フェラーリのレビュー・感想・評価
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私的、この映画にそこまで乗り切れなかった理由とは
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
この映画『フェラーリ』は、エンツォ・フェラーリ氏(アダム・ドライバーさん)に関わる作品です。
観る前はエンツォ・フェラーリ氏の生涯、あるいはフェラーリ社の当時の盛衰を描いていると期待していたのですが、基本は1957年のレース「ミッレミリア」に至る短い間のストーリーでした。
さらに、その描かれ方は、(レースに向かうフェラーリ社の車の開発というより)エンツォ・フェラーリ氏と妻・ラウラ・フェラーリさん(ペネロペ・クルスさん)との、エンツォ・フェラーリ氏の愛人・リナ・ラルディさん(シャイリーン・ウッドリーさん)を交えた、フェラーリ夫婦の(失われた息子も影響する)および愛人(とその息子)の対立を主軸に置いた作品になっていたと思われます。
つまり、(テストやレース場面など車の走行シーンはあっても)ほぼ車の開発に関しては描かれず、夫婦間と愛人との対立が中心に描かれた作品だったと思われます。
車の開発&夫婦と愛人を交えた対立、の描き方ならば、ナチス・ドイツに対抗するための核爆弾の開発&夫婦と愛人を交えた物語でもあった映画『オッペンハイマー』に、近い構成であったと思われます。
しかし今作の映画『フェラーリ』は、詳しい核爆弾の開発描写がある『オッペンハイマー』とは違って、車の開発に関してはほぼ描かれず、(多くの)観客の期待とは違う(と思われる)、夫婦と愛人とを交えた対立に重きを置いた、期待からするとアンバランスな作品になっていると思われました。
また、今作はテスト走行やレースで車の走行シーンは描かれていましたが、レースでも敵であるマセラティとのドラマ性ある構成にはほぼなっておらず、「ミッレミリア」のレースシーンでも今どこを走行していてどちらが勝っているのかも一見しては良く分からない描き方になっていたと思われます。
このことから、例えば、今作のマイケル・マン監督が製作総指揮の1人であった『フォードvsフェラーリ』の、開発や、相手との対立競争が明確なレース場面や、そこにまつわる仲間や家族の、バランスの取れた描かれ方と比べて、今作の映画『フェラーリ』の描かれ方は観客にとっての満足度は足りていないように感じました。
個人的には、乾いた男っぽいマイケル・マン監督の作風は嫌いではないです。
また、失われた息子や妻と愛人やその息子との揺れ動きやレースに掛ける極端な心情など、また事故の場面のギョッとする描かれ方含めて、特筆する点はあったとは思われます。
しかしながら、似た構成でありながら今作より遥かにバランスよく優れた構成作品であった映画『オッペンハイマー』を最近に観た後では、どうしても今作への評価は厳しくなってしまうなと思われ、今回の点数となりました。
アダムドライバーが良かった。 グッチの時より、ずっと男前に見える。
アダムドライバーが良かった。
グッチの時より、ずっと男前に見える。
ペネロペクルスも殺気ある演技も良かった。
レースは本当に現実かのような内容で目がはなせない。
事故もリアルですごい。
最初は意味がわからず、なかだるみなところもあったが、だんだん引き込まれていく。
つ、つまらん。
昔はあんなエンジンに椅子くっつけただけみたいな車でレースしてたんだなー。
そりゃ悲惨な事故も起きるさぁ。
…感想以上。
…いや、ホントにこれだけだ。
予告編の時点でたいして面白くなさそうだったんで、観る気は無かったんだが随分とロングランしている。よほど評判が良いのかとちょっと気になったが、まさかロングランの理由は木下グループ配給だからじゃ無いよな。
自分は車もバイクも好きで物好きにもMT乗りだが、フェラーリなんて多分一生縁の無い車だ。
そんな車のレーサーではなく経営者が主人公のお話。自分などが共感出来る部分など皆無だ。昨今ならば超絶ブラック企業だし。
だいたいカミさんがペネロペ・クルスなのに浮気するとは何事だ!
