フェラーリのレビュー・感想・評価
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レースシーンとペネロペ・クルスの迫力に圧倒される
映像も音楽も演技も超一級。充分堪能できた。
それでも胸に迫ってくるものがないのはなぜだろう。
エンツォ・フェラーリの一代期ではなく、波乱の一時期に焦点をあてた作品。
フェラーリが好きかどうか、レースが好きかどうか。関心があるかどうかで、楽しめるかどうかが分かれる。
(関心のない人は観に行かないか。フェラーリ好きの芸能人にプロモーションさせたのは失敗だと思う)
「グッチ」に続いてイタリア舞台の英語劇。
イタリアの人はどう思うんでしょう。イタリア人はイタリア人俳優が演じなければ、なんて言ってたら「キングダム」どうするんだって話しになるけど。
ハリウッドの作品をずっと観せられてきたからあまり気にはならない。
公開される作品が少ないからわかんないけど、最近のイタリアやフランス映画、俳優さんパッとしない人ばっかりだから仕方ないのかなぁ。(以前のように、フランコ・ネロ、ジャンカルロ・ジャンニーニやアラン・ドロン、フィリップ・ノワレ、ジャン・レノみたいに華のある魅力的な俳優さんががいない気がする)
事故のシーンが
ペネロペ・クルス大好き
アダム・ドライバーとペネロペ・クルスの別格の存在感に加えて、身体を使った心理表現の精度の高さに度肝を抜かれた。
人生は複雑だけど、フェラーリという人は決して人の命を軽く考える人間ではなかったということ、妻は精神が崩壊しながらも、冷静で気高い女性だということがヒリヒリと伝わってきた。
ビジネスの成功物語や男たちの友情物語に、最近はあまり興味がない私には、本作のこの感じ、すごく面白かった。
赤の色合いや、輝き、車のことはよくわからないけど細部に美意識が宿っていたように思う。
外部の資本に頼りながら、自分の美意識を曲げずに貫くという意味で、映画作りとレーシングチームは共通点があるのかもしれない。
マン監督は相変わらずピリッとしていて無駄がない。そしてエネルギーが溢れている。
誰もが想像するのは迫力のレースシーンでしょう。けれども誰がフェラーリ姓を継ぐかという家族のドラマの行方がもう一つの本作の見どころとなっているです。そして彼の非情さが大事件を起こすきっかけとなるのです。
マイケル・マン監督がアダム・ドライバーを主演に迎え、イタリア屈指の自動車メーカー・フェラーリ社の創業者エンツォ・フェラーリを描いたドラマ。ブロック・イェーツの著書「エンツォ・フェラーリ 跳ね馬の肖像」が原作です。但し彼が59歳だった1957年の1年にドラマを絞り込み、その人生を描き出しました。その頃のフェラーリは経営危機に瀕しており、エンツォが起死回生をかけて挑んだレースの真相を描くものです。
●ストーリー
1947年にフェラーリ社を設立してから10年、彼のマシーンがローマ・グランプリで優勝して以来、世界のレーサーがシートを争う名チームを育成し、地元の名士になっていたエンツォ・フェラーリ(アダム・ドライバー)でしたが、会社は倒産の危機にありました。富裕な顧客に少数生産の高級車を売りこむという商売は広がりを欠いていたためです。そこに資産豊富なフィアットやフォードなど競合他社から目をつけられて買収の危機にも瀕していたのです。
前年に息子ディーノを難病で失うという不幸もあって、妻で会社の共同経営社ラウラ (ペネロペ・クルス)との関係も冷え切っており、彼の心を癒すのは密かに愛する女性リナ(シェイリーン・ウッドリー)と12歳の息子ピエロとのひと時でした。しかしそんなエンツォの秘密もラウラの知るところとなります。
