オッペンハイマーのレビュー・感想・評価
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作り物の限界
オスカーに不満を言えば自分がえらそうに思えるのかもしれない。
私は核兵器に対する特別扱いがよく理解できない。戦争という殺し合いの時点ですでに非人道的ものである。大量破壊兵器だからとか、非戦闘員だからという理屈は偽善に思える。そんなルールに則らなければいけないのなら、いっそのことスポーツで対戦すればいいのではないか?そのスポーツですらドーピングが絶えないというのに、命がかかった場面で国際法や人道がどうのというのは前線にいない人間のきれごとに過ぎない。それをあからさまにしたオリバー・ストーンのプラトーンは秀逸であった。それでも世界は核兵器を特別視する。その理由を垣間見ることができるか?このアメリカ視点のオスカー作品に望みを繋いで遠のいていた映画館に足を運んだ。
残念ながらその答えやヒントはこの映画では見受けられなかった。
東京大空襲での被害者が10万人と聞き、7万人の被害予想である原爆投下に罪悪感が薄まるところなど、まさに通常兵器との意義の差が理論的にはないという反証であろう。もちろん、オッペンハイマーは戦争終結のために本当に必要だと思って進言したわけではない。一番の動機は自ら指揮をとったプロジェクトが無用の長物にならないためであり、それが後の罪悪感となる。完成まで自分の仕事の結晶として作り上げた原爆が、軍に渡された瞬間、手の届かないところに行ってしまったことに愕然とする。
求めた答えがなかったということで、映画としてみていくと、最近の映画の限界が垣間見える。オスカーでもこうなのか、と。
3時間という時間を使った割にはストローズとの対立の過程があまり描かれておらず、とってつけたようで飲み込めない。オッペンハイマーを聴聞会に引きずり出し、キャリアを終わらせたのがただの私怨とは。それが自らの商務長官就任にケチがついたのだから愚かとしか言いようがない。史実だろうか?そうならしかたがないが、脚色ならいただけない。
主人公の繊細さは表現しても、ほかの善玉、悪玉の色分けは単純すぎて安っぽい。とくにトルーマン大統領が無慈悲な権力者として薄っぺらい。政治家だから本当にそういう人だったのかもしれないが、なんでも政治家を悪者のすればいいというのは話を軽くする。それでいてケネディは善玉として話だけ出てくる。「この人はいい人」、殉教者は神がかりだ。
日本の報道でよく上がっていた「原爆の被害の映像」は確かになかった。ある、なしに関わらず、オッペンハイマーの精神的苦悩を表現したCGも安っぽい。見せ場の原爆実験の善し悪しはなんとも判断できないが、広島については教科書に載っていたキノコ雲の写真の方がずっとインパクトがあったのはなぜだろう?研究者たちを前にした講演で聴衆の女性の顔が爆風で溶けていったり、黒焦げの死体を踏み壊す映像はちゃっちくてお化け屋敷レベル。あれはあきらかにマイナスポイント。どれも1940年代の再現映像で十分だったのに、特殊効果のせいで作り物っぽい。
ひとつ関心をもったのは奥さんのキャサリン・オッペンハイマー。映画では”キティ”と呼ばれていたが、どうしてもサンリオのメインキャラクターを連想してしまうのでここでは“キャサリン”とさせてもらう(かつてのEテレの番組、「ワラッチャオ」のキャラクターの名前でもあるけれど)。私が成育したときには「男らしく」「女らしく」ということが言われていたが、今はそんなことを言うととんでもないことになる。実際、私見としては男女で本質的な違いというのはないと思っている。しかし、私が実際に見た女性の言動から、唯一、私が持っている女性に対する偏見がある。それは、
女性は信念のため、正義のためであっても、自分が損すること、生命を失うこと、今の生活レベルを下げること、既得権を失うというような選択はしない。唯一の例外は自分の子供のためにはそれをいとわない
と、いうことである。
ソクラテスは自分に対する死刑は不当だと思ったが、その判決に従うことは彼自身の哲学に則っている(クリトン)ことなので毒杯を飲んだ。自らの命より、自らの哲学を優先させた。イエスも自らの命よりも宗教的救済を優先させた。そうすることによって(彼らがそれをねらっていたかどうかはわからないが)2000年以上にわたる影響力を得た。そのようなことをした女性がいただろうか?
オッペンハイマーに対する聴聞会が始まるとき、キャサリンは夫とその身辺者を前に、「今までの名声を失う、そしてこの『家』も!」と訴える。そこには自らの共産主義への傾倒の過去、夫の原爆製造の罪悪感など挟み込む余地が微塵もない。得たものを奪われる筋など一片もない確信と、それを脅かすものに対する断固たる嫌悪、対決の覚悟がある。ここに自省のわずかもないところが私の偏見を一層堅固にする。このすごむ姿は私の母親もそうであったし、妻もそうであった。この映画のなかでホンモノを感じた場面だった。
実際に見たことがない女性だとハンナ・アーレントは例外だろうか。彼女は同胞のユダヤ人から反感をかうのを覚悟して、アイヒマンは本質的な悪ではなく、陳腐な無思考であると洞察した。彼女は自らの思考に忠実だった。たとえそれが近親者の離反を伴うことでも。
映画のテーマに話を戻すと、日本のメディアで取り上げられていたような原爆そのものに対する考察はない。オッペンハイマー自身が原爆の被害に対する罪悪感に苦しむ姿よりも、ストローズとの政治的闘争のほうがメインストリートだ。これは政治サスペンス、はじめから被爆者のことなど相手にしている映画ではない。原爆が取り上げられれば、さも日本が話の中心であるかのような自意識過剰は日本のメディアの幼稚なところだ。それを知ってか知らずか、うまくメディアに宣伝させ、とりあえず日本でこの映画の反対運動、ひいてはオスカーへの批判、ハリウッド映画へのボイコットなどの火種を消し、むしろ興行を成功させるところなど、結果論かもしれないが、大したものである。お人好しというか、おめでたいというか、原爆を落とされてもこのとおりなのだから、本当に日本人というのはあきれるばかりである。
おしなべて陳腐な話である。理論物理学で自己を確立し、流行りの共産主義思想や組合運動に目うつりし、戦争に翻弄され、栄光と挫折、晩年の名誉回復。「研究の成果が爆弾か」「軍服はやめろ」「もはやあなたは学者ではない、政治家だ」これらの言葉で踏みとどまることができなかった男のありきたりの話だ。
オッペンハイマーがしたことがどうなるか、すでに2000年以上前にギリシャ神話で語られている。プロメテウスの逸話が引用されるように、時代で科学や思想があらたな跳躍をみせるのではないか?そんな浮ついた気持ちも神話の中の堅牢な人間への洞察に撥ね返される。
そして、私が原爆への特別視に疑念を抱くのは同じく映画でも引用されていたパンドラの壺だからだ。一度開けたものを封印することなどナンセンスである。「作れる」ものは作ってしまうのが人間である。どんなに正義を振りかざして封印しても、切羽詰まれば何でもやってしまう。ちょうど今の北朝鮮が核開発しているように。
そして残るのは「希望」だけ。「抑止力としてしか使わない」と信じ込むこと。人類を何回も絶滅させうることができる力を使わない、という希望。これは「大気発火」が起きない希望よりたよりない。その希望にしがみつくしかない世界に生きている。このおめでたい国で。
日本人のDNAには何か引っかかる物を感じる。ゴジラ-1.0山崎貴監督の「アンサーの映画を日本人として作らなくては」に共感!
