イアン・マクノートン : ウィキペディア(Wikipedia)

イアン・マクノートン(、1925年12月30日 - 2002年12月10日)は、スコットランド出身の俳優、テレビ・プロデューサー、監督。特に、モンティ・パイソン作品の監督・プロデュースで知られているモンティ・パイソンのメンバー、テリー・ジョーンズによる故人略伝記事:。マクノートンは『空飛ぶモンティ・パイソン』41回分(1969年 - 1974年、全45回)の監督・プロデューサーを務めたほか、第1シリーズの後に制作されたオムニバス映画『モンティ・パイソン・アンド・ナウ』(1971年)、『空飛ぶモンティ・パイソン ドイツ版』(、1971年 - 1972年)の監督を務めた。1973年には、『空飛ぶモンティ・パイソン』の制作チームで、英国アカデミー賞テレビ部門()を受賞している。

略歴

マクノートンはスコットランド・グラスゴーで生まれ、のストラサラン・スクールに通った。大学では医学を学んでいたが、途中で医師になることを諦め、1945年から1年間イギリス海兵隊に仕官した。ケントの町で、イギリス海兵隊の士官訓練班として軍務に当たる一方、彼はイギリス海兵隊のアマチュア演劇グループ、「グローブ・プレイヤーズ」()で演技を行わないかと誘われた。1946年に復員した後は故郷グラスゴーに戻ったが、マクノートンの父は、彼に家族の農場を手伝ってほしいと願っていた。一方で、マクノートン自身は1年間ロンドンにある王立演劇学校 () の予備コースに通うことを決めた。その後予備コースは修了したものの、王立演劇学校そのものには入学しなかった。

俳優として

スコットランドに戻った後、マクノートンは数年を舞台演劇に費やし、グラスゴーのや、エディンバラのでの作品に定期的に出演するようになった。中でも、1948年のエディンバラ・フェスティバルで上演され、タイロン・ガスリー()が制作した、タイトルにもなっている は、歴史的なスコットランド政府の3階級を指す。への出演が際立っている。この作品は、デイヴィッド・リンゼイ()が16世紀に書いた政治風刺劇である。

マクノートンは、1953年の映画 "Laxdale Hall"での端役(巡査役)で映画界でのキャリアをスタートした。この映画はスコットランドのハイランド地方にある小さな村を舞台にした、英国制作のロマンティック・コメディである。同じ年には、『』でカラム・マグレガー()として小さな役を得た。1955年にはロンドンへ戻り、テレビでいくつか小さな役を得るようになった。この中には、 "Seagulls over Sorrento" で演じたエイブル・シーマン・マッキントッシュ()や、1956年のSF映画『』で演じたハギス()などが含まれる。その後、英国のテレビ・コメディ・ショー に3話出演したほか、『潜航電撃隊』や といった映画に端役で出演している。

マクノートンは、1958年から1959年にかけてテレビや映画に端役で出演するという生活を続けた後、シットコム の役を射止め、このシリーズの全30話にキルマーティン・ダルリンプル()としてレギュラー出演した。この作品は、イギリス海軍から任務を与えられた、たくましく騒々しいイギリス海兵隊の新兵の悪ふざけを軸にしたものである。その後は、アンガス・マクレア()役を演じた1962年のテレビシリーズ など、小さな役が続いた。この年には映画『アラビアのロレンス』に出演してマイケル・ジョージ・ハートリー()役を演じている。

監督・プロデューサー

BBCのドラマシリーズ に出演している間に、マクノートンはテレビ監督育成用にBBCが用意した訓練コースの広告を見つけ、これに応募した。1963年・1964年には、 の2話を監督したほか、1965年には の1話を監督している。監督を始めてからもマクノートンは演技を続け、1964年の、1965年の『おしゃれ(秘)探偵』など、数々のテレビ・映画作品に端役として登場している。

1966年から1967年にかけて、マクノートンはBBCのシリーズ 全52話を監督した。この作品は、スコットランド・の架空の村にある、大きな総合中等学校を舞台とした作品である。シリーズは6人いる寮監の1人で、300人以上の生徒に目を光らせている教師、イアン・クレイグ()の日常を描いたものである。1967年から1968年にかけては、の8話を監督した。

