いつか眼差しが再び会うまで――「燃ゆる女の肖像」【コラム/スクリーンに詩を見つけたら】
2023年3月5日 08:00
古今東西の映画のあちこちに、さまざまに登場する詩のことば。登場人物によってふと暗唱されたり、ラストシーンで印象的に引用されたり……。古典から現代詩まで、映画の場面に密やかに(あるいは大胆に!)息づく詩を見つけると嬉しくなってしまう詩人・大崎清夏が、詩の解説とともに、詩と映画との濃密な関係を紐解いてゆく連載です。
今回のテーマは、第72回カンヌ国際映画祭で脚本賞とクィアパルム賞を受賞したラブストーリー「燃ゆる女の肖像」(セリーヌ・シアマ監督)です。
神話のような世界のなかに、ひとりの「燃ゆる女」が浮かびあがる。スカートに燃え移った火をまとう女の美しさに、画家の目は一瞬――彼女を助けることを忘れて――奪われる。これは眼差しについての映画、見ることについての映画だ。
主人公は、会ったこともないミラノの男と結婚するために肖像画を描かれることになるエロイーズと、その母の依頼によって彼女を描くために海を越えてくる画家マリアンヌ。使用人としてふたりよりも長い時間を館で過ごしてきたソフィも、この物語の中心人物だ。
エロイーズの母がミラノへ発つのをきっかけに、女三人の短い暮らしが始まる。初めは画家の身分を隠していたマリアンヌがエロイーズにその正体を告白し、マリアンヌとエロイーズは初めて画家とモデルとして正面から「見る/見られる」関係を結ぶ。そしてそのとき、モデルもまた画家を見ていることを、エロイーズはマリアンヌに教える。
目と目を合わせることが、いとも簡単にひとを親密にさせることを、この映画はよく知っている。ひととひとが見つめあうとき、言葉がその権力を振りかざして区切ったさまざまな境界は溶けて、無用になる。見つめあうということは、ふたりの人間が互いに主体を渡しあう理想的な性愛の、ひとつのもっともシンプルなかたちなのかもしれない。
けれども私たちは、永遠に見つめあってはいられない。私たちの生はほんとうにままならなくて、ひととき幸福な見つめあいの瞬間が訪れても、次の瞬間には、別の相手とお見合いをしなければならなかったり、中絶を決意しなければならなかったりするのだ。
望まぬ妊娠が発覚したソフィを流産させるために彼女たちが協力しあい、立場の違いなんか投げ捨ててトランプに興じ、料理を分担し、赤ワインを注ぎあって飲むシーンは、私の大好きな、この映画のひとつのクライマックスだ。そんな「女子会」のひと晩に、エロイーズが朗読する。帝政ローマの詩人オウィディウスによる、オルフェウスとエウリュディケ(ユリディス)の物語だ。
黄泉の国から妻を取り返そうとするオルフェウスの神話は、「古事記」に登場するイザナキとイザナミの物語に比較されることも多い、有名な物語。竪琴をもつ楽人オルフェは、その悲しみを歌にのせ、冥王に聴かせる。映画の字幕をそのまま引用しよう。
ああ 人間の行き着く先 冥府の神々よ
妻を返してください
妻は蛇に足を咬まれ/若い命を散らしました
あまりに早く尽きた運命を/巻き戻してください
ここは人間の終の住みか
人間を一番 長く/支配するのは皆さんです
我が妻も/十分な寿命を生きたあとは/皆さんのもの
願いが 叶わぬなら/私もここに残ります
妻とともに死にます
この歌にほだされた冥王と王妃は、オルフェウスの妻エウリュディケを亡者のなかから呼び戻し、地上に戻ることを許す。条件はひとつ、冥府を出るまで後ろを歩く妻を振り返らないことだけ。けれども、暗い坂道を長く歩いてあと一歩で地表に届くというとき、妻が心配になったオルフェウスは堪えきれず、振り返ってしまう。その途端、エウリュディケは冥府へ引き戻され、ふたりは永遠に離ればなれになるのだ。
だが妻は夫を責めなかった/愛されただけで十分だ
