オッペンハイマーのレビュー・感想・評価
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原爆をつくったのも人間
1945年8月6日は言葉通り、「世界は今日を忘れない」という日になりました。 原爆がプロメテウスではなく人間によってつくられたこと、様々な苦悩を伴ってつくられたことを説得力をもって描いて示されました。 7月の実験の成功に向けたカウントダウンは、現在日本で観ている私にも高揚感をもたらしました。その後のオッペンハイマーの気付には救われた気がしますし、政界との軋轢は現代にも通じるものを見せられました。 「今に分かるさ」って日がいつ訪れるのか考えるのは虚しい気もしますが、そんな日が来ることを期待したい。 どんな議論があったのか分かりませんが、海外での公開に合わせて鑑賞したかったです。
聖林アメリカ人のマタタビの正体
さすがにアカデミー賞受賞作品だけあって、見ごたえは十分。原子爆弾の存在意味について、日本では「配慮がない」という人がいるようだが、まあ所詮アメリカ映画ですしね。そこに目くじらを立てても仕方ないでしょう。 それよりも、さまざまな高評価と映画賞獲得のカラクリは、民主党リベラルの牙城ハリウッドの琴線を刺激したため、と断言したい。主題は商務長官就任の公聴会において、反対票を入れた人物名をオチにして、作品の評価を爆騰させてアカデミー賞をゲット!というのがストライクな解釈だと思います。
要予習
過剰に大きな効果音や長過ぎる上映時間などのため、観ていてやや苦痛を感じる作品だった。
実在した学者が何人か登場するが、いずれも本人に似せた風貌となっているあたりに製作者のこだわりを感じる。モノクロを使って時期や場所の違いを表す手法も面白い。
史実や実在した人物を掘り下げて描く作品は、展開のわかりやすさよりもインパクトを重視してつくられる場合がある。本作もそのような作品であるため、視聴前にオッペンハイマーの人生や身近な人物を予習しておくと展開を理解しやすく、作品をより楽しめるようになると思う。
予習を怠ったため展開を追うだけで精一杯となってしまい、監督の意図をあまり読み取ることができなかった。再視聴を検討中。
ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr. 、本作でアカデミー助演男優賞)にも注目すると入ってきやすい
クリストファー・ノーラン監督の原爆を題材にしたオスカー作品。
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「まちがいなくアカデミー賞っぽい」「やや長く重苦しい」「クリストファー・ノーランとロバート・ダウニー・Jr」「おもったよりも作品は「原爆」ではなかった」
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<印象に残ったもの>
①ロバート・ダウニー・Jr. (ストローズ役):序盤から気になったが重要な役どころだった。もしもう一度見るなら、彼をよく見る。
②映像美:主人公のオッペンハイマー視点はカラー、主人公以外(ストローズ関連シーン?)はモノクロで表現され、映像美の要素としてのみでなく、話の道筋の理解の参考にもなった
③音:原爆の恐ろしさ、主人公と他の人との距離などの表現に音響効果が”極めて”印象的だった。できればまたDOLBYなどで鑑賞したい
<作品メモ>
原爆の父である主人公の科学者としての倫理観が作品全体のテーマ
①ナチスとの原爆開発競争から実験成功、日本への実戦投下、ソ連側の原爆開発脅威との向き合いといった時代を背景に
②大学での研究、砂漠の研究所の開発、公聴会の3つのシーンで描かれ
③対峙するもの(共産党員関係者として見られていたこと、軍人や政治家etc)との重苦しさがそのまま作品に暗い影を落とす
納得
歴史面から見れば新しい発見は特にはなく、史実に沿って構成しているのでネタバレも減ったくれもないのだが、公開前のプレミア上映だったので、極力大きなネタバレは避けておきます。 とにかく「すごい」「傑作」を連呼したくなった。 過去、時々あった「なんでこれが?」「時節の流行に流されたのか?」「多様性に配慮した政治判断じゃね?」みたいな作品とは違い、アカデミー賞の最優秀作品賞受賞も納得でした。 繰り返し挿入される水滴や波紋、炎や太陽フレア爆発など、様々な抽象的カットは、オッペンハイマーの思考・ひらめき・感情を表したものだと思います。 その美しく、高度な映像表現の数々。 また様々な場面における音楽、自然音、効果音、すべてが素晴らしい。 ちなみに、警戒された原爆成功については、確かに科学者たちの歓喜シーンがあったものの。 すぐに、被爆実態のフィルムを見て「恐ろしいことをした」と悔い改めるオッペンハイマーの姿に、日本で上映しても問題がないと思いました。 ただ、彼の虞(おそ)れは日本に対しての罪悪感が主ではなく、「水爆開発が世界を滅ぼしてしまう」ことであり、「科学を躊躇なく武器として使う人間というもの」「人の業(ごう)と欲の醜さ」に対してであるように思えもしました。
オッペンハイマー 世界的にみても被爆国日本の公開が大幅に遅れた作品...
