芥川韍之介 : りィキペディアWikipedia

芥川 韍之介あくたがわ りゅうのすけ、1892幎〈明治25幎〉3月1日 - 1927幎〈昭和2幎〉7月24日は、日本の小説家。号は柄江堂䞻人ちょうこうどうしゅじん、俳号は我鬌がき。東京出身。『矅生門』『錻』『地獄倉』『歯車』などで知られる。

生涯

1892幎明治25幎、東京垂京橋区入船町8䞁目珟東京郜䞭倮区明石町に牛乳補造販売業を営む新原敏䞉、フクの長男ずしお生たれる䞊田正昭、接田秀倫、氞原慶二、藀井束䞀、藀原地、『コンサむス日本人名蟞兞 第5版』、株匏䌚瀟䞉省堂、2009幎 19頁。。出生時刻に぀いおは資料がないため䞍明である。 戞籍䞊の正しい名前は「韍之介」であるが、逊家である芥川家や府立䞉䞭、䞀高、東京倧孊関係の名簿類では「韍之助」になっおいる。芥川自身は「韍之助」の衚蚘を嫌った。姉が2人いたが、長姉は、韍之介が生たれる1幎前に6歳で病死しおいる。

生埌7か月ごろに母フクが粟神に異垞をきたしたため長女の急死が原因であったず掚枬されるこずがある。、東京垂本所区小泉町珟東京郜墚田区䞡囜にある母の実家の芥川家に預けられ、䌯母のフキに逊育される。11歳のずきに母が亡くなる。翌幎に䌯父・芥川道章フクの実兄の逊子ずなり、芥川姓を名乗るこずになった。旧家の士族である芥川家は江戞時代、代々埳川家に仕えた奥坊䞻埡甚郚屋坊䞻の家である。家䞭が芞術・挔芞を愛奜し、江戞の文人的趣味が残っおいた。

1898幎明治31幎、江東こうずう尋垞小孊校入孊芥川卒業埌、「江東」は「えひがし」ず読むようになる。珟圚の墚田区立䞡囜小孊校。東京府立第䞉䞭孊校を卒業の際に「倚幎成瞟優等者」の賞状を受け、1910幎明治43幎9月、第䞀高等孊校第䞀郚乙類英文科に入孊。1910幎明治43幎に䞭孊の成瞟優秀者は無詊隓入孊が蚱可される制床が斜行され、芥川はその遞に入っおいた。同期入孊に久米正雄、束岡讓、䜐野文倫、菊池寛、井川恭のちの恒藀恭、土屋文明、倉田癟䞉第䞀郚䞙類独法・政治・独文科䞀幎四之組、枋沢秀雄第䞀郚䞙類仏法・政治・仏文科䞀幎五之組、矢内原忠雄第䞀郚甲類英法・政治・経枈・商科䞀幎二之組らがいた。2幎生になり䞀高の党寮䞻矩のため寄宿寮に入るが、芥川は順応するこずはなかったずいう。寮で同宀ずなった井川は生涯の芪友ずなる。井川は『第䞀高等孊校䞀芧』第䞀高等孊校刊行によるず『第䞀高等孊校䞀芧 明治43-44幎』入孊時、132頁 『第䞀高等孊校䞀芧 明治44-45幎』2幎進孊時、126頁 『第䞀高等孊校䞀芧 倧正元幎-2幎』3幎進孊時、118頁 『第䞀高等孊校䞀芧 倧正2幎-3幎』卒業時、310頁、1幎から3幎たで垞に芥川の成瞟を䞊回っおいる。1913幎倧正2幎、䞀高第䞀郚乙類を2番の成瞟で卒業䞀高第䞀郚乙類銖垭は井川恭し、東京垝囜倧孊文科倧孊英文孊科ぞ進孊。圓時、同孊科は䞀孊幎数人のみしか合栌者を出さない難関であった。

東京垝倧圚孊䞭の1914幎倧正3幎2月、䞀高同期クラスメむトの菊池寛、久米正雄らずずもに同人誌『新思朮』第3次を刊行。たず「柳川隆之助」隆之介ず曞かれおいる圓時の曞籍も存圚するの筆名でアナトヌル・フランスの『バルタザアル』、む゚ヌツの『春の心臓』の和蚳を寄皿したあず、10月に『新思朮』が廃刊にいたるたでに同誌䞊に凊女小説『老幎』を発衚。䜜家掻動の始たりずなった。このころ、青山女孊院英文科卒の吉田匥生1892幎生たれ。1915幎に陞軍軍人ず結婚。1973幎死去。ずいう女性ず芪しくなり、結婚を考えるが、芥川家の猛反察で断念する。1915幎倧正4幎10月、代衚䜜の1぀ずなる『矅生門』を「芥川韍之介」名で『垝囜文孊』に発衚。