一つの映像作品としての完成度はとても高いが・・・。ノーラン監督がこの作品で描きたかった事は、広島・長崎に落とされた”原爆”の父「オッペンハイマー」だったのだろうか?
ロードショー公開中の今はおしなべて高評価かもしれないが、これから先、歴史が本当の評価を下すだろう。
複数の時間軸の中、多くの登場人物が絡むので正直初見で全てのテキスト、セリフは理解出来ていない。しかし決して難解な作品という訳では無く、ノーランワールドを十分に堪能出来る作品である。
まずこの作品を観て、“オッペンハイマー”という人物・作品に対して抱く思いは、恐らく日本人とアメリカ人では違うであろうと思う。
と共に日本人として観ておくべき作品であると思う。
この作品で広島・長崎の原爆投下はターニングポイント的な扱いであった(少なくとも広島・長崎がどんな惨状であったかは1mmも触れられてない、ただ原爆が落とされ、多くの人が死んだという報告のみだ)。そうだからかはわからないが、原爆が投下され本国に伝えられたシーンの後、比較的高齢なご夫婦が退席されていた。私は先の戦争を知らない世代だがそのご夫婦の気持ちがいかばかりか、想像に難く無い。
北米配給のユニバーサルも「原爆開発をめぐる科学者同士の裏切りや当局が狙うスパイ追及といったサスペンス映画」と宣伝している様に原爆を使った側と使われた側でこの作品に向き合う前提条件が全く違うという事を忘れてはならない。アカデミー賞を受賞し、興行収入も素晴らしく、ノーラン監督が撮影したから手放しで賞賛できるかと言えば、答えはNOだ。
ただ、ノーラン監督が描きたかった映画「オッペンハイマー」とは?
この作品に答えがあるとも思えない。
同監督の『テネット』では、一度発明したことを戻すことができるのか、という問いかけを行っている、また核の脅威と、それが解き放たれたときの影響について描いていた。
”核”・”オッペンハイマー”・”広島・長崎”・”被曝”ノーラン監督の中にこれらのキーワードが揃ってないはずがない。しかし、この作品の中で唯一語られていないキーワードがある。
それは”被曝”だ
日本人の中には”被曝”という言葉の意味がDNAの中に染みこんでいると思っている。それは、戦争を体験し広島や長崎で被爆していない国民一人一人の中にも、強く忸怩たる思いが根付いているはずだ。しかし、日本人以外の人々の中にどれほど”被爆”という言葉の意味がわかっているのだろうか?
ノーラン監督へのインタビューの中で<10代の息子にこの作品について初めて話したとき「若者は核兵器に関心がないし、脅威だと思っていない。気候変動の方がもっと大きな懸念だと思う」と言われ、それがとても衝撃的だった>と語っている。それは、決して若いものだけが抱いている原爆や核へのイメージというわけではない。実際アメリカをはじめ多くの人々は”核”は必要悪と肯定的に考えてる人は少なくない、実際オッペンハイマー北米公開時、バービーときのこ雲をかけ合わせる類の画像が一般ユーザーらによっていくつも作成されて日本では波紋を呼んでいたが、そんなイメージを安易に描いてしまうという「現実」が日本人には理解できていないというだけだ。そんな、日本人からは理解できない現実がある中で”被爆”の惨状を伝えたとしても本質的な事を伝える事は難しい。
この作品で”被爆”の惨状についての描写は無い。
ただ、この作品が公開されるにあたり、初めて知ったことがあった。
それは、トリニティ計画でプルトニウム型原爆の実験が行われたトリニティ・サイトの事だ。
トリニティ計画のあと10日間に放射性物資は全米46州やカナダ、メキシコにも拡散、被爆者がいたという、米国民にとっても、史上初の被爆者が広島の収容所にいた米兵捕虜ではなく、本土の米国人だったという「事実」を殆どの米国民は知らないそうだ。
ある意味日本人である私にも衝撃でもあった、唯一の被爆国”日本”、しかし被爆者が日本人だけで無い事は知っていたが北米における被爆者の事は全くと言っていいほど知らなかったからだ。
この作品が公開されるにあたり、賛否両論色々な意見が別れている。広島にある中国新聞の記事では<「広島と長崎やトリニティ・サイトを見せないのは、米国の観客に「加害者」としての罪悪感を持たせない意図でもあったろう>と論評しているが、被爆の実相を描かなかった事で、日本人としてあまり馴染みが無かった米国民が最初の被爆者であったという事実が浮き彫りになったと考えると、この作品が制作されたことにより多くの事を知る機会を得た事は意味がある。
この作品からよくわかった事は、オッペンハイマーが、原爆という「パンドラの箱」がどれほどの影響を人類に与えるかわかっていた事、そしてその事がわかっていながら科学者としての探求(欲求)に抗えなかった事。そして、実際に使用された後被爆の実相から目を背けた事。
この作品はオッペンハイマーの人生を中心に描いているので原爆が投下された事から目を背けた通りに描かれているのかもしれないが、ノーラン監督も核の脅威を描きたいと思っていたのなら、実相を描く必要はあったのでは無いかと思う。少なくとも米国民にも被爆者が居たという事実。そこさえも描かない事は共感ができない。
NHKのインタビューで「原爆の被害がなぜ描かれていないのか?」との質問にノーラン監督は「映画をどう観て欲しいか明言したく無い」と回答を拒否している。
また、映画チャンネルの荻野洋一氏の記事に興味深い内容があったので引用させていただく