1969年、マクノートンは、スパイク・ミリガンの『Q...』の第1シリーズで、監督・プロデュースを務めた。このシリーズは、7エピソードからなる超現実的なコメディ・スケッチ・ショーで、後のモンティ・パイソンのメンバーへ大きな影響を与えている。パイソンズの自伝では、マイケル・ペイリンが『Q...』シリーズの監督に会った経験について記している。

ペイリンは、自身やテリー・ジョーンズが『Q...』シリーズからとても大きな影響を受け、その結果、マクノートンに自分たちのシリーズを監督してほしいとはっきり実感したと語っている (quote at (a), p.157)。

1969年から1974年にかけて、マクノートンは『空飛ぶモンティ・パイソン』41エピソードのプロデュース・監督を務めた(シリーズは全45エピソード)。監督・プロデューサー職を受け入れた後、マクノートンは休暇を取る必要があり、シリーズの最初4話の制作には関われないと宣言し、パイソンズを狼狽させた(結局が監督となった)。シリーズ制作が始まった当初、マクノートンとパイソンズの間には、ショーの監督方法に関する度重なる干渉から摩擦があったが、第1シリーズの終わりまでにはマクノートンはパイソン・チームの一員となり、彼の貢献は重要なものになっていた。1970年には第2シリーズが撮影された。

1971年、マクノートンはパイソンズとして最初の映画『モンティ・パイソン・アンド・ナウ』を監督した。この作品は、『空飛ぶモンティ・パイソン』第1・第2シリーズからベスト・スケッチを抽出し、観客抜きでリメイクした作品である。同じ年には、バイエルン州(バヴァリア)で、『空飛ぶモンティ・パイソン ドイツ版』()の第1話を撮影した。翌年にはドイツ版の第2話を撮影したほか、スパイク・ミリガン主演のコメディ・スケッチ・ショーや、『空飛ぶモンティ・パイソン』第3シリーズを撮影している。

1973年には監督を務め、翌1974年には、と のパイロット盤を制作して良い評価を得た。この年の終わりには『空飛ぶモンティ・パイソン』の最終第4シリーズを撮影している。1975年には、スパイク・ミリガンの『Q...』第2シリーズが、BBCによって として放送されている。マクノートンはその後も『Q...』シリーズを監督し続け、1975年には 、1977年には 、1978年には 、1980年には を監督している。

この間も、マクノートンは別のコメディ・スケッチ・ショーのパイロットを監督しており、その中には1976年に制作され、グレアム・チャップマンが主演した なども含まれていた。彼らは1エピソード分しか撮影を行わず、作品はBBCに採択されなかった。1977年には、主演のコメディ の5エピソード分を監督している。1979年には、レナード・ロシター主演で、フランスの放屁師ジョゼフ・ピュジョールに関する短編映画『ル・ペトマーヌ』()を制作している。なお、この作品のタイトルは、ピュジョールの用いていた芸名をそのまま使ったものである。

1970年代後半からマクノートンはミュンヘンに拠点を置き、テレビ・舞台での監督業を続けた。1980年には、が主演したドイツのコメディ・ショー、 の6エピソードを監督した。また数々のオペラ・ミュージカルの監督を務め、イスラエル、ユーゴスラビア、ノルウェー、オーストリアなど、世界各地の劇場で仕事をした。1996年には、オーストラリアの作曲家のコメディ 意味:「ビーレフェルトのマルクス姉妹」、1997年にはゲルハルト・バウマン()のコメディ、 意味:「ミュンヘンのニュクス」。ニュクスとはギリシャ神話に登場する女神のこと。を監督している。オーストリア・インスブルック近くにある町、ハル・イン・チロルの劇場では、オットー・グランマンドゥル()による作品を監督している。

2001年、アラン・エイクボーンの演劇 のハル・イン・チロル公演初夜から帰る途中に自動車事故に巻き込まれ、この時の傷が元となって2002年12月に亡くなった。。

受賞とノミネート歴

  • 英国アカデミー賞テレビ部門
    • 1970年 - ノミネート - 部門 -『空飛ぶモンティ・パイソン』、と共同で
    • 1971年 - ノミネート - 部門 -『空飛ぶモンティ・パイソン』
    • 1973年 - 受賞 - 部門 -『空飛ぶモンティ・パイソン』(制作チーム共同で)
    • 1975年 - ノミネート - 部門 -『空飛ぶモンティ・パイソン』
  • プライムタイム・エミー賞
    • 1976年 - ノミネート - 部門 - (1975年)

注釈

出典

外部リンク

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