オッペンハイマー 世界的にみても被爆国日本の公開が大幅に遅れた作品。被曝に対して何か強い思想、考えが込められてた様には思えず、直接的な投下シーンもないためそこまで必要以上に繊細に身構える必要ないと感じた。 この作品を見て被爆国日本人として一点強く感じたのは日本に本当に落とす必要性がはなかったのではないかという事。ドイツの情勢やソ連に対する牽制だったり必要性が感じられず、当時のアメリカ政府やアメリカ軍、アメリカ国民の様子をアメリカ人たちがこの様に作品にしてくれたのは救いではあった。 娯楽性は限りなく少ないノーラン作品とはなるが、被爆国の日本人としては鑑賞を強く勧めたくなる作品であり同時に色々と語りたくなる作品であった。 個人的な2024年洋画新作鑑賞ランキング 1 ネクスト・ゴール・ウィンズ 4.8 2 Firebird ファイアバード 4.8 3 コット、はじまりの夏 4.7 4 オッペンハイマー 4.7 5 アマグロリア(原題)Àma Gloria(横浜フランス映画祭2024) 4.8 6 コンセント 同意(横浜フランス映画祭2024) 4.7 7 ARGYLLE/アーガイル 4.7 8 アリバイ・ドット・コム2 ウェディング・ミッション4.5 9 バティモン5 望まれざる者(横浜フランス映画祭2024) 4.5 10 デューン 砂の惑星 PART2 4.5 11 愛する時(横浜フランス映画祭2024) 4.5 12 ファイブ・ナイツ・アット・フレディーズ 4.5 13 アクアマン/失われた王国 4.5 14 ニューヨーク・オールド・アパートメント4.3 15 異人たち 3.7 16 ミツバチと私 3.6 17 ブリックレイヤー 3.5 18 ネネスーパースター(原題) Neneh Superstar (横浜フランス映画祭2024) 3.4 19 12日の殺人 3.3 20 コール・ジェーン -女性たちの秘密の電話- 3.2 21 コヴェナント/約束の救出 3.0 22 僕らの世界が交わるまで3.0 23 ストリートダンサー 3.0 24 カラーパープル 2.9 25 弟は僕のヒーロー 2.8 26 RED SHOES レッド・シューズ 2.8 27 画家ボナール ピエールとマルト(横浜フランス映画祭2024) 2.7 28 Vermines(横浜フランス映画祭2024) 2.6 29 関心領域 2.6 30 ジャンプ、ダーリン 2.5 31 エクスペンダブルズ ニューブラッド 2.3 32 けもの(仮題)La Bête(横浜フランス映画祭2024) 2.3 33 マダム・ウェブ 2.3 34 落下の解剖学 2.3 35 ダム・マネー ウォール街を狙え! 2.3 36 哀れなるものたち 2.3 37 DOGMAN ドッグマン 2.2 38 パスト ライブス/再会 2.2 39 ボーはおそれている 2.2 40 ジャンヌ・デュ・バリー 国王最期の愛人 2.2 41 瞳をとじて 2.2 42 ゴースト・トロピック 2.2 43 葬送のカーネーション 2.2 44 Here ヒア 2.1 45 美しき仕事 4Kレストア版(横浜フランス映画祭2024) 2.0 46 ハンテッド 狩られる夜 2.0 47 サウンド・オブ・サイレンス 2.0 48 ポーカー・フェイス/裏切りのカード 1.9 49 アバウト・ライフ 幸せの選択肢 1.8 50 サン・セバスチャンへ、ようこそ 1.8 51 VESPER/ヴェスパー 1.5 52 フィスト・オブ・ザ・コンドル 0.5 番外 QUEEN ROCK MONTREAL 5.0 私ときどきレッサーパンダ 5.0 FLY! フライ! 5.0 π〈パイ〉 デジタルリマスター 2.0 ピアノ・レッスン 4Kデジタルリマスター版 1.5
アメリカのアメリカの為の映画
はっきり言って3時間は長すぎ、前半は主人公の色恋沙汰が長々と続く、後半に入ってやっと本筋が始まる、ここまでが苦痛で苦痛で仕方なかった。セリフの一言一言が事実なんだろうからそれは観る側にとってはすごく重みを感じるのは理解出来ます。 結局アメリカという国はイスラエルと同じ考えだという事、先制攻撃されて人質を返さなければ全く罪のない多くの一般人殺害、飢餓で殺しても何とも思わないという考え、正にこの映画も実際に原爆落とされて広島 長崎で被爆して死んだ人の気持ちなんてこれっぽっち も思っていなくて互い責任のなすり合いばかり、「これでやっと息子が戦争から帰って来れる」のセリフが正にその物、こんな映画がアカデミー賞で多くの部門を受賞すると言う事は、死んだ広島 長崎の人達のおかげだと言っても過言ではないかと思う。 まあ内容が難しく盛り上がりの少ないノンフィクション映画ではあるが、映画その物の構成や俳優の演技自体は評価します。 但し、広島 長崎以外に住んでる多くの日本人が観てもはっきり言って気持ちの良い映画ではないですね、だからアメリカのアメリカの為の映画でしたという事。 京都には落とさないという理由は有名な話だけど、まさかハネムーンで行って気に入った所だからが理由だとはねえ、、、、、、。 追記 オッペンはヘビースモーカーなのだろうか、各シーンのたびにタバコを吸ってる。最近の映画では禁煙ブームなのかあまりタバコを吸うシーンは見かけなくなった。この映画ではオッペン以外の俳優は殆どの人が吸っていない、これには少し不自然に見えましたね。
WE did it って・・・