1916幎倧正5幎には第4次『新思朮』メンバヌは菊池、久米のほか束岡譲、成瀬正䞀ら5人を発刊したが、その創刊号に掲茉した『錻』が挱石に絶賛される。この幎に東京垝囜倧孊文科倧孊英文孊科を20人䞭2番の成瞟で卒業。卒論は「りィリアム・モリス研究」。同幎12月、海軍機関孊校英語教官を長く勀めた浅野和䞉郎が新宗教「倧本圓時は皇道倧本」に入信するため蟞職する神の眠, 36頁。そこで畔柳芥舟や垂河䞉喜ら英文孊者が、浅野の埌任に芥川を掚薊内田癟閒によれば倏目挱石の口添えがあったずも、芥川は海軍機関孊校の嘱蚗教官担圓は英語ずしお教鞭を執った神の眠, 38.178頁防衛省防衛研究所図曞通史料閲芧宀が所蔵する海軍蚘録『職員進退録』に、芥川の自筆履歎曞が残る。2010幎珟圚、耇写した履歎曞の写真が同宀に展瀺されおいる。個人情報なので、アゞア歎史資料センタヌでのネット公開の察象倖である。。そのかたわら創䜜に励み、翌幎5月には初の短線集『矅生門』を刊行する。その埌も短線䜜品を次々に発衚し、11月には早くも第二短線集『煙草ず悪魔』を発刊しおいる。 なお、海軍機関孊校の初任絊が60円であったのに察し、圓時の原皿料は1枚30銭から2円であった。

1918幎倧正7幎の秋、懇意にしおいた小島政二郎『䞉田文孊』同人ず柀朚四方吉『䞉田文孊』䞻幹で西掋矎術史家の斡旋で慶應矩塟倧孊文孊郚ぞの就職の話があり、履歎曞たで出したが、実珟をみなかった。1919幎倧正8幎3月、海軍機関孊校の教職を蟞しお倧阪毎日新聞瀟に入瀟新聞ぞの寄皿が仕事で出瀟の矩務はない、創䜜に専念する芥川韍之介 「入瀟の蟞」、1919幎3月。。ちなみに垫の挱石も1907幎明治40幎、同じように朝日新聞瀟に入瀟しおいる。

1919幎倧正8幎3月12日、友人の山本喜誉叞の姉の嚘、塚本文父の塚本善五郎は日露戊争においお戊艊「初瀬」沈没時に戊死海軍兵孊校物語, p. 73ず結婚。菊池寛ずずもに倧阪毎日の客倖瀟員ずなり、鎌倉から東京府北豊島郡滝野川町に戻る。同幎5月には菊池ずずもに長厎旅行を行い、友人の日本画家・近藀浩䞀路から氞芋埳倪郎を玹介されおいる。

1920幎倧正9幎3月30日、長男芥川比呂志、誕生。

1921幎倧正10幎3月、海倖芖察員ずしお䞭囜を蚪れ、北京を蚪れた折には胡適に䌚っおいる。胡適ず怜閲の問題などに぀いお語り合い、7月垰囜。『䞊海遊蚘』以䞋の玀行文を著した。

この旅行埌から次第に心身が衰え始め、神経衰匱、腞カタルなどを患う。1923幎倧正12幎には湯河原町ぞ湯治に赎いおいる。䜜品数は枛っおいくが、このころからいわゆる「保吉もの」など私小説的な傟向の䜜品が珟れ、この流れは晩幎の『歯車』『河童』などぞず぀ながっおいく。

1922幎倧正11幎11月8日、次男芥川倚加志たかし、誕生。

1923幎倧正12幎9月1日に関東倧震灜が発生し、これに乗じお朝鮮人が攟火した毒を撒いたなどデマが飛び亀うただなかで竹やりなどを歊噚ずした自譊団が各地に圢成され朝鮮人虐殺を匕き起こした。芥川も町䌚田端の自譊団に、䞖間䜓もあり病身を抌しお参加した。随筆「倧震雑蚘」『倧正十二幎九月䞀日の倧震に際しお』収録やアフォリズム「或自譊団員の蚀葉」『䟏儒の蚀葉』収録に晩の自譊倜譊が蚀及される。たた震灜埌の吉原遊廓付近ぞ芥川ず䞀緒に死骞を芋物しに出かけた川端康成によるず、芥川は悲惚な光景のなかを快掻に飛ぶように歩いおいたずいう。『サンデヌ毎日』1929幎1月13日に川端は、震灜跡を「駿銬の快掻さで飛ぶやうに歩く」震灜圓時の芥川の「唯䞀人颯爜ずした姿を少しばかり憎んだ」ものであるず心境を語り、芥川の䜕か皮肉めいた快掻な蚀葉を聞いたこずをうろ芚えに振り返る。芥川は遺䜜小説『歯車』に震灜から数幎埌の東京を描写するなかで、たるで震灜圓時の快掻に闊歩する芥川を芋぀めるかのように䞻人公に次のように語らせた。

震灜から埩興した東京は、芥川が『歯車』の題名を圓初『゜ドムの倜』ずしおいたほどに゚ログロ文化が盛んであった。殊に銀座は震灜を境に女性が接埅する特殊喫茶が進出した。

震灜時の朝鮮人デマに぀いお芥川は「善良なる垂民」はそれを信じただろうず述べおいる「善良なる垂民」芥川韍之介は“流蚀蜚語を鵜呑み”にし菊池寛に䞀喝される関東倧震灜畑䞭章宏 - 幻冬舎plus。朝鮮人は圓時の日本においお「䞍逞鮮人」ず呌ばれテロリストのように恐れられおいた。

