劇場公開日 2023年8月19日

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「これは凄い!「崩壊と再構築」の永劫の連鎖によって自己と世界の不確定性を描くデカルト的傑作。」オオカミの家 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5これは凄い!「崩壊と再構築」の永劫の連鎖によって自己と世界の不確定性を描くデカルト的傑作。

2023年9月12日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

あれだけインパクトのある予告編とポスターアートを見せられると、もはや観に行くしかない感じはひしひしとあったのだが、やたら難解そうな雰囲気も漂っていて、果たして自分にアジャストできるのか不安もあった。
だが実際に観てみると、「意味がよくわからない」以上に(そんなことはどうでもよくなるくらい)ぶっ飛んだ映像体験が待ち受けていて、もう大★大満足。
併映の14分の短編「骨」(べつに映画comに項目が立っていたので、そちらに感想はつけました)も含めて、真の天才の仕事に、ただただ圧倒された。

少なくとも、ヤン・シュヴァンクマイエルやユーリ・ノルシュテイン、ブラザーズ・クエイあたりの諸作品に耽溺しながら生きて来た僕らのような人間にとっては、四の五の言わず問答無用で観るべき映画だし、逆にこの映画でストップモーションアニメに初めて出逢った若いみなさんは、ぜひこれを入口に上記の作家たちの傑作群にもアクセスしてほしいところだ。

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「オオカミの家」は、チリに実在した「コロニア・ディグディダ」という入植地を題材としたアニメであり、複雑かつ捉えどころのないストーリーラインと政治的含意を有している。
内容的には、ファウンド・フッテージ(見つかった古いフィルム)の体裁をとり、コロニア・ディグディダが作成したプロパガンダ映像という触れ込みとなっている。
要するに、敢えて悪の側に立って(羊がオオカミの皮をかぶって)つくってみたフェイク動画というわけだ。

内容的には、たぶん、こんな感じだ。
コロニーから逃亡した少女マリアは、とある小屋で二頭の豚を見つけ、アナとペドロと名付けて育てる。そのうち、豚は人間の形態をとるようになって、三人は家族として幸せに過ごすことに。最初は、外にはオオカミがいるから出てはいけないといって二人を育てていたマリアだが、ある日、ついに食料が尽きてマリアが外に調達に出ようとすると、逆にアナとペドロに拘束され、二人によって食べられそうになる……。

オオカミと豚の童話/寓話的エピソードといえば、当然グリム童話の「三匹の子豚」が想起される。外敵としてのオオカミを恐れて隠れ処に住まう本作は、まさに「三匹の子豚」を本歌取りしたものではあるが、結局オオカミの本体は姿を現すことなく(かわりにその「声」がナレーターとして常にマリアに圧をかけ続ける。壁には「巨大な眼」だけが現れる)、物語は内部分裂による「新たなコロニー」の解体と、登場人物のメタモルフォーズという意外な結末を迎える。

オオカミが、マリアにとっての支配者であり捕食者でもあった、コロニーの指導者パウル・シェーファーを指すこと自体は論を俟たないが、では「オオカミの家」において、果たして本当のオオカミはいったい誰だったのか? 意図しないままにシェーファーと同じような支配体制をしいて、アナとペドロを束縛するに至ったマリアもまたオオカミだったのか。あるいは、もとはただの「豚」だったにもかかわらず、マリアの被支配下に置かれて順応してゆくうちに、むしろマリアを「食べよう」と思考するに至ったアナとペドロこそがオオカミだったのか。
捉えどころのない「寓話」であるだけに、その真意をいろいろと考えだすとそれこそ切りがないが、本作の主題やストーリーを読み解く秘密は、実はストップモーションとしての「技巧」のなかにこそある。それは間違いない。

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ストップモーションアニメーションとしての『オオカミの家』には、きわめて明快な特徴が三つある。
一つは、三次元のクレイ&パペットアニメに、二次元の「壁画」のようなアニメが併用されていること。
二つ目に、全編を通じて造形物が特定の形状を保つことなく、常に様相を変化させ続けていること。
三つ目に、上記と関連して、カメラも常に動き続けているうえ、全編を通じてワンシーンワンカットという、長回しのつくりになっていることだ。

