PERFECT DAYSのレビュー・感想・評価
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後味の良い映画
泣き笑いの人生 腕時計 木洩れ日
多くの方が絶賛しているので、感じたことだけを書こうかと思う。主人公の出勤日のルーティンな生活風景は、何とも見ていて気持ちが良い。玄関の横に鍵やカメラ、財布など並べてあり、それを身に付けて行くのだが、なぜか腕時計だけは持っていかない。不思議だなあと思っていたが、近隣の神社の入口を掃除する箒の音で目を覚まし、決まった所に仕事に行き、淡々と一人で、仕事をするのに腕時計は不要なのだと気づく。ところが休日にはこれまたなぜか腕時計をしっかり着けて、コインランドリーに行き、馴染みの古本屋と写真屋と憧れのママのいるお店で一杯飲む。これまたルーティンな休日の風景。面白い。
すべてがオブラートに包まれたような優しいと言うか、苦味を感じさせない作風は興味深い。そこには公園の公衆トイレの酷く汚損された現実の姿も、主人公が静かな日常を選択せざるえなかった過去の経緯も、また容赦なく入り込んでくる周囲の悪感情も、この映画には描かれない。
主人公が毎日撮り続ける木洩れ日の風景(朝ドラのカムカムエブリバディの中で木洩れ日は日本にしかない表現だと言う場面を思い出した)、その写真をそれまでの忘れたい過去の気持ちや心を浄化するように押入れにしまい込む。
そんな頑なな完璧な日々も毎日は続かない。知らない内に変化が訪れる。パトリシアハイスミスの小説が「不安」を如実に表現していると言うように、最後の笑うとも泣くとも、何とも言えない表情は、私達が日常で抱える「漠然たる不安」をよく表現している。こういう場面を演じる役所広司は、さぞや役者冥利に尽きるだろうなあと感心して観ていた。
悟らせる、と言う演出の極み
静かで美しい、質素なのに贅沢
役所広司氏がカンヌで賞をもらった、くらいの前知識で観ました。
皆さんおっしゃるように、セリフでなく表情と生き様で語ってくる映画。
質素なのに、なんだか羨ましくなる生活。
「風呂無しの木造アパートで、公共トイレの清掃員」と文字にしてしまうと、寧ろ敬遠したくなるような生活なのに。
家具や装飾品はほとんどないのに、晩年はああいう部屋に住みたいと思ってしまったのは、彼が自分の生活に満足していることが伝わってくるから。
自分の仕事を満足できるように工夫してて、心安らぐベンチを見つけてて、心地よい風呂屋があって、いつも元気に明るく話しかけてくれる馴染みの飲食店がある。
なんか人生に必要なものはコレで充分なんじゃないかと思えるほど。
そして、あぁだから「パーフェクトデイズ」なのかと納得する。
アメリカではなく、フランスで賞をもらえたのも納得。
デザイナートイレと役所広司で一本映画作ってみた
渋谷区のデザイナートイレを見てきた妻が、それらをモチーフにした映画を見たい、といいだしたのが鑑賞のきっかけ。役所広司が渋谷のトイレ掃除をする映画がある、というのは知っていたが、映画祭に出品したとか、その内容からして地味な邦画だろうと敬遠していた。とっくに上映期間は終わってるだろうと思っていたら新宿のキノシアター(旧EJアニメシアター)で上映中とのことで鑑賞することに。
ある程度予想していた通り、かなり地味な展開の"邦画"然とした構成。ドイツ人巨匠監督が作成、とのことでさもありなんという日本というか東京の捉え方をしている。
初っ端でスカイツリーを映像に入れることで「場所」と「年代」を意識づけしてスタートするのだが、ほとんどの状況説明が全て「わかる人にはわかる」という不親切設計。玄人映画受けはするだろうが、一般受けは望めない。と思ったが、どうも海外の映画祭出品を前提にしているから、という構造もあるんだろうと思う。絵面がいちいち「東京住んでたらそうはせんだろう」というリアリティの無さがあるからだ。
・浅草周辺から早朝に渋谷区に勤務する軽バンが、なぜか首都高に乗る
・清掃するトイレが全てデザイナートイレ
※そもそもあのデザイナートイレ有りきで、スタートした企画だろうとは思っているが。