最初から最後まで、 オッペンハイマーの苦悩、 核兵器を作るべきではなかった、 しっかりしたアゲインスト作品にはなっている。 キリアン・マーフィーが、 『ピーキー・ブラインダース』のイメージが強すぎるが、 トミーの弱さを見せない役作りとは、 違う一面を見せる、 その一面一面を、 カラーそのものの色彩、 RGBでいうとGの上げ下げ、 BSMYでいうとSの調整、 ネガティブな史実、 状況に沿ったマインドをカット毎に、 多面的に構築する。 劇伴音楽はいつものブオブオ・・ブオブオ、 洗濯機を回すような音は、 和音風に深層に潜っているよう。 解体からの構築、 キュビスムオッペンハイマー。 量子論、平和、映画そのものの解体、ノーランキュビスム。 のような本質は永遠の映画のテーマでもあり、 ノーラン自身も『メメント』から、 映画の表現の解体、 再構築を常に試行、 観客に新しい凄い体験をさせるひとりドドンパ(体験そのものも、スクラップ&ビルド)に挑んでいるが、 基本的には社会性には踏み込まない(『ダンケルク』もネガティブな社会性の成分は少ない)。 どうしても解体、再構築が、 現実社会と切り離せなくなると、 表現の自由度に制限が出てくるのも理由のひとつだろう。 対話のシーンのカメラの入れ方、芝居も見所のひとつ。 基本的にはノーランは、 他の作品でも手前人物入れ込みで、相手の正面を撮る。 しかし、 キリアンとマット・デイモンだけは、 ワンショットを切り返していく、、、その意味。 他にもマシュー・モディーンが出演している意味、 ケーシー・アフレック、 地下鉄の吊革パンチングボール男ジェームズ・レマーまでひとりひとり言及したい、 IMAXのスタッフは、 クレジットされているだけでも約50人、 絵を重視するならIMAX、 音を優先するならDolbyCINEMA、 がいいだろう。 もちろん座席の位置、 各スクリーンの設定でも多少の違いはある。 さすがはノーラン、 おもしろいアイデアにあふれている、 枝葉末節話しの脱線が長くなり過ぎるので、 上記は別の機会にして本題へ。 ロス・アラモスでの、 実験の後の、 WE did it、 WEも気になるし、 didは何をどこまで、 itって、、、。 トルーマンの、 I didも、、、。 朝ドラの三淵嘉子さんも、 どこまでドラマ化するのか、 興味深い。 【蛇足】 映画で、 どこまで凄惨な現実を描くか、 抽象度の上げ下げの具体的な方法論は『サウルの息子』で書いてます。 オッピーのスピーチ、目の前の観衆が消えるシーン。 ノーランが実娘をキャスティングしたのは、 本作を撮る事の覚悟の現れのひとつだろう。
エンディングの暗転したスクリーン。その向こうに私たちが見出すもの・・・
この映画は、カラーで描かれるパートとモノクロで描かれるパートで構成されます。
どちらのパートも、オッペンハイマーにかけられた国家の安全保障政策(水爆開発)や国家機密に対する彼の思想・行動の危険性という嫌疑を審理する、その「裁き」のプロセスを描いています。
Fission「核分裂」(→原爆を象徴する言葉)というタイトルがついたカラーパートは、嫌疑をかけられたオッペンハイマー自身の申し立てを、彼の言葉によれば「彼の今までの人生全体を時系列的に」述べることで審理委員たち、そして私たち映画の観客に伝えようとするのですが、ノーラン監督は、そこにオッペンハイマーの心象風景、彼が幻視した核の脅威のイメージも含めながら映像化しています。それは確かにこの映画を見る私たちには訴えるものがあるのですが、一方、オッペンハイマーが申し開きする審理委員たちに彼の心の中のイメージまでは決して伝わらず、審理の場での彼の孤立感がますます深まっていく様子が描かれます。
一方のモノクロパートにはFusion「核融合」(→水爆を象徴)というタイトルがついて、嫌疑をかけた側、その中心人物ストローズという男の証言をメインに構成したもの。しかもこのモノクロパート、オッペンハイマーを裁いたいわゆる「オッペンハイマー事件」の数年後、彼に嫌疑をかけたストローズ自身のホワイトハウス高官就任の是非を問う聴聞会での、ストローズの証言、国家への危険人物と見なされたオッペンハイマーとストローズの関りについての彼の証言、という形で構成されています。
オッペンハイマーが裁かれるプロセスと、その数年後に彼を裁きにかけたストローズも審理にかけられるプロセスを、交互に構成しながら二人それぞれが迎える審判に向けてストーリーは展開するのですが、映画では冒頭近く、このストローズという人物の動機、彼とオッペンハイマーとの間の確執のきっかけが、二人の出会いのシーンにさりげなく描かれます。(原作にはないノーラン監督オリジナルの脚色ですが、ちょっと向田邦子を思わせるピリピリした味わいがありました。)
プリンストン高等研究所の所長に推挙されたオッペンハイマーと、彼を推挙したストローズの出会いのシーン。commuteという言葉を「通勤の便」という実務的な意味で使うストローズと、そこに「重荷の軽減」或いは「重い刑からの減刑」という意味をかけているオッペンハイマーの気持ちのずれ。ストローズの前職shoe salesmanをlowly「卑しい」と形容してしまう名門出のオッペンハイマーとjust「まっとうな」とみなすたたき上げのストローズとの間の微かな緊張感。そして、オッペンハイマーとアインシュタインという知の巨人二人の会話を遠くから遠望するストローズ。彼はその会話の中身を知りえないまま、それを自分への中傷と思い込み・・・
出会いの時の気持ちのずれ、思い込み、小さな反感・・・それを疑念や憎悪、そして復讐心へと募らせていくストローズ。
そんなストローズに仕組まれた裁判は、オッペンハイマーの人格と業績を卑しめるための意趣返しに変質し、ただの茶番のような様相を帯びてくる。
