フェラーリのレビュー・感想・評価
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アダムドライバーはかっこいい。昔のレースシーンもかっこいい。でも全...
アダムドライバーはかっこいい。昔のレースシーンもかっこいい。でも全体としてはそこまでかっこよくはなく、かといって泥くさくもなく、中途半端な印象。
エンツォ・フェラーリの自伝的な映画
エンツォ・フェラーリの息子ディーノを病で失い会社は車が思う様に売れず傾いて行っていた。元々女遊びが好きだったが奥さん兼共同経営者のラウラと険悪ながらもなんとかやっていたが愛人と子供の存在がバレて更にややこしい事に。
一発逆転の秘策として(今となっては伝説の)自動車レースのミッレミリア((公道を使った)1000マイルレースの意味)で優勝してフェラーリのスポーツカーの宣伝と販売を上げる作戦に出た。
果たして結果は?フェラーリ社の運命は?
…も何も歴史を見れば全部分かるわな。
この映画のキモはエンツォと奥さん、愛人と子供、病気で失った(長男となる)ディーノに関するそれぞれの葛藤と駆け引き、各自の行動にある。実に人間臭いドラマが繰り広げられる。
それも見どころだが1950年代のスポーツカー、レーシングカーの走りとサウンドはもう一つの見どころ。レースファンにもお勧め。
今にして見ると当時のレースカーで凄まじい速度でレース場を走り回る、ミッレミリアのレースでは普通の公道を同じく猛スピードでバトル。あまりに怖すぎる。当時はあれが普通で安全への配慮も今とは大違い。とんでもない故障もあればコースを外れてリタイヤし、仕方なくライバルチームの車に乗せてもらって街まで帰るとか実に牧歌的。
その代わり一旦事故となったら車は吹き飛んで人間はバラバラ死体(これが結構あるからR12なんだろう)。実際この映画の元となった1957年の大事故によりミッレミリアの開催は無くなった。
迫力はあるが同時に怖すぎる。今やそんなレースを生で見ることは叶わないから映画で再現と言うのは良いものかも知れない。
ラストが・・・
レース関係、クルマ関係の話かと思いきや、1号、2号の話。
ニキ・ラウダの時代まではいかない。
公道を使ったレースはなかなか楽しい雰囲気と思いきや、ラスト、唖然とした。
2回観るかと言えば、微妙・・・
破綻のない良映画
脚本、演出、編集とも穴はない。主役嫁愛人と演技もいい。
つまり良映画
電車とか車とか当時の物を使っていて金も掛かってる
日本映画には「本田宗一郎物語」作ってもらいたいが(もちろん無謀なマン島tt挑戦がテーマで)、予算規模考えると暗澹たる気持ちになる。正直本映画がうらやましい
ケチを付ける部分はない
せいぜいが、どうせなら前編イタリア語だったらいいのに、程度
個人的には、憎み合うだけでない夫婦の造形が見事だった脚本家に花束を送りたい
いやーいい映画だったな
贅沢言うなら、レースマネジメントやレースシーンをもっとしっかり描写してほしかった。そもそもマセラティとフェラーリ、それぞれどういう思想でミレミリアマシンを設計していたのとか。あと他チームも少しは描写してやれよとは思ったw
すっげえ散漫。ディレクションできてない。 たぶん本当は「エンツォフ...
