「ツンデレとマジギレ」二つの季節しかない村 かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)
ツンデレとマジギレ
比較的四季がはっきりしていた日本でも最近は、人にとって心地よいはずの春と秋が花粉とインフルエンザによってすっかり様変わりしてしまった。加えて夏は猛暑に大雨、冬はコロナと大雪によって、もはや1年を通して地獄巡りをしているような感覚に襲われている方も多いのではないか。
主人公の美術教師サメットが赴任しているトルコ・アナトリア地方の僻村も、冬は一面雪に覆われており、雪が溶けたか思うと真夏の太陽が降りそそぎ草原の草を黄色く枯らしてしまう。おそらくこの“二つ季節”は何かのメタファーであることは間違いなく、長々と3時間超えで説明してくれてはいるのだが、どうも分かりにくい。監督ヌリ・ビルゲ・ジェイランお得意の難解映画なのだ。
その理由は美術教師サメットの行動に一貫性がなく矛盾だらけのために、この映画が一体何を言わんとしているのかビシッと決まらないのである。「俺はこんなところで何をしているんだ」と直ぐにボヤくくせに、しょっちゅう友だち教師と小旅行に出掛けては写真をとりまくり、結構楽しそう。さらには、教師仲間のケナンにヌライという彼女を紹介したかと思えば、一人で家におしかけて(スタジオセットを抜け出してこっそりバイアグラを仕込んだ後にw)そのヌライと寝たりする。
サメットのお気にだった女生徒セヴィムも、サメットに負けず劣らずのとらえどころなさを露呈している不思議キャラなのである。カバンの中に隠し持っていたラブレターを持ち物検査員に取り上げられ、サメットに持ち去られた事実を知って拗ねまくり、校長にセクハラされたと訴える。しかし、終業式をむかえサメットの転任が決まるやいなや、またぞろサメットになついてくるツンデレ少女なのである。
監督曰く、映画終盤に展開されるサメットとヌライの口論がこの映画のハイライトらしい。片足をテロで失ったヌライは反体制的な活動をしていたのだが、社会を変えられるという希望ももはやすりきれてしまっている。そういった運動に一切関わろうとしないサメットを臆病者とみなしていて、仲はそれなりにいいけれど今まで男女の関係に発展しなかったのもおそらくそれが原因なのだ。
サメットの言い分としては、運動に参加することで自由が制限されることが何よりも苦痛であり、それを利己主義と批判されても「だから」という感じなのだ。要するに、個人が全体を決定するという個人主義と、全体が個人を決定する全体主義の不毛な論争が展開されているのである。“二つの季節”とは、個人主義と全体主義という、いずれも人を決して幸福にはしない相反するイデオロギーのことを指し示しているのではないだろうか。
故に、何を考えてるのかよくわからないツンデレ少女セヴィム=個人としても全体からも、影響を与えないし影響されない不確定要素に、サメットは希望を見いだそうとしたのではあるまいか。理想を追い求める個人の希望が現実を形作っていくのか、その現実から逃避したいがための理想なのか。ニワトリが先か玉子が先かの論争のように、結論の出ないままそれは、人々の魂がすり切れるまで延々と繰り返されるのであった。