<『ヒロシマ、モナムール(公開当時の邦題:二十四時間の情事)』(1959)という、アラン・レネ監督が戦後の広島でロケーションした著名な映画があるけれども、その映画の中で、原爆についての映画に出演するために広島に滞在中の女優(エマニュエル・リヴァ)が「広島で、私はすべてを見たわ」と言うと、彼女とつかのまの恋に落ちている広島在住の男(岡田英次)が「広島で、君は何も見なかった」と応答するあまりにも有名なセリフがある(脚本はマルグリット・デュラス)。
『オッペンハイマー』の恣意的な画面連鎖を眺めながら、筆者はオッペンハイマー本人と空想上の会話を交わした。
オッペンハイマー氏「ロス・アラモスで私はすべてを見た」
筆者「いいえ、ロス・アラモスであなたは何も見ませんでした」
彼がしたことの重大さに比べれば、戦後の冷戦下で彼が赤狩りで追及を受け、スパイの烙印を押されるかどうかなど、私たち日本観客の知ったことではないし、付き合う義務もない。
赤狩りで活動停止に追い込まれたあげくに39歳で命を落としたスター俳優ジョン・ガーフィールドの短い生涯を描いたよと言われたならば、私たちは固唾を飲んでブラックリストに載った彼の悲劇的な行末を見つめることだろう。原爆の罪深さと、赤狩りで失脚する学者の内面の苦悩とが、等量の重要性をもって描かれるという操作に、筆者は言いようのない冷酷さを見ている。>
日本人としての一つの回答だ。
劇中オッペンハイマーがヒンドゥー教の経典を引用し「我は死なり、世界の破壊者なり」だったかそんな言葉を語る、死神とは果たしてオッペンハイマーなのだろうか?
いや違う、本当の死神は人類そのものでオッペンハイマーはただパンドラの箱を開けただけにすぎないのかもしれない。今までは、核を作った人間、使った人間、使う事を決めた人間を悪だと思っていたが。この作品を観てからは人類そのものに大きな責任があり、自分も決して無関係では無いのだと改めて深く考えさせられるに至った。
ノーラン監督が描きたかったもの、その答えは監督の中にも無かったのかもしれない。
ただ少なくとも、この映画を体験する事で多くの人々に”原爆”・”核”というものに関心が集まった意義は大きい。
そして。
現代新たな「パンドラの箱」になるのでは無いかと危惧するものがある、それはAIだ。昔「アイロボット」という作品を観たが、AIは核をも上回る脅威となりうると思っている。なぜなら、人類の頭脳がAIの頭脳に勝る処理能力があるとは思えない事、そしてAIには致命的な”感情”というものが無い事からだ。
最後になるが、この作品公開の年にゴジラ-1.0が公開された事、たまたまではあるが何か因縁めいたものを感じる。そして、山崎貴監督がオッペンハイマーを観て「アンサーの映画を日本人として作らなくては」という一言に物凄い共感するものを感じてしまった。
是非!アンサー作品を作って頂きたい!
タイトルなし(ネタバレ)
ずっと、彼がアカかスパイかなんて、どうでもよい話だと思いながら観てた。広島・長崎の惨状を描いていないという前評判を聞いていたが、映像として見せていないだけで、彼のメンタルな部分や幻覚である程度描かれているように感じた。彼が体験し見聞きしてきたものだけを、客観的に淡々と描いていた。ただ、原爆を子供の頃から知っている日本人としては不十分に感じるのは仕方なく、もう少しおぞましさの伝わる表現が欲しかった。日焼けの皮がめくれる程度の描写なら、ない方が良いと思った。IMAXの映像と音響はすごかった。アカデミー賞作品賞、監督賞(ノーラン)、主演男優賞(キリアン・マーフィー)、助演男優賞(ロバート・ダウニー・Jr.)、撮影賞、編集賞、作曲賞の計7部門受賞。
クリストファー·ノーランの描く原爆の父
親日家であるクリストファー·ノーラン監督だけに、かなり日本に気を遣っているなと感じました。広島への投下成功のあと、ドイツにも落としてやりたかった!と主人公が言いますが、元々、同じ白人であるドイツに落とす気はなく、人間扱いしていなかった日本に落とすつもりだったのです。Japaneseと表現していましたが、実際は、最も蔑む言葉であるJapと言っていたのです。主人公があれほど後悔し苦悩したのかは定かではありませんが、苦悩していたのは事実なのではないかと思います。それ程、主人公の演技は素晴らしかった。他の俳優の演技も、音楽も秀逸でした。ただ、原爆投下で狂喜乱舞するアメリカ人の姿に、胸が痛みました。あの場面だけは、日本人として辛かった。アカデミー賞に値する傑作であったことには異論はありません。
原爆の恐ろしさと人間の愚かさ
まず、主人公に共感出来なかった。学生時代、実験が苦手だからといって、教授の林檎に青酸カリを注射器で注入するなんて。その後も、不倫して相手が自殺したり、奥さんが出産後アル中になると、友人に赤ちゃんを預けたり。問題から逃げてばかりいる人物だ。学者としては優秀なのかもしれないが、原爆の実験に成功してから、やっと陸軍に兵器として使用されることに気付くとは。あまりにも想像力が無い。
原爆の実験での映像がリアルだった。 炎、爆風、光、地響き。恐怖を感じた。この映像体験だけでも観る価値はあった。今日も地球ではあちこちで戦争が起きている。愚かな人類が生きている限り、戦火が消えることは無いんだろう。
ノーヒットノーラン
好きなIMAXで不評の映画を見てきた。笑
あまり見たくないなぁーと思ってたけど
良いか悪いかは観てみないとわからないので
遅ればせながら観てきました。
これが、アカデミー賞なんだ。
難しい映画でした。
勉強になりました。
監督は何を伝えたかったの?