すっげえ散漫。ディレクションできてない。
たぶん本当は「エンツォフェラーリという業が深い人間の狂気に、ビジネスも人間の愛憎も社会も巻き込まれていくことで、まるで血の赤のような人間の業を煮しめたようなフェラーリの赤が生み出されているのだ…」とかいう話にしたかったんだと思う。でも出来てない。
仕事が描けてないからエンツォはいっつもブラブラしてるだけに見えるし、家族が描けてないからエンツォはいっつもブラブラしてるだけに見えるし、狂気が描けてないからエンツォはいっつもブラブラしてるだけに見える。
1950年代の自動車産業の社長はどういう一日を過ごしているか、があんまり詰められてないから、ずーっとフワフワしてる。メカニック的なセリフでひきしめるべきシーンも延々と具体性がなく「いい感じにがんばれ」くらいしか言ってない。ふわっふわ。
あと撮影がバラバラ。墓場のシーンでは急にドキュメンタリ調のカメラになったり、でもレースシーンのクラッシュではCGが目立つわざとらしいカメラワークになったり、手法に一貫性がない。
全体的になにもかも散漫。とてもよくない仕事だと思います。
現在のフェラーリが有るのは、妻ラウラのおかげ
特にスポーツカー好きではないが、F1GPは好きだったし、当時マクラーレンホンダを応援していたがそれでも、フェラーリだけは特別。しかも70年位前の可愛いフォルムのフェラーリが走り回るのには感慨深い。
冒頭モノクロのレースから始まる。フェラーリの歴史を感じる。
エンツォ・フェラーリの1957年に起きた激動の3ヶ月を描くドラマ部分と、その途中途中にレース場面が差し込まれる。
しかし、特に前半のドラマ部分が分かりにくく眠かった。
レースもミッレミリアというレースを知らなかったので、どういうチームが参加しているのか分からず、完全にレースに堪能出来ていない。しかし前方視線の迫力がある映像。石畳の狭い街並みを、コロッセオの近くを、駆け抜けるフェラーリ。郊外ではサイドバイサイドの闘い。レース最後に衝撃映像。
妻ラウラの最後の決断。妻としてではなく会社を選んでくれた。
最愛の一人息子を亡くした深い悲しみの中、夫にいた隠し子の存在。そりゃ怒り狂うよ。それでも夫への裏切りの失望よりも、夫への愛、会社への愛着が上回っていたのだろう。
ラストではエンツォはピエロを亡き兄に合わせに行く。認知してもらえるのはずっと先だが、もうフェラーリ家の一員。
間違いなくマイケル・マン監督の最高傑作の一つだけど、爽快感よりも悲壮感が漂う一作
誰もが知る高級自動車メーカー「フェラーリ」についての物語ということで、特に車が好きな人には注目度の高い作品でしょう。
クラシックな美しさに見とれてしまうようなレースカーが、サーキットや市街地の狭い路地をだんご状態で駆け抜けるさまを、迫力満点かつ独自の映像美でとらえたレース場面は、こうした期待に十分応えてくれる、あるいはそれ以上の仕上がりになっています。
じゃあスリルと迫力を楽しむアトラクションムービーなのかというと、むしろ全く逆で、本編の多くはアダム・ドライバー演じるエンツォ・フェラーリとその家族の物語に時間を割いているのですが、マイケル・マン監督が描くフェラーリは、レーサーに無謀な挑戦をするようけしかけたり、隠し子の認知を渋るなど、なかなかの人格破綻っぷりを披露します。
そしてマン監督は、人間的に問題を抱えつつもフェラーリのオーナーとして権威を振るう彼の「罪」を、容赦なく断罪します。それは例えば、妻ラウラ(ペネロペ・クルス)に重点を置いた物語の流れ、という形でも現れるし(ラウラが決定的な場面でもフェラーリを罵倒しないことが、ますますフェラーリの「小物」っぷりを際立たせます)、アドレナリン全開のレースが冷や水を浴びせられる形で幕を閉じる、といった形でも現れています。
レースの描写、特に重要なクラッシュ場面は、ある種の誇張表現ではないかと思うようなショッキングさで、衝撃を受けるよりもあっけにとられてしまいますが、一連の映像の多くは、綿密な調査に基づいて可能な限り実際の状況を再現した結果とのこと。
これまで「男のロマン」を美化して描く映画作家として定評があったマン監督が、本作のような描き方を選んだことは驚きです。同時に本作は、スタイリッシュな作家性と併せて彼の作風を特徴づけている、徹底した取材に基づいた作劇、という職人的なこだわりがいかんなく発揮された作品となっていました!
