有川貞昌 : ウィキペディア(Wikipedia)

- 2005年〈平成17年〉9月22日}}は、日本の撮影技師、特撮監督。

日本映画撮影監督協会会員。通り名は「貞昌」を音読みした「ていしょう」。

東宝の俳優であった河辺昌義は甥にあたる。

来歴

東京府出身。日本大学旧工学部(現日本大学理工学部)卒。

1943年(昭和18年)、日比谷の映画館で東宝映画『南海の花束』(1942年、阿部豊監督)を観て、四発飛行艇「川西大艇」に魅せられ、愛媛県の逓信省愛媛航空機乗員養成所へ入所。飛行機パイロットの訓練を受ける。

1944年(昭和19年)、台湾南部の航空隊に配属され、雷撃機搭乗隊員として、対潜哨戒作戦に従事する。この航空隊での映画会で、『雷撃隊出動』(1944年、山本嘉次郎監督)を鑑賞し、出来栄えの素晴らしさに感動する。

1945年(昭和20年)、内地で敗戦を迎える。本人によれば、「幾度か死地を脱した末のことであった」という。同年8月、東宝で女優を務めていたいとこを介して東宝に入社。技術部音響技術課(録音課)に配属される。

1948年(昭和23年)、前々年からの東宝争議で、東宝撮影所は映画製作が止まってしまう。学生野球の経験があることから、有川は若い女優らと地方へ野球の試合に向かわされ、缶詰会社の社員と試合をして、もらって帰った缶詰を組合に供出するというような日々を送った。

撮影所が政治闘争の場となり、映画製作どころか組合の言いなりのような状態に「思想的に同調できなかった」という有川は、同年6月に東宝撮影所を退社。この前に、戦時中に観て感激した、『雷撃隊出動』を撮影した円谷英二を訪ねたところ、飛行機の話題で意気投合。誘われて円谷が自宅敷地に設置した円谷特殊技術研究所の撮影助手となる。この円谷特殊技術研究所には、利光貞三、富岡素敬、山本久蔵、樺島幸男、荒木秀三郎真野田陽一らがいた。しかし、最初の仕事は映画ではなく、円谷が発明し販売していたオートスナップの改修であった。

1950年(昭和25年)、東宝に復帰し、正式に専属契約を結ぶ。

この年、GHQによる公職追放でフリーランスの身となっていた円谷が、東宝撮影所内に円谷特殊技術研究所を設置。有川は研究所員として加わり、合成撮影などを請け負い、「東宝マーク」の作成も行う。

1953年(昭和28年)、円谷が嘱託として東宝に復帰。これに伴い、同じく撮影技師の富岡素敬、真野田陽一と共に東宝のカメラマンとなる。

同年、『太平洋の鷲』(本多猪四郎監督)で特撮パートのカメラマンを務める。

1954年(昭和29年)、怪獣映画『ゴジラ』で特撮班のカメラマンを務める。以後、数多くの映画、テレビの特撮作品を手がけ、昭和期における特殊撮影技術を代表する一人となる。円谷の下では、引き(ロング画面)のカメラマンを担当。また、円谷の代理で本多猪四郎との連絡役も務めた。

1957年(昭和32年)、『地球防衛軍』(本多猪四郎監督)のタイトルロールで、初めて「撮影」としてクレジット記名される。

1960年(昭和35年)、『電送人間』(福田純監督)より撮影技師となる。

1962年(昭和37年)、『紅の空』(谷口千吉監督)で特技監督の円谷を補佐し、特技演出を務める。

1963年(昭和38年)、円谷英二が円谷特技プロダクションを創設。円谷に請われ、同社とフジテレビとの番組企画『WoO』に企画参画する。

1965年(昭和40年)、円谷特技プロダクション製作のテレビ映画『ウルトラQ』の「五郎とゴロー」「1/8計画」で特技監督デビュー。以後、円谷特技プロのテレビ作品で特撮を担当。

1966年(昭和41年)、『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(福田純監督)では、円谷に代わって実質的に特撮演出のほとんどを務める{{efn|クレジットは「特殊技術監督補」。}}。