・東京は治安がいい、というのを表現したいのか、玄関に鍵を掛けない主人公・デザイナートイレのある公園に浮浪者がいる
・少なくとも20~30年前のカセットテープが車の中に置かれて劣化せずに聞ける。(鉛筆で弛みを締めてる描写は良かった)
・二階に上がる外階段があるのに、内部でメゾネット構造の広いボロアパート・やけに綺麗なアパートの内部、布団と枕、なのにトイレ掃除で汚れてるはずのツナギはいつもピカピカで一週間洗濯せずに部屋に吊り下げ
・四畳半の畳の敷き方が真ん中に半畳ではなく隅に半畳
・スナックのママが石川さゆりで歌が滅茶ウマ
まあ他にも気づかなかったところは数ありそうだけど、
外国人向けに、「東京のエモい風景」をアピールするための絵作りをした結果なんだろう。賛否両論はあると思うが、個人的には悪くない選択だと思う。
ちなみに16~17個ある、デザイナートイレ、2021年ごろにできたものだが隈研吾や、安藤忠雄、佐藤可士和など、一般の人でも名前くらいは聞いたことある有名デザイナーが関わってるとあって、当時かなり話題になった。トイレを見るためにわざわざ寄り道したくらい。いったのは中から鍵をかけるまでは透明な壁が鍵を書けると曇りガラスになるやつ。代々木公園から近い。
主人公の変わらない日常=パーフェクトデイズと彼に関わってくる不確定要素の人物の対比が物語の基本的な構造(というかほぼ全て)になっていて、彼の決まった日常を前半で何週かさせた後に、それをズラす要素(人)を入れることで観客の心を揺さぶりにかかっている。
普通の映画なら、複線ー回収で読者のカタストロフィを満足させる構造にしがちなところを、全てをイベントを単発で、投げっぱなし、回収、連続性なしにすることで、「変わらない」日常を表現している。
とはいえ、主人公が変わらないことを完璧に望んでいるのかと思いきや、そうではない描写が、後半にいくつかでてきたり、主人公の前半生が実は上流階級の全然違う生活だったことを仄めかす演出があったり、で見ている方はどっちなの?と迷わされるところもある。そういった説明や主義主張が全て「見ている人の解釈にお任せします」という投げっぱなし演出になっている。
特にラストの長尺部分は解釈に迷うところで、満足して泣いているのか、逆なのか、どうとでも取れる演出で少しずるいなあとは思う。
ただ、演出、小道具、絵作り、いろんなものが賛否両論とれそうになっていて、他の人と「あれどう思う?」と聞いてみたくなる作り。
その1点だけで「いい映画」と言い切れると思う。
デザイナートイレと役所広司を揃えた時点でのプロデュースの勝利、と言える一品だと思う。
東京の片隅が舞台のお伽噺
毎日の車通勤も、銭湯まで自転車でのんびり向かうのも、ヴェンダースの手にかかるととたんにロードムービになる不思議。
主人公は、詳細は明らかにはされないけれどきっと苦悶の時を経たであろう、どこか影を引きずるトイレ清掃員、という、設定としては少し痛ましさすら感じるほど現実味あるものなのだけど、不思議とお伽噺のような浮遊感をも纏っているように見えます。平山さんの部屋が、夜の東京の路地裏に、紫色にぼんやりと浮かぶ情景。平山さんとニコが自転車で橋を渡る時の会話。公園の木々から落ちる木洩れ陽。光、影、音。
ベルリン・天使の詩の天使のごとく、ヴェンダースの映画には登場人物たちの日常を見つめるあたたかい眼差しのようなものがあり、わたしはこれがヴェンダースを好きな理由でありますが、この作品も例外ではないようです。
異常なまでに寡黙な平山さんの、朝、ドアを開けて空を仰ぐ時の微かな笑み、ニコの突然の登場に戸惑いながら見せる嬉しそうなほほえみ、そしてラスト、止まらぬ涙。
日本の俳優はただのタレントばっかでレベルが低い、と毛嫌いしてましたが、この作品のお陰で思い込みが吹き飛ばされました。
さすが何十年も日本に関心を持ち続けているヴェンダース、ここまで親和性があるとは思いませんでした。ヴェンダースの久々の長編ドラマが日本で撮られるとは、そしてここまでふかく印象に残る一作となったのは、嬉しいことです。
フライヤーなどにキャッチコピーありますが、「こんなふうに生きていけたら」?