イタリア語で自動車は女性名詞……てかアダム、耳どうした
嘘でもいいからイタリア語にしてほしかった。
ジェンダー云々の話になると、「とは言ってもイタリア語もフランス語も言葉に男女が歴然とありますけど、それはいいんですか?」てな問題になるイタリア語である。macchinaは女性名詞だ。
……ってやっぱり言われるよね、と制作サイドも(多分)わかっていて、ところどころに苦肉の「イタリアっぽい表現」が(もちろん英語で)ぶち込まれているのだが字幕がそれを表現できてない。
イタリアは今でも街に個人経営の、庶民個人のためにモノを作ってる店が並んでいる。
あの時代なら服は当然仕立て。
調度品も仕立て。
そのへんの考証は結構できてる、だけに英語がつらい。
赤く塗られらた鉄板が猛スピードで走るほうがセックスよりエロいのは歴然だ。
マセラティもよくオッケーしたもんだと思うけれど、「まぁまぁ」で済まなそうで済んじゃいそうなところがイタリアホモソーシャルっぽくもあり。そういうとこなんだよ、地中海に無駄に突き出してないんだよ。
もしイタリア語だったら話のまとまらなさも、アダムがどう見てもイタリア語話者に見えないのもかなりチャラになるのに。
のちに若造だったルカ・モンテゼーモロをマネージャーにしちゃう人に見えないんである。ヤニが足りないんだよなぁ。
命懸けの戦いに身を投じる将軍と兵士を描く、『ゴッドファーザー』風味の米製イタリア家族劇。
想像以上に重厚で、まっとうな、映画らしい映画だった。
観に行って正解だった。
あまりにまっとうな映画なので、しょうじき、あまり語ることがない。
事前に予測していた内容と、違っていたことはたしかだ。
もっとガンガン車を走らせる『栄光のル・マン』みたいな映画かと思っていた。
だが実際は、むしろネオ・リアリズモを意識したかのような、ひりひりする家庭劇だった。
でも、これはこれでちゃんとしていて、地味だが楽しかった。
大衆受けはしないだろうが、ああマイケル・マンはこういう映画が作りたかったんだな、と思った。
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映画として、どうしても比較対象にのぼるのは、『ハウス・オブ・グッチ』かと思う。
両者には、いろいろと共通点がある。
すでに老境にある巨匠監督が、長年の準備を経て撮った映画で、
イタリアを舞台にしながらアメリカ人キャストで固めた映画で、
登場人物はイタリア人だが、イタリア訛りの英語でしゃべってて、
実在するイタリアの大企業の内幕を描くスキャンダラスな題材で、
現在でも存命の登場人物がふつうに出て来ている。
そして、どちらもアダム・ドライヴァーが主演している(笑)。
前に『ハウス・オブ・グッチ』を観たとき真っ先に思ったのは、「なんだこれ、話のあらすじとか細部の演出とか、ほとんど『ゴッドファーザー』とまるで一緒じゃないか(笑)」ということだった。
今回の『フェラーリ』にも、『ゴッドファーザー』の臭気は拭い去り難く漂っている。
主人公は表面上コワモテで、ぶっきらぼうで、男と男のプライドをかけた「抗争」に命をかけていて、しもじものドライヴァーは常に命の危機にさらされている。
彼らにとって「ファミリー」は大切で、後継者を産めるかどうかも重要だ。