1967年(昭和42年)、『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(福田純監督)で、正式に東宝の2代目特技監督の役職を得る。

1968年(昭和43年)、円谷特技プロダクションが「円谷プロダクション」と社名変更。登記上の取締役に就任(名義のみ)。

1969年(昭和44年)、円谷とともに大阪万博の『三菱未来館』の「サークロマ立体映像」を制作。

1970年(昭和45年)、師匠の円谷英二が死去。「サークロマ立体映像」の仕上げを行う。円谷の死去直後にクランクインした『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』(本多猪四郎監督)で特技監督を担当、これが東宝での最後の特撮劇場作品となる。

1971年(昭和46年)、東宝特技課の解散に伴い、東宝を退社。このことについて、円谷がいなくなり目指すべき目標がなくなったとの趣旨のコメントを残している。この年、東宝の系列会社である国際放映に移籍。

1972年(昭和47年)、東宝に請われてテレビドラマ『愛の戦士レインボーマン』(NET)の特撮を担当。テレビの低予算下での、ミニチュアなど自作しながらの「手作り特撮」が、大いに勉強になったと語っている。

1977年(昭和52年)、元東宝の造形スタッフの村瀬継蔵に招かれ、香港のショウ・ブラザーズ製作の『北京原人の逆襲』(ホー・メン・ファ監督)で特技監督を務める。

1979年(昭和54年)、『西遊記II』(日本テレビ)で、プロデューサーを務める。

一時期は映像業界から離れ、自動車学校の講師を務めていたこともあった。

晩年は映像関係の専門学校の講師として、特撮技術の指導に当たった。

2002年(平成14年)、頚椎を損傷し全身麻痺となり、翌年に伊豆の療養施設へ入所する。

2005年(平成17年)9月22日、肺癌のため死去。。告別式は代々幡斎場で行われた。

円谷英二との関係

出会い

有川は戦時中に観た『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年、山本嘉次郎監督)や『雷撃隊出動』(1944年、山本嘉次郎監督)を観て感激し、パイロットを目指して海軍航空隊に入隊したが、これらの映像を記録フィルムと信じて疑わなかったという。

1947年(昭和22年)に東宝を辞めた際に、円谷英二が有川と同じ理由で東宝を辞め、独立したと聞いて、人から聞いた住所をあてに個人的に自宅を訪問した。映画が記録フィルムであると信じていた有川は円谷に、「『雷撃隊出動』の現場担当者は、どこの部隊の人ですか」と聞いたのであるが、円谷に「あれは映画で、飛行機は模型だよ」と言われてびっくりしたという。このときは特撮の知識など何もなかったが、円谷自身三等飛行士であることから、夜中まで飛行機の話題で話し込むこととなった。

この突然の訪問の帰り際に、円谷に「どうだ、日本ではもう飛行機(戦闘機)は飛ばせられんが映画ならできる。君も一緒にやらんか?」と言われた有川は、夢中で「はい!」と答えた。これがその後25年にわたる、円谷と特撮との歴史の始まりだったと有川は述懐している。

撮影現場での関係

円谷英二の愛弟子として薫陶を受け、円谷を「オヤジ」と呼んで慕った。

意見の違いでぶつかり合うこともあったが、「そこは信頼関係ですから、根に持つこともありませんでしたね」と語っている。師と仰ぐ円谷と同じく、元は飛行機乗り志望であり、『空の大怪獣 ラドン』(本多猪四郎監督)を始め、多くの映画で特撮用の空中撮影のために、円谷と2人でセスナの操縦桿を握っている。

しかし、自身と円谷とでは飛行機に対する憧れのあり方は異なっていたといい、有川は実戦経験に基づいていたのに対し、円谷は人が空を飛ぶことそのものに夢を抱いていたと述べている。『太平洋の鷲』では、円谷の方針に対して実乗経験から意見したが押し切られ、渋々撮影したものの、映像を見て円谷のやり方に納得し、以後円谷に全面の信頼を置くようになったという。