選択肢がある中で、ボロアパートに暮らすトイレ清掃員の生活に、誰が好き好んで「こんなふうに生きていけたら」と?裕福な家の出(と、ほのめかされる)の平山さんが一体何にぶち当たり苦悩しこの生活を選びとったか。選ばなければいけなかったのか。観客は知る由もないけれど、流行りのミニマリズム的な感覚で、表層部分のみをすくい取っただけのコピーの浅はかさに驚いた。
首都高がロードムービーになるとは
首都高を走る時の音楽、最高でした。
植物を愛しみ、仕事に出かける時も仕事中も空を見上げて表情がほころぶ。なんて心に平和があるのでしょう。いいなぁ、この空気感。
仕事が終わると銭湯へ一番乗りして、馴染みの居酒屋へ立ち寄り、自転車で隅田川を渡って帰る平日のルーティン。コインランドリーへ行き、古本屋と写真屋に寄り、スナックへ行く休日のルーティン。本を読んで寝落ちする夜とその夢の残像。
幸せな気持ちで毎日を過ごすって、こういうことなんだなー。
そして、女子中学生が夜一人でいても安全な国、自販機が壊されない国、公園のトイレが安全&清潔で使える状態キープの清潔な国、監督者がいなくても誠実に仕事をする国民性という、日本のポジション(ブランド)を余すところなく表現していて、監督の日本愛が伝わってきました。
女性に好意を寄せられがちな平山と、「お金がないと恋ができない」というタカシ。そういうところだぞ、タカシ。借りたお金は返せよー。
三浦友和さんと役所広司さんの影ふみ遊びを見られるとは思ってもいなかった。貴重な名シーンになるのでは。
ラストの役所広司さんの表情は圧巻で、今生きること・やがては誰もがこの世を去ることを考えると私も涙が止まりませんでした。人生という長い湾曲したロードを走行しているんですね、私たちは。
帰り道、電車に乗るより無性に都会の夜を歩きたくなり、日比谷から東京駅まで歩きました。映画の続きを観ているような幸せな時間でした。
違和感
作品の空気感は好きなのだが端々に違和感があり一言で言うなら「残念」だ
・トイレのゴミを素手で拾うこと
・別れ際にハグをすること
・飲食店で代金を机に置いて退店すること
・ホームレスが創作ダンスをしてること
・スカイツリーエリアから繁華街まで高速道路を使うこと
・無口キャラとは言え喋らなすぎのキャラ設定
・住宅街でエンジンかけっぱなし、ライトつけっぱなし
・年頃の姪が銭湯に行きドライヤーもせずすっぴんで帰ること
・・・姪が伯父さんを連発するのはなさそうだけどあるかもw
そう考えると、高倉健主演のブラックレインも外国人監督だったがこの様な違和感のある芝居がなかったなと思った
演出でこの違和感を日本人スタッフは気づいてただろうが“大御所“に意見できなかったのが残念
トイレ掃除する人
役所広司さんが公共のトイレ掃除をする話。
最近の公共トイレは進化してるね。汚い、臭い、暗いトイレだったのに最新式だ。
日頃の清掃のおかげで気持ちよく利用できる。
ありがたい。
ストーリーは本当はお金持ちのファミリーなのに事情があって風呂無しの安アパートで暮らして、トイレ掃除を生業にしてる男の話。
楽しみといえば、トイレ掃除。朝の缶コーヒー。仕事の後の一杯。本を読む。木漏れ日の写真を撮る。植物を育てる。週末はお惣菜が充実してる飲み屋にいく。歌の上手いママさんが好き。
ああ、何もないようで充実してるんだね。
批判は最も。しかし
最小の世界で大きなドラマ
役所広司がよい。着眼点おもしろい。
役所広司がとてもよかった。やわらかな微笑みがとても素敵。