とまぁちょっと観る映画間違ったかなと思える作品だったが、レースシーンは流石マイケル・マン監督だけあり迫力満点だったので、劇場で観た事を後悔する程ではなかった。
また「ヒート」みたいな作品をお願いしますよ。
事故シーンはトラウマもの
美しい赤い車体のフェラーリが華麗に走る抜ける映画だと思っていただけに……
この映画の予告編を観た時、観るのはどうしようか迷いましたが
主演の「アダム・ドライバー」が「スター・ウォーズ」シリーズの
「カイロ・レン」役だった事を知り観てみることにしました。
実を言うと……予告編を観ていた時、
アダム・ドライバーは一体どの役?と。
エンツォ・フェラーリ役だと知っても、これがアダム・ドライバーなの?
自分の中ではカイロ・レン役しか知らなかったので、
こんな中年の役をやるなんて……と思ってしまいました。
この映画撮影時、アダム・ドライバーは38~39歳。
1957年のエンツォ・フェラーリ(1898-1988)の年齢は59歳。
20歳ほど上の年齢を演じていたわけですが、全く違和感はありませんでした。
しかし、イタリアを舞台にしているのに言語は英語。
でも、ホテルマンなどがエンツォを呼ぶ時、
エンツォの家で使用人(執事?)が妻ラウラを呼ぶ時も呼称がイタリア語でした。
英語とイタリア語がごっちゃでした。
イタリア語に統一したほうが良かったのかもしれませんね。
車のほうに焦点を置いている話かと思いきや、
冷えきった妻と愛人との間でエンツォがウロウロしているところ、
何気に愛人リナに息子ピエロを認知してよ、と言われているところ、
妻ラウラにリナの事がバレてしまったり……。
私生活についてはアレレな面が……(滝汗)
でも妻ラウラの立場からするとエンツォに向けて(わざと外したけど)
護身用の銃を打ったり
銀行の取引からリナの家を突き止めて、直接行ってしまったり
まぁ、気持ちも分からなくはないですね。
そんな家庭生活のゴタゴタと並行して
社運をかけて公道レース・ミッレミリアに出場するまでの話。
タイムアタックで車がクラッシュして専属ドライバーと車が空中を飛んでいき
ドライバーが道路に倒れているなど、かなり衝撃な場面も(滝汗)
余談だけど、タイムアタックをしていた時に出てきたストップウオッチらしきもの
「made in USSR」でしたね。
オープンカーみたいな構造の車、シートベルトはなく、
道路にある緩衝材みたいなものは枯草?を固めたみたいなものを数段積んだだけ。
あの頃のレーサーがレースの前に遺書を書くのも、分かるような気がします。
命がけだったんですよね。
真っ赤なフェラーリの勢揃いはカッコイイ!!
ギアチェンジの動作、エンジン音、公道レース・ミッレミリアなど迫力があります。
やはり道路には牧草を固めたようなものだけの低い緩衝材があるのみで
観客がすぐ近くで猛スピードで走る抜ける車を観戦しています。
レーサーも観客も危険と隣り合わせです……。
ミッレミリアでライバルであるマセラティの車がまさかの棄権。
最後までフェラーリとマセラティはトップを争うのかと思っていました。
フェラーリのドライバーが途中棄権したマセラティのドライバーを乗せていくところ、
敵だけどいいのか?と。
レース前やレース中に不穏だな……と感じたのは
・ポルターゴがレースの前にホテルで恋人リンダに遺書を書いた
・エンツォがガソリン注入時にレーサーにかけないようにメカニックに言っていた
・犬や子供(の飛び出し)に注意するように言っていた
・コリンズ、タルッフィの乗るフェラーリはマシントラブルが起きた
・最後尾のポルターゴのマシンはタイヤが摩耗していて交換が必要だったが、
ポルターゴはそれを断って発進してしまった
・レーサーが道を覚えていない
・ガソリンが引火して大変な事になる??
・道を間違えてトップでゴールできない??
・走っている最中に何かが飛び出してきてそれを避けようとして事故になる??
・摩耗したタイヤのまま走っているポルターゴのマシンがスリップする??
「何か」が起きる……かな??