まず、三次元と二次元のアニメーションの併用について。
いろいろと脳内を検索してみたが、こういうことやってたストップモーションアニメの作家って今までいたっけなあ? どうも思いつかない。なんだか新機軸のような気がする。
とにかく、演出上の効果は抜群だ。

今回の物語において、登場人物であるマリア、アナ、ペドロと同等かそれ以上に重要なのが「家」であり「壁」であることは、観た誰しもが認めるところだろう。
「家」は、ヒロインを規定する「世界」そのものであり、「法則」であり、「規範」であり、「呪縛」である。
「壁」は、彼女と二匹の豚を囲い込む「世界の境界」であり、「内側に閉じ込めるための檻」であるとともに、「外界から守ってくれる安全な防壁」でもある。

同時に、「壁」は物語を映写する「スクリーン」でもある。
レオン&コシーニャは、クレイやパペットをこま撮りで操る一方で、「壁」を用いた様々な絵画表現の形でも物語を展開する。三次元と二次元のあいだを自由に行き来しながら、変幻自在にそのあり方を流転させてゆくマリアたち三人のキャラクター(クリスチャン・ボルタンスキーによる人形と影の織り成すインスタレーションを少し想起させる)。
「壁」は、三人を外界から分かつ機能を持ちながら、その「上」で彼らが生きる二次元の「生活空間」としても機能しているのだ。

一方で「壁」には、マリアたち三人以外にも、監視者の巨大な眼が立ち現れたりもする。すなわち、壁の上には「壁の中で暮らす」三人も存在すれば、「壁の外にいるはずの」オオカミも存在するというわけだ。

なぜそういうことになるのかというと、実はこの「家」と「壁」それ自体が、マリア自身の精神世界の具現化に他ならないからだ。
この家は、カルト集落から逃げて来たマリアの「癒しのシェルター」であると同時に、二頭の豚を我が物とし続けるための「豚小屋」でもある。
すなわち、この「家」は、被支配者であるマリアが支配者から自らを守るための隠れ処であると同時に、支配者であるマリアが被支配者である二頭の豚を閉じ込めておくための檻でもあるということだ。
なんにせよ、この「家」という「場」は、マリア自身がこしらえた彼女のための場所なのであり、彼女の内的世界そのものといってもいい。
そして、外界と家の内部を分かつ「境界」としての「壁」もまた、マリア自身がこしらえて設定した「世界の果て」であり、マリア自身が規定した「世界の外形」でもある。
「家」と「壁」はマリアを閉じ込めているように見えて、実はマリア自身がこの「家」と「壁」を自分の領分として決めて、頑なに守り、維持している。

極論すれば、マリア自身が、「家」であり、「壁」でもあるのだ。

このあやふやで多重的な状況が、物語が「人形」にとどまらず「壁」にまではみ出してくる原因となっているし、逆に言えば、本来なら単なる舞台背景でしかない「家」や「壁」をもう一方の主役として際立たせる結果にもなっている。
要するに、本作では「キャラクター」と「家」はメインとサブではなく、混然一体となったひとつの内的世界として「マリアの心象風景」を表わし続けており、その具象化こそが「壁」をスクリーンとして用いる本作独特の技法だ、ということだ。

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第二、第三のポイントである、物質と視点双方に見られる「万物流転の法則」。
この特異なセンスが、本作を特別なものにしているのは確かだ。
通例、ストップモーションは「命なきモノを動かすことで生命を吹き込む」ことで満足する。アニメ作家にとっては、どんなモノを動かすかというのは重要で、そのモノは明確でゆるぎないキャラクターを伴っていることが大半だ。
ところが本作は違う。
マリアのキャラクターも、アナやペドロのキャラクターも、まるで一定しない。
一定しないどころか、常に生成されては崩壊する過程を繰り返していて、すべては常にあやふやで、不定形で、不確定のままだ。
物語のシチュエイションと、時間の経過によって、三人のキャラクターは留まることなく千変万化しつづける。一続きのワンシーンのなかで、三人は何度もぐずぐずに朽ち果てては、仕切り直すように頭部と手だけから細胞分裂のように増殖&再生成される。
その結果生まれた三人の外観は、つねにまちまちだ。張りぼて細工のようなとき、二次元の壁の絵のとき、マネキン人形のとき。ましてアナやペドロは、もとは「豚」だったのがいつの間にやら人間に成り上がっているし、年齢も子供だったりもう少し大きく見えたりと、定まった姿というものをまるで持ち合わせていない。
そんな生まれては崩れ、生まれては崩れする三人を、一人称かも三人称かも定まらないカメラが、ひたすら家の室内をうろうろと動き回りながら、追い続ける。