たた「或自譊団員の蚀葉」においおも日本瀟䌚に぀いお皮肉めいた蚘述をしおいる。震灜時、朝鮮人らが虐殺されたほか、倧杉栄・䌊藀野枝倫劻らが殺害されおいる甘粕事件。

1924幎倧正13幎、芥川は『桃倪郎』を発衚した。芥川にずっおの桃倪郎芳ずいうものは、『女性改造』連茉「僻芋」1924倧正13幎4月1日発行第3巻第4号に芋出すこずができる。芥川は䞊海で章炳麟章倪炎先生から聞いた話を次のように匕甚した。「僕」が芥川、「予」が章炳麟

章炳麟は、䟵略者ずしおの桃倪郎ず日本の垝囜䞻矩による怍民地政策を重ね合わせたのであり、芥川はそれを理解しお自らの䜜品『桃倪郎』を執筆したのである。圓時の売れっ子䜜家であり衚局では囜家の優等生でもあった芥川は、䞀方でバヌナヌド・ショヌぞの傟倒など瀟䌚䞻矩のよき理解者であった。1925幎倧正14幎制定の治安維持法に至る法案策定過皋に関しお圌ははっきりず䞍快感を瀺しおいる。それは1922幎倧正11幎『新朮』4月号掲茉「柄江堂雑蚘」に次のように䞻匵された。

甘粕事件より以前の1910幎明治43幎、芥川が䞀高に入孊する数か月前の5月25日に倧逆事件が起きおいる。1911幎明治44幎2月1日、埳富蘆花が䞀高で倧逆事件ぞの政府批刀挔説をしたこずが圓時の䞀高生たちの心を揺さぶり、䞀高生たちはこの挔説『謀叛論』の話で持ち切りであった。芥川はこの時、䞀高の䞀幎生であった。クラスメむトの菊池寛、久米正雄は挔説の件を文章に曞き残しおいる。

1925幎倧正14幎7月12日、䞉男芥川也寞志やすし、誕生。

1925幎倧正14幎ごろから文化孊院文孊郚講垫に就任。1926幎倧正15幎、胃朰瘍、神経衰匱、䞍眠症が高じ、ふたたび湯河原で療逊。䞀方、劻・文は自身の匟・塚本八掲の療逊のため鵠沌の実家別荘に移䜏。2月22日、韍之介も鵠沌の旅通東屋に滞圚しお劻子を呌び寄せる。7月20日には東屋の貞別荘「む-4号」を借り、劻・文、䞉男・也寞志ず䜏む。倏䌑みに入り、比呂志、倚加志も来る。7月䞋旬、芪友の画家小穎隆䞀も隣接する「む-2号」を借りお䜏む。この間、小品『家を借りおから』『鵠沌雑蚘』、さらに『点鬌簿』を脱皿。堀蟰雄、宇野浩二、小沢碧童らの蚪問を受ける。たた、鵠沌の開業医、富士山ふじ たかしに通院する。9月20日、韍之介、文、也寞志は「む-4号」の西偎にあった「柎さんの二階家」を幎末たで借りお移る。ここで鵠沌を舞台にした小品『悠々荘』を脱皿。これは、震灜前に岞田劉生が䜏み、震灜埌に建お盎されお囜朚田虎雄囜朚田独歩の息子で詩人が借りおいた貞別荘を芖察したずきの経隓がヒントのようで、韍之介䞀家が鵠沌に氞䜏する意図があったずも考えられる。たた、この間、斎藀茂吉、土屋文明、恒藀恭、川端康成、菊池寛らの蚪問を受けおいる。元号が昭和に倉わっおから、劻子は田端に戻り、韍之介は「む-4号」に戻った。甥の葛巻矩敏ず鎌倉で幎越しをしおから田端に戻るが、鵠沌の家は4月たで借りおおり、時折蚪れおいる。

1927幎昭和2幎1月、矩兄の西川豊次姉の倫が攟火ず保険金詐欺の嫌疑西川は匁護士であったが停蚌教唆の眪で倱暩し、刑務所に収監され、出所埌に自宅が半焌した際に盎前に倚額の保険金をかけおいたこずや家屋の2階抌入の二箇所からアルコヌル瓶が発芋されたこずから保険金詐欺目的の攟火が疑われおいた。をかけられお鉄道自殺する。このため芥川は、西川の遺した借金や家族の面倒を芋なければならなかった。4月より「物語の面癜さ」を䞻匵する谷厎最䞀郎に察しお、『文芞的な、䜙りに文芞的な』で「物語の面癜さ」が小説の質を決めないず反論し、戊埌の物語批刀的な文壇のメむンストリヌムを予想する文孊史䞊有名な論争を繰り広げる。この䞭で芥川は、「話らしい話のない」玔粋な小説の名手ずしお「小説の神様」志賀盎哉を称揚した。このころ、芥川の秘曞的な圹割を果たしおいた平束たす子父は平束犏䞉郎・倧本信者は芥川から垝囜ホテルでの心䞭を持ちかけられ、小穎韍䞀や文倫人等に知らせお阻止した[「平束たす子」『芥川韍之介新蟞兞』], 511頁。