観ているうちに、この生活って悪くないよね!と思えてくる。映し方も音楽もよいし。心境という面でも。とにかくまず微笑んで、淡々と生きること!その生き方は、シンプルゆえに強い、といえると思った。
シンプルな生活。それだけで魅力的な映画になっていることが面白いと思った。
どうかなと思う点もあった。
まず、バーの扉から奥を覗き込んだシーンは、ちょっと彼らしくないかな、と。ここで覗かなければあとに繋がらないのだけれど…。
また、こういった心境や暮らしぶりは、わりと日本人にはわりと馴染みがあるものなので(茶室のような世界)、別にわざわざ映画で観る必要はないのかもしれない、と感じた。
それから、私から見ると彼は出来すぎていて、ちょっと気持ち悪いかもしれない。彼のような人は現実的なのだろうか…。
特にまだ若いうちは、社会や家族からのいろんな必要性や期待があるし、そして自分自身の夢もあるからそれらを大切にしたいかな。それがまた自然なことでもあると思うので…。そういう意味で、誰にでも勧めたい映画というわけではなかった。
本作が問う「真に静かなもの」とは
以下3つの観点で批評したい。
❶この映画の世界でのヒットは何を意味するか
❷4人の女たちを通して描かれる主人公のコンプレックスと観客の関係とは
❸静かな映画が問う「真に静かなもの」とは
※以下ネタバレあり
❶この映画の世界でのヒットは何を意味するか
結論、この映画は新たなカウンターカルチャーと捉えていいのではないか。
カウンターカルチャー(対抗文化)とはサブカルチャー(下位文化)の一部であり、その価値観や行動規範が主流社会の文化(メインカルチャー/ハイカルチャー)とは大きく異なり、しばしば主流の文化的慣習に反する文化のことを指す(出典:Wikipedia)。
映画における代表的なものとしては1960年代後半から始まるアメリカンニューシネマがある。
多くの映画が政府や法律、社会の文化常識に対する反発の思想を反体制的な(つまりは不良化した)主人公と、その行動、悲劇的な末路を通して描いた。
例えば「俺たちに明日はない」では犯行を繰り返すカップルの逃避行を。
「卒業」では恋人の母親と不倫関係になっていく若者の決意と責任を。
世間(マジョリティ)に対しカウンター(反発)が示されるのは、若年層と老年層の価値観の違いに加え、既存の制度や考え方が現実との軋轢を生んでいる時だ。
では「パーフェクトデイズ」は何に対してカウンター(反発)を示したのか。
それは「自分の内なる世界を見失いやすい現代人のライフスタイル」だと思う。以下解説。
ここでいう「自分の内なる世界」とは、自分によって自分の内で完結する感覚や楽しみを指す。
これを「見失う」とは、自分で自分が分からなくなるということだ。
例えばSNS。
とめどなく流れる他者の世界に、見るものは意識的にも無意識的にもひどく影響される。
自分の世界が構築された人、つまり「大人」であれば影響をコントロールできるが、そうでない人、つまり「自己世界が触れ動いている人」にとっては、毎日絶えず異なる価値観に晒されるようなものだ。
そこに正解はない(そもそも正解は自分で作るものだから)。
しかし正解を探そうとする。そしていつまでももがく。
だから苦しむ。
人類は今日まで生きるために、生活に必要なあらゆる「手間」を共同して自己の外で賄うことで豊かさを手に入れたが、その結果自己の内側が空っぽになりやすい社会を築いてしまったとも言えるのではないか。