過去の交友関係をほじくり返し、その不倫現場を再現し、ささいな虚言をあげへつらう、そんな展開が延々と続くカラー、モノクロそれぞれの裁判シーン。そこには真実が暴かれる高揚感・スリルのようなものは感じられず、むしろ何とも言えないやるせない感じ、彼らは何を裁いているのだろうという思いが募ってきます。
本質的にそこで審理されるべきは、「人類はいかにして核に向き合うべきか」という、今や人類全体の生存に関わる課題、水爆は必要なのか否か、という問題であるはずだった。オッペンハイマーはその課題を敵も味方もないオープンな場で議論することの必要性を唱え、機密という殻で真の脅威を秘匿することの危険性を訴えただけ。それが、いつしかその主張は敵国へのスパイ容疑、国家の安全保障への裏切りにすり替えられ、過去の思想傾向や、不倫、ささいな虚言に結び付けられながら彼の人格、個人的な欠陥の裁きに矮小化されてしまう・・・
この茶番のような裁き、審判の結果が、今なお世界に覆いかぶさる「核の影」なのか、という暗然とした思いに囚われるけど、それこそがノーラン監督が意図したことでしょう。
そして、そのような裁判が行われた時代の国民の姿、感情を直接的に描かずに、ストーリーは密室の裁判劇、或いは砂漠の研究所での秘密の開発ドラマとして進められる、そこにもノーラン監督のある種の意図が感じられました。
直接的ではないけれど、じわじわと不気味に浮かび上がってくる感じ・・・
日本への原爆投下を研究所メンバーたちが無邪気に喜ぶシーン。そしてトルーマン大統領の登場シーン。
G・オールドマンがチョイ役ながら印象的に演じるトルーマン大統領。歴史においては、彼こそ影の主人公・ラスボスのように思います。
「私の手は血塗られている」とつぶやくオッペンハイマーに「広島の人々に呪われるべきは、原爆投下を決めた私だ。君が背負うことではない」と諭したトルーマンの言葉には、何億という国民の命(それはあくまで自国の民だけど)を背負う政治家としての矜持、重みが伺えます。(トルーマンはこの会見後、「彼の手は私の半分も血塗られていないよ」と言い捨てたとか) 核の時代の真の脅威を理解しない凡庸な大統領が原爆投下を決定し、朝鮮戦争の戦火を開き、民主党大統領でありながら「赤狩り」を黙認し・・・それでも国民は1948年の大統領選で彼を再選するのです。そして、今なお多くのアメリカ国民が原爆投下は戦争早期終結のため必要だったと信じるに至った、その端となったのもトルーマンの言葉。
ロスアラモスの集会所で、足を踏み鳴らしながらオッペンハイマーを英雄として迎えようと集まる研究所職員たちの姿に、或いはトルーマンという大統領を支持した国民の声なき声に、民衆は歴史の被害者だけではない、時に加害者となりうることを描こうとするノーラン監督の意図を感じました。ふと、映画キャバレーのtomorrow belongs to meのシーンを見たときの印象もよみがえる・・・。(このロスアラモスの職員たちが踏み鳴らす足音は、世界の破滅への足音としてオッペンハイマーが幻聴する足音として劇中何度も現れます。)
この映画は、オッペンハイマーという人物やオッペンハイマー事件について既に多くを知っている人には、不満の残る部分があると思います。広島・長崎の惨状描写や、それへのオッペンハイマーの悔恨感情の描き方が甘いという指摘は確かにあるかもしれない。ただ、彼の悔恨は、広島・長崎へのそれ以上に、それが切り開いた核に支配された未来、それがもたらすかもしれない世界の壊滅への恐れであり悔恨であった。同時代、もう一人の「パンドラの箱」を開けた科学者・ウェルナー・フォン・ブラウン(彼は後にアポロ計画のリーダーとしての栄光を手に入れる・・・)の手になるV2ロケット、それはやがてICBMとして無数に空に向けて放たれる・・・彼が見たそんな未来への悔恨が原爆後の彼を突き動かしていたことに重点を置いたノーラン監督の意図は十分に理解できました。むしろ私自身は、オッペンハイマーの行動の支えとなったニールス・ボーアの思想、「the Open World」(開かれた世界)という言葉に集約されるボーアの哲学をもう少し掘り下げてほしかった。映画では一度も使われなかったこのOpen Worldという言葉に、個人的には核の問題だけではなく、今の世の中の様々な断絶、分断へ対峙する時に最も求められる姿勢を表しているように思うだけに、そこだけは少し不満が残ったかな・・・。
それでも私は、オッペンハイマーという人物、安易な感情移入を拒む複雑で矛盾に満ちた人物がたどった運命をあえて今この時代に描くこの映画の意義はとても重いと思います。何年か前、スミソニアン博物館での原爆展に異を唱えた人々、原爆投下は戦争の早期終結に有効だったと信じる人々、或いはオッペンハイマーという人物なんて知らなかったという人たちが、改めて今世界にかぶさる「核の影」、「世界終末時計」90秒前という世界、様々な国の元首が他国との交渉の手札に核兵器をちらつかせる、そんな世界の今に目を向けること・・・茶番の裁判で審理されることのなかった「人類はいかにして核に向き合うべきか」という課題に、何らかの思い・感情・或いは明確な意思を抱くそのきっかけとなること・・・それを私たちに促す力を、ノーラン監督のシナリオと映像は、そしてキリアン・マーフィーをはじめとする俳優の演技は十分持っていると思いました。
この映画のエンディングのシーン、茶番の裁判劇にストローズを駆り立てるきっかけとなったオッペンハイマーとアインシュタインの会話の秘密が明かされます。その後、世界終末を幻視したオッペンハイマーが耐えかねるように目を閉じる・・・
そして画面は暗転。真っ暗になったスクリーンは、その先にあなたは何を見出すのかというノーラン監督の問いかけだと思うのです・・・
日本人として辛い内容、でも公開決まって良かった。