7月24日未明、『続西方の人』を曞き䞊げたあず、臎死量の睡眠薬を自宅で飲んで服毒自殺した。享幎36〈数え幎〉、満35歳没。服甚した薬には異説があり、たずえば山厎光倫は、芥川の䞻治医だった䞋島勲の日蚘などから青酞カリによる服毒自殺説を䞻匵しおいる。同日朝、文倫人が「お父さん、よかったですね」ず圌に語りかけたずいう話もある芥川文、䞭野劙子蚘 『远想芥川韍之介』 䞭公文庫、1981幎、p.170。戒名はなく俗名で葬儀が行われたが戒名はなく墓碑も俗名『東京日日新聞』昭和2幎7月26日倕刊『昭和ニュヌス事兞第2å·» 昭和元幎-昭和3幎』本線p3 昭和ニュヌス事兞線纂委員䌚 毎日コミュニケヌションズ刊 1994幎、埌に懿文院韍之介日厇居士。墓所は、東京郜豊島区巣鎚の慈県寺。

䜜品の特城

䜜品は、短線小説が倚く知られおいる。しかし初期の䜜品には、西掋の文孊を和蚳したものも存圚する『バルタザアル』など。英文科を出た芥川は、その文章構成の仕方も英文孊的であるずいわれおいる。翻蚳文孊的でもある論理的に敎理された簡朔・平明な筆臎に特城がある。

短線の傑䜜を残した䞀方で、長線を物にするこずはできなかった未完小説ずしお『邪宗門』『路䞊』がある。たた、生掻ず芞術は盞反するものだず考え、生掻ず芞術を切り離すずいう理想のもずに䜜品を執筆したずいわれる。他の䜜家に比べ衚珟やずらえ方が生々しい。晩幎には志賀盎哉の「話らしい話のない」心境小説を肯定し、それたでのストヌリヌ性のある自己の文孊を完党吊定するその際の䜜品に『蜃気楌』が挙げられる。

『杜子春』など叀兞を参考にしたものや原話は唐の小説『杜子春䌝』、鈎朚䞉重吉が創刊した『赀い鳥』に発衚されたものなど児童向け䜜品も倚い。䞀般的には、キリシタン物や平安朝を舞台ずした王朝物などに分類される。たた、叀兞説話文孊から構想を埗た䜜品も倚い。䟋えば、『矅生門』や『錻』『芋粥』などは『今昔物語集』を、『地獄倉』などは『宇治拟遺物語』を題材ずしおいる。たたアフォリズムの制䜜も埗意ずしおおり、挢文などにも通じおいた。

反軍的な自説を䞻匵しおおり、こずに『河童』『䟏儒の蚀葉』などの晩幎の䜜品にはそのような傟向が匷い。圓時の軍人の暪柄な様子を「小児のようだ」ず自著で酷評したほどである https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1172662/15 『䟏儒の蚀葉』芥川韍之介「小兒」「歊噚」1939幎版怜閲による削陀あり囜立囜䌚図曞通所蔵} https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1180947/16 『䟏儒の蚀葉』芥川韍之介「小兒」「歊噚」1927幎版怜閲による削陀なし囜立囜䌚図曞通所蔵}。しかし、圓時は軍が著䜜物の怜閲をするのが通垞であったため、この怜閲によっお蚂正・加筆・削陀を䜙儀なくされた箇所も䜜品内に倚数存圚する。その䞀方で、海軍に察しおはある皋床の奜意を抱いおいたようで、陞軍のあたりの狭量に腐っおいた陞軍幌幎孊校教官の豊島䞎志雄を「いい職堎があるから」ず海軍機関孊校に招き、豊島はフランス語嘱蚗教官ずしお勀務した神の眠, 40.177頁。内田癟閒も芥川の掚薊でドむツ語嘱蚗教官ずなっおおり、のちに内田は『竹杖蚘』1934幎昭和9幎で芥川が講垫の人遞や亀枉などに䞀定の圹割を担っおいたこずを蚘しおいる神の眠, 178-179頁。

自著にお倩照倧神を登堎させる際、別名の「倧日貎」おおひるめのむちを甚いた。これは「倩照倧神」ずいう呌称では皇祖神をそのたた文䞭に登堎させおしたうこずになるため、倪陜神、それも自然神ずいう性栌づけで「倧日貎」を甚いなければならなかったためである。

煙草が倧奜きで、1日に180本も吞っおいたずいう。この煙草に぀いお『海のほずり』『京郜日蚘』『玄鶎山房』に敷島銘柄の煙草が登堎した。

䜜品の倉遷

芥川韍之介の䜜品は、初期ず晩幎でかなり違うずいわれる。

初期

説話文孊を兞拠ずした『矅生門』『錻』『芋粥』など歎史物、加えおキリシタン物が有名である。日倏耿之介は初期の䜜品を「非垞によい」ず評䟡しおいる。歎史物では、人間の内面、特に゚ゎむズムを描き出したものが倚い。

䞭期

芞術至䞊䞻矩的な面が党面に出た『地獄倉』などを曞き、長線『邪宗門』に挑んでいた。

晩幎

自殺を考えおいたのか、自分のこれたでの人生を芋盎したり、生死を取り䞊げたりした䜜品が倚く芋られる。初期より晩幎の方を高く評䟡する芋解も瀺されおいる。『䞀塊の土』など、これたでず比べ珟代の話を曞くようになるが、台頭するプロレタリア文壇にブルゞョア䜜家ず攻撃されるこずずなる。このころから䞻人公の䞀人称を「僕」ずする私小説が増え、告癜的な自䌝も曞き始める『倧導寺信茔の半生』『点鬌簿』『或阿呆の䞀生』など。晩幎の代衚䜜『河童』は、河童の䞖界を描くこずで人間瀟䌚を痛烈に批刀しおおり、圓時の人々に問題を提起した。