そんな気持ちで観ていると……
場面が変わり、一つの家庭の食事風景のシーン。
両親とまだ幼い二人の男の子。
ミッレミリア出場の車が近づいてきたと知ると
男の子たちは家を飛び出し、それを父親が急いで追いかけます。
この場面で……まさか男の子(小さいほう)が飛び出す??と思っていたら
父親がその子を捕まえて抱き上げて、あぁ~……よかった……と思っていたら
ポルターゴが運転するマシンが道路に落ちていた何かを踏んでタイヤがパンクして……
その後の映像は、衝撃的で悲惨でした……。
衝撃で凍り付く……というのはこの事です。
最近動画や映画をいろいろ観ているが、こういう風になることはなかったです。
ただただ……恐ろしくて、悲惨でした……。
スピードを出し過ぎた車の事故に巻き込まれた人や
ドライバーはこんな感じになりますよ、みたいな……。
(ポルターゴのあの最期の姿は事実らしい)
その後の話が頭に入っていかないぐらいに……。
PG-12という年齢制限はこのシーンがあるからなんだね、と思いました。
後でWikiで調べてみると
1957年開催のミッレミリアで実際に起きた観客を巻き込む大事故で
ドライバーのポルターゴ、コ・ドライバーのエドモンド・ネルソン、
そして5名の子供を含む9名の観衆も犠牲になった大事故で
それによってミッレミリア開催は中止になったということです。
(現在は同名のクラシック・カーレースとして復活しています)
最後に妻ラウラがエンツォに「私が生きている間は(リナとの間できた息子ピエロ)を
認知しないで」と言ったシーン。
エンツォ・フェラーリの妻としての矜持を感じました。
エンツォはその言葉を守り、ラウラが死去した後に息子ピエロ(1945-)を認知し
現在ピエロ・ラルディ・フェラーリはフェラーリ社の副会長です。
美しい赤い車体のフェラーリが華麗に走る抜ける映画だと思っていただけに
予想とは違う内容の映画でした。
エンツォ・フェラーリの自伝的な映画
エンツォ・フェラーリの息子ディーノを病で失い会社は車が思う様に売れず傾いて行っていた。元々女遊びが好きだったが奥さん兼共同経営者のラウラと険悪ながらもなんとかやっていたが愛人と子供の存在がバレて更にややこしい事に。
一発逆転の秘策として(今となっては伝説の)自動車レースのミッレミリア((公道を使った)1000マイルレースの意味)で優勝してフェラーリのスポーツカーの宣伝と販売を上げる作戦に出た。
果たして結果は?フェラーリ社の運命は?
…も何も歴史を見れば全部分かるわな。
この映画のキモはエンツォと奥さん、愛人と子供、病気で失った(長男となる)ディーノに関するそれぞれの葛藤と駆け引き、各自の行動にある。実に人間臭いドラマが繰り広げられる。
それも見どころだが1950年代のスポーツカー、レーシングカーの走りとサウンドはもう一つの見どころ。レースファンにもお勧め。
今にして見ると当時のレースカーで凄まじい速度でレース場を走り回る、ミッレミリアのレースでは普通の公道を同じく猛スピードでバトル。あまりに怖すぎる。当時はあれが普通で安全への配慮も今とは大違い。とんでもない故障もあればコースを外れてリタイヤし、仕方なくライバルチームの車に乗せてもらって街まで帰るとか実に牧歌的。
その代わり一旦事故となったら車は吹き飛んで人間はバラバラ死体(これが結構あるからR12なんだろう)。実際この映画の元となった1957年の大事故によりミッレミリアの開催は無くなった。
迫力はあるが同時に怖すぎる。今やそんなレースを生で見ることは叶わないから映画で再現と言うのは良いものかも知れない。
破綻のない良映画
脚本、演出、編集とも穴はない。主役嫁愛人と演技もいい。
つまり良映画
電車とか車とか当時の物を使っていて金も掛かってる
日本映画には「本田宗一郎物語」作ってもらいたいが(もちろん無謀なマン島tt挑戦がテーマで)、予算規模考えると暗澹たる気持ちになる。正直本映画がうらやましい
ケチを付ける部分はない
せいぜいが、どうせなら前編イタリア語だったらいいのに、程度
個人的には、憎み合うだけでない夫婦の造形が見事だった脚本家に花束を送りたい
いやーいい映画だったな
贅沢言うなら、レースマネジメントやレースシーンをもっとしっかり描写してほしかった。そもそもマセラティとフェラーリ、それぞれどういう思想でミレミリアマシンを設計していたのとか。あと他チームも少しは描写してやれよとは思ったw
すっげえ散漫。ディレクションできてない。 たぶん本当は「エンツォフ...