逃げたなノーラン
オッペンハイマーの苦悩?
原爆の父だか知らんが違和感しかない。
広島、長崎の被害、実験で影響を受けた健康被害や土地を奪われた先住民等はほとんど描かれてなかった。
ま、リアルに映像化されたら耐えられなかったかも。
長かったけど不思議と眠くなかったww
賛否あるだろうけど、戦争を終わらせる爆弾を、
より正当化させたかったんですかね?
アカデミー賞は年々政治的な意味合いが強い作品が多く
国連のように社会主義国がいたら否決ですね。
難しくて、面白くないし、お勧めしないけど、
原爆が落とされる世界の背景が映像で観れたことは、
勉強にはなりましたね。
寝ないで観れたよ!
そこは、自分を褒めてあげたい。
フローレンスビューとの濡れ場は意外と濃厚だね。
あんなに、喜んでたのに、戦後は責任のなすりあい。
偉いさんは、戦争は金になるからね。
科学者の新しいのを作りたいのと政府の金もうけは、
今も続く。犠牲になる人は置いてきぼりだな。
連鎖反応
かなり難しい映画で、何の事前準備もしなかったことを後悔した。
時系列が入り乱れるので、どの時代の状況か分からないとストーリーを理解するのが難しい。
オッペンハイマーの生涯を軽く頭に入れているとだいぶ違うと思う。
ただ、ストーリーが完全に理解できなくても、オッペンハイマーの苦悩、不安、不快感、怖れ、後悔は理解できる。とくに音の表現はすごいと思った。3時間という時間を長いとは感じなかった。
オッペンハイマーのキャラクターが面白い。
理論物理の天才であるのはもちろん、サンスクリット語までも習得する語学の天才。半面、実験は下手。研究者のひとたらしって感じで、才能のある人なら自分と考え方が違っていてもかまわず熱心に説得する。研究者として理想的というか、人を巻き込むのがうまい。
あと、正直オッペンハイマーはうぬぼれ型の中二病っぽいところがあると思った。インドの聖典から引用して、「世界はそれまでと変わってしまった。我は死神なり、世界の破壊者なり」を自分のことと言うのはなんか…。
マンハッタン計画は物理学のスーパーヒーローたち大集結、物理学のアベンジャーズ結成!って感じでテンションぶちあがり。それで開発するものが史上最悪の兵器でなければ…。
どこで見た記事かは忘れたけど、実はマンハッタン計画で科学者が育成された、という側面がかなりあるらしい。超一流研究者たちと若手研究者があつまって、自由な雰囲気で定期的に討論することができる、非常に有意義な場だったらしい。
この時代、量子力学の研究がすすみ、物理学がついに世界の真実に迫ることができる、という機運に満ちていた。量子力学にとって不幸だったのは、その理論が大量殺戮兵器を生み出すことが可能であったこと。それがなければ、純粋に「宇宙の真実」という理学的関心だけを追うことができたはずだ。
日本への原爆投下について議論があった、というくだりは興味深かった。研究者たちの間で反対の署名運動があった、というのは救われる話だ。
オッペンハイマーは後年に核軍縮や水爆反対をしたことで有名だけど、そういう心変わりがどうしておこったのか、というのもこの映画の見どころである。
おそらくオッペンハイマーは、原爆が常識を超えてすさまじい威力をもつことが世界に示せれば、二度と使用してはいけない兵器である、という共通認識を世界が持つようになり、むしろ世界が平和になるだろう、と考えていたのだろう。
しかし、実際には原爆の開発競争が始まり、よりすさまじい威力をもつ水爆まで開発されてしまった。だから彼は自分の考えが間違っていたと考えざるを得なかった。
キーワードは「連鎖反応」。原爆がすさまじい破壊力をもつのは、連鎖反応が起こるからだ。そして、一時期はその連鎖反応が空気にまで広がり、一発の原子爆弾が世界全体を破壊してしまうかもしれない、という可能性まで示された。
その空気に引火するという連鎖反応は計算間違いであることが分かったけれど、実は「核開発競争」という連鎖反応には引火してしまった、ということにオッペンハイマーは気づき、その事実をアインシュタインに漏らした。
連鎖反応はあらゆるレベルに起こっている。後年のオッペンハイマーに対する赤狩りやスパイ容疑の追及については正直あまり関心がもてなかったが、国家に関する大きな事件が、個人の名誉欲、嫉妬、恥辱心のようなあまりに卑小なことがきっかけでおこされることもある、ということには大きな意味があると思った。原爆や水爆などというあまりに大きな力は、精神的に未熟な人間にはとても扱えない。
この映画は日本への原爆投下の正当性や、核抑止論の議論に一石投じるという意味で非常に大きな意味をもつと思う。重要なのは、この映画はアメリカ人がつくったアメリカの映画だということだ。アメリカがこのような自己反省ともいえる映画をつくったということが重要だと思う。
広島、長崎の惨状に深く触れていない、という批判もあるけど、この映画をきっかけにべつの映画を観るということもあると思う、また、日本こそがそのような映画を新たにつくるべきだと思う。
この映画に不満がないわけではない。原爆開発ついて触れていないこともあるので、以下のようなことがあればもっと良かったと思う。
まず、原爆の原理や水爆の原理について、少しだけでも解説があった方が良かったと思う。よく知られていることなので削ったのかもしれないが…。
あと、実際のところ、アメリカが原爆を開発できなかったとしたら、他国が開発していた、という可能性はどのくらいあったのか(日本でも開発していたらしいし)。
最後に、広島に落とされたウラン型と、長崎に落とされたプルトニウム型、二回の原爆投下について、オッペンハイマーはどう考えていたのか?
