「ショパンとアルベニスに象徴される母と父の不和と対立の物語。そこで息子の選んだ道とは?」落下の解剖学 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ショパンとアルベニスに象徴される母と父の不和と対立の物語。そこで息子の選んだ道とは?
雪の山荘に、お父さんとお母さんと息子の核家族、といえば、僕くらいの世代の大半は『シャイニング』をなんとなく思い浮かべるはずだ(笑)。
『落下の解剖学』の監督夫妻(夫が脚本)も、そのことには自覚的だと思う。
お父さんの作家という職業もそうだし、より正確に言えば「作家志望だけど作家になれずに教員をしている」ところまで一緒だ。さらに言えば、作家としてうまくいかないのを「家族のせいにしている」ところまで。
僕は、映画が始まってしばらくして、階段からボールが転がって来るシーンを見て確信した。ああ、これ『シャイニング』へのオマージュだ、絶対わざとやってる、と。
『シャイニング』もまた、作家への夢をかなえられない男の挫折と苦悩の物語であると同時に、夫と妻の苛烈な闘争の物語でもあった(そこにきわめて聡明な子供がからむ)。
『落下の解剖学』では、お父さんは妻と息子を斧で襲うほど頭がおかしくなるまえに、なんらかの理由で墜落死を遂げる。
常人とは異なる鋭い感覚を有する少年、クラシック音楽の印象的な使用、最終的に起きた出来事の全てが解明されるわけではないまま終わる宙ぶらりんの感覚など、ジュスティーヌ・トリエ監督が『シャイニング』を意識しているのは、まあまあ間違いないと思う。
なお、パンフでは本作の元ネタとして、オットー・プレミンジャーの『或る殺人』と某ミステリー映画(結末とかかわるので伏せる)が挙げられていて、さすがは映画評論家さんだと感心した。言われてみれば確かにそうだよな。
(ちなみに、ポスターアートは絶対『ファーゴ』を意識してると思うw みんなもそう思うよね??)
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それにしても、『落下の解剖学』とは面白いタイトルを付けたものだ。
僕はこのタイトルを見た瞬間、「これはそのうち観に行かなきゃ」と思わされたものだが、ここでの感想を見ると、意外に否定的な人もいるんだね(笑)。
個人的には、ちょっと意外な単語の組み合わせが、とても新鮮で良いと思う。
「落下」という物理っぽい単語に、「解剖」という生体的・動物的な単語を重ねてくるのはじつに詩的だし、邦題を敢えて直訳にしたのもセンスが良い。
ここで「解剖」される「Fall」とは、夫の「墜死」であると同時に、夫の権威の「失墜」であり、妻の成功からの「転落」であり、家族の「没落」でもある(『アッシャー家の崩壊』の「崩壊」も、原題では「Fall」だ)。
さまざまなフェイズで絡み合う「落下」の分析を通じて、現代の家族の在り方を照射するのが監督の意図ということになろう。
映画としては、正直前半は結構うとうとしてしまってよく覚えていない部分も多々あるのだが、裁判が始まってからは緊迫度も増し、最後まで集中して観ることができた。
多少睡眠不足でも、あんなヒリついたヤバい夫婦喧嘩につきあわされたら、眠気も吹っ飛ぶというものだ(笑)。
法廷ミステリー仕立てではあるが、謎解きの要素は想像以上に希薄だ。
そこを期待して観に行くと拍子抜けするのは確かだけれど、観ていればすぐに「そこがキモでない」ことはわかってくる。
要するに、監督は「家族」の関係性をとことん「腑分け(解剖)」して、誰もが感じながらも敢えて目をそらしているような暗部にまで踏み込んで、それを明るみに出したいのだ。
家族とは、畢竟、赤の他人同士にすぎない夫婦が、血縁のある子供を介してつながったユニットである。そこには常に「愛情」と呼ばれる得体の知れない何か(夢であり、希望であり、欺瞞であり、呪いでもある何か)があると同時に、意見の相違があり、感情の対立があり、マウントの取り合いがあり、主導権の争奪戦がある。
監督の意図としては、幸せだった(幸せだとそれぞれが信じていた)家族が崩壊(転落)していく様をつまびらかにするのがあくまで主眼で、法廷劇というフォーマットはそのために選ばれた最適の「手段」にすぎないのだろう。
なので、妙なトリックだとかどんでん返しなどは出てこないし、法廷での思いがけない証言で意想外な真相が明らかになるようなギミック重視の作りにもなっていない。
代わりに、裁判を通じて問いかけられる「家族とは何か」という問いには、深い洞察と思慮をもって、きちんと応えてくれる映画には仕上がっていると思う。
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この映画を観ていて僕がいちばん気になっていたのは、実は「言語」だったりする。