家庭に戻れば、企業戦士も優しい父親である。亡くなった息子に対する情愛は特に深い。それでも、会社と、勝利のためになら、いくらでも非情になれる。
要するに、イタリアにおいて「企業」とは「家族」の延長上にあるものであって、その論理は、「マフィア」とそう大きくは変わらない。
『フェラーリ』は、そんなイタリアの家族の在り方と、企業の在り方、そして企業間の威信をかけた抗争の様子を、じっくりと腰を据えて描き出す映画だ。
『ハウス・オブ・グッチ』ほどのグチャグチャの殺し合いにはなっていないにせよ、『フェラーリ』における家庭模様もなかなかにヘヴィーだ。
虚弱児を抱えながら、平然と浮気をして婚外子をつくるエンツォも、エンツォに「兄ではなくてお前が死ねば良かったのに」と呪いをかけ続けるえぐみの強い老母も、息子と共に愛も優しさも幸せも喪って、フェラーリ社のために動き続けるド迫力女房ラウラも、みんなが一筋縄ではいかないクセモノたちである。人を猛烈に傷つけながら、自分も猛烈に傷つき、その代償を求めるかのように、権勢と盛名を永遠に求め続ける「どてらいやつら」。
僕は、こういう連中が決して嫌いじゃないし、
こういうドラマも、嫌いじゃない。
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1950年代のカーレースの世界は、戦場そのものだ。
単にそれは、国家や企業の威信をかけた代理戦争であったとか、技術革新を競い合う戦いの場だったといった、比喩の謂いではない。
本当に、当時のカーレースは、命懸けだったのだ。
本作の舞台となっている1956年は、フェラーリにとって苦難の年だった。
3月には、映画の冒頭で描かれたように、トップ・ドライヴァーのエウジェニオ・カステロッティがテスト走行中のクラッシュで死亡。
5月のミッレミリアでは、本作の終盤で描かれた通りの展開で大事故が起きて、アルフォンソ・デ・ポルターゴとエドモンド・ネルソン、および観客13人が死亡。ミッレミリアはこの事故がきっかけでレース自体が廃止となる。
じゃあ、このときフェラーリの同僚だったドライヴァーたちはその後どうなったのか?
調べてみて、戦慄した。
最後のミッレミリアで優勝したピエロ・タルフィは、奥さんとの約束を守ってこれをもって引退、81歳まで長命を保ったが、ルイジ・ムッソは翌年(1958年)のフランスGPで事故死。
ミッレミリアにも出ていたピーター・コリンズのほうも、同じく1958年、F1ドイツGP中の事故で死亡。
同じくフェラーリの同僚だったマイク・ホーソーンは、コリンズの死にショックを受けて58年に引退しているが、59年に公道上の自動車事故でやはり死亡している(彼は1955年のル・マンで、運転手・観客合わせて86人の死者を出した大事故の当事者でもある)。
さらには、好敵手マセラティのドライヴァーとして登場した二名のうち、スターリング・モスは90歳の天寿をまっとうしたが、本作でも何度も名前の登場するジャン・ベーラは、1959年にドイツのスポーツカーレースで事故死している。
要するに、本作に出てきたドライヴァーで、1960年を超えて生き延びることが出来たのは、タルフィとモスの二人しかいなかったということだ。
一体全体、どれだけ危険なレースやってんだ、こいつら??