『歯車』の内容から、晩幎には自分自身のドッペルゲンガヌDoppelgÀngerを芋たのではないか、たた、片頭痛あるいはその前兆症状である閃茝暗点を患っおいたのではないか、ずいう説がある。

「氎掟みづぱなや 錻の先だけ 暮れ残る」ず、自殺盎前に曞いた色玙の䞀句が蟞䞖ずされる。

自殺に関しお

1927幎昭和2幎7月24日、雚の降りしきるなか、田端の自宀で芥川韍之介は「がんやりした䞍安」を動機ずしお服毒自殺を行い、瀟䌚に衝撃を䞎えた。

午前6時頃、芥川が垃団の䞭で苊悶しおいる姿を倫人が気づき、かかり぀けの医垫を呌んだ時には既に絶呜しおいる状況にあった「がんやりずした䞍安」手蚘残し自殺『東京日日新聞』昭和2幎7月25日『昭和ニュヌス事兞第2å·» 昭和元幎-昭和3幎』本線p3 昭和ニュヌス事兞線纂委員䌚 毎日コミュニケヌションズ刊 1994幎。死の数日前に芥川を蚪ねた同じ挱石門䞋で芪友の内田癟閒によれば、芥川はその時点でもう倧量の睡眠薬でべろべろになっおおり、起きたず思ったらたた眠っおいるずいう状態だったずいう。すでに自殺を決意し、䜓を睡眠薬に埐々に慣らしおいたのだろうず掚枬される。䞀方で、自殺の盎前には身蟺の者に自殺をほのめかす蚀動を倚く残しおおり、実際には早期に発芋されるこずを望んだ狂蚀自殺で、たたたた発芋が遅れたために死亡したずする説がある。たた、死埌に芋぀かり、久米正雄に宛おたずされる遺曞「或旧友ぞ送る手蚘芥川韍之介 「或旧友ぞ送る手蚘」、1927幎7月。で芥川は自身の「がんやりした䞍安を解剖」しお自殺ぞ至る道皋動機、手段、堎所に぀いお具䜓的に曞き蚘しおいる。その䞭に「僕倧。僕のしみじみずした心もちにな぀おマむンレンデルを読んだのもこの間である。䞭略 僕は内心自殺するこずに定め、あらゆる機䌚を利甚しおこの薬品 バルビツヌル酞系ノェロナヌルおよびゞャヌル/dialを手に入れようずした」ずあるこずから、蚘述を信頌すれば蚈画的に自殺を䌁おおいた節も窺える。手蚘最終段萜にある「末期た぀ごの目」ずいう蚀葉に川端康成が着目し、『末期の県』ず題しお圓初の題は『小説䜜法』随筆を曞いおいる。手蚘の最埌に芥川ぱンペドクレスの䌝蚘にも蚀及し「みずからを神ずしたい欲望」に぀いおも付蚘しおいる。

遺曞ずしお、劻・文に宛おた手玙、菊池寛、小穎隆䞀に宛おた手玙がある ※掲茉順序は、小穎隆䞀宛、子ども宛、劻宛、菊池寛宛。。芥川が自殺の動機ずしお蚘した「僕の将来に察する唯がんやりした䞍安」ずの蚀葉は、今日䞀般的にも有名であるが、自殺盎前の芥川の厭䞖的あるいは「病」的な心境は『河童』を初めずする晩幎の䜜品矀に明確に衚珟されおおり、「がんやりした䞍安」の䞀蚀のみから芥川の自殺の動機を考えるべきではないずもいえる。芥川呜日は小説『河童』から取っお河童忌ず称される。

死の盎前である7月初め、菊池寛に䌚うため二床文藝春秋瀟を蚪れおいるが䌚うこずができなかった。瀟員が菊池に芥川が蚪れたこずを報告せず、生前に菊池が芥川を蚪ねるこずもなかった久䞖番子『よちよち文藝郚』文藝春秋、2012幎10月、152-153頁。

死の前日、芥川は近所に䜏む宀生犀星を蚪ねたが、犀星は雑誌の取材のため䞊野に出かけおおり、留守であった。犀星は埌幎たで「もし私が倖出しなかったら、芥川くんの話を聞き、自殺を思いずどたらせたかった」ず、悔やんでいたずいう。たた、死の盎前に

「橋の䞊ゆ胡瓜なくれは氎ひひきすなはち芋ゆる犿の頭」

ず河童に関する䜜を残した。

芥川の自殺報道の盎埌からその死にショックを受けたず思われる若者たちの埌远い自殺が盞次ぎ、「芥川宗」ずも呌ばれた『芞胜人ず文孊賞 〈文豪アむドル〉芥川から〈文藝芞人〉又吉ぞ』川口則匘、ベストセラヌズ, 2017、「芥川のブロマむドが芥川賞の根源にあった--「䜜家」ずいうアむドルの誕生」の章。

死の8幎埌、芪友で文藝春秋瀟䞻の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文孊賞「芥川韍之介賞」芥川賞を蚭けた。芥川賞は盎朚賞ず共に日本でもっずも有名な文孊賞ずしお珟圚たで続いおいる。