最後の別れの言葉も/オルフェの耳には届かない
妻は奈落へ落ちた
女子会中の三人は、この物語を三者三様に解釈する。約束を破って振り返ったオルフェウスの軽率さを責めるソフィ。妻の思い出を記憶に残すため、夫ではなく詩人として振り返ったのだろうと考えるマリアンヌ。それは愛ゆえの衝動だったはず、きっとエウリュディケも「振り返って私を見て」と思ったのだと解釈するエロイーズ。
このシーンのあと、マリアンヌは夜の館の闇の中に、白装束の花嫁衣装に身を包んだエロイーズの亡霊を見るようになる。その亡霊は、エロイーズの母が花嫁衣装を旅先から持ち帰った日に現実の姿となり、別れのときエロイーズは「振り返って!」と叫ぶ――もう二度と会うことのない恋人に向かって。ふたりは見つめあう。
映画の終わり、マリアンヌのナレーションで「最初の再会」と「最後の再会」が語られる。それは生身のふたりの再会ではなく、いわば「眼差しの再会」だ。最初の再会――絵画の展覧会で、誰か別の画家が描いた絵の中のエロイーズの眼差しと、マリアンヌは見つめあう。最後の再会――オーケストラの演奏会では、バルコニー席に座るエロイーズは対岸に座るマリアンヌに気づかないし、見ることもない。けれど、エロイーズがその楽音によって吹き起こされる嵐の中で、いままさにマリアンヌと見つめあっていることが、映画を観る者にはわかる。
思い出に打ち震え、官能的な涙を流して、エロイーズは全身全霊をかけて、記憶の中のマリアンヌと見つめあう。そのことをあんなにも精確に体現するアデル・エネルの演技にひどく感動して、私は映画館でその眼差しを見つめながら、号泣してしまったのだった。
関連ニュース
映画.com注目特集をチェック
関連コンテンツをチェック
シネマ映画.comで今すぐ見る
第86回アカデミー作品賞受賞作。南部の農園に売られた黒人ソロモン・ノーサップが12年間の壮絶な奴隷生活をつづった伝記を、「SHAME シェイム」で注目を集めたスティーブ・マックイーン監督が映画化した人間ドラマ。1841年、奴隷制度が廃止される前のニューヨーク州サラトガ。自由証明書で認められた自由黒人で、白人の友人も多くいた黒人バイオリニストのソロモンは、愛する家族とともに幸せな生活を送っていたが、ある白人の裏切りによって拉致され、奴隷としてニューオーリンズの地へ売られてしまう。狂信的な選民主義者のエップスら白人たちの容赦ない差別と暴力に苦しめられながらも、ソロモンは決して尊厳を失うことはなかった。やがて12年の歳月が流れたある日、ソロモンは奴隷制度撤廃を唱えるカナダ人労働者バスと出会う。アカデミー賞では作品、監督ほか計9部門にノミネート。作品賞、助演女優賞、脚色賞の3部門を受賞した。
父親と2人で過ごした夏休みを、20年後、その時の父親と同じ年齢になった娘の視点からつづり、当時は知らなかった父親の新たな一面を見いだしていく姿を描いたヒューマンドラマ。 11歳の夏休み、思春期のソフィは、離れて暮らす31歳の父親カラムとともにトルコのひなびたリゾート地にやってきた。まぶしい太陽の下、カラムが入手したビデオカメラを互いに向け合い、2人は親密な時間を過ごす。20年後、当時のカラムと同じ年齢になったソフィは、その時に撮影した懐かしい映像を振り返り、大好きだった父との記憶をよみがえらてゆく。 テレビドラマ「ノーマル・ピープル」でブレイクしたポール・メスカルが愛情深くも繊細な父親カラムを演じ、第95回アカデミー主演男優賞にノミネート。ソフィ役はオーディションで選ばれた新人フランキー・コリオ。監督・脚本はこれが長編デビューとなる、スコットランド出身の新星シャーロット・ウェルズ。