ぶっちゃけ、「命が軽すぎる」。
ほとんど、ウクライナの最激戦地に派兵されているようなもんだ。
一瞬の不運が、一瞬のゆるみが、大事故を引き起こし、当時の車(防御システムもシートベルトも何もなかった)で事故るということは、ほぼほぼイコール「死」を意味していた。
まさに、「走る棺桶」である。
それでも、彼らは「戦地」を転々とし、男の誇りをかけて最速を競い合った。
まさにドライヴァーたちは「命を懸けて」闘っていたのである。
率いるエンツォ・フェラーリは、言ってみれば彼ら兵士を率いる「将軍」だ。
「将軍」は死亡事故がおきたとき、、部下と、巻き添えとなった観客たちの死を悼む。
悼みはするが、それが彼の野望と進軍を妨げることは、決してない。
1950年代のカーレースにおいて、一定数のドライヴァーと観客の死は、必然的に計算せざるを得ない「損耗」の一部だ。それは、軍隊で兵士の損耗がついてまわったり、岸和田のだんじり祭りで毎年犠牲者が出るのは織り込み済みであったりするのと同様で、彼らの世界観のなかでは「致し方ない」結果なのだ。
僕たちはこの映画を、「そういう目で」観なければならない。
要するに、これは「モータースポーツ」を舞台とした物語ではない。
明日をも知れぬ命を賭した戦いに身を投じる、戦士と指揮官の物語だ。
戦争映画や、宇宙飛行士の映画と同じくらいの「致死率」のなかで戦う男たちの決死行。
ドライヴァーたちが、レース前に愛する者に書き残す手紙……あれは、縁起担ぎでもレーサーの風習でもなんでもない。本当に死ぬかもしれないから、死んだときのために書き残している「実務的な」お別れの手紙なのだ。
その意味で、50年代というのは、第二次世界大戦の大量死によって「総体的に人の命が軽くなっていた」荒れた時代の余韻のなか、新たな文化がなりふり構わず勃興していた時代だったのだな、と今更ながら思う。そして、マイケル・マンにとって、フェラーリはその時代の「象徴」として描かなければならない存在だった、ということだ。
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作中でエンツォや愛人、マセラティたちがオペラを観劇するシーンがある。
仕組みはよくわからないが(笑)、窓からラウラや老母にもその音が聴こえている設定らしく、全員が過去を回想し、過ぎ去りし「良き日」をフラッシュバックする。
かかっているオペラは『椿姫』で、ふたりが歌っているアリアは「パリを離れて」。
第三幕で余命いくばくもないヴィオレッタに、アルフレードが一緒に田舎暮らしをしようと持ちかけ、「きっと身体もよくなるわ」とヴィオレッタも喜びに満ちて返すというシーンだ。この直後にヴィオレッタは倒れて、ヴァルモンの訪問とアルフレードとの最後の別れを経て、帰らぬ人となる。
死病に取りつかれたヴィオレッタは、フェラーリ家の人々にいやおうなく、亡くなって間もないディーノのことを想起させるだろうし、「パリを離れた田舎の生活」は、エンツォと愛人には第二の秘められた家庭のことを考えさせるだろう。
そもそも、マイケル・マンは、「エンツォの人生はオペラのようだ」と述べている。
家族の愛憎。浮気と婚外子と二つの家庭。野望と苦難。どこか作為的で無駄にドラマティックな人生。たしかに、フェラーリの生涯はなんとなくオペラくさい。
そして、モデナの街は、フェラーリの街であると同時に、オペラの街でもある。
『フェラーリ』の映画にとって、このオペラに載せてそれぞれの「幸せだった過去」が去来する演出は、実に気の利いた仕掛けだったといえる。
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●基本、僕はマイケル・マンという監督を心から信頼しているので、作品の出来をうたがうことはなかったが、冒頭の記者との気の利いたやりとりと、床屋の軽妙なリアクションで、映画のクオリティは疑う余地のないものとなった。やっぱりうまいよ、この脚本!
●アダム・ドライヴァーは、『ハウス・オブ・グッチ』に引き続き、似非イタリア人(ただし実在する人物)を好演。前作のマウリツィオとはまるで別人といっていいエンツォ・フェラーリを、真実味をもって演じあげた。10歳以上年上のエンツォにメイクと演技で寄せながらも、無理な老け役になっていないのがいいところだ。
●ペネロペ・クルスは、僕が映画を真剣に観始めた30年前の時点ですでにデビューしていて、50歳になる今も、その外見がほとんど変わっていないのは驚愕に値する。
今回は「わざと老けている感じ」で演じていたが、浮気夫を「詰める」迫力は、さすがのキャリアを感じさせる。
●マイケル・マンは、もともと熱狂的なフェラーリ・マニアで、カーレーサー経験もある筋金入りのカーキチ。2019年に大作『フォードvsフェラーリ』を製作したにもかかわらず、それに飽き足りず、本作を撮り上げてみせたというわけだ。
ちなみに、エンドクレジットを観ていて驚愕したのは、プロデューサーの異常な人数!!