原爆が完成されるまでの経緯を描いた伝記物。 時系列が入り混じり、バックボーンを知らないと難しい人間関係がわりと複雑。 アインシュタインの関係も知らなかった!自分の無知さ…もっと事前勉強しておくべきだった! そもそも自分は、これまで広島や長崎に至るでの経緯、その後の地獄、日本の視点でしか調べたりしなかった。だから、オッペンハイマーという人物、原爆が完成するまでの大規模実験など、経緯は全く知らなかった。 この作品キッカケで、原爆とはなにか?水爆実験とは?などを調べるきっかけとなったから、観てよかったと思う。 ※でも、知れば知るほど、辛い。 作中でほぼ描かれなかった“落とされた側”の視点で、どうしても考えてしまう。 この作品の裏側で、どんなことがあったのか…。想像するだけで絶望した。 ※京都を選ばなかったシーンは純粋に怒りが湧いた。 正直、ストーリーとしての面白さは感じれなかった。 ただ、キャストの演技はとても良かった。 とくに、少しの出番にもかかやらずら体当たりなフローレンス•ピューと、一言が強いラミ•マレックは存在感があった。 あ、ロバート•ダウニーJr.も良かった!
アカデミー賞13部門ノミネートですか〜😩…
昔、クローン羊のドリーが生まれた時、世界中で倫理観についての論争が繰り広げられましたが、科学者たちは科学の力で世界を変えることができるか、世の中に役立つ発明ができるかという発想で、恐らく今でもクローン動物、クローン人間の実験は秘密裡に進められているものと思います。この作品を見ながら、ずっと科学者の葛藤を想像してました。 そもそも字幕なしで、英語力が中途半端で理解できる作品ではないんですが…w 去年の夏の公開当時はバービーと観客を二分していて、バーベンハイマーなる造語ができるほど、映画館には人が溢れていました。私の周りでもオッペンハイマーは観たいけど、バービーはいいや…的な感じで結局私はバービーを1人で観に行きましたが、被爆国出身としてオッペンハイマーなんて、意地でも観るもんか!と作品化に憤っていました。 IMDbアプリの評価でも8.4/10、アカデミー賞候補が発表され、受賞が有力視されているせいか、今頃になってオッペンハイマーやバービーが再公開されているタイミングで、覚悟を決めて観ることにしました。 日本でも3月公開予定で、恐らく多くの方が観に行くと思われますが、これは事前にオッペンハイマーの生涯を予習しておく必要があります。映像的にはやはり原爆実験のシーンが一番インパクトありますが、ちゃんと予習しておけば後半の赤狩りシーンや世界を滅ぼしうる発明をしてしまった苦悩で苦しむ大発明家の姿など、見ごたえのあるシーンはたくさんあります。 またカラーとモノクロのシーンが交互に入り、「哀れなるものたち」のようなわかりやすさがないので、余計に予習が必要な作品でした。 有名な役者さんがたくさん出てきますが、ロバート・ダウニー・Jrとラミマレックの目力が印象に残るくらいで、あとは役が憑依したと思うほど、誰が演じたかが全くわかりませんでした。アインシュタインとかそっくりでしたしw カナダに来てすぐに日系のお祭りがあり、そこでボランティアをしたのですが、開催された公園が「オッペンハイマー・パーク」。…何とも不思議なつながりを感じます。 オッペンハイマーは1960年に来日したそうですが、日本人はどんな思いで、どう迎えたんでしょう。 今だに戦争は続いていますが、長崎以来、まだ原爆は落とされていません。本当は原爆を落とせば戦争なんてすぐに終わるんじゃないでしょうか。でも人類は薄々、争いの愚かさ、不毛さを知っていて、原爆という「卑怯な」武器を使わずに国力を示したいのか、どうしてあれ以来原爆が使われないのかに思いを馳せました。 ダイナマイトを発明したノーベル博士はやはり殺戮兵器を発明した良心の呵責から、ノーベル賞を設立したと言われています。オッペンハイマーの晩年の苦悩はいかばかりか…。カナダ人の友人たちも、オスカーはオッペンハイマーだろうと予想しています。
最高峰の映画技術、退屈な物語。
映画のオープニングは、水たまりに落ちてくる雨、それがつくる無数の波紋。そして水たまりのそばに立つオッペンハイマーが、それをぼんやり眺めている。この水の波紋のショットが、つぎつぎに新しいショットを呼び込み、核物理学者のその後の人生と世界へと物語が広がっていきます。つまり「水の波紋」が、核分裂で激しく飛び回り始めた粒子、それがもたらす世界の破滅、その中で大きく変転するオッペンハイマーの人生…を象徴しているんですね。すばらしい編集技術、すばらしいオープニングです。 映画はこの種のきわめて精密なクロスカッティングが繰り返し反復されて、極小の粒子の世界と、核兵器の開発がもたらす歴史の大転換の間を激しく行き来します。その粒子の世界の表現、歴史の転換を表現する緩急の感覚、どれも今の映画の世界の最高峰をゆく技術であることは間違いありません。日本で映画・映像の製作にかかわるすべての人に見てほしい作品です。 ただ、そうした息を呑むような撮影技術が「オッペンハイマー」という人の複雑怪奇な人生を描き切ったかというと、意外にそうでもないんですよね。とりわけ原爆投下をめぐる葛藤の描き方はありきたりです。日本の観客を怒らせるほど冒瀆的な表現があるわけでもない。(つまり日本上映を先延ばしするほどのことはなく、日本の映画会社の腰の引けかたは、情けないかぎり) なので米国では「退屈だった」という感想が、結構ありました。3時間の映画の中盤で寝てしまった・帰ろうかと思ったと。映画は鮮烈な映像技術だけで見るものではないから、これは当然。 とはいえ脚本は周到につくられているし、手堅くそろえた俳優陣も見事。撮影技術以外にも見所は多いのではないかと思います。