経営危機や私生活のトラブルによってエンツォは全てを失ってしまうという危機感を持つ。そんな時、彼は社運を賭けて、イタリア全土1000マイルを縦断する過酷な公道ロードレース「ミッレミリア」に参戦することを決めます。ポルターゴ、コリンズ、タルッフィと行った情熱的なレーサーたちによってチームが編成され、ついにレースがスタート。だが思いもかけない事態がチームを待ち受けていたのです。
●解説
タイトルは、もちろんイタリアの自動車メーカーの名ですが、アダム・ドライバー演じる会社の創業者、エンツォ・フェラーリの姓でもあります。
誰もが想像するのは迫力のレースシーンでしょう。確かにそれが本作の見どころの一つにはなっています。但し本作では、レース以外に、実話に基づき彼の経営者としての姿と私生活が描かれますが、誰がフェラーリ姓を継ぐかという家族のドラマの行方がもう一つの本作の見どころとなっているです。いや、レースシーンよりもこちらが真の見どころと言っていいでしょう。
フェラーリ社の共同経営者でもある妻と、愛人。死んだ息子と、日陰者のように生きる息子。「フェラーリ」という姓を巡って展開するドラマが、映画の核心なのです。本筋ではありませんが、金銭のやりとりに必要な署名、レーサーに書いてもらうサインなど、名前を巡るエピソードが何度か繰り返され、印象に残るのも、その証しではないでしょうか。
クライマックスは当時の伝説的レース「ミッレミリア」という公道レースのシーン。これが驚くほどの臨場感をもって展開していきます。まだレーシングスーツではなく革ジャンにジーンズ姿、市街の一部ではコースとの間に柵も無いなど、いまでは考えられないほどに危険に満ちたレースであることもひしひしと伝わってくる映像になっているのです。 本作では当時のままに郊外も町中も猛スピードで駆け抜けます。決死のレースシーンですが、奇をてらわない骨太感はマイケル・マン監督の資質でしょう。ハンドルを握るレーサーを運転席前方からとらえたアングルなどは古典的とも言えます。例えば、昨年公開された「グランツーリスモ」のレースシーンのめまぐるしい映像と比べれば、違いは明らかです。50年代という時代性に即したというよりも、マン映画らしい重厚さの表れと見ました。
多用される手持ちカメラによる撮影は、冒頭の朝、音もなく愛人宅から車を押しがけして走りだす秘めやかな走行から、助手席で構えたカメラでとらえた迫力たっぷりのレースまで、この映画の一つの主役である自動車走行を魅力たっぷりに描きだします。マイケル・マン監督がもっともやりたかったであろう迫真の映像で、観客はイタリアを横断する狂気じみた1千マイルレースの迫力を、これでもかと体感させられることになります。
しかし、ヒロイックな英雄譚となるべきレースは、思いがけぬ悲劇を引き起こします。事故はあまりにも派手なスペクタクルとして描かれるのです。レースを体感させようというマンの意図からは当然再現されるべきかたちですが、事故を起こしたドライバーが宙を舞い、胴体が真ふたつに裂かれる姿や、事故の巻き添えとなる子供を多数含む観客たちが犠牲となるシーンまで、克明に描いてしまうのはほとんど悪趣味の領域にまで到達いないでしょうか。
けれども、それはレースを再現しようとしたときに当然たどりつく結果でもあります。。それはヒーロー物のスペクタクルそのものの限界、はからずも「男たちの時代」の終わりを告げるものというのは大袈裟でしょうか?