プロデューサーだけで12人、エグゼクティブプロデューサーも同数の12人いる(笑)。
構想30年のあいだに、関係者が鼠算式に増えていったのか。様子をぜひ知りたいものだ。
●脚本のトロイ・ケネディ・マーティンは、映画化が難航しているあいだに、2009年に逝去。もともと監督を務める予定だった故・シドニー・ポラックとともに本作を捧げられている。そうか、トロイ・ケネディ・マーティンって、あの怪作&快作『戦略大作戦』の脚本家なのね!
●アルフォンソ・デ・ポルターゴの事故シーンだけ、いきなりルチオ・フルチやデオダードみたいな、イタリア残酷ホラー風演出&特撮になってて笑う。最高。
●ちなみに、僕は車のない家庭に育ち、自身も免許を持たず、今も車のない生活を送っている究極の車音痴で、この作品の「車」愛をきちんと理解できているとは、とても思えない。
結構な齢になるまで「月極」を「げっきょく」と呼び、セダンを車種名だと思ってたくらいですから(笑)。とはいえ、学生の頃はまさにフジテレビのF1中継が花盛りで、よくわからないなりに、セナとマンセル、プロストのデッドヒートに胸を熱くしたものだし、セナの死には衝撃を受けたものだった。T-SQUAREの音楽とともに、F1は深夜放送に耽溺していた青春の一頁として、僕の胸に深く焼き付けられている。
というわけで、大画面で展開するミッレミリアの再現映像には、やはりアドレナリンがドバドバ出た。
カーレースのド迫力の緊迫感と、牧歌的なイタリアの農村風景の取り合わせ!
なんて素晴らしい。
まあ、車音痴ゆえに、フェラーリとマセラティの車が「両方赤い」と途中まで気づいていなくて、「なんで味方同士でこの人たち競り合ってるんだろう?」とかぼんやり考えていたことは内緒だが……。
●最後に。映画.comのプロコメントで、アメリカ人が英語でイタリアを舞台とする映画を撮ったことを非難するようなことが書いてあって、久々にムカついた。ポリコレ脳ここにきわまれり。この映画の興収が悪いこととそれは1ミクロンも関係ないよ。
無邪気な車好き「ピエロくん」。
フェラーリが人の名前だと初めて知った。「トヨタ」みたいなもんか。創始者エンツィオのレースと車づくりにかける情熱みたいなものが伝わってくる。一方で最高の車を作ることの代償として「孤独」を抱えているように見える。心が安らぐ場を愛人母子との生活に求めるのも分かる気がする。レースは元々命がけの仕事であるが、その真剣勝負の緊張感は想像するしかない。レーサーとのドライな関係や、「俺の車に乗ったら、命よりも勝つことだけを考えろ」みたいなセリフに現実感がある。
私生活と会社経営に問題を抱えて、その思いがすべて「ミッレミリア」のレースに集約しているようだ。映像面では、1950年代のレースを見事に再現している(知らんけど)。爆走するレースカーの迫力にはドキドキさせられる。それにしても車体自体やレーサーを守る安全設計はどうなっているのかと疑問が浮かぶ。いやそれよりも交通規制や観客の安全対策が大丈夫なのかとドキドキする。そして不幸な事故は起こってしまう。
エンツィオの「孤高」さが作品全体に際立っている。それが周囲との軋轢にもつながっているが、息子ピエロとの関係には何かしら明るい未来も感じさせてくれるそんな映画でした。
フェラーリの創始者。エンツォ・フェラーリの壮絶な半生を描いた作品。 本年度ベスト級。
カーレースメインの作品と思いきやちょっと違ってた(笑)
エンツォ・フェラーリの公私に渡る色々な出来事をメインに展開するストーリーだった。
エンツォ夫婦に起こった出来事がかなりエグい!