長すぎた。三時間も見たが、私の疑問はここで解決されなかった。
最初の一時間ぐらい、この映画に引き込まれていかなかった。理由は「オッピー」(ロバート・オッペンハイマーキリアン・マーフィー)の性格。エゴの塊で,神経質で、不安定で、ドラマの主人公気取りの好事家で、女たらし.....との評判らしい。こういう人間の行動は疲れる。
でも、まだ私の知りたいところまでいかないので見続けたが.............私の知りたいことはロスアラモスでの核実験の後( Trinity Test on 16 July 1945) 、この土地に住んでいた先住民たちがどうなったかと言うことだ。それをどう表しているか知りたかった。人間が住んでいない砂漠で実験しいたわけでなく先住民やラテン系の住民が住んでいたわけで、その当時、オッピーにそこまで考えられる余裕があったかどうかを知りたかった。
映画ではトルーマンからの質問で、これからどうするかと聞かれ、『Give it Back to the Indians』と答えているだけだ。広島長崎の被害の結果は数字だけだし、先住民たちがどれだけ苦しんだかは本人も知らないのかもしれない?
トルーマンはオッピーのことを 『Crybaby (オッピー)はここに戻ってくるな』と言っている。オッピーはトルーマンにこの原爆はこれから核の競争になると。そして、核兵器管理機関の創設を提案すると。トルーマンはソ連の力に疎いね。そして、ソ連の脅威を考えてるなら、なぜ、ロスアラモスを閉じると。オッピーが自分の手に血がついている感じがするって。そしたら、白いハンカチをオッピーに差しだす。広島や長崎の被害者を考えてるんだろうとトルーマン。トルーマンが原爆は私が落とした。オッピーは責任を感じる必要はないと言ったとき、Crybaby.....を使った。トルーマンの言い方に疑問があるから、あとで調べてみる。
それに、原爆を開発中からオッピーが精神的に参ってきているのがわかる。自分のやっていることに科学者として、誇りを持っているが、結果的に大量殺人をしていくとわかったわけだから、精神的に苦しむのは無理はない。この心の葛藤が統合失調症の幻覚疑似のように現れてくる。
マンハッタンプロジェクトに関わった科学者、軍隊、その家族,子孫、近隣のラテン系住民、先住民には被曝・内部被曝の問題は当時すぐ話題にされず、その後は、後遺症となって現れたのかも知れない。ニューメキシコ州ロスアラモス、広島、長崎、の一般市民には何一つ警告を与えず、実験が内部秘密で実行されたわけだから。
私は先住民が謝罪、後遺症の補償問題についてまだ戦っている読んだことがある。
The Atomic Bomb’s First Victims Were in New Mexico People who lived near Trinity and other nuclear test sites began to identify themselves as “downwinders,” and made connections between their communities’ health problems and the government’s nuclear tests. In 1990, the United States passed the Radiation Exposure Compensation Act to provide money to some downwinders of the Nevada test site near Las Vegas. However, the act doesn’t provide any compensation or apology to the downwinders of the Trinity test site.--History classic より抜粋した。
日本に落とした原爆は『The world remember this day』とオッピーが演説した通りになった。その演説の時は広島長崎の被害者の苦しみはまだわかっていなかった。そして、ドイツで使えればよかったって。ほとんどの科学者はナチからの迫害の結果、リクルートされたユダヤ人だからね。
三時間という長すぎるバイオピック映画になっている。私の気になった箇所を書き留める。
まず:ナチス・ドイツより先に原爆を完成させる必要があり、ドイツへ落とすための原爆が真珠湾攻撃の結果とヒットラーの死により、シフトが日本に。それから、原爆プロジェクトを米軍と科学者との一体化に。科学者でアドミにも強いレスリー・グロース将軍がマンハッタン・エンジニアのリーダーに。ヒットラーは死んで、原爆は必要なくなったというが、日本にとオッピーが言っている。レスリーグロース将軍(マット・デイモン)は力のある人で、人を見抜く才能を持っているし、動きがはやい。1942年10月カルフォルニア州バークレー大学でオッペンハイマー(オッピー)にあった時も、グロースの原爆のプロジェクトのチームの一人として、オッピーのことを考えて引き抜いている。そして、ハンバーガー屋は経営できないと。共産主義のきらいがあるが、可能性を含めて、オッピーを即座に選んだ。しかし、公聴会でレスリーグロース将軍は核兵器技術など機密情報の漏洩を疑われたオッピーにオッピーを選んだことは一番賢い決断だったと言って外に出る。? 本人も妻のキティも実弟のフランクもアメリカの共産党員だったことなども介して公職追放される。赤狩りの初めの時代だから、罪があってもなくても共産党とみなされ、弾糾された時代だからね。難しいねえ!