「パーフェクトデイズ」の主人公、平山は確固たる自分の世界を持っている。
生業であるトイレ掃除は、自分で掃除道具を作り込むほどのプロ意識を持つ。
趣味は写真と観葉植物の飼育で、それは毎日のルーティンと密接に結びついている。
彼は丸一日誰とも話さない日が多いが、彼は誰より多く自分自身と対話しているのだろう。
そうして自己世界が作られていく。
それは形式に捉われることのない「個人的な幸福」の土台となっている。
映画は2時間の上映時間の内、彼のそんな一見変わらない1日を何度も観客に観せる。
そこに「退屈」ではなく、「幸福」を感じた人が多いのは、今まで感じていたが言葉にできなかった「現代人の生きづらさ」に対する「処方箋」を見つけたからだろう。
その意味で、「パーフェクトデイズ」は現代のライフスタイルに対するカウンターカルチャーと言えるのではないだろうか。
❷4人の女たちを通して描かれる主人公のコンプレックスと観客の関係とは
結論、本作の魅力の源泉は主人公“平山”のコンプレックスであり、それと我々観客の心が「共鳴」することで深く静かな感動を生み出すのではないだろうか。以下解説。
本作の物語は(平山の日常の繰り返し)×(平山が遭遇する事件)=(平山の情感)という構造で展開される。
事件は主に4人の女性の言動が鍵となる。同僚の恋人、姪っ子、平山の姉、居酒屋のママだ。
彼女たちが平山の静かな日常に一石を投じてくる。
その石は平山の心の池、中でも「コンプレックスの池」に波紋を作り、その形は彼が絞り出すように呟く言葉や表情で画面に提示される。それが我々観客の心の池とも共鳴する。
ここでいうコンプレックスとは世間一般的な意味ではなく、ユング心理学におけるそれだ。
つまり「無意識内に存在して、何らかの感情によって結合されている心的内容の集まりが通常の意識活動を妨害する現象を観察し、前者のような心的内容の集合を、感情に色付けされた複合体」を指す(出典:『コンプレックス』河合隼雄著)。
つまり「〇〇のことを考えると、どうしても感情的になってしまう」状態。そのような意味合いだ。
平山のコンプレックスとはなんだろうか。
彼はルーティンを守った日々を過ごす。セリフはほとんどない。
しかし彼がどういう人間かは画面から雄弁に語られる。
自己に課した規律を守り、他者には暖かく接し、日常の微かな違いを見逃さずそこに愉しみを見出す。
一見すでに悟っておりコンプレックスなど持たない男のようだ。
だが4人の女ははっきりと彼の心に波紋を残す。その構造は何か。
4人の女は平山のコンプレックスにおける4つの世界を表す。
・同僚の恋人アヤ・・・理解しえない「女」という生き物
・居酒屋のママ・・・・理解しえない自らの恋心
・平山の姉・・・・・・蓋をした自らの過去(親族)
・姪っ子のニコ・・・・完全には過去(親族)を捨て去れない想い
アヤは平山の世界に共感を示し、唐突にキスをして去っていく。
平山の日常において他者から共感されることはほとんどない。ましてやキスなど大事件だ。
キスされた後の平山の放心顔を見た時、五味太郎の傑作絵本『さとりくん』を思い出した。
何事にも悟りきり終始クールな雄鳥が、ある日雌鶏に一目惚れして自身の感情に戸惑うお話だ。
理由も因果もわからない。なのに心に土足で踏み込んでくる。
感情が動かざるを得ない。男にとって永久に理解不可能なもの。汝の名は女。
(何を隠そう、平山同様に私も心を動かされた男の1人だ笑)
