.com 2003年4月22日。その後、この事件とそれに絡む発言で民事提訴され、2002年6月7日に東京地方裁判所は前田に約155万円の支払いを命じた前田日明さんに賠償命令/暴行と名誉棄損で150万 四国新聞社 2002年6月7日。2003年1月22日に東京高等裁判所は前田の控訴を棄却前田日明の控訴棄却、155万円支払い命令 日刊スポーツ 2003年1月22日。
  • 1994年10月に開催された極真空手第26回全日本大会に前田が来賓として出席。そこに居合わせた『フルコンタクトKARATE』編集長・山田英司を会場の女子便所内の個室に連れ込んだ『kamipro』No.146。山田英司インタビュー。当時、山田はリングスを真剣勝負と八百長混在のプロレス、また前田と友好関係にあった正道会館を八百長と批判していた山田英司「前田日明を全否定せよ」『別冊宝島EX 格闘技死闘読本 「最強」を求めた愚か者たちの、荒ぶる魂の伝説!』宝島社、1994年、p.179。事件後、山田は「掌底をスウェーでよけた」「ヒザ蹴りをヒジで受けた」と格闘技経験が功を奏した旨を語ったが『U.W.F.変態新書』エンターブレイン、2008年、p.171吉田豪『吉田豪のセメント!!スーパースター列伝』エンターブレイン、2006年、p.318、それに対し前田は「スウェーでかわした? なんなら、裁判官立会いで再現したろか」とコメントした。
  • 1994年にリングスとUWFインターナショナルとの対抗戦1994年に現金1億円と当時のメジャー5団体のエース(橋本真也、三沢光晴、天龍源一郎前田日明船木誠勝)への招待状を用意して記者会見を開き「プロレスリング・ワールドトーナメント」の開催を突如発表。唯一前向きな反応を示した前田がリングス対Uインターの対抗戦を逆提案したが、これに対して宮戸優光がリングスの参戦外国人選手を指して「どこの馬の骨ともわからない選手を参加させるわけにいかない」、「出てほしいのは前田のみ」といった反論を展開。前田も「お前(宮戸)こそどこの馬の骨だって話」などとやり返してマスコミを通じた舌戦に発展。さらには安生洋二も前田に対して「UWFで終わった人間」、「200%勝てる」などと発言して最終的に前田に対して法的手段を執るまでに発展した。の交渉が不調に終り、元弟子でもある安生洋二との舌戦に発展する。その際、前田は安生を家族の前で制裁してやると発言するが、これが安生の自宅襲撃を示唆したものとして、UWFインターは名誉毀損と脅迫で前田を告訴。前田は謝罪会見を開いて事態を収拾した鈴木健『最強のプロレス団体 UWFインターの真実』エンターブレイン、2002年、pp.20-22。また、1996年6月にはFIGHTING TV サムライ開局のパーティーで前田が安生と言葉を交わし裏拳で小突いた谷川貞治「疑惑の男FILE1 前田日明」『別冊宝島274 プロレス謎読本 リングのタブーを解き明かせ!』宝島社、1996年、p.97大谷泰顕監修『トリプルクロス 電撃プロレス=格闘技読本』メディアワークス、2000年、p.182(レスラーやマスコミ等が周囲にいる中での出来事で、アントニオ猪木が仲裁)。その3年後の1999年11月14日、UFC-J会場において、安生はマスコミと談話中の前田の背後に忍び寄り、後ろからの不意打ちでアゴを殴打。前田は失神し、この姿は衝撃的な事件としてプロレス誌の表紙を飾った。安生は襲撃直後にパンクラスの高橋和生とガッチリ握手をかわす姿をプロレス誌に掲載されたが、安生、高橋ともに事件との関連性を否定している。その後、前田は安生を訴え、安生は略式起訴で20万円の罰金刑を受ける「<略式命令>元プロレスラーー殴り負傷させたプロレスラーに罰金」『毎日新聞』2000年1月5日。安生としては、殴った後に「文句があったらリング上でやろう」という話にするつもりだったという。
  • 2001年5月30日付の東京スポーツに「有罪判決 リングス前田 暴行女性は元妻」という記事が1面に掲載されたことに対し、500万円の損害賠償を求めた訴訟を起こす。東京地裁(菅野博之裁判長)は、『米国で有罪判決を受けた』事実、および前田が『暴行,結婚していた』ことは「真実と認められない」と判断し、東スポに200万円の支払いと謝罪広告掲載を命じた(2002年9月13日判決)出典なし。
  • 2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!の田村潔司対所英男戦のプレゼンターを務めるが、試合後に勝利者トロフィーを至近距離から力任せに田村の胸へ投げつけた。