●感想
それにしてもマン監督の演出には感嘆しました。渋い陰影のある画面が素晴らしいと思います。ドライバーもいいが、鬼気迫るラウラ役のクルスの演技を引き出したのもマン演出によります。やはり「ピート」「コラテラル」の監督は、単なるアクション映画の監督ではありませんでした。本作での演出は「ゴッドファーザー」のフランシス・フォード・コッポラ監督や名匠、マルコ・ペロッキオ監督のイタリアオペラ的な演出を、いぶし銀のごとくシンプルにしたようなものです。アクション演出にだけ長じていたのでは、この映画は撮れなかったことでしょう。
愛人の子ピエロには、よくパパぶりを見せるエンツォですが、母親のリナから息子の将来をどうするのか繰り返し詰問されても、頑として認知はしない徹底ぶりに、なんと非情な恐妻家なんだろうとすっと思っていました。そんなに共同経営者の本妻を怒らせて、高額の慰謝料を請求されて、会社がピンチに陥ることを恐れていたのだろうかと。
けれども当時のイタリアでは離婚は認められておらず動けなかったことほ鑑賞後に知るとなんだか切ない思いになったのです。
それでもエンツォへのパラノイア疑惑は捨てきれません。彼の少年時代のトラウマとして、何らかの人間不信に陥り、技術こそすべてという車に憑かれてしまった異様な人間として本作は描かれていました。
例えば、前のレースで思わずブレーキを踏んでしまい競り負けしてしまったポルターゴにエンツォは、レーサーのあり方をしつこく説教するのです。それはレースに出る以上生きて帰ると思うなという非情でした。
その後訪れるポルターゴの恋人で女優のリンダ・クリスチャンが彼の置き手紙を見て、涙するシーンは印象的。
レース中、「次の停車時にタイヤ交換を!」とかけられた忠告をポルターゴは勝利の焦りから断ってしまいます。エンツォがしつこくプレッシャーを与え続けなかったら、もっと違った結末となっていたことでしょう。
エンツォの人柄
フェラーリ再認識。面白かったでした。
フェラーリ一家の愛憎、カーレースの世界と映像、エグゾーストノート、モータースポーツ好きには応えられない作品。
しかし残念ながらハリウッド映画。
マセラティとタイムを競うシーンでどうしてもフェラーリは勝てない、というシーンでバックに永々とモーツァルトのアヴェヴェルムコルプスを流すのです。モーツァルトはオーストリアの作曲家だし、曲はモーツァルトが妻が療養時にお世話になった教会へお礼として作曲した子守唄。イタリアのレースカーのタイムトライアルに何でこの唄なのと、このシーンに相応しいイタリア歌曲はいくらでもありますよね。
人間エンツォの半生
感想
映画本編ではストーリーが具体的に描かれない話も多く、若い頃の描写はイメージ映像で処理されており、作品の出来としては中途半端でモータースポーツエンターテイメントに徹する事が出来ていないと感じた。人間模様かアクションどちらかに話の軸を絞った方が良かったと感じる。
余談ではあるが、あらためてエンツォフェラーリの半生を映画のストーリーを含めて時系列に並べてみる。(年齢表示はエンツォの年齢)
本名:エンツォ・アンセルモ・ジュゼッペ・マリア
・フェラーリ
イタリア人レーシングドライバー。スピードマニア。スクーデリア代表。自動車会社経営者。尊称コンメンダトーレ。オールドマン。母親違いの2人の息子の父親。
1918年 20歳
フィアット社のテストドライバー選抜テストを受けるが、不合格となる。この間も国内レースをロードして周る。
1920年 22歳
アルファロメオのレーシングテストドライバー。後、幾つかの国内レースで優勝。ワークスの正式レーシングドライバーとなる。
1928年 30歳
コンメンダトーレ(勲三等イタリア共和国功労勲章)を叙勲される。体調不良によりレーサーとしての資質に限界を感じる。
1929年 31歳
アルファロメオのセミワークスチームとしてスクーデリア・フェラーリ創設。エンジニアとして再始動する。
1930年 32歳
ワークスでのレース初勝利。
1932年 34歳
最初の息子アルフレード・フェラーリ誕生をきっかけに地元モデナでアルファロメオの販売代理店を共同経営で始める。
1933年 35歳
アルファロメオよりワークスチームの全面委託を受ける。
1939年 36歳
経営陣との対立でアルファロメオを退社。協定上5年間はフェラーリの冠は使用出来なくなるも、会社名を変えてレースカーを開発製作する。
1940年 37歳
オリジナルカー「815」を製作。その年のミッレミリア参戦。
1940年6月から1943年8月まで第二次世界大戦へのイタリア参戦により、ミッレミリア及び国内レース開催は中断する。
1945年 47歳
不倫関係にあった旧貴族の娘リーナ・アデラルディとの間にピエロ・ラルディ・フェラーリ誕生。リーナはピエロが小学校入学の頃までにはエンツォに認知してもらいフェラーリ姓を名乗りたかったが、妻ラウラは認知を許さず、1978年にラウラが死去するまでフェラーリを名乗ることが出来なかった。