これは当事者でないと解らないけど関係する人々が皆、辛い感じで落とし所が見出だせない(笑)
でもエンドロールで本当の結末が解る親切設計(笑)
期待したレースのシーンは後半に登場。
年間に100台も売れないフェラーリが倒産の危機の中、イタリア全土1000マイルを走る「ミッレミリア」と言うレースに参加する展開。
街中には防護フェンスとかあるけど郊外には何も無し。
だけど郊外をレースカーが走るシーンの風景がとても美しい。
かなり危険な感じで走る郊外で案の定事故が発生。
かなりのインパクト!
シートベルトって当時は無かったの?
そんな中、給油とかのピットのシーンが今と違いのんびりし過ぎ(笑)
そうかと思えばライバルチームの車が事故に遭い、ライバルチームのレーサーを助手席に乗せチェックポイントまで行くシーンにホッコリする(笑)
エンツォを演じたアダム・ドライラーさん。
今まで見た雰囲気とは異なった格好良い感じが印象的でした( ´∀`)
戦争を挟んで、女性の生き方も変われたのに過去は変えられなかったというサイドストーリーも重要と思った。
チキンレースとしか思えない「レーサー」という職業、さらに高みから精神的に操る立場の主人公に、到底共感できないだろうと期待しないで見た、ペーパードライバーの私。しかし、やはり映画こそ百聞は一見に如かず! 公道(街中・大自然バックの車のCMみたいな光景)レースとは、全く知らずに見たので、もう1回イタリア旅行行けたみたいでラッキーでした〜。
クセ強主役二人のお顔と振る舞いの魅力度、抜かりなき美術・撮影・音響の総合力、圧縮された期間だけで彼らのその後の人生まで十分に想像させるもしくは想像の余地を与えてくれる脚本の旨さ、、、。
一瞬だったけど、幸せだった頃の追想シーンのペネロペクルス、キラキラして本当に可愛かった。今作では思いっきりやさぐれてカッコいい中年女性を演じてくれてありがとう!
モーツアルトのレクイエムを聴きながら、あれらの壮絶シーンを思い出しながら書いています。
蛇足二つ。無邪気なピエロくん、不自然に美少年じゃないところもよかった。スマホはもとより、携帯電話なし、テレビジョンが最速メディアだった時代を描く映画は貴重。
フェラーリ創設者の私生活
『フォードvsフェラーリ』を見たのは、もう4年前か。『フェラーリ』というタイトルから、今度はフェラーリ側の、企業としての開発物、今NHKでまたやっている、プロジェクトX的なものをなんとなく想像してこの映画を見に行った。
実際に見た印象は、想像とは全く違ったもので、エンツォ・フェラーリという、フェラーリ創業者の私生活を大きく取り上げた作品だった。
冒頭のシーン、エンツォ(アダム・ドライバー)が、ベッドから抜け出して、車に乗って出ていく際、押しがけするのは、エンジン音で、寝ていた女性を目覚めさせない配慮だろう。てっきり、妻のもとから会社に向かったのかと思いきや、愛人宅だった、というのはその後にすぐ分かる。
会社では、妻のラウラ(ペネロペ・クルス)からピストルをぶっぱなされたり、不穏というか不仲なのも語るまでもない。息子ディーノ(後に車の名前にもなる)が亡くなったことも墓参りで表現される。説明的なセリフは無く、映像で見せる表現方法は私は好きなのでこれは特に問題は無い。
愛人宅に、会社、墓地にいたるまで、イタリアの風景が、60~70年代のヨーロッパの映画の様な雰囲気で、印象深く、美しい。
ただし、登場人物の配役に、イタリア人は居ないのだが。全編英語で話は進む。ローマ・カトリック教会の厳かな雰囲気などは良いのだが、そこでの会話が英語なのは、アメリカ制作なので仕方ないのか。
エンツォ・フェラーリの、二重生活(妻と、愛人)に、フェラーリの社長としての顔で、三重の生活が切り替わりながら話が進む。