入場テーマ曲

  • 「KATANA」
  • 「THE ROOM (BRAINWASH) PART ONE」 - リック・ウェイクマンのアルバム『1984』の4曲目。英国より凱旋帰国した時の入場テーマとして使用していたが、前年から既に小林邦昭の入場テーマ曲として定着しており、なぜ使用に至ったかは不明。
  • 「ダンバインとぶ」(歌詞は入れずブリッジで繋いで編集したものを使用) - 1983年から1984年に掛けて新日本で使用。
  • 「スパークリング・フラッシュ 風雲児のテーマ」 - つのだ☆ひろ作詞作曲。第1次UWF草創期(ラッシャー木村、剛龍馬の在籍期)に使用。1984年のLP盤アルバム『Pro-Wrestling Super Fighters' Themes』の2曲目として収録OTHER - CHA-LA'S HP、1992年にCD盤『THE U.W.F』にて復刻THE U.W.F - 無駄遣いな日々 - エキサイトブログ。
  • 「GOLD」 - スパンダー・バレエのアルバム『トゥルー』の4曲目。第1次UWF時代に使用前田日明の入場テーマ曲 - 澤木一貴オフィシャルブログ「パーソナルトレーニング24」 - アメーバブログ。
  • 「キャプチュード」 (Captured) - 第1次UWF崩壊後、新日本へ復帰した1986年より使用された、前田の代表的な入場テーマ。新日本時代は曲の随所に機関銃の銃声がSEとして挿入されていた。「キャプチュード」が日本では呼称となってしまっているが、英語の実際の発音は「キャプチュード」より「キャプチャード」に近い。オリジナル音源は、イギリスのプログレッシブ・ロック・バンドであるキャメルの、1981年にリリースしたアルバム『』の11曲目として収録されているもので、日本の敗戦の後29年間に渡りルバング島に潜伏を続けた残留日本兵として著名な、小野田寛郎をモチーフとした敗残兵の「ヌード(Mr.Oの現地での渾名)」が、救助隊との間で激しい争いの果てに「保護(Captured)」されるシーンを描写した楽曲でもあるNude - フリー百科事典『キャメペディア(Camepedia)』。
  • 「JUST A HERO」 - リングス旗揚げ時に使用された新田一郎作曲のオリジナル曲だったが、すぐに「キャプチュード」に戻している。ただしWOWOWのリングス中継でのBGMとしては長期間に渡って使用された。

著作

単著

  • 『格闘王への挑戦』(1988年10月28日、講談社)
  • 『パワー・オブ・ドリーム』(1988年12月、角川書店)
  • 『誰のために生きるか』(1992年4月24日、PHP研究所)
  • 『最強の自分をつくる――オーバー・ザ・レブ・リミット』(1994年4月、PHP研究所)
  • 『真格闘技伝説 RINGS』(1994年9月、ピンポイント)
  • 『前田日明超語録集』(2002年3月、日本スポーツ出版社)
  • 『前田日明が語るUWF全史〔上〕』(2017年12月8日、河出書房新社)
  • 『前田日明が語るUWF全史〔下〕』(2017年12月8日、河出書房新社)
  • 『日本人はもっと幸せになっていいはずだ』(2021年6月9日、サイゾー)