『ゴジラ』では、「アップを撮れ」という円谷の指示に対しサイズがわからないと聞いたところ「編集は俺がやる」と返され、これではカメラマンではなく「カメラ番」ではないかとひがんだが、サイズは自分に任されているのだと思い直して必死に撮影に挑み、完成した際には報われた思いであったという。有川は、後年のインタビューでも当時の自身はカメラマンではなくカメラ番であったと述懐している。

円谷はテレビ時代の到来を予感し、円谷プロダクションを設立し、特撮テレビ番組の製作に乗り出したが、有川はテレビ業界が発展するとは思えず小さなテレビ画面で特撮をやることには反対であったといい、円谷にも反対意見を直接述べたという。その後、有川は円谷の要請で円谷プロ作品も手掛けることになったが、実際にやってみてやはり映画の方が性に合っていると実感したという。

特技監督を引き継いだことについて、円谷から自身の技量を認められたと受け止めている一方で、本業以外の仕事が忙しくなり特技監督という立場にこだわらなくなった円谷から仕事を押し付けられたという心情でもあったという。有川は本編監督と話し合うのが苦手であったといい、『南海の大決戦』では本編側とすり合わせなければならない部分は円谷に相談し話を通してもらっていたと述べている。

私生活での関係

有川の長男によれば、円谷は有川の自宅の保証人にもなっていた。また、有川は円谷が探してきたイギリスのメーカーヒルマンの車にも乗っていたが、壊れやすかったため国産のトヨタ・パブリカに乗り換えていた。

有川は、円谷の服装を真似て同じものを着ることが多かった。

有川は撮休の日も円谷の自宅で円谷と作品の構想を練っていたという。円谷と息子らとの喧嘩の際は有川が呼ばれて止めに入ることも多く、円谷の長男である円谷一からは「ウチの長男って誰だよ」と言われることもあった。

円谷は静養中に有川へ電話を掛けてきて、有川は円谷に会いに行こうと考えていたが、その数日後に円谷は死去した。円谷一も死去する前日に特に用はないが有川のもとを訪ねていた。

人物・エピソード

『ゴジラ』のころは専属のスクリプターはおらず、有川が事実上その役割を担っていた。

前年の『白夫人の妖恋』(豊田四郎監督)に次いで、日本初の総天然色フィルムによる特撮怪獣映画となる『空の大怪獣 ラドン』では、特撮・本編合わせてスタッフ全員が未経験のカラー撮影にあたり、どの会社のカラーフィルムを使うかが論議となった。結局、イーストマン・カラーが用いられたが、これは特撮班カメラマンである有川の強い推薦によるものだった。

この『空の大怪獣 ラドン』で、福岡市天神地区で特撮スタッフとロケハンをしていたところ、地元のチンピラたちが因縁をつけてきた。ところが、彼らが東宝の特撮スタッフだと知ると、チンピラたちは「なんね、この九州にゴジラが来るとね!?」と驚いて態度を豹変させ、歓待してくれたという。

有川によると、『ゴジラの息子』は、有川がオヤジ(円谷)を継いで、東宝の二代目特技監督に就任したことを祝って、「ゴジラにも息子をやろう」と生まれた企画だったという。

円谷は自身の持つイメージをスタッフに作らせるというタイプの監督であったが、有川は自分で枠を決めてスタッフを動かすというやり方であった。当時は一人前の監督のつもりで一人で思い悩むこともなかったが、現場を離れてからは自分はスタッフに支えられていたのだと反省するようになったという。スクリプターの鈴木桂子は、円谷が現場を俯瞰して見ていたのに対し、有川は自身で動きすぎていたと評している。

特技監督時代は、円谷がやらなかったことをやろうという方針で、怪獣に生物としてのリアリティを演出するなどしていた。田中友幸は、有川の作風について「思い切った合成シーンの使用や、独特のカメラアングルは、カメラマンならではの出来栄え」であったと評している。書籍『ゴジラ大百科 新モスラ編』では、怪獣対決の演出に特徴があると評している。

有川が唯一都市破壊描写を演出した『怪獣総進撃』では、ゴジラの手前にマンダを配するなど、従来にない立体的な表現を行った。また、『怪獣総進撃』でのヘリコプター越しの俯瞰ショットや『マイティジャック』での空中戦など、飛行機乗りの視点を意識した描写が特色とされる。