芥川の死は関東倧震灜から数幎経ち倧正倩皇厩埡埌、25歳の皇倪子裕仁芪王が珟人神ずしお倩皇に即䜍し昭和が始たっお間もなくのこずであった。川端康成は震灜ず芥川の死を関連付けお『サンデヌ毎日』に次のように語った。

菊池寛による匔蟞

  • 菊池寛は第䞀高等孊校での同玚生以来の付き合いであり、友人総代ずしお匔蟞を読んでいる。菊池は読み䞊げおいる最䞭に感極たっお慟哭、しばらくの間、霊前に泣き䌏せおしたった谷䞭斎堎で葬儀、霊前で慟哭した菊池寛『東京日日新聞』昭和2幎7月28日『昭和ニュヌス事兞第2å·» 昭和元幎-昭和3幎』本線p3 昭和ニュヌス事兞線纂委員䌚 毎日コミュニケヌションズ刊 1994幎。
  • なお、芥川の死に぀いお、菊池寛は「芥川の事ども」ずいう文章を残しおいる菊池寛 「芥川の事ども」、『文藝春秋』1927幎9月号。。

河童忌

芥川の呜日・7月24日は河童忌ず呌ばれる。圓初は、遺族ず生前芪亀のあった文孊者たちが集たる法芁だったが、1930幎昭和5幎の四回忌から「河童忌蚘念垖」ずしお文藝春秋誌䞊で玹介され、この呌び名が定着した。以埌17回忌たで毎幎行われおいたが、戊争のため䞭断する。戊埌、再開されたが詳しい蚘録は残っおいない。

1976幎昭和51幎の50回忌は巣鎚の慈県寺で墓前祭、䞞の内の東京䌚通で偲ぶ䌚が催された。この日は第75回芥川賞の莈呈匏で、受賞した村䞊韍も花を手向けにきた。没埌90幎にあたる2017幎平成29幎からは田端文士村蚘念通が䞖話圹ずなり、「河童忌」むベントを開催しおいる。

蚘念通

芥川はいわゆる田端文士村の䞀員であった。地元の東京郜北区は、芥川旧居跡地の䞀郚を賌入し「芥川韍之介蚘念通」(仮称)を2023幎に開通する蚈画を2018幎6月に発衚した「芥川韍之介蚘念通」敎備北区が旧居跡地賌入ぞ 曞斎再珟や資料展瀺『毎日新聞』朝刊2018幎6月7日東京面2018幎6月7日閲芧。。その埌、新型コロナりむルスの圱響で蚈画が倧幅に遅れ、珟圚はクラりドファンディングを掻甚しながら2026幎床の開通を目指しおいる。

人物

  • 倧の颚呂嫌いで、めったに颚呂に入らなかったずいう。入ったずしおも、手ぬぐいは持っおいかなかったずいう。
  • 倧の犬嫌いだったが、晩幎、死の盎前になっおからは、なぜか犬をたったく怖がらなくなった。犬を䞻人公ずする児童文孊『癜』を改造瀟出版の雑誌『女性改造』『改造』の姉効誌に寄皿したのもこの時期である。
  • 『文芞家たらんずする諞君に䞎ふ』ずいう小文においお「文芞家たらんずする䞭孊生は、須らく数孊を孊ぶ事勀勉なるべし。然らずんばその頭脳垞に理路を蟿る事迂にしお、到底䞀人前の文芞家にならざるものず芚悟せよ。文芞家たらんずする䞭孊生は、須らく䜓操を孊ぶこず勀勉なるべし。然らずんばその䜓栌垞に薄匱にしお、到底生涯の倧業を成就せざるものず芚悟せよ」ず述べ、数孊や䜓操を勀勉に孊ばなければよい文芞家にはなれないず䞻匵しおいる。ただし、同じ文の䞭で「こは予自身の経隓に基く蚀にしお、予亊然く䞭孊時代を有効に経過せざりしを悲しみ぀぀あるものなり」ずも述べおいるこずから、片野善䞀郎は「䞭孊時代に䞀生懞呜に勉匷しなかったこずを埌悔しおいるくらいであるから、芥川は数孊はあたり埗意でなかったのかもしれない」ず掚察しおいる。
  • 黒柀明の『矅生門』日本映画初のノェネツィア囜際映画祭金獅子賞は芥川の『藪の䞭』『矅生門』から題材を借りおいる。
  • 俳人ずしおは高浜虚子の『ホトトギス』や河東碧梧桐の『海玅』に拠っお芥川韍之介 「わが俳諧修業」『柄江堂句集』を残しおいる。たた詩、短歌、旋頭歌などの䜜品も残しおいる。
  • 家王は「五䞃桐」である。
  • 源矩仲に぀いお、東京府立第䞉䞭孊校圚孊時に著した『朚曟矩仲論』の䞭で、盎情埄行な「朚曟山間の野人」だが同時に「赀誠の人」「熱情の人」「革呜の先動者」ず評し、最埌に「圌の䞀生は倱敗の䞀生也。圌の歎史は蹉跌の歎史也。圌の䞀代は薄幞の䞀代也。然れども圌の生涯は男らしき生涯也」ず総括しお、その人ずなりを敬愛した。
  • 劻の远想蚘によるず、関東倧震灜が発生しお芥川はずにかくも家の倖ぞ避難し、次男倚加志を抱えお合流した劻から「赀ん坊が寝おいるのを知っおいお、自分ばかり先に逃げるずは、どんな考えですか」ず責められた。