起きている現象と、その結果語られる物語は、難解かつ不鮮明だが、表わそうとしている事象そのものはきわめて明快だ。
要するに、アイデンティティが定まらない。
だから、形も定まらないのだ。

コロニーから逃げて来た少女。
「オオカミの家」は、彼女の内的世界だ。
少女には、確たるものがない。
だから、生まれ続ける。
そのとき、そのときの自己規定によって、
新たな自分を獲得しては、
あやふやなまま崩れてゆく。
同居人は豚なのか、人なのか。
アナとは誰なのか。ペドロとは誰なのか。
それも、マリアの「認識」ひとつで流転する。
そのとき、そのときの他者規定によって、
新たなアナ像、ペドロ像が一から再構築される。

でも、それって我々だって同じじゃないのか?
いま、ここにあるアイデンティティが確固たるものだなんて、誰が決められる?
本当は、自分も、他人も、世界も、時間の経過と関係性の変化のなかで、常に形を変え、その瞬間、その瞬間、生まれ直しているのではないか?
おそらく、レオン&コシーニャのコンビは、コロニア・ディグディダの寓話にかこつけて、そういったことを我々に問いかけているのではないか?
「常にエゴとはなにかを問いかけ続ける」
「その結果として、何度も何度も自己が再規定される様を、きちんと“かたち”で表現する」
その意味で、本作はきわめてデカルト的な哲学的思索を視覚化した作品だと、僕は観ながら思ったのだった。

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最後に一点、「言語」と「音楽」について触れておく。

本作は、ドイツ語とスペイン語のチャンポンで作られている。
チリの民間人の一般的な言語はスペイン語だが、コロニア・ディグディダはドイツ人入植者のコロニーであり、そこで使われていた言語はドイツ語だからだ。
オオカミのナレーションは、当たり前のようにドイツ語をしゃべる。
マリアは基本、スペイン語で話しているが、いざという瞬間、たとえば「助けて!」と誰かに祈るときはドイツ語に立ち返る。これが妙に生々しい。
コロニーの支配的生活から脱したマリアは心機一転、新たな生き方を模索しているはずなのだが、言語において旧コロニーへの心理的依存が抜けていないことが現れているから。
本当はマリアもまた、オオカミかもしれないことがドイツ語から漏れ伝わるから。
人間は、育った「悪い環境、親、教育」の呪縛からはそう簡単に逃れられないし、叱る言い方も縛る言い方も、やられたことの繰り返しになってしまうから。
マリアが、アナとペドロを慰撫する時歌うのは、ブラームスの子守歌だ。
鳴り響くBGMは、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と「ローエングリン」(このフィルムがプロパガンダ映像を模していることに留意)。
そもそも本作の土台となるグリム童話自体、チリではなくドイツの童話である。
新コロニーの破綻とマリアの迎える最後は、アイデンティティをついに確立し得ないパペットの視覚的不安定性とともに、「ドイツに汚染された言語と音楽」の面でもアプリオリに暗示され続けていたといえる。

なんにせよ、個人的には傑作だと思った。

何か大きなものに支配された世界に生きる、
よりどころのない、あいまいな「私」という存在。
そこに自らを被せて見られる人にとって、
本作は「聖典」として、永遠の輝きを放つことだろう。

じゃい
uzさんのコメント
2024年4月25日

2言語使われてるの、まったく分かりませんでした…
『落下の解剖学』のように、英語とフランス語くらいなら聴き分けられるのですが。
考察系の作品はじゃいさんがレビュー上げてくださると非常に助かります。笑

uz