原爆開発の最も近くにいて真実を知り得た者
作中のオッペンハイマーは一貫して、凡人のように流され、目をそらし、悩みながら生きているように見えた。軍人よりも政治家よりも、それを使うと何が起こるか最も知り得た者の、説明責任の重圧と名声欲、逃避の弱い心が映像と音響によってぐるぐると迫ってくる。大統領に「原爆を落とされた相手が恨むのは科学者ではなく落とした私だ。」退出時には「あんな泣き虫はもう呼ぶな」と聞こえよがしに言われたあとのオッペンハイマーは、どこか、”権力者に翻弄された被害者側”になれる自分に安堵した表情に見えた。
原爆被害の表現に関しては、乾いてさらさらとした印象を受けた。
あえての表現かも知れないが、日本人的にはもっとウェットな、いつまでも治らない膿んだ傷のようなイメージがあったので、少し軽い表現に感じてしまった。
なぜ内外で高評価なのかさっぱりわからない
なぜ内外で高評価で受賞した作品なのか申し訳ないがさっぱりわからないです。★3以下の低評価のレビューはもう二度と書かないと決めていましたが・・・本作品については日本人としてどうしても一言言いたいです。クリストファー・ノーラン監督は確かにインセプションは抜群に面白かったが、本作品は楽しめる作品では到底ありませんでした(娯楽作品ではないのでしょうけれど)。そもそも登場人物がごちゃごちゃで、もちろん敢えてなのでしょうが、ボーア、アインシュタイン、エンリコ・フェルミなど有名人以外は誰が誰だかさっぱりわからなくなりました。異常に長い会話劇にも本当に辟易としました。
そもそも主人公のオッペンハイマーは本当に嫌な奴で、まったく感情移入はできません。恩師を青酸カリで毒殺しかけたり、インモラルな女性関係も含め、物理学では確かに優秀であっても基本的な人間としての倫理観に大きく欠けた人物であったことがよくわかりました。だから原爆製造ともはや降伏寸前の日本への投下という大罪を平気で犯したのでしょう。地獄に落ちるべき人物でしょうね。もちろんロスアラモスにいた他の連中も子々孫々に至るまで、自分たちが犯した呪われた所業に対する罪の意識に苛まれ続けるべきです。
フォン・ノイマンは53歳で死没、エンリコ・フェルミも53歳で死没、オッペンハイマー自身は62歳で死没と、割と短命なのは倫理観に欠けた大罪を犯した天才にはそれ相応の報いがあると信じたいです。
「われは死神なり、世界の破壊者なり」の古代インドの聖典からの引用のオッペンハイマーのセリフは有名で以前から知っていましたが、実際に映画にされると日本人としては、非常にむかつきます。貴様は神にでもなったつもりなのか?おこがましい!トルーマンに「自分の手が血塗られている気がします」と原爆を落としてから言い訳のように言うくらいなら、まずは日本に謝罪するのは筋だろう!と言いたいです。謝罪して許されるものでは当然ありませんが。
予習した方がいい!!
友人にそう言われて、さらっと予習して観たんですが、本当そうして良かった!!
じゃなかったら、ロバートダウニーJr.誰やねん!
が気になって話が入って来なかったかも…
面白かった!日本人として表現難しいところですが、観て良かったです!
集中力を切らせてくれない、鬼の展開の速さと
特徴的なBGM。実験のとことかめちゃドキドキしてしまう。知的好奇心には抗えない。どんな武器も人は使ってしまうようにできている…!!
賢い人達が出る映画ってだけでも面白いですよね。
観てるだけで、ちょっと頭良くなった気になるし。
昔、クローズZEROやってたときに同級生みんなサイド刈り上げてオラついてたけど、
オッペンハイマー観たら、物理勉強してたのかな。
どーでもいいけど、できる物理学者はみんな女好きなんですかね?博士と彼女のセオリー思い出しました。
ま、知的な人ってらセクシーよね。
話が重すぎて、どーでもいいとこしか語れません。
核の連鎖が世界を破壊し尽くさなくて良かったけど、ニアリーイコールなディストピアに僕達は生きているんでしょうか。
広島長崎のことはもう少し映して欲しかったかなと思いました。報告写真、目逸らすなよ、とも思いました。
オッペンハイマーの視点にて描かれた秀作。原爆の父の不完全で純粋な狂気。
映画で描かれた原爆の父は、
・原爆製造に画期的な発見・発明を個人的にしていない
・昔から女癖が悪い
・マンハッタン計画の進捗をひたすら管理した
だけの不完全な人であった。
原爆を完成させたいだけの科学者の純粋な好奇心。
たぶん死の灰がどれほどの後遺症を残すのかも全く検討していなかったのであろう。
その狂気を観客はオッペンハイマー視点で体験することになる稀有な作品なのだ。
登場人物が多いので事前に学習しておくとより楽しめます。
難しくし過ぎ?
久々の洋画
まずロバートダウニーjrとマットデイモンの老け具合にびっくりした。
若い時しか知らないのでww
これは事前に予習したほうがいいです。
ネタバレレビューも大いに参考になりました。
白黒とカラーの意味が分かりました。
何気に見に行ってたら確実に寝てます💤
良かった点は
怖さを音で表す手法は斬新だった。
ウンザリした点
スパイ容疑の件長い...結局スパイでもないし。だからストローズのジェラシーにイライラ😖
「我は死神なり、世界の破壊者なり」
あの時代ではなく違う時代に生まれてたら
一点の曇りもない科学者になってたのかなーと考えたりも...