次に:それに、レスリーグロース将軍の一言一言がアメリカの決定に大きな力を与えた。例えば、原子爆弾の落とし方やどこに落とすか国務長官ヘンリー・スティムソンの事務所で決める時、レスリー・グロースは。。。。と言って、オッピーに口を挟ませない。彼の発言が重要な決定権を持っている。開発した科学者オッピー以上に軍の力の大きさに私は衝撃を受けた。
最後に:当時の国務長官ヘンリー・スティムソンはアメリカ国民の抗議が出るのを心配しているようだ。
それに、大方、日本の一般市民の命を救いたいという考えのようだ。しかし、レスリー・グロースの一言が大きかったようだ。
1。原爆のパワーを日本に見せよ。
2。日本が降伏するまで原爆を落とし続けよ。
国務長官ヘンリー・スティムソンはどこに落とすかを決めるとき、京都を十二のリストから抜いて十一にした。理由は日本人にとって京都は大切なところだからだと。それに、妻とのハネムーンで行ったところだと。
顰蹙をかうかも知れないが、妻との.....それには笑っちゃった。
これで書くのをやめる。
『American Prometheus』by Kai Bird+Martin J. Sherwin をノーランが脚本にしていると書いてあった。このストーリーはギリシャ神話のように作ったね。
三時間は長くて長くて、やめてくれと途中で叫びたくなった。ロバート・オッペンハイマーのバイオグラフィーでもYouTubeで見た方が良かったかもと思ったりした。
まるでプロメテウス 破壊者か?救い主か??
流石ノーラン監督の作品ですね。キャストたちはもちろんアカデミーほど素晴らしい演技力が出て来ました。素晴らしいカットと映像を深く感じさせていただきました。特に 音声と人物の表情から心理的な一面を表した映像は本当に素晴らしかったです。唯カットだけ見ると オッペンハイマーの顔しかないですが 数万人が走っているようなBGMを聴きながら 主人公の心持ちを共感できます。それは元々映像の魅力的な所だったと思います。 更に 脚本もいろんな哲学のようなメタファーがあり 核兵器などの観点について今の自分の考え方は本当に正しいのかを考えさせました。 パソコンやテレビで見るより映画館で見た方がもっと素晴らしく感じられると思います。映像の構成や映画を作ることに興味がある方にお勧めします。物語だけ注目する方にとって映画の長さが耐えないかもしれません。
IMAXをフル活用した映画
IMAXの良いところをフルに活用していてさすがノーランって感じです。 内容としては、話が3分割されています。 最初に大学時代、次に原爆開発、最後に公聴会です。 3分の2はオッペンが主軸で物語が進み、公聴会はストローズが主軸で進みます。 また、オッペン視点の時はカラー、その他の人視点の時はモノクロで分けられていました。 個人的には最後になるにつれて話が重くなっていくので何回も観ようとは思えませんでしたが、音楽や映像は確実に今まで観た映画の中でダントツでした。 原爆が全ての映画ではありませんが、原爆落とされたの許せないって人は観ない方がいいと思います。
賛否は見たあとで
「原爆の父」物理学者ロバート・オッペンハイマー氏を題材にした本作品。 ヒットメイカーノーラン監督の最新作 公開当初から英国ではどこの映画館も予約困難… 1ヶ月後にようやくIMAXの席を確保することができた 「原爆」を生み出したオッペンハイマー氏の熱意、努力、そして苦悩を 濃密なストーリーや臨場感のある音楽、そして独特で美しい映像で見事に表現、 あっという間に観客をその世界観に引きずりこむ期待どおりの素晴らしい作品 しかしながら、「原爆」を使用したことで救われた米国人の命、 使用されたことで失われた日本人の命という立場の違いにおいて 日本人である自分には少々複雑な心境になる表現もなされていたことは事実 現在日本での公開は未定となっているようだがアートとして捉えた時に 「見る」「見ない」という選択肢は設けても良いのではないか、と感じる 個人的にはより多くの人によって語られる賛否こそが 本作品の本意ではないだろうかと...気になる方はぜひ!