共著

  • 『禁談――前田日明 究極の因縁対談三本勝負』(1997年11月、集英社)
  • (福田和也共著)『真剣勝負』(1999年10月、草思社)
  • (山本小鉄共著)『日本魂』(2009年9月16日、講談社)
  • (成瀬雅春共著)『今を生き抜く絶対不敗の心と体を得るために 「男の瞑想学」』(2011年8月31日、BABジャパン)
  • 『証言UWF 最後の真実』(2017年5月、宝島社)
  • 『告白 平成プロレス10大事件 最後の真実』(2018年1月、宝島社)
  • 『証言1・4 橋本vs.小川 20年目の真実』(2018年12月、宝島社)
  • 『証言 「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!」の真実』(2019年3月、宝島社)
  • 『証言 長州力 「革命戦士」の虚と実 単行本』(2019年5月、宝島社)
  • 『証言「プロレス」死の真相』(2019年6月、河出書房新社)
  • 『証言 新日本プロレス「ジュニア黄金期」の真実』(2019年10月、宝島社)
  • 『シュートマッチ プロレス「因縁」対談 10番勝負』(2020年2月、宝島社)
  • (片田直久共著)『シン・日本プロレス――すべてはここから始まった、総合格闘技の源流と末流』(サイゾー、2022年)

伝記

  • 佐々木徹『無冠 前田日明 』(1998年11月、集英社)
  • 塩澤幸登『格闘者――前田日明の時代〔1〕』(2015年6月、茉莉花社)
  • 塩澤幸登『格闘者――前田日明の時代〔2〕』(2016年4月、河出書房新社)

連載

  • 『前田日明の漢の人生相談』月刊ラジオライフ(三才ブックス) - 2009年頃に掲載。

その他

テレビ・ラジオ

  • 森田一義アワー 笑っていいとも!(1988年9月19日、1991年6月6日、1993年11月5日、1995年3月23日、1996年8月27日、2001年2月8日)
  • SCHOOL'S OUT(1988年6月7日放送)山崎一夫とゲスト出演
  • 前田日明のオールナイトニッポン(1989年4月3日深夜)
  • 前田日明 あきらめんじゃねェ! (ニッポン放送 1990年10月 - 1991年4月 『爆笑問題のオモスルドロイカ帝国』内で放送)
  • ライオンのごきげんよう(1996年3月15・18・19日)
  • 国分太一・美輪明宏・江原啓之のオーラの泉(2006年9月13日)
  • 真夜中のハーリー&レイス(2012年2月21日深夜)
  • くりいむクイズ ミラクル9(2014年11月12日)
  • 水曜日のダウンタウン
  • オールスター後夜祭(2019年4月7日) - ニューヨークにいるライガーの代役
  • 午前0時の森(2022年3月21日) - ゲストMC

映画

  • YAWARA!(1989年、東宝) - 本人 役
  • WARU(2006年、真樹プロダクション) - 主人公の友人 役
  • タイトロープ ~アウトサイダーという生き方~(2013年、トラヴィス) - 本人 役
  • 9 〜ナイン〜(2018年2月17日、MIRAI) - 長谷川凌一 役

Web番組

  • ぶらり路上プロレス(2017年4月配信開始 、#16、Amazonプライム・ビデオ) - 伊橋剛太5番勝負対戦相手
  • ほんトカナ!?ケンドーコバヤシの絶対に観ないほうがいいテレビ!(2021年4月7日、Amazonプライム・ビデオ)

CM

  • 西武百貨店
  • サントリー 缶コーヒー「サントリーウエスト」
  • 任天堂 NINTENDO64『ゼルダの伝説 時のオカリナ』
  • リコー 「解決!リコーマン」(本木雅弘小倉久寛渡辺満里奈と共演)

ゲーム

  • スーパーファミコン『ASTRAL BOUT』 1992年 キングレコード
  • スーパーファミコン『総合格闘技 アストラルバウト2』 1994年 キングレコード
  • スーパーファミコン『RINGS アストラルバウト3』 1995年 キングレコード

注釈

出典

参考文献

  • ミスター高橋『流血の魔術・第2幕―プロレスは誇るべきエンターテインメント―』 (講談社、2010年)ISBN 978-4-06-216516-7

関連項目

  • 大阪市出身の人物一覧
  • 朝倉未来
  • 朝倉海

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/11/15 11:04 UTC (変更履歴
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