すっげえ散漫。ディレクションできてない。
たぶん本当は「エンツォフェラーリという業が深い人間の狂気に、ビジネスも人間の愛憎も社会も巻き込まれていくことで、まるで血の赤のような人間の業を煮しめたようなフェラーリの赤が生み出されているのだ…」とかいう話にしたかったんだと思う。でも出来てない。
仕事が描けてないからエンツォはいっつもブラブラしてるだけに見えるし、家族が描けてないからエンツォはいっつもブラブラしてるだけに見えるし、狂気が描けてないからエンツォはいっつもブラブラしてるだけに見える。
1950年代の自動車産業の社長はどういう一日を過ごしているか、があんまり詰められてないから、ずーっとフワフワしてる。メカニック的なセリフでひきしめるべきシーンも延々と具体性がなく「いい感じにがんばれ」くらいしか言ってない。ふわっふわ。
あと撮影がバラバラ。墓場のシーンでは急にドキュメンタリ調のカメラになったり、でもレースシーンのクラッシュではCGが目立つわざとらしいカメラワークになったり、手法に一貫性がない。
全体的になにもかも散漫。とてもよくない仕事だと思います。
現在のフェラーリが有るのは、妻ラウラのおかげ
特にスポーツカー好きではないが、F1GPは好きだったし、当時マクラーレンホンダを応援していたがそれでも、フェラーリだけは特別。しかも70年位前の可愛いフォルムのフェラーリが走り回るのには感慨深い。
冒頭モノクロのレースから始まる。フェラーリの歴史を感じる。
エンツォ・フェラーリの1957年に起きた激動の3ヶ月を描くドラマ部分と、その途中途中にレース場面が差し込まれる。
しかし、特に前半のドラマ部分が分かりにくく眠かった。
レースもミッレミリアというレースを知らなかったので、どういうチームが参加しているのか分からず、完全にレースに堪能出来ていない。しかし前方視線の迫力がある映像。石畳の狭い街並みを、コロッセオの近くを、駆け抜けるフェラーリ。郊外ではサイドバイサイドの闘い。レース最後に衝撃映像。
妻ラウラの最後の決断。妻としてではなく会社を選んでくれた。
最愛の一人息子を亡くした深い悲しみの中、夫にいた隠し子の存在。そりゃ怒り狂うよ。それでも夫への裏切りの失望よりも、夫への愛、会社への愛着が上回っていたのだろう。
ラストではエンツォはピエロを亡き兄に合わせに行く。認知してもらえるのはずっと先だが、もうフェラーリ家の一員。
間違いなくマイケル・マン監督の最高傑作の一つだけど、爽快感よりも悲壮感が漂う一作
誰もが知る高級自動車メーカー「フェラーリ」についての物語ということで、特に車が好きな人には注目度の高い作品でしょう。
クラシックな美しさに見とれてしまうようなレースカーが、サーキットや市街地の狭い路地をだんご状態で駆け抜けるさまを、迫力満点かつ独自の映像美でとらえたレース場面は、こうした期待に十分応えてくれる、あるいはそれ以上の仕上がりになっています。
じゃあスリルと迫力を楽しむアトラクションムービーなのかというと、むしろ全く逆で、本編の多くはアダム・ドライバー演じるエンツォ・フェラーリとその家族の物語に時間を割いているのですが、マイケル・マン監督が描くフェラーリは、レーサーに無謀な挑戦をするようけしかけたり、隠し子の認知を渋るなど、なかなかの人格破綻っぷりを披露します。
そしてマン監督は、人間的に問題を抱えつつもフェラーリのオーナーとして権威を振るう彼の「罪」を、容赦なく断罪します。それは例えば、妻ラウラ(ペネロペ・クルス)に重点を置いた物語の流れ、という形でも現れるし(ラウラが決定的な場面でもフェラーリを罵倒しないことが、ますますフェラーリの「小物」っぷりを際立たせます)、アドレナリン全開のレースが冷や水を浴びせられる形で幕を閉じる、といった形でも現れています。
レースの描写、特に重要なクラッシュ場面は、ある種の誇張表現ではないかと思うようなショッキングさで、衝撃を受けるよりもあっけにとられてしまいますが、一連の映像の多くは、綿密な調査に基づいて可能な限り実際の状況を再現した結果とのこと。
これまで「男のロマン」を美化して描く映画作家として定評があったマン監督が、本作のような描き方を選んだことは驚きです。同時に本作は、スタイリッシュな作家性と併せて彼の作風を特徴づけている、徹底した取材に基づいた作劇、という職人的なこだわりがいかんなく発揮された作品となっていました!