(ピエロは現フェラーリ社の副社長である。)
1947年 49歳
妻ラウラと共同出資でフェラーリ社創業。シャーシとモータースポーツに特化した高性能エンジンの開発を再開する。ラウラは気性が荒く感情が先立つ性格。長男アルフレード・フェラーリは前途有望なフェラーリ社の新進エンジニアであった。
1950年 52歳
フォーミュラーワン開始と同時に参戦。その他、ル・マン24時間耐久レース、ミッテミリアに継続参戦する。50年代から高性能エンジンとシャーシをレースに続々と投入し世界的に輝かしい結果を残す。レースマシンをデチューンした高級スポーツカーの販売も開始する。市販車エンジン開発は主にアルフレード・フェラーリが担当していた。
1952年 54歳
ラウラがリーナとの不倫関係を知ることとなり、同時に庶子(ピエロ・フェラーリ)がいる事も発覚。離婚を決意請求する。話し合いの末、①庶子の認知はラウラ自身が死去するまで認めない。②ラウラが権利を有するフェラーリ社の全資産の半分をドル建で現金化した当時の金額で約50万ドルを分与する。というものであった。離婚の成立と同時に資産分割相当額の現金を支払う事をエンツォは了承するが、具体的な請求期日に関しては未定とし、赤字である会社の経営状態を考慮して欲しい旨をラウラに懇願し、この条件をラウラも了承する。
1956年 58歳
アルフレード・フェラーリ筋ジストロフィーを発症。併発した腎臓疾患のため24歳の若さで逝去。エンツォはスクーデリアと会社の跡取りとして将来を嘱望していた為、その死を非常に悲しみ、自身が亡くなるまで墓参りに日参したという。またピエロを墓参りに連れて行く事もあったという。
1957年 59歳
ミッレミリア、イタリア・ロンバルディア州カヴリアーナで死傷者9名以上(フェラーリ正式ドライバーのアルフォンソ・ポルターゴの死亡を含む)を出す大事故が発生。死亡者に子供が含まれていたため訴訟問題となる。この時献身的にエンツォに付き添うリーナの姿をラウラがテレビニュースで発見。嫉妬の心に火が着き資産分割請求期日を事故発生年内と記入し請求。期限内に50万ドルを現金で支払う事になる。事故調査の結果、事故の原因がドライバーの操縦ミスではなく、道路上の落下物によりタイヤがバーストした事による避けようの無い不測の事故であった事が判明。エンツォ自身が不起訴となった為、その年のミッレミリア優勝はフェラーリとなった。多額の訴訟費用支払を免れ、ラウラへの50万ドルは支払われ会社の全権利を取得、離婚が成立する。ラウラの行動は積年の恨みの結果、決してエンツォを救済する目的ではなかったと映画本編
の中では描かれたように感じる。真相は深い闇の中であり現在では語れる者も少ない。ミッレミリアはこの年を最後に開催中止となっている。
本編はここで終焉を迎えるが、その後60年代後半頃に新性能レーシングカー開発に拍車が掛り、会社経営が再び傾きかけた時にアメリカのフォードに買収されそうになるも最終的にはイタリア人の職人技で保っている自動車製造技術の国外流出を防ぐという大名目の元、エンツォとは因縁深い関わりのあるフィアットが買収を決定し傘下に治める事になるなど、話題性には事欠かなかった。エンツォはカーエンジニアに専念してモータースポーツ界は元より自動車業界において隠然たる影響力を持ち続け、事実上のフィクサーとして君臨した。人々はオールドマンと尊称し敬愛した。
⭐️3.5
アダムとペネロペの印象違いすぎ
人間ドラマ
フェラーリvs悪魔たち
ドライバーという名前の俳優がいよいよフェラーリという題材に、、という訳でもないのだろうが、アダムドライバーもマイケルマンもプロデュースに加わっての作品なので相当期待していたがあまり盛り上がってないのでなんなのかと思ったら納得した。
たぶんいろいろ撮ってまとまらなかったのだろう。
中身的にチラッと『フォードVSフェラーリ』をかすめるが、あちらにエンターテイメントとしてのドラマ性の良さがすべてあって、こちらにはない。
そしてどちらかというと『ハウスオブグッチ』方向なのだけど、この際、ペネロペクルス演じる嫁さんにフォーカスしちゃってもよかったのでは。というくらいエンツォフェラーリが面白くない。
ただフェラーリの車体とエンジン音がすこぶるいいのでそこだけ楽しみにしてると、きっと良くないことが起こりそうな流れでシャーッと悪魔が運命を切り裂く瞬間がしっかりエンタメされて鮮烈過ぎて、これはフェラーリvs悪魔、なのかと思った
エンツォ•フェラーリ
妻、愛人、会社、レースとエンツォを取り巻いていたエピソードを凝縮して作られているが…
それぞれのエピソード自体は良いし役者さんの演技も良いのだけど、イマイチそれが作品としてまとまってたようには思えない
見ていて映画としての盛り上がりはどこなんだ?って疑問、クラッシュシーンは迫力があるがうーん
現実としてフェラーリ社が大きくなっているから問題は無いんだけど、映画の中のエンツォの功績ってレースチームを見離さずに激励している部分だけでは?