被爆国に住む私達は冷静に見れない場面も確かにあるのでちょっと辛抱が必要。
予習してから見たほうが◯
■映画を見る側の問題
星3つの評価だが、これは映画を見る側の問題と思う。後半の赤狩りのシーンで証言者が次々現れるが私は白人男性科学者の見分けがつかず、赤狩りの知識も少なく理解できなかったから。
先にウィキペディアでも読んでおくべきだった。昔の仕事仲間が裏切ったかというシーンで「この人…誰?」と思ってしまったのは惜しすぎた。
■果てのない兵器への絶望
主人公とアインシュタインとの会話、水爆への反対意見は静謐な美しい映像も相まって印象深く、鑑賞後も何度も思い出すものだった。
■マンハッタン計画
本などで、「オッペンハイマーは科学者としてだけでなく、プロジェクトのリーダーとしても有能だった」という話を読んでおり、映画内でその仕事のやり方を見れたのは面白かった。
街を作り、そこに関連研究施設を集合させ、家族と暮らせるように住宅を作る。また数学と実験物理と理論物理が連携していく様など、ああこうやるんだと分かり興味深かった。
■なぜ捨て駒になったか
主人公は自分の妻・弟が共産主義寄りのため自分もそう判断されるとマンハッタン計画当初から分かっている。自分がこの計画に選ばれたのは国がいつでも切り捨てられる人物だからと言う。
しかし相手が国家で造っているのが兵器であることを考えると、ずいぶん危険なように思える。何でそんな仕事を受けたのか、私は不思議に思った。
(私が理解できなかったシーンで説明していたのかな…)
オッペンハイマーは現在の黙示録か
先週は出張で見そびれた3時間の大作「オッペンハイマー」を鑑賞しました。
※後「デューン砂の惑星part2(これも3時間)」を立て続けに見てちょっと疲れてしもた(笑)
オッペンハイマーは「インターステラー」「TENET テネット」などの超難解作品を送り出してきたクリスㇳファー・ノーラン監督が、原子爆弾の開発者、オッペンハイマーを題材にした映画です。
※以下ネタバレあり。
クリストファー・ノーラン監督の作品を観る時はそれなりに覚悟して来たのですが今回はいつもよりよっぽどわかり易くて
①オッペンハイマーが物理学者の仲間を集めて原子爆弾を開発するプロジェクトX的な話。
②戦後オッペンハイマーがいわれの無いソ連のスパイ嫌疑をかけられて社会的に葬られる話
③さらに時が経ちオッペンハイマーの嫌疑が晴れていくプロセスと映画の冒頭でオッペンハイマーとアインシュタインが交わした会話が開かされオッペンハイマーが①の成功から②受難③復活の意義が明らかになると言うストーリーです。
とは言え、①②③はランダムに展開されて解りにくくこの辺はクリストファー・ノーラン監督らしいのですが。
オッペンハイマーは①において開発した原子爆弾が広島、長崎で実際に使われるに至り激しく苛責の念に捕らわれ②のプロセスでもむしろ本人は嫌疑に積極的に戦うとせず「殉教者気取りか!」等と責められるのですが、元々オッペンハイマーが大量殺人兵器を開発した罪で裁かれるならまだしもスパイ疑惑なので、赤狩りの事を知っているアメリカ人にはともかく、私にはすごく違和感があり③で種明かしをしてもらっても何だかなぁ~と言うモヤモヤが残りました。
一方でそのモヤモヤ感と同様に何だかこのストーリーとよく似た話を知ってるぞと思ったところ、
気が付きました。
※以下は超個人の見解です。
これは新約聖書のイエス・キリストの生涯を表した黙示録に似ていると思ったのです。
めちゃめちゃ異教徒の解釈で恐縮ですが、すなわち①はイエスが仲間を集めて布教を行った流れと②イエスが捕まり殉教する③イエスが復活し①〜③が人を赦すためのプロセスだったと明らかにする一連の話しが映画のストーリーと似ているのです。
そう思えば冒頭のオッペンハイマーとアインシュタインの会話はイエスと預言者ヨハネの出合いになぞる事が出来るしユダやマグダラのマリアをイメージ出来る人物も登場します。
クリストファー・ノーラン監督が黙示録を意識したかどうかはわかりませんが①から③の流れは割とキリスト教徒である欧米人に体内化されたストーリーなのでは無いでしょうか。
そう思えばこの映画が今年のアカデミー賞を多数受賞した事も頷けます。
最後になりますが今回、「ゴジラ −1.0」がアカデミー賞を取ったのは喜ばしい事ですが、アカデミーはこの映画をオッペンハイマーに対する一つのアンサーとして選んだのでは無いかと言う気もします。外国映画賞がナチスのユダヤ人虐殺をテーマにした「関心領域」であったことを考え合わせると今年のアカデミーにおける一つの見識が働いたと言うのは考えすぎか。
天才科学者と凡人政治屋の確執を描いた物語
原爆の父・オッペンハイマーを題材とした作品。昨年7月の全米公開からどのように描かれているのか、観客はどんな反応だったのか、日本人として非常に興味を持って見ていました。全米公開からずいぶんと日が経ちましたが、アカデミー賞7部門受賞とも相まって期待が膨らみ、公開後すぐに映画館で鑑賞しました。
鑑賞前に改めてロバート・オッペンハイマーとルイス・ストロースについて予習してから劇場に向かったのですが、この映画は3つの時系列を何度も行き来し、登場人物も数十名にものぼり複雑なため、これから鑑賞される方もぜひ予習してからの鑑賞をお勧めします。
この映画の大筋は2本立てで、ひとつはオッペンハイマーが理論物理学を学び、マンハッタン計画に参画して原爆開発に成功するまでの軌跡。もうひとつはオッペンハイマーがストロースの陰謀にはまり、ロシアのスパイ容疑をかけられ、公聴会で処分が下るまでの過程で、物語の中核は後者となっています。
オッペンハイマーはハーバード、ケンブリッジなど世界の名だたる名門校で理論物理学を学び、この分野の研究をリードする存在でした。第2次世界大戦が勃発すると原爆開発を目指すマンハッタン計画が立ち上がり、オッペンハイマーはその才を見出され、原爆開発を主導する研究所の所長に任命され、世界初の原爆開発に成功します。
そんな彼を突き動かす原動力は、純粋な理論物理学に対する探求心と、原爆という悪魔的な大量破壊兵器を保持することによる戦争抑止への期待でした。