イタリア語で自動車は女性名詞……てかアダム、耳どうした
嘘でもいいからイタリア語にしてほしかった。
ジェンダー云々の話になると、「とは言ってもイタリア語もフランス語も言葉に男女が歴然とありますけど、それはいいんですか?」てな問題になるイタリア語である。macchinaは女性名詞だ。
……ってやっぱり言われるよね、と制作サイドも(多分)わかっていて、ところどころに苦肉の「イタリアっぽい表現」が(もちろん英語で)ぶち込まれているのだが字幕がそれを表現できてない。
イタリアは今でも街に個人経営の、庶民個人のためにモノを作ってる店が並んでいる。
あの時代なら服は当然仕立て。
調度品も仕立て。
そのへんの考証は結構できてる、だけに英語がつらい。
赤く塗られらた鉄板が猛スピードで走るほうがセックスよりエロいのは歴然だ。
マセラティもよくオッケーしたもんだと思うけれど、「まぁまぁ」で済まなそうで済んじゃいそうなところがイタリアホモソーシャルっぽくもあり。そういうとこなんだよ、地中海に無駄に突き出してないんだよ。
もしイタリア語だったら話のまとまらなさも、アダムがどう見てもイタリア語話者に見えないのもかなりチャラになるのに。
のちに若造だったルカ・モンテゼーモロをマネージャーにしちゃう人に見えないんである。ヤニが足りないんだよなぁ。
命懸けの戦いに身を投じる将軍と兵士を描く、『ゴッドファーザー』風味の米製イタリア家族劇。
想像以上に重厚で、まっとうな、映画らしい映画だった。
観に行って正解だった。
あまりにまっとうな映画なので、しょうじき、あまり語ることがない。
事前に予測していた内容と、違っていたことはたしかだ。
もっとガンガン車を走らせる『栄光のル・マン』みたいな映画かと思っていた。
だが実際は、むしろネオ・リアリズモを意識したかのような、ひりひりする家庭劇だった。
でも、これはこれでちゃんとしていて、地味だが楽しかった。
大衆受けはしないだろうが、ああマイケル・マンはこういう映画が作りたかったんだな、と思った。
― ― ―
映画として、どうしても比較対象にのぼるのは、『ハウス・オブ・グッチ』かと思う。
両者には、いろいろと共通点がある。
すでに老境にある巨匠監督が、長年の準備を経て撮った映画で、
イタリアを舞台にしながらアメリカ人キャストで固めた映画で、
登場人物はイタリア人だが、イタリア訛りの英語でしゃべってて、
実在するイタリアの大企業の内幕を描くスキャンダラスな題材で、
現在でも存命の登場人物がふつうに出て来ている。
そして、どちらもアダム・ドライヴァーが主演している(笑)。
前に『ハウス・オブ・グッチ』を観たとき真っ先に思ったのは、「なんだこれ、話のあらすじとか細部の演出とか、ほとんど『ゴッドファーザー』とまるで一緒じゃないか(笑)」ということだった。
今回の『フェラーリ』にも、『ゴッドファーザー』の臭気は拭い去り難く漂っている。
主人公は表面上コワモテで、ぶっきらぼうで、男と男のプライドをかけた「抗争」に命をかけていて、しもじものドライヴァーは常に命の危機にさらされている。
彼らにとって「ファミリー」は大切で、後継者を産めるかどうかも重要だ。
