ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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バットマンなき現実の世界
ラジー賞にノミネートされたらしく、どんなものか観てみた。が、実は名作だった。
ご存じ人気悪役ジョーカーを描いた作品で、前作は世界的に大ヒットだった。その2作目と言う事で期待値の大きさと、皆さんの期待にそぐわない内容が不評の理由かな。
しかし、この作品はジョーカーを描きながらもバットマンが登場しなかった前作の続きなのだ。つまりは現実世界に近い世界を描いている。
前作では精神疾患を抱え、親からの精神的な虐待に耐えながら貧しい日々を生きる若者の残酷な現実と、その中で抱え込んだ妄想、そこからついに犯罪者になってしまった流れを見事に描いていた。
同じように夢を持てない現実の日々を生きる町の人の一部から、彼が「ジョーカー」としてシンボル化されるまでの悲劇の物語が前作だ。
今作はその後を描いたもので、ミュージカル仕立てとなっているのだが、視聴するまではこのミュージカル部分が不安だった。
レディ・ガガがハーレクイン役と言う事で(歳行き過ぎなのでは?)という不安だった。(私の頭の中にハーレクイン像としてマーゴット・ロビーの素晴らしいハーレクインがあったから)
ところが、この作品ではガガでなければならないとさえ言える。なぜなら、このミュージカル部分こそ、この作品の本筋を描いているからだ。
しかもその演出が(監督が天才なのでは?)と思わざるを得ない。
「聖者の行進」の曲で作品内の登場人物たちの気分が高揚する場面ほど、画面のこちらで見ている視聴者は悲しくなるという、巧妙すぎる作りだ。
リー(ハーレクイン)がピアノを弾き歌うシーンでは、まさにジョーカーの扮装をしたアーサー青年が「踊って」いる。ハーレクインに操られ上手いこと踊らされているかのようなシーンだが、その前に担当弁護士から彼女の本当の姿を聞かされていたアーサーは「わかっていて踊っていた」演出だ。この青年の本来持つ純粋さや悲しさがポップな音楽で表現されている皮肉。
アーサーは本人が言うとおりで「馬鹿じゃない」。
だが、強くないし、何かを逆手に取るほど賢くもない。悪人になるには優しすぎるし、善人として生きるには精神的に痛めつけられすぎてその精神が弱り過ぎていた。そのあたりも裁判のシーンでうまく表されている。
世間でいうところの毒親に近い母親に育てれたために、「他者を笑顔にすること」が彼の人生の縛りになっている。「他者を笑顔にすること」そのものは良いことで彼を救いもするが、ある種、アーサーにとっての呪いでもある。
結局いつも「誰か」の期待にそう行動をやっているに過ぎない。その「誰か」はアーサーの周りの人間でアーサーが「優しく接してほしい誰か」だ。
他人の笑顔を無意識に期待しているアーサーの優しさや弱さ、悲しさが観ていてつらい。
こんな悲劇が彼だけではないから、この町では彼はシンボルとして祭り上げられたのだろうと言う事は想像の領域である。この作品にバットマンは登場しない。
しかし、アーサーが感じているほど世間は実は冷酷ではないことは随所に描かれていて、それが観ている視聴者をより悲しくさせる。
この物語は最初から最後までアーサーという青年の悲劇であり喜劇だ。ある意味ホラーでさえある。
この哀れな主人公が救われるのは最後のシーンだろう。
ネタバレになるので詳細は省くが、「報い」という言葉はこの作品の結末としてはおさまりが良いと感じた。
主演のホアキンも天才だ。
監督の表現したいものをここまで表現できるなんて、どんな精神を持ってるんだと考え(なるほどホアキンじゃなきゃこの役は無理だな)と納得。
と、上げていけばきりがない。
私の結論としては、「バットマンがいないDCコミックの世界は厳しい現実だけがそこにある」だ。
そのあたりの表現も挙げればきりがないほど見事なのだが、あまり長すぎるのもあれなのでこのあたりで終わろう。
この内容でラジー賞候補というのはあんまりなのでは、と思うが、今年のアカデミー賞があの状態だからね。
良かった。
賛否両論があるの分かる…
いいか悪いかで言えば良かった。しかし、ジョーカーではない。ジョーカーなどいない、ならジョーカーでやる必要あるか?そのタイトルを使った作者の自慰行為に思えた。
第一作目が当たったから二作目は好きなことをやろうというのはいいけれど、やはり欲張りというか詰め込みすぎというか。配分がもう少し違かったら名作だったように思う。
ハーレークイーンがラスト妊娠してたけど、自分の子供が本当のジョーカーになるような匂わせもあった気がする。
そんなに悪くはなかったけど2回目は見ようと思わないかも…。
よく分からなかった
始まりが難しくてスタートから置いて行かれた
刑務所内でのアーサーの立ち位置や
アメリカの刑務所の普通などもわからず
十分な理解ができないまま
なんだかんだ最後までいってしまった感がある
確かに人に愛されること愛することは
すごく大きなことなのだけど
なんというか、なんだか陳腐というか、
単純すぎたりありきたりすぎたりというか、
安い恋愛映画に付き合わされたときのような
落胆、までいかないけれど
ああ…てきな
経験のない男性があんなスムーズに自分主導で
事に及