不穏になってる部分の多くは、エンツォ自身で巻いた種だから上手くいった感は無い
経営者の情熱と現実
レースのシーンは迫力
レース、特に事故のシーンはさすがの迫力。
すごい人だったんだろうが、奥さんが可哀想。
イタリアの話を英語でやるのは違和感あるな。
ポルシェではなくフェラーリか!?
昔、超クルマずきの友人が借金をして買ったポルシェに乗せてもらい、深夜の首都高速を200キロの速度で走ったことがあります。100キロから200キロまでの加速は体感一秒!
その間の光景はまさにスターウォーズのミレニアム・ファルコン!!左右等間隔にある照明灯が瞬く間に点から光線に結ばれ、前方の視界はその光線の集まる遠くて狭い一角に凝縮されていったのです。もちろん、背もたれに押しつけられるようなGもいまだに忘れられません。
人生最初で最後のクルマでの超高速体験でした。
関係ない話ですみません。
映画を見終わるまで、あの時の車がフェラーリだったっけ?と勘違いしてたもので…
この映画、伝記や自叙伝の類いではなく、本当にただフェラーリさんの人生を一部切り取って映像化した?だけなのでしょうか。
私には人としての生き様であるとか、ビジネス上の切った張ったのやり取りから何かしらのドラマ性や教訓を得る、というような要素が感じられなくて、なんだかつまらない映画でした。
ただ、舞台はイタリア。
観光資源の奥行きやデザイン大国であることの片鱗は随所に感じられて、イタリア万歳!という気分にはなれたので、それなりには楽しめました。
知ってるつもり
カイロレンの老けメイク演技やペネロペクルスの演技は達者だなと思うけれど・・・
フェラーリには興味はありませんでしたが
2019年の「フォードvsフェラーリ」が面白かった事と
マイケル・マン監督作という理由で
「フェラーリ」字幕版を鑑賞してきました。
以下ネタバレ
「フォードvsフェラーリ」のような
レースシーンが盛り上がる映画かと期待しましたが、
「フェラーリ」のレースシーンは何度も見たいレース映画ではなく、
ドラマパートも金持ちの不倫に興味がないため、
カイロレンの老けメイク演技やペネロペクルスの高齢演技も
役者は達者だなと思うけれど、
「フォードvsフェラーリ」のような
レースシーンのテンションを上げるためのドラマ展開ではなく、
ちょっと期待外れな映画でした。
イタリアファッションや
1957年の金持ちのライフスタイル描写は
映像としては、見どころがありましたが、
「フォードvsフェラーリ」のような
エンジン音と音楽でテンションを上げたかった観客としては、
あまり楽しい映画ではなく、
マイケル・マン監督の「ヒート」の銃撃戦のような
静寂な緊張感のあるレースが見たかったな・・・と思う映画でした。
「ハウス・オブ・グッチ」を見たときにも思いましたが、
イメージで金儲けしているブランドならば、
経営者をモデルにした映画は、フェラーリのイメージ向上にはならないのでは・・・と
いらぬ心配をしたりする映画でもありました。
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