川北紘一によれば、現場では非常に厳しい人物であったという。造形助手の鈴木儀雄も、有川は軍人経験があったため厳しく、失敗するとビンタされたり、カメラ操作に用いるパン棒で叩かれたりすることもあったと述べている。戦後すぐのころは、上司の発言に憤って包丁を持って追いかけたこともあったという。ゴジラのスーツアクターを務めた中島春雄は、テキパキとして素っ気ない仕事ぶりであったと述懐している。

鈴木桂子は、有川について人見知りせず人懐っこくて気さくだったといい、鈴木は最初に現場へ入った時も有川がいたため入っていきやすかったと述べている。撮影助手を務めた森喜弘も、有川は現場ではピリピリしていたが、普段は優しかったと証言している。

有川の長男によれば、中島は『ゴジラの息子』でゴジラ役から外されて以来有川のことを快く思っていなかったといい、その後もともに仕事をすることは多かったが話は噛み合っていなかったという。

有川の後を継いで特技監督となった中野昭慶は、監督には理系か文系どちらかの素養があるとの持論を述べており、有川は理系の天才であると評している。また、特撮カメラマンとしては、重いカメラで飛び回るラジコン飛行機を的確に捉える有川の反射神経や運動神経の高さを評価しており、パイロット経験のあった円谷・有川のコンビによる飛行機の動きには独特のリアリティがあったと述べている。

国際放映へは、東宝で総務部長を務めていた猪股正文が同社で撮影所長を務めていたことから引き抜かれ、撮影所長に次ぐ技師長の肩書で迎えられた。しかし、猪股の死去により有川は同社での居場所がなくなり、海外から有川へのオファーが来ていたこともあり同社を退社した。

有川の長男によれば、有川は撮影所から使わなくなった着ぐるみやミニチュアなどをよく持ち帰っていた。しかし、それらの価値については無頓着であったといい、長男のおもちゃにして遊ばせ壊れたら捨てていたという。

野球が好きで、東宝特撮スタッフで結成した草野球チームではピッチャーや監督を務めていた。

代表作

参照:

映画

公開年作品名製作(配給)役職
1948年颱風圏の女松竹撮影
月光城の盗賊東横映画
1949年4月17日花くらべ狸御殿大映
7月18日虹男
8月14日幽霊列車
わたしの名は情婦
9月25日透明人間現わる
1950年6月15日日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声東横映画
佐々木小次郎東宝森田プロ
1951年1月11日愛と憎しみの彼方へ映画芸術協会
7月13日海賊船東宝
せきれいの曲
武蔵野夫人
赤道祭
1952年2月28日南国の肌木曜プロ(東宝)
11月27日港へ来た男東宝
1953年1月9日ひめゆりの塔東映
4月22日飛び出した日曜日東宝
悲劇の将軍 山下泰文東映
6月9日雲ながるる果てに重宗プロ新世紀映画(松竹)
6月28日アナタハン大和プロ(東宝)
9月15日君の名は 第一部松竹
沖縄健児隊
10月21日太平洋の鷲東宝撮影(特殊技術)
1954年2月10日 さらばラバウル
かくて自由の鐘は鳴る
9月26日宮本武蔵
11月3日 ゴジラ
12月29日 透明人間
1955年4月24日 ゴジラの逆襲
8月14日 獣人雪男
1956年1月22日乱菊物語
6月22日 白夫人の妖恋
銀輪新理研映画
10月31日殉愛東宝
12月26日 空の大怪獣 ラドン
1957年極楽島物語宝塚映画
12月28日 地球防衛軍東宝
1958年6月24日 美女と液体人間
10月14日 大怪獣バラン
1959年4月19日 孫悟空
7月5日 潜水艦イ-57降伏せず
10月25日 日本誕生
12月26日 宇宙大戦争
1960年4月10日 電送人間
4月26日 ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐
12月11日 ガス人間第一号
1961年1月3日 大坂城物語
7月30日 モスラ
8月13日 紅の海
9月17日 ゲンと不動明王
10月8日 世界大戦争
1962年3月21日 妖星ゴラス
紅の空
8月11日 キングコング対ゴジラ
大津波東宝ストラットンプロダクション
1963年1月3日 太平洋の翼東宝
4月28日社長外遊記
五十万人の遺産宝塚映画三船プロダクション(東宝)
5月29日 青島要塞爆撃命令東宝
8月11日 マタンゴ
10月26日 大盗賊
10月27日太平洋ひとりぼっち日活石原プロモーション
12月22日 海底軍艦東宝
1964年1月13日 士魂魔道 大龍巻 宝塚映画(東宝)
4月29日 モスラ対ゴジラ東宝
がらくた
8月11日 宇宙大怪獣ドゴラ
10月4日自動車泥棒
12月20日 三大怪獣 地球最大の決戦
1965年1月15日勇者のみ東京映画シナトラ・エンタープライズ(東宝)
6月19日 太平洋奇跡の作戦 キスカ東宝
8月8日 フランケンシュタイン対地底怪獣 東宝ベネディクト・プロ(東宝)
10月31日 大冒険 東宝渡辺プロダクション(東宝)
12月19日 怪獣大戦争 東宝ベネディクト・プロ(東宝)
大沈清伝(韓国映画)
1966年7月13日 ゼロ・ファイター 大空戦 東宝
7月31日 フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ 東宝ベネディクト・プロ(東宝)
12月17日 ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘東宝監督補(特殊技術)
1967年12月16日 怪獣島の決戦 ゴジラの息子特技監督
1968年8月1日 怪獣総進撃
1970年8月1日 ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣特殊技術
1978年3月11日 北京原人の逆襲 ショウ・ブラザーズ(松竹)特技監督
1983年12月 無字天書