平山は居酒屋のママに淡い恋心を抱いている。
いや恋心という言葉は少し無粋だろうか。
「憧れ」「安心感」「期待」「美しさ」「おかしみ」「可愛げ」「哀愁」。
そんな感情の、言葉にしえない複合体(コンプレックス)だろう。
彼はママのところへ行く時にだけ腕時計をつけるが、その理由を聞いてもきっと自分でもわからないのではないだろうか。
ママと元夫の再会を目にし彼は思わず立ち去る。このシーンを見た時、ジョゼッペ・トルナトーレ監督の「マレーナ」が重なった。
誰の心にも残り続ける思春期の情感を、ママと平山の関係は呼び起こす。
平山の姉は彼の過去の象徴だ。
そのたたずまい、眼差し、運転手付きの高級車。全てがそうだろう。
彼の過去は作品では描かれない。しかし平山がきっと自らの意思で過去を捨てたこと。
そこには身を引き裂くような記憶があること。
あの夜のシークエンスではそれらを痛いほど感じる。
重なったのは小津安二郎の、どの作品か忘れたが「酔って眠り込んだ父を前に、娘が自らの情けなく、そして閉ざされた人生を感じ思わず涙する」というシーンだ(あのシーンにはゾッとした)。
観るものに嫌がうえにも「この人に何があったんだろう?」という、心配と野次馬根性がないまぜになった気持ちを呼び起こす。心にさざなみが立つ。
最後に姪っ子のニコ。彼女は「それでも彼が完全には捨て去りきれない過去とのつながり」を象徴する。
平山の世界と、捨て去った過去の世界との橋渡しのような存在だ。
彼女は平山と数日過ごす中で、
「なんでこの生活をしてるの?(過去への問いかけ)」
「今度っていつ?(未来への問いかけ)」
と尋ねる。
その度に平山はその時々の考えを率直に述べる。それは彼にとっての過去や未来の解釈を表している。そして彼は「この世には交わらない世界がある」と彼女に語る。
ニコと過ごす時間をかけがえのないものと感じていると同時に、その世界とは真に触れ合えない自分を認めているとてもとても「もの哀しい」語りだ。
この、古傷を容赦なくつつくようなシークエンスはディズニー映画「キッド」を想起させた。
橋渡しの存在を女子高生、つまり大人でも子供でもない境界人(マージナルマン)に象徴したのもヴェンダース監督の見事な計算だろう。
❸静かな映画が問う「真に静かなもの」とは
本作は目に見える形は非常に静的に見えて、描かれる情感はとても動的だ。
まさにOZUテイストが根底に流れている。
そして情感の他にもう1つ、動き続けているものがある。
それは「世界」、それ自体だ。以下解説。
一見平山の日常は変わらない。ともすれば退屈に見える。なぜか。
それは私たちが変化していないからだ。
しかし世界は変化し続けている。社会環境、周囲の人、自分の身体。
全く同じに見える木葉でさえ、昨日と今日では異なる。
しかし、自身もそれと一緒に変わっていかなければこの変化には気づけない。変わり映えのない日常の中で、実は変わっていなかったのは「自分」だけだった。
これが退屈の原因ではないだろうか。
本作は非常に静的な映画だ。画面も、音も、とても静かだ。
だが真に静かなのは、何も感じることのできない「心の状態」なのではないか。
ヴェンダース監督の、そんな問いかけが聞こえるような気がする。
木漏れ日のように静かな映画が、静まりかえった胸の内をざわつかせる。
本作の魅力はここにある。
以上が批評になる。
本作を映画館で見ることができたことに感謝したい。
全1006件中、221~240件目を表示