速読

非垞に速く本を読むこずができた。同人雑誌を枡された䞃ペヌゞの文章をパラパラずめくっただけで党郚読んだ。

たた邊文の曞物や雑誌なら2,3人ず䌚話しながら読むこずができた。しかし誀解されたり倱敬に思われるのを避けるため芪しくない人の前ではしなかった。

英文の速読もできた。倧阪ぞ行く時、分厚い英文の本を4,5冊手提げの䞭に芥川は入れおいた。それを汜車内で読んでしたい、谷厎最䞀郎の本を借りおいた。

䞋島勲が、どのくらいの速床で本を読めるのかず芥川に聞いた時、普通の英文孊曞なら䞀日12001300ペヌゞは楜ず答えた。仮に䞀日1200ペヌゞの10時間ずすれば、1時間120ペヌゞ、1分間2ペヌゞずなるわけである。

亀友関係

  • 垫であり自分を芋出しおくれた倏目挱石を終生尊敬し続けた。いく぀かの䜜品に「先生」ずいう敬称で登堎し、遺䜜である『歯車』『或阿呆の䞀生』でも蚀及しおいる。倏目挱石の葬儀の際に江口枙ずずもに受付を務め、匔問にきた森鷗倖の名刺を受け取っおいる。劻ぞ宛おた遺曞の䞭で、自䜜の出版暩に぀いおは「岩波茂雄氏岩波曞店に譲䞎すべし。新朮瀟ずの契玄は廃棄す」ず蚘しおいる。この理由に぀いおも蚘されおおり、「倏目先生を愛するが故に先生ず出版曞肆を同じにしたい」ず垌望した。
  • 避暑先の軜井沢でアむルランド文孊翻蚳者である片山広子ず出䌚う。芥川晩幎の䜜品『或阿呆の䞀生』の37章で「才力の䞊にも栌闘できる女性」ず蚘し、『盞聞』で「君」ず歌われたのは片山広子の事だず蚀われおいるこずから、のちに片山は芥川最埌の恋人ず呌ばれるようになったあくたでもプラトニック・ラブであったずされる。なお芥川が軜井沢を蚪れたのは、1924幎ず翌幎の2回で、いずれも倏の玄1ヶ月間を旧軜井沢の぀るや旅通で過ごし、宀生犀星、堀蟰雄、萩原朔倪郎らも同宿し亀友を深めた。1925幎に曞いた草皿「軜井沢で」に、芥川は軜井沢に぀いお、「さやうなら。手颚琎の町、さやうなら僕の抒情詩時代」ず蚘しおいる。
  • 䜐藀春倫ずは友人で芥川から䜐藀ぞの手玙が残っおいる。1926幎に送られたずみられる䜐藀宛の手玙が遺族により実践女子倧孊に寄莈されおおり、芥川の随筆集の衚玙を描いおくれた感謝のほか、小説「劖婆」を倱敗䜜だず断じた䜐藀の論評に぀いお「初めお読んだ時には䞍快だ぀たが、今は平気でよめる」ず蚘しおいる。

著䜜

  • 老幎 1914幎
  • バルタザアル 1914幎翻蚳、原䜜アナトヌル・フランス
  • 「ケルトの薄明」より 1914幎翻蚳、原䜜りィリアム・バトラヌ・むェむツ
  • 春の心臓 1914幎翻蚳、原䜜りィリアム・バトラヌ・むェむツ
  • クラリモンド 1914幎翻蚳、原䜜テオフィル・ゎヌティ゚
  • ひょっずこ 1915幎
  • 矅生門 1915幎
  • 錻 1916幎
  • 芋粥 1916幎
  • 手巟 1916幎
  • 煙草ず悪魔 1916幎
  • さたよえる猶倪人 1917幎
  • 戯䜜䞉昧 1917幎
  • 運 1917幎1月
  • 道祖問答 1917幎4月
  • 偞盗 1917幎4月・6月
  • 蜘蛛の糞 1918幎
  • 地獄倉 1918幎
  • 邪宗門 1918幎
  • 奉教人の死 1918幎
  • 枯野抄 1918幎
  • るしぞる 1918幎
  • 犬ず笛 1919幎
  • 開化の良人 1919幎
  • きりしずほろ䞊人䌝 1919幎
  • 魔術 1919幎
  • 蜜柑 1919幎
  • 舞螏䌚 1920幎
  • 秋 1920幎
  • 南京の基督 1920幎
  • 杜子春 1920幎
  • アグニの神 1920幎
  • 黒衣聖母 1920幎
  • 藪の䞭 1922幎
  • 神神の埮笑 1922幎
  • 将軍 1922幎
  • 報恩蚘 1922幎
  • 䞉぀の宝 1922幎
  • トロツコ 1922幎
  • 魚河岞 1922幎
  • おぎん 1922幎
  • 仙人 1922幎
  • 六の宮の姫君 1922幎8月
  • 䟏儒の蚀葉 1923幎 - 1927幎
  • 挱石山房の冬 1923幎
  • 猿蟹合戊 1923幎
  • 雛 1923幎
  • おしの 1923幎
  • 保吉の手垳から 1923幎
  • 癜 1923幎
  • あばばばば 1923幎
  • 䞀塊の土 1924幎
  • 桃倪郎 1924幎
  • 倧導寺信茔の半生 1925幎
  • 点鬌簿 1926幎
  • 玄鶎山房 1927幎
  • 河童 1927幎
  • 誘惑 1927幎
  • 蜃気楌 1927幎
  • 浅草公園 1927幎
  • 文芞的な、䜙りに文芞的な 1927幎
  • 歯車 1927幎
  • 或阿呆の䞀生 1927幎
  • 西方の人 1927幎
  • 続西方の人 1927幎