テレビ

期間番組名サブタイトル制作(放送局)役職
1959年3月7日1960年5月28日鉄腕アトム松崎プロ毎日放送撮影
1966年1月2日1966年7月3日ウルトラQTBS円谷プロダクション特技監督
1966年7月10日1967年4月9日ウルトラマン特殊技術
1966年11月9日1967年9月27日快獣ブースカ日本テレビ円谷プロダクション東宝
1967年10月1日1968年9月8日ウルトラセブン円谷プロダクションTBS
1968年4月6日1968年6月29日マイティジャック第11話 「燃える黄金」円谷プロダクションフジテレビ
1968年7月6日1968年12月28日戦え! マイティジャック
1971年9月4日1971年11月27日天皇の世紀第1話 「黒船渡来」朝日放送国際放映監督(特殊撮影)
1972年10月6日1973年9月28日愛の戦士レインボーマン全52話NET東宝特殊技術
1973年4月15日1973年7月29日へんしん!ポンポコ玉 ノンクレジット国際放映TBS
1973年10月2日1974年3月26日水滸伝日本テレビ国際放映特技監督
1976年10月4日1977年3月28日バトルホーク全26話東洋エージェンシーナック(東京12チャンネル)特撮監督
1979年11月11日1980年5月4日西遊記II全26話日本テレビ国際放映プロデューサー
1980年5月11日1980年10月5日猿飛佐助全17話

舞台

  • アイヌ恋歌(1958年、日本劇場) - 背景映像撮影
  • 春・夏・秋のおどり(1958年、日本劇場) - 背景映像撮影

イベント

  • 日本万国博覧会 三菱未来館サークロラマ映画『日本の自然と日本人の夢』(1970年) - 撮影

オーディオコメンタリー出演

活躍当時の特撮現場でのエピソードは、以下のDVDの有川自身のコメンタリーで聞くことができる。

  • 『ゴジラの逆襲』 (同じ円谷組の特撮カメラマン・富岡素敬との共同)
  • 『空の大怪獣 ラドン』
  • 『フランケンシュタイン対地底怪獣』
  • 『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』
  • 『愛の戦士レインボーマン』

著書

    • 有川の死去後、2000年ごろに執筆していた『ゴジラの息子の回顧録』の遺稿と1999年にオブロングボックスに掲載された『半世紀前の反省記』に、関係者のインタビューを加えて出版された。

注釈

出典

出典(リンク)

参考文献

  • テレビマガジンデラックス(講談社)
  • Gakken MOOK(Gakken)

外部リンク

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