この切り替わりで、三つの話が同時進行しているものの、一本筋の通ったメインストーリーがあるわけでもない。エンツォは、「車を売るためにレースをしているのではない、レースをするために車を売っているんだ」と、会社の利益を上げるために、市販車を増産するように言われてそう返すが、そのレースは、ドライバーに死ぬ気で走れ、と、ブラック企業の社長(まさにそうだが)のようなセリフを吐くばかりで、あんまり車やレースを愛しているようには私には見えない。
クライマックスのイタリア全土を縦断する公道レース『ミッレミリア』でも、それに向けてプロジェクトをスタートさせて、車を開発、それに合わせたドライバーの訓練、等と言ったシーンも特にない。クライマックスもレースの前日くらいから始まる。このレース、悲惨な最期が待ち受けているのだが、これを予期しているかのようなレース前のドライバーの雰囲気は、まるで戦争に出征する兵士のごとき悲壮さが漂っている。
レースシーンは、当時のレーシングカーを再現し、レース場も、公道レースも、雰囲気はとても良い。この映画は映像美はとても素晴らしいもので、映像と雰囲気だけは往年の傑作映画のようだ。
叙事詩だと思って読み始めたら、抒情詩だった、という感じだが、監督が作りたかったものはこういうものだったのだろうか。
ちょっと、私の好みとは違っていた。
ストイックでシャープな2時間
もうこの手の作品には不可欠になってきましたね、アダム・ドライバー氏 笑 好きな俳優さんなので嬉しい限りですが、今回も凄かった。銀髪のアダム格好宜しかったですねぇ…。しかし今作品に於いてはやはり奥さんのペネロペ・クルスに軍配を上げたい。内包する熱量の演じ方のなんと素晴らしい事か。そう考えると「GUCCI」や「スター・ウォーズ」等々、パートナーたる演者を引き上げる能力もあるんでしょうかね彼は。持ち上げすぎかな苦笑
そして「フォードvsフェラーリ」でも製作総指揮に名を連ねていたマイケル・マン監督。らしさ全開でエンツォの極々短い時期を描き切っておりました。栄枯盛衰のこれまでの"栄"が描かれていないので乗り切れない方々もいらっしゃるとは思いますが、個人的には大英断だったなぁと思いました。時代の教科書としてもオススメ。
車の映画だと思ったら、不実な夫に憤る妻の話だった・・
この題名なら、車の開発にいそしみ、ドライバーを訓練し、熾烈なレースの内容を
延々とやるものかと思っていたが、下調べしないで観に行ったのが失敗だった。
旦那の不倫に憤る妻の話が1時間半延々と続き、よっぽど帰ろうかと思った。
車が出てくるかと思い退屈なのとうっとうしいのを我慢していたが、
レースになったら車が事故るだけで、ほんとにつまらなかった。
あの奥さん、いつまでもヒステリーおこしてないで、もらうものもらって
離婚すればいいのにね。
車好きが観に行く映画ではない。
ホントに金と時間を無駄にした。
フェラーリ本家のイタリアの話なんだけど
日本公開よりだいぶ早く、国際線飛行機の中で鑑賞。単純に「英語なんだ」ってか、ペネロペはスペイン人だし…?と矛盾を感じつつ鑑賞。とはいえ、始まってしまえばストーリーに没頭はできる。悲劇とすれ違い、執着とプライド、ファミリー経営企業が多いというイタリアの経済社会の特性が下地にありつつ、レースに命をかけてた男達の話、といえば美しいが、形振り構わず自分の欲望を貫いた男の話、って感じもして、誰もが一目置くブランドも創成期はドロドロだったのは、いかにもイタリアと言う感じか。
アダム・ドライバーはGUCCIについで、イタリアのブランド創業家の役。しかも今回は重厚な演技で魅せた。
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