興文瀟ず文藝春秋瀟による『小孊生党集』88巻の䞀環ずしお刊行

  • アリス物語 菊池寛ずの共蚳 1927幎
  • ピヌタヌパン 菊池寛ずの共蚳 1929幎

家族

芪
  • 実父・新原敏䞉1850幎 - 1919幎 - 玖珂郡生芋村珟・矎和町 (山口県)に生たれ、長州藩の蟲民兵ずなり、四境戊争では倧林源次の倉名で埡楯隊に属し負傷、1869幎の脱退隒動に巻蟌たれ、萩藩の怿正治の嚘ず結婚し怿源治ず改名するが離婚しお1875幎頃䞊京、名を本名に戻す。勧蟲局䞋総埡料牧堎に入所し、1882幎に枋沢栄䞀の箱根仙石原の牧堎「耕牧舎」に入る芥川韍之介の文孊碑田村悌倫、山口県立倧孊 郷土文孊資料センタヌだより28号、2017幎3月31日。1883幎に本所小泉町珟墚田区䞡囜の士族芥川俊枅の䞉女・フク1860-1912ず再婚、京橋区入船町の牛乳販売店「耕牧舎」の支配人になり、事業を発展させ、枋沢から新宿の牧堎を匕き受け成功したレファレンス協同デヌタベヌス、2020幎08月04日芥川韍之介人物録。劻のフクが発狂したため、フクの効フナが家の手䌝いに入り、1899幎にフナずの間に埗二を儲け、1904幎にフナず正匏に再婚。明治末頃から牛乳事業が停滞し、1918幎には牧堎を手攟した。同跡地は遊郭ずなり、珟圚の新宿二䞁目界隈ずなる。1919幎にスペむンかぜで死去。
  • 逊父・芥川道章1849幎 - 1928幎 - 実母フクの兄。東京府圹人。乳児の韍之介を預かり姉フキらず逊育、実父の敏䞉ず揉めたが1904幎に韍之介を正匏に逊子ずする芥川韍之介人物録。劻のトモ1857幎 - 1937幎は现朚銙以の姪。
劻
  • 芥川文 - 海軍少䜐・塚本善五郎の嚘
子䟛
  • 芥川比呂志長男 - 俳優
  • 芥川倚加志次男 - もっずも文孊志向が匷かったが、東京倖囜語孊校仏語郚圚孊䞭に召集され、1945幎昭和20幎4月13日にビルマ珟・ミャンマヌで戊死。
  • 芥川也寞志䞉男 - 䜜曲家
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  • 芥川耿子比呂志䞉女 - ゚ッセむスト、詩人、童話䜜家
  • 芥川貎之志也寞志長男- ファッションデザむナヌ2007幎8月15日攟送「䞖界バリバリ★バリュヌ」、2008幎4月20日攟送「倧胆MAP」より
  • 芥川麻実子也寞志長女- メディアコヌディネヌタヌ

子䟛の名前は、それぞれ芪友の菊池寛の「寛」比呂志、小穎隆䞀の「隆」倚加志、恒藀恭の「恭」也寞志をもらっお挢字を替えお぀けたものである。

芥川には笑顔の写真がほずんど存圚しないが、晩幎のフィルム映像では、息子たちず笑顔を芋せる芥川の姿が蚘録されおいる。このこずから子煩悩であったこずがうかがえる。なお、この映像では比呂志ず倚加志は映っおいるが、也寞志はこのずき家の䞭で寝おいたため映っおいない。

也寞志の回想によれば、父の遺品にはSPレコヌドがあり、そのうち倚くを占めおいたのはストラノィンスキヌだったずいう。『火の鳥』組曲版ず『ペトルヌシュカ』を所有しおいたずいうが、挔奏者などの詳现は䞍明である。

次姉・ヒサの子䟛
  • 葛巻矩敏 - 小説家、文芞評論家
  • 芥川瑠璃子 - 比呂志の劻、随筆家

長姉・新原は぀1885幎 - 1891幎4月5日

家系図

泚釈

出兞

参考文献

  • 山䞋浩『本文の生態孊――挱石・鷗倖・芥川』日本゚ディタヌスクヌル出版郚、1993幎
  • 関口安矩線『芥川韍之介新蟞兞』翰林曞房、2003幎

関連項目

  • 芥川韍之介賞
  • ストレンゞャヌ〜䞊海の芥川韍之介〜
  • 自殺・自決・自害した日本の著名人物䞀芧
  • 末期の県

倖郚リンク

出兞フリヌ癟科事兞『りィキペディアWikipedia』 | 最終曎新2025/11/17 09:53 UTC 倉曎履歎
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「芥川韍之介」の人物情報ぞ