お母さんは外の人とはフランス語を話す。ここはフランスの田舎町であり、フランス語以外通じない。だが、家族と話すときは英語だ(かなり日本人にとっても聴き取りやすい)。夫に通じる共通の話せる言葉が英語だからだ。
でも彼女の母国語は英語でもフランス語でもない。ドイツ語だ。
彼女はドイツ人なのだ(言われてみればいかにもゲルマン的な風貌だ)。
お父さんはフランス語話者のフランス人だが、妻と話すときは英語で話す。これはイギリスで出会ったときからのルールであり、英語での会話が(ドイツ人とフランス人がフェアネスを守る上での)ふたりの妥協点なのだという。
息子はフランス語を話すが、お母さんは英語で話しかけ、時と場合によっては息子も英語で答える。ちなみに法廷はフランス語で進行し、被告としてのお母さんは当初フランス語を強要されるが、途中から自ら要求して英語に切り換える(ドイツ語には切り換えないのがミソ)。
要するに、この映画でお母さんは、ほとんど「本当の自分の母国語」を話さない。
相手に合わせずに自分らしくあろうとするときですら、英語という共通語で話し、何かしら「本当の自分」はさらけ出さないようにしている。
この映画で、お母さんの正体が最後の最後まで得体が知れないのは、ポーカーフェイスだけが理由ではない。彼女は言語においても、常にヴェール越しに自分を「制御」して発言しつづけているのだ(あの盛大な口喧嘩の際であっても、彼女はずっと英語のままであり、理性を喪い切ってはいない。小説家としても、彼女は英語で書いているらしい描写がある)。
グローバルな出自の一家として多言語が飛び交う環境は、そのままこの家庭の抱える「無理」と「不具合」にも直結している。
フランスは父親のホーム。母親にとってはアウェイだ。
母親側には、夫の希望を汲んで敢えてアウェイに身を投じたという「貸し」の感覚がある。
さらには、単純に雑談するだけでも自分の一番気楽に話せる母国語を話せない窮屈さが、この夫婦にはある。もともとが「無理に無理を重ねて」「理性で制御して」なんとか保ってきた家族なのである。
「仮面家族」とは言うまい。彼らは本気で愛し合い、このルールのもとで幸せになろうと努力してきたのだから。しかし、結果的には重ねた無理がほころんで、こんなことになってしまった。作家志望どうしの国際結婚は悲劇に終わった。
ともあれここで強調しておきたいのは、「言語のストレス」がそのまま「家族のすれ違い」のアナロジーとして用いられているという点だ。
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以下、箇条書きにて。
●終盤に再現される、長大な夫婦喧嘩のやりとりはなかなかの衝撃度だった。
最近だと、ブラッドリー・クーパーの『マエストロ その音楽と愛と』での、バーンスタイン夫妻の交わす激烈な口論シーンもインパクトがあったが、今回はあれと匹敵するかそれ以上にえげつなかったような(少なくとも長さと粘着度は倍くらいあったしw)。
この二つの映画には、よく似たところがある。
まずは両作とも「夫婦ともに創作者としての優れた能力がありながら、片方が巨大な成功を収めたがためにもう片方が一歩引かざるを得なかった」話である。
それから、愛情あふれる表面的には幸せな生活の水面下で、嫉妬とマウントの「澱」がどんどんと夫婦間で溜まっていった結果、やがてぎくしゃくとぶつかり合うことになる流れも同じだ。
なにより、浮気したほうが浮気したことを大っぴらに正当化していて、あまり意に介していないらしいところもよく似ている。
ただ『マエストロ』の場合は、成功者であるレニーを妻がやりこめるという流れなので、まだ旦那のほうにも立つ瀬があるが、『落下の解剖学』の場合は、成功していない夫が成功者である妻に喧嘩をねちねち吹っかけた挙句に徹底的に撃退されコテンパンにされる流れなので、余計に報われないし、やりきれない(笑)。
劇中でも示唆されているとおり、旦那は事前に録音を仕掛けていることから考えても、敢えて妻を「挑発して」「怒らせて」それを記録しようとしている。
実にいやらしいやり口だ。女々しくて、根性のさもしい夫である。
でも、これだけ性根が捻じ曲がるまでには、夫サイドにも大変な苦労があったのだろうことは察するに余りある。息子の視覚障害に関する後悔の念(さして旦那が悪いとも思わないが)や、家族に対する責任感、いつまでも形をとるに至らない小説群、焦るほどにうまくいかない家内分担、気づくとどんどん引き離されている妻との格差。人間、病めば病むほど後ろ向きになるし、性格も暗くひねくれていくものだ。
僕もこういう思考回路に陥らないように、頑張って生きていかないと……。
●メインの夫婦以外でいうと、僕は細面のイケメン弁護士以上に、やたらねちっこく責めてくるスポーツ刈りの少壮検事のほうが印象に残った。やなヤツだけど、この俳優さんうまいよね!