家庭に戻れば、企業戦士も優しい父親である。亡くなった息子に対する情愛は特に深い。それでも、会社と、勝利のためになら、いくらでも非情になれる。
要するに、イタリアにおいて「企業」とは「家族」の延長上にあるものであって、その論理は、「マフィア」とそう大きくは変わらない。
『フェラーリ』は、そんなイタリアの家族の在り方と、企業の在り方、そして企業間の威信をかけた抗争の様子を、じっくりと腰を据えて描き出す映画だ。
『ハウス・オブ・グッチ』ほどのグチャグチャの殺し合いにはなっていないにせよ、『フェラーリ』における家庭模様もなかなかにヘヴィーだ。
虚弱児を抱えながら、平然と浮気をして婚外子をつくるエンツォも、エンツォに「兄ではなくてお前が死ねば良かったのに」と呪いをかけ続けるえぐみの強い老母も、息子と共に愛も優しさも幸せも喪って、フェラーリ社のために動き続けるド迫力女房ラウラも、みんなが一筋縄ではいかないクセモノたちである。人を猛烈に傷つけながら、自分も猛烈に傷つき、その代償を求めるかのように、権勢と盛名を永遠に求め続ける「どてらいやつら」。
僕は、こういう連中が決して嫌いじゃないし、
こういうドラマも、嫌いじゃない。
― ― ―
1950年代のカーレースの世界は、戦場そのものだ。
単にそれは、国家や企業の威信をかけた代理戦争であったとか、技術革新を競い合う戦いの場だったといった、比喩の謂いではない。
本当に、当時のカーレースは、命懸けだったのだ。
本作の舞台となっている1956年は、フェラーリにとって苦難の年だった。
3月には、映画の冒頭で描かれたように、トップ・ドライヴァーのエウジェニオ・カステロッティがテスト走行中のクラッシュで死亡。
5月のミッレミリアでは、本作の終盤で描かれた通りの展開で大事故が起きて、アルフォンソ・デ・ポルターゴとエドモンド・ネルソン、および観客13人が死亡。ミッレミリアはこの事故がきっかけでレース自体が廃止となる。
じゃあ、このときフェラーリの同僚だったドライヴァーたちはその後どうなったのか?
調べてみて、戦慄した。
最後のミッレミリアで優勝したピエロ・タルフィは、奥さんとの約束を守ってこれをもって引退、81歳まで長命を保ったが、ルイジ・ムッソは翌年(1958年)のフランスGPで事故死。
ミッレミリアにも出ていたピーター・コリンズのほうも、同じく1958年、F1ドイツGP中の事故で死亡。
同じくフェラーリの同僚だったマイク・ホーソーンは、コリンズの死にショックを受けて58年に引退しているが、59年に公道上の自動車事故でやはり死亡している(彼は1955年のル・マンで、運転手・観客合わせて86人の死者を出した大事故の当事者でもある)。
さらには、好敵手マセラティのドライヴァーとして登場した二名のうち、スターリング・モスは90歳の天寿をまっとうしたが、本作でも何度も名前の登場するジャン・ベーラは、1959年にドイツのスポーツカーレースで事故死している。
要するに、本作に出てきたドライヴァーで、1960年を超えて生き延びることが出来たのは、タルフィとモスの二人しかいなかったということだ。
一体全体、どれだけ危険なレースやってんだ、こいつら??