ギリシャ・クレタ島のリゾート地を舞台に、10代の少女たちの友情や恋愛やセックスが絡み合う夏休みをいきいきと描いた青春ドラマ。 タラ、スカイ、エムの親友3人組は卒業旅行の締めくくりとして、パーティが盛んなクレタ島のリゾート地マリアへやって来る。3人の中で自分だけがバージンのタラはこの地で初体験を果たすべく焦りを募らせるが、スカイとエムはお節介な混乱を招いてばかり。バーやナイトクラブが立ち並ぶ雑踏を、酒に酔ってひとりさまようタラ。やがて彼女はホテルの隣室の青年たちと出会い、思い出に残る夏の日々への期待を抱くが……。 主人公タラ役に、ドラマ「ヴァンパイア・アカデミー」のミア・マッケンナ=ブルース。「SCRAPPER スクラッパー」などの作品で撮影監督として活躍してきたモリー・マニング・ウォーカーが長編初監督・脚本を手がけ、2023年・第76回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門グランプリをはじめ世界各地の映画祭で高く評価された。
「苦役列車」「まなみ100%」の脚本や「れいこいるか」などの監督作で知られるいまおかしんじ監督が、突然体が入れ替わってしまった男女を主人公に、セックスもジェンダーも超えた恋の形をユーモラスにつづった奇想天外なラブストーリー。 39歳の小説家・辺見たかしと24歳の美容師・横澤サトミは、街で衝突して一緒に階段から転げ落ちたことをきっかけに、体が入れ替わってしまう。お互いになりきってそれぞれの生活を送り始める2人だったが、たかしの妻・由莉奈には別の男の影があり、レズビアンのサトミは同棲中の真紀から男の恋人ができたことを理由に別れを告げられる。たかしとサトミはお互いの人生を好転させるため、周囲の人々を巻き込みながら奮闘を続けるが……。 小説家たかしを小出恵介、たかしと体が入れ替わってしまう美容師サトミをグラビアアイドルの風吹ケイ、たかしの妻・由莉奈を新藤まなみ、たかしとサトミを見守るゲイのバー店主を田中幸太朗が演じた。
文豪・谷崎潤一郎が同性愛や不倫に溺れる男女の破滅的な情愛を赤裸々につづった長編小説「卍」を、現代に舞台を置き換えて登場人物の性別を逆にするなど大胆なアレンジを加えて映画化。 画家になる夢を諦めきれず、サラリーマンを辞めて美術学校に通う園田。家庭では弁護士の妻・弥生が生計を支えていた。そんな中、園田は学校で見かけた美しい青年・光を目で追うようになり、デッサンのモデルとして自宅に招く。園田と光は自然に体を重ね、その後も逢瀬を繰り返していく。弥生からの誘いを断って光との情事に溺れる園田だったが、光には香織という婚約者がいることが発覚し……。 「クロガラス0」の中﨑絵梨奈が弥生役を体当たりで演じ、「ヘタな二人の恋の話」の鈴木志遠、「モダンかアナーキー」の門間航が共演。監督・脚本は「家政夫のミタゾノ」「孤独のグルメ」などテレビドラマの演出を中心に手がけてきた宝来忠昭。
奔放な美少女に翻弄される男の姿をつづった谷崎潤一郎の長編小説「痴人の愛」を、現代に舞台を置き換えて主人公ふたりの性別を逆転させるなど大胆なアレンジを加えて映画化。 教師のなおみは、捨て猫のように道端に座り込んでいた青年ゆずるを放っておくことができず、広い家に引っ越して一緒に暮らし始める。ゆずるとの間に体の関係はなく、なおみは彼の成長を見守るだけのはずだった。しかし、ゆずるの自由奔放な行動に振り回されるうちに、その蠱惑的な魅力の虜になっていき……。 2022年の映画「鍵」でも谷崎作品のヒロインを務めた桝田幸希が主人公なおみ、「ロストサマー」「ブルーイマジン」の林裕太がゆずるを演じ、「青春ジャック 止められるか、俺たちを2」の碧木愛莉、「きのう生まれたわけじゃない」の守屋文雄が共演。「家政夫のミタゾノ」などテレビドラマの演出を中心に手がけてきた宝来忠昭が監督・脚本を担当。