映画ならではのフィクション仕様なのか、フランスの法廷のリアルなのかは知らないが、これだけ検事も弁護士も感情剥き出しでスタンドプレイに徹していて、判事も時々の気分を隠さずに恣意的に進行してるのって、どうなんだろう? そういえば昔、ガストン・ルルー原作の『黄色い部屋』やサッシャ・ギトリの『毒薬』を観たときも法廷シーンの恣意的な展開にびっくりしたものだけど、フランスだとこれが普通なのか。
法曹家の「個人的な技量」で有罪・無罪の結果がころころ変わりそうな裁判とか、実際には結構ヤバいんじゃないのか?? ちっとも事実と証拠だけに基づいて審理されてる気配がしないんだけど……。こんな裁判なら、訥々とした弁護士と検事が事務的に型どおりの審理をやる裁判のほうがなんぼかマシな気がするなあ。
●お母さんが得体の知れない人で、お父さんがダメ人間で、じゃあ息子にシンパシーを集めて来るのかと思ったら、犬を毒殺しかけるろくでもないDQN児童で(サイコパスかよ)、誰にも感情移入させてくれないトリエ監督の鉄壁のツン仕様に驚嘆。
●このワンちゃんがホントに芸達者でびっくり。どういう指示を出したらあんな動きが出来るのか。顔までなんか演技してるように見えるんだけど……。
●母親の性格描写や終盤の展開、息子のキャラクターと証言内容などから、個人的に「真相はこうだったのではないか」という推測はあるのだが、敢えて書きません。
●最初にかかるうるさい曲については全く知らないが、少年とお母さんが連弾で弾いているのはショパンのプレリュード第4番。このときは母親が主旋律を片手で弾いて、息子が和声をつけているのだが(もちろん本来は一人が二手で弾くピアノ曲)、法廷に出廷する前に少年が一人で弾くシーンでは、少年自身が主旋律のほうを弾いている。ここには「主従関係の逆転」を見て取ることが可能であり、これは母と息子の「頭をなでるシーンの逆転劇」とも呼応している。
ショパンが母親を象徴する曲とするなら、少年がしきりに練習しているアルベニスの「アストゥリアス」は、彼と父親との想い出のこめられた楽曲だ(タイトルクレジットでも練習中の音が流れ、のちに父の死を悼みながら少年が弾くシーンも出てくる)。
結果として、映画のラストでは、ショパンのプレリュード4番を変奏した映画用の編曲が延々と流れる。最後の最後で少年が結局「誰を選び、誰を守ることにしたのか」を、冒頭の音楽との対比で明らかにする、じつに面白い選曲だと思う。
リズム重視で攻撃的だがどこか繊細で神経質なアルベニスと、美しく静謐ながら手の込んだ半音階進行に毒をひめるショパンの対比。それはそのまま、この映画で対立せざるを得なかった二人の心的世界を象徴しているのかもしれない。
雪→ファーゴ、連想しました。映画タイトル、オリジナルも直訳にした邦題もとてもいいと思いました。そして言語の問題(母語は何か、フェアな第三言語は何か、この家族はどこに住んでいるのか)に特に魅せられました
あの3か国語でやりとりされる展開まで、夫婦同志お互いのストレスが伝わる秀逸な脚本でした。
言語を通して見えてくる世界や文化の違いが学べ、刺激はもらえますが、日本のよさを伝えたいことだけは、自分の核の部分になっています。
難しい作品なのにレビューが多くて嬉しいです。