原子力による兵器は世界を滅ぼす
この映画はあくまでオッペンハイマーの伝記です。そして赤狩りを通して彼の人生を振り返るという形式をとっています。
よく広島長崎の描写がないと言われていますが、間接的でしかも効果的な表現はあります。投下について知った彼は自分がしたことに対して恐怖感を持っていますが、周囲の開発者たちとの反応の違いに戸惑っています。万雷の拍手とひな壇の足踏みの中、彼は原爆によって被災した少女の叫び声の幻聴を聞き、消し炭になった人の体の幻覚を見ます。
私は、直接的な広島長崎の描写ではなく、この間接的な恐怖感の表現の方が映画的に見事だし、原爆の恐ろしさが伝わると思いました。
インセプションやテネットのような洗練されたSF感がよく知られているノーランですが、今回はそのような絵はかなり少ないです。
ほぼ研究者や赤狩りの人がしゃべっているシーンに覆われています。
トリニティ実験の爆発は、今まで映画でみたどんな爆発より印象的でした。
ジーンという愛人がsexに集中していないオッペンハイマーにサンスクリット語を読ませながら挿入するシーンがあるのですが、刺激的でした。
追記
かつて私はこの映画がレッドパージが主題としましたが見直して考え方が変わったので訂正します。会話の多くはそのような政治闘争で覆われていますが、テーマはあくまで
1. 歴史への名の残し方
2. 原子力による世界の破壊
3. オッペンハイマーの後悔
です。大量の人間を殺戮したオッペンハイマーの後悔は、世界を破壊してしまうのではないかという悪夢に繋がるのです。
核についての意識
ノーランの映画としては出来は良い方ではないと思います。メメントやプレステージの路線を期待してる人はがっかりするかも。 でもまあ、どうして広島や長崎への原爆投下がそこまでこの映画でメインにならないかは分りました。オッペンハイマーが一番気にしてるのは広島や長崎の被爆者ではなくて、原爆実験でありえた連鎖反応や水爆を使った核戦争、つまりは世界の滅亡なんですよね。 日本はよく「唯一の被爆国」であることを主張しますけど、欧米にとって核の問題は被害者云々よりも世界が滅亡しないようにできるか、って点なんですよね。そのあたり日本との意識の差がよく見えて興味深かったです。日本もいつまでも原爆といえば広島長崎でいいのか、って話はありますよね。
天才Oppieを軸に人間、仲間、組織、国家の複雑さと多面性、そして陰謀
ノーラン監督3時間、と覚悟して見始めましたが眠くならずに最後まで見ました。色々な意味で非常に面白く内容の濃い映画でした。 大変だったのは; 1)台詞の量が半端なく多いのでついて行くのが大変でした 2)モノクロとカラー場面及び時系列の入れ替わりが多く、それが魅力的でありながら大変でした 前もってオッペンハイマーについて調べていても間に合わないことが多かった。「オッペンハイマーという名前でわかるとおりユダヤ人です」といった台詞が数回出てくるのでそれゆえナチス・ドイツに対抗するのが彼の使命だと思った。その部分も勿論あるがそんなに状況は単純でなく複合的だった。 人間オッペンハイマーの多面性に焦点をおきつつ、周囲の人々、北米の赤狩りやソ連のスパイ疑惑を利用した陰謀が映画後半の中心だった。オッペンハイマーも彼の弟も、愛人も妻も『資本論』を読んでいるような人々で理系のインテリのサークルでの雰囲気がよく出ていた。彼らの世界観と自分の能力なり才能を限りなく展開していきたい(行かざるを得ない)欲望は相反することではなかった。現代の観点でオッペンハイマーと彼らを巡る人々、アメリカ社会、国家を評価するのは簡単なことではない。日本は加害者で被害者、アメリカ合衆国も同様。この映画はオッペンハイマーを軸に冷戦時代を含めた当時のアメリカ合衆国をクリティカルに描写している。 オッペンハイマーが賞賛される場面で、彼の幻想の中に広島と長崎の被爆者の様子が抽象的に映し出される。そのシーンでは嗚咽せざるを得なかった。 どんな職業や役職であれ表舞台に居続けたい欲望を執拗に持つ人間がいる。トルーマン大統領がオッペンハイマーに安堵の気持ちを与えて持ち上げつつ落とす、は短い場面だったがえげつなく嫌悪感を覚えた。 エミリー・ブラント&フローレンス・ピュー、出ずっぱりでオッペンハイマーを演じたキリアン・マーフィ、素晴らしかった。 おまけ ドイツのゲッティンゲンの映画館で見た。若きオッペンハイマーはケンブリッジ大学では実験に不向き、ドイツのゲッティンゲンに行けと言われ、量子物理学の当時の最高峰であるゲッティンゲン大学に行った。 小さい街、ゲッティンゲンを散策していたらオッペンハイマーが住んでいた家を見つけた。少し離れた所に日本語で「ヒロシマ広場」、ドイツ語で"Hiroshimaplatz"と併記されたこじんまりとした広場があった
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