ぶっちゃけ、「命が軽すぎる」。
ほとんど、ウクライナの最激戦地に派兵されているようなもんだ。
一瞬の不運が、一瞬のゆるみが、大事故を引き起こし、当時の車(防御システムもシートベルトも何もなかった)で事故るということは、ほぼほぼイコール「死」を意味していた。
まさに、「走る棺桶」である。
それでも、彼らは「戦地」を転々とし、男の誇りをかけて最速を競い合った。
まさにドライヴァーたちは「命を懸けて」闘っていたのである。
率いるエンツォ・フェラーリは、言ってみれば彼ら兵士を率いる「将軍」だ。
「将軍」は死亡事故がおきたとき、、部下と、巻き添えとなった観客たちの死を悼む。
悼みはするが、それが彼の野望と進軍を妨げることは、決してない。
1950年代のカーレースにおいて、一定数のドライヴァーと観客の死は、必然的に計算せざるを得ない「損耗」の一部だ。それは、軍隊で兵士の損耗がついてまわったり、岸和田のだんじり祭りで毎年犠牲者が出るのは織り込み済みであったりするのと同様で、彼らの世界観のなかでは「致し方ない」結果なのだ。
僕たちはこの映画を、「そういう目で」観なければならない。
要するに、これは「モータースポーツ」を舞台とした物語ではない。
明日をも知れぬ命を賭した戦いに身を投じる、戦士と指揮官の物語だ。
戦争映画や、宇宙飛行士の映画と同じくらいの「致死率」のなかで戦う男たちの決死行。
ドライヴァーたちが、レース前に愛する者に書き残す手紙……あれは、縁起担ぎでもレーサーの風習でもなんでもない。本当に死ぬかもしれないから、死んだときのために書き残している「実務的な」お別れの手紙なのだ。
その意味で、50年代というのは、第二次世界大戦の大量死によって「総体的に人の命が軽くなっていた」荒れた時代の余韻のなか、新たな文化がなりふり構わず勃興していた時代だったのだな、と今更ながら思う。そして、マイケル・マンにとって、フェラーリはその時代の「象徴」として描かなければならない存在だった、ということだ。
― ― ―
作中でエンツォや愛人、マセラティたちがオペラを観劇するシーンがある。
仕組みはよくわからないが(笑)、窓からラウラや老母にもその音が聴こえている設定らしく、全員が過去を回想し、過ぎ去りし「良き日」をフラッシュバックする。
かかっているオペラは『椿姫』で、ふたりが歌っているアリアは「パリを離れて」。
第三幕で余命いくばくもないヴィオレッタに、アルフレードが一緒に田舎暮らしをしようと持ちかけ、「きっと身体もよくなるわ」とヴィオレッタも喜びに満ちて返すというシーンだ。この直後にヴィオレッタは倒れて、ヴァルモンの訪問とアルフレードとの最後の別れを経て、帰らぬ人となる。
死病に取りつかれたヴィオレッタは、フェラーリ家の人々にいやおうなく、亡くなって間もないディーノのことを想起させるだろうし、「パリを離れた田舎の生活」は、エンツォと愛人には第二の秘められた家庭のことを考えさせるだろう。
そもそも、マイケル・マンは、「エンツォの人生はオペラのようだ」と述べている。
家族の愛憎。浮気と婚外子と二つの家庭。野望と苦難。どこか作為的で無駄にドラマティックな人生。たしかに、フェラーリの生涯はなんとなくオペラくさい。
そして、モデナの街は、フェラーリの街であると同時に、オペラの街でもある。
『フェラーリ』の映画にとって、このオペラに載せてそれぞれの「幸せだった過去」が去来する演出は、実に気の利いた仕掛けだったといえる。
― ― ―
●基本、僕はマイケル・マンという監督を心から信頼しているので、作品の出来をうたがうことはなかったが、冒頭の記者との気の利いたやりとりと、床屋の軽妙なリアクションで、映画のクオリティは疑う余地のないものとなった。やっぱりうまいよ、この脚本!