しかし、彼の想いとは裏腹に、政治家はこの大量破壊兵器をなんの躊躇もなく2度、日本に投下し、民衆はそれを熱狂的に支持します。
原爆は当初ドイツに投下予定でしたが、ナチスの降伏により標的が日本に切り替えられます。日本も実質的にはすでに死に体であり、降伏は時間の問題と考えられていましたが、『原爆を落とさなければ日本は降伏しない』という、政治的思惑も絡んだ原爆投下ありきの主張により反対意見は退けられ、原爆投下は強行されます。
オッペンハイマーが親友ラービをマンハッタン計画に誘った際、ラービが『爆弾に正義も不正義もなく、無差別に落とされる。300年の物理学の成果を大量破壊兵器に利用されたくない』と言って誘いを断る場面があるのですが、ラービは初めからこうした事態になることを理解していたのでしょう。
原爆投下後、オッペンハイマーはその現実に恐れを抱き、罪悪感に苛まれます。『我は死神なり、世界の破壊者なり』『私は自分の手が血塗られているように感じます』といった台詞に彼の苦悩を垣間見ることができます。
そして、アメリカはその後も水爆開発というさらなる軍拡の道へと突き進んでいきます。残念ながら原爆投下により失われた22万人の命に対する罪悪感を感じた政治家は皆無で、米国民も原爆投下を熱狂的に支持するという、日本人として悲しいというか、憤りというか、なんとも言いようのない感覚を覚えました(一部の科学者のみ罪悪感を感じていたようですが)。
そして、オッペンハイマーはこうした現実を目の当たりにし、更なる軍拡競争や水爆開発に対して反対の立場をとるようになります。核兵器についても国連で共同管理すべきだと進言しましたが、政治家はこれらの主張に強く反発し、以降、彼を邪険に扱うようになります。
そのなかで特に激しい確執に発展したのがもうひとりの主人公ストロースでした。
ストロースは靴の行商人としてその人生をスタートさせ、投資銀行家として財を成し、大成功を収めます。彼は上昇志向と野心の塊で根回しがうまく、あらゆる陰謀を画策するのが得意な根っからの政治屋でした。
当初ストロースはオッペンハイマーを利用して原爆開発を自らの手柄とし、政治家としてさらなる評価を得ようと思い描いていましたが、水爆開発など両者の価値観に多くの隔たりが生まれ、確執が決定的となるとオッペンハイマーを失脚させようと画策します。
ストロースは戦後のアカ狩り(共産党支持者を探し出し追放する活動)に目を付け、オッペンハイマーがソ連と関係を持ち、核兵器に関する機密情報をソ連に漏らしたという話をでっちあげて陥れようとします。
実際、オッペンハイマーの身近には弟や元恋人なども含め、共産党員が数多くいて、彼自身も学生時代に共産党系の集会に参加したことがありました。しかし、彼自身は共産党員でもなければ、思想に傾倒していたわけでもありません。もちろん、機密情報など漏らしていません。しかし、結果的にこうした交友関係が仇となり、政治的に対立するストロールに付け入る隙を与えることになります。
公聴会ではほぼストロースの思い描いたシナリオ通りに話が進んでいたものの、一部ストロースに丸め込まれず、真実を証言した人間のおかげでオッペンハイマーは土壇場で無実が証明され、最悪の処分を免れます。一方、ストロースは公聴会における偽証が明るみとなり、世間に恥を晒して出世の道が目前で閉ざされることになります。
凡人ストロースが天才オッペンハイマーに対して強烈な嫉妬心と敵愾心を抱き、得意の権謀術数を駆使してなんとか引きずり降ろそうと必死になる一方、オッペンハイマーはストロースのことを(心中では見下し)あまり意に介してもいない様子で、それがまたストロースの癪に障るという、世の中でもまあまあ良く見る構図が描かれています。また、こうしたふたりの対比を描くことでオッペンハイマーの人物像をより際立たせようとしたのかもしれません。
しかし、それなりに成功した人生を歩んでいたストロースがなぜこれほどオッペンハイマーに嫉妬心を抱くのか、執拗に敵意をむき出しにするのか、個人的にはそれがちょっと解せない部分でもあります。『卑しい靴のセールスマン』と言われてプライドが傷ついたのでしょうか。笑
日本人としては辛い描写も…
背景や登場人物など
全く未予習で鑑賞したため、
勉強不足で前半は頭が付いていけず。
トリニティ実験のシーンあたりで
やっと内容が掴めてきたが、
実験のカウントダウンは恐怖すら覚えた。
また被爆国に住む者としては
実験が成功し歓喜する人々には
科学者目線といえど
嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
映画の中でたんたんと交わされる
『Hiroshima』『Nagasaki』の
ワードを聞くのが辛かったが、
核戦争の危機が迫っている今こそ
観るべき作品だとは感じた。
作中の音が印象的で
沈黙の時間とその後の爆音に圧倒。
IMAXで観て正解だった。
出てくる登場人物が
なかなか癖のあるキャラクターが多く
あまり共感できる人物はいないかったが、
ラストシーンのアインシュタインのセリフが良かったことと、
フローレンスピュー演じる
ジーンの声がセクシーで美しかった。
プロメテウスの火
日本人としては複雑だ。
後半になりHIROSHIMAだNAGASAKIだと英語で発音されるソレらがまるで記号のように聞こえてくる。
アメリカ近代史に明るければ、より深くこの物語を理解できるのかと思われる。そうではない俺には前半の助走がしんどかった。
見終わった今思うと、アレは必要なのだと思える。物理学に心酔し、宇宙の理までも追求できる探究心があるのは賞賛されるべき事だ。
科学の発展に尽力し続けた若者達。国の威信がかかってるわけではないけれど、他国が一歩進めばその先をと対抗心に火がつくのも当然だ。
長い長い時間をかけて「原爆」に辿り着く。
「300年の物理学の辿り着く先が大量殺戮兵器でいいのか?」
…今までの成功を根絶やしにしてもお釣りがくるくらいの台詞である。
当時のオッペンハイマーは、どんな気持ちでこの言葉に向き合うのだろうか?