●アダム・ドライヴァーは、『ハウス・オブ・グッチ』に引き続き、似非イタリア人(ただし実在する人物)を好演。前作のマウリツィオとはまるで別人といっていいエンツォ・フェラーリを、真実味をもって演じあげた。10歳以上年上のエンツォにメイクと演技で寄せながらも、無理な老け役になっていないのがいいところだ。
●ペネロペ・クルスは、僕が映画を真剣に観始めた30年前の時点ですでにデビューしていて、50歳になる今も、その外見がほとんど変わっていないのは驚愕に値する。
今回は「わざと老けている感じ」で演じていたが、浮気夫を「詰める」迫力は、さすがのキャリアを感じさせる。
●マイケル・マンは、もともと熱狂的なフェラーリ・マニアで、カーレーサー経験もある筋金入りのカーキチ。2019年に大作『フォードvsフェラーリ』を製作したにもかかわらず、それに飽き足りず、本作を撮り上げてみせたというわけだ。
ちなみに、エンドクレジットを観ていて驚愕したのは、プロデューサーの異常な人数!!
プロデューサーだけで12人、エグゼクティブプロデューサーも同数の12人いる(笑)。
構想30年のあいだに、関係者が鼠算式に増えていったのか。様子をぜひ知りたいものだ。
●脚本のトロイ・ケネディ・マーティンは、映画化が難航しているあいだに、2009年に逝去。もともと監督を務める予定だった故・シドニー・ポラックとともに本作を捧げられている。そうか、トロイ・ケネディ・マーティンって、あの怪作&快作『戦略大作戦』の脚本家なのね!
●アルフォンソ・デ・ポルターゴの事故シーンだけ、いきなりルチオ・フルチやデオダードみたいな、イタリア残酷ホラー風演出&特撮になってて笑う。最高。
●ちなみに、僕は車のない家庭に育ち、自身も免許を持たず、今も車のない生活を送っている究極の車音痴で、この作品の「車」愛をきちんと理解できているとは、とても思えない。
結構な齢になるまで「月極」を「げっきょく」と呼び、セダンを車種名だと思ってたくらいですから(笑)。とはいえ、学生の頃はまさにフジテレビのF1中継が花盛りで、よくわからないなりに、セナとマンセル、プロストのデッドヒートに胸を熱くしたものだし、セナの死には衝撃を受けたものだった。T-SQUAREの音楽とともに、F1は深夜放送に耽溺していた青春の一頁として、僕の胸に深く焼き付けられている。
というわけで、大画面で展開するミッレミリアの再現映像には、やはりアドレナリンがドバドバ出た。
カーレースのド迫力の緊迫感と、牧歌的なイタリアの農村風景の取り合わせ!
なんて素晴らしい。
まあ、車音痴ゆえに、フェラーリとマセラティの車が「両方赤い」と途中まで気づいていなくて、「なんで味方同士でこの人たち競り合ってるんだろう?」とかぼんやり考えていたことは内緒だが……。
●最後に。映画.comのプロコメントで、アメリカ人が英語でイタリアを舞台とする映画を撮ったことを非難するようなことが書いてあって、久々にムカついた。ポリコレ脳ここにきわまれり。この映画の興収が悪いこととそれは1ミクロンも関係ないよ。
無邪気な車好き「ピエロくん」。
フェラーリが人の名前だと初めて知った。「トヨタ」みたいなもんか。創始者エンツィオのレースと車づくりにかける情熱みたいなものが伝わってくる。一方で最高の車を作ることの代償として「孤独」を抱えているように見える。心が安らぐ場を愛人母子との生活に求めるのも分かる気がする。レースは元々命がけの仕事であるが、その真剣勝負の緊張感は想像するしかない。レーサーとのドライな関係や、「俺の車に乗ったら、命よりも勝つことだけを考えろ」みたいなセリフに現実感がある。
私生活と会社経営に問題を抱えて、その思いがすべて「ミッレミリア」のレースに集約しているようだ。映像面では、1950年代のレースを見事に再現している(知らんけど)。爆走するレースカーの迫力にはドキドキさせられる。それにしても車体自体やレーサーを守る安全設計はどうなっているのかと疑問が浮かぶ。いやそれよりも交通規制や観客の安全対策が大丈夫なのかとドキドキする。そして不幸な事故は起こってしまう。
エンツィオの「孤高」さが作品全体に際立っている。それが周囲との軋轢にもつながっているが、息子ピエロとの関係には何かしら明るい未来も感じさせてくれるそんな映画でした。
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