なんでもそうだけど、ある物は使うよ。
そして、アメリカが開発しなくてもどこかは開発するだろう。
2発の原爆を運び出す車が破滅に向かっていくようで恐ろしかった。
後戻りなんて、とうに出来ないのだ。
現在、世界各国は地球を破壊できる程の核を保有していると聞く。そんなの当時は誰も想像しないだろう。戦争のやり方が明確に変わった分岐点だと思う。
そこから更に発展し、今や大量殺戮兵器は無限に増殖し変異する細菌兵器へと向かってる。
誰かを刺した刃は常に自分にも向けられているのだと、いつになったら気づくのだろう?
気づいた所でやめんわな。
だから人間は愚かなのだから。
ロスアラモスが作られる辺りから妙な焦燥感に襲われる。胸の奥がザラザラする。やめてほしい、引き止めたい。でも、何もできない。
頭脳明晰な若者達が集い、嬉々として世界を破滅に導く兵器の開発に勤しむのだ。
不穏なBGMがずっと鳴ってる。いい仕事しやがる。
軍部からの開発依頼なのは明確で、兵器を作ってる自覚はある。スローガンのように語られるのが「戦争を終わらす為に兵器を作る」だ。
他国を完膚なきまでに叩きのめす。反抗する気が起こらないように徹底的に。
それがアメリカが目指す勝利の形らしい。
白人至上主義にでも裏付けされてんのか?敵は単純に敵であり、それ以外の何者でもないのだろう。
初の原爆実験の描写は戦慄だった。
閃光と共にホワイトアウト、上空何百mにも及ぶ火柱。プロメテウスの火を人類が手にした瞬間だった。
このシーンに至るまでに、オッペンハイマーの葛藤も描かれはするのだけれど、捏造かもしれないので触れないでおく。ただソレを表現するキリアン・マーフィーは素晴らしかった。
8月6日を境に物語は戦後に様変わりする。
オッペンハイマーが糾弾され、策略にハマって同情を誘うような描き方が続く。
ストローズが黒幕でありなんて話にもなるんだけれど、オッペンハイマー第二章かと思う程テーマが違う。
ああ、やっぱ英雄視はしたいんだろうなぁって思う。アメリカを戦勝国にした最大の功労者だもんな。例え世界を道連れに地獄へ引き摺り込んだとしても。
奥様の一言が強烈だった。
「許された気にでもなってるの?どうせ世界は許しちゃくれないわよ。」
上手い台詞だなぁと思う。
そこまでズバッと刺されちゃえば、それ以上言えんもんなぁ。
資本主義の犠牲者的な側面はあるものの、殺戮兵器の生みの親である事は変わらない。
彼らが未来に及ぼした影響は計り知れない。
科学の発展は人類の滅亡へ直結する。
ネットもそうだし、AIもそうなっていくのだろう。戦争は無くならないし、地球の自浄作業だなんて言う輩もいる。
命が死というものに向かう運命があるように、人類にも死という運命があるのだろうなぁ。
いつかはわかんないけど。
1つ思ったのはアインシュタインってあんな身近な時代の人だったんだな。
もっと昔の人だと思ってた。
あの時代、科学の発展って加速的に進んだんだなと思う。自分の学の無さに呆れてしまう…w
コレって作品のレビューになってんのかな?
全編通して不穏なBGMが印象的だった。
◾️追記
ああ、そうだ。
皆様のレビューを読みつつ去来した感情があった。
やるせなさ、だ。
時間は戻らないし、核は誕生してしまった。
人類が人類を破滅に追いやる道具を手にしてしまったのだ。
核の無効化や無害化に科学者達が到達するなら、オッペンハイマーが許されたと思える日も来るのかもしれない。
タイトルなし(ネタバレ)
1950年代、原子力委員会の委員となっていた「原爆の父」オッペンハイマー博士(キリアン・マーフィー)は、赤狩りの渦の中、コミュニストの嫌疑をかけられ、委員から除名されようとしていた。
彼は、原爆開発後、広島・長崎の惨状から戦後は原水爆禁止・不使用の立場に翻っていた。
一方、原子力委員会に君臨していたストロース(ロバート・ダウニーJr)も公聴会に挑んでおり、それは政府閣僚・商務長官指名を狙ってのものだった。
ふたりの確執は原子力委員会設置時から始まっており、推進派のストロースにとって、反対派のオッペンハイマーは宿敵ともいえる存在だった・・・
というところからはじまる物語で、あれれ、原爆開発の「マンハッタン計画」が主軸ではないのね?というのが観始めてすぐの思い。
で、ストロースの公聴会、オッペンハイマーの諮問会とふたつのことなる裁判にも似た会議が現在時間軸で、それぞれの回想(というかなんというか)の形式で過去の出来事が綴られていきます。
うーむ、なんやねん。
別に時間軸に沿って順に描けばいいじゃないか、と思うわけですが、それをやると倍ぐらい時間がかかるので、「さわり(見どころ)」だけで綴ったのではないか思うようなつくり。
前半30分ぐらいまでに、オッペンハイマーがアカとみなされる要素を出してくる脚色は相当上手い。
けれども、それは、(わたしが期待した)映画の語りとは異なっていた。
前半に提示される要素が、最終的にオッペンハイマーのアカ/非アカを決定づける要素となっておらず、そういう意味では伏線になっていない。
なので、時間軸どおりでいいんじゃないかと思うわけで、そう思うのにはもう一つ理由があって、オッペンハイマーが「マンハッタン計画」主導時と戦後における変転は、やはり時間軸に沿って描き、「おお、そりゃ心変わりするよね」と納得させる演出が欲しかった。
あえて原爆投下後の広島・長崎の画を撮らず、露出過多で悪夢を描く演出は評価できるが、その演出も今回の語り口では、鬼面人を驚かすの域を出ていないように感じました。
さらに戦後政治に飲み込まれていくオッペンハイマーの対立軸のストロースがあまりに生臭く(つまり演技的には素晴らしい)、彼の政治的野心との対立みないな感じがするのもマイナス要素。
ということで、個人的には「ところで、オッペンハイマーってどんな人物よ?」と思ってしまい、意欲空回り的な映画かなぁとも思った次第。
のべつ流れる劇伴、うっとおしいなぁと思ったら、最終実験の際の無音演出、その後のオッペンハイマーのトラウマ演出への伏線だったのね。
この点は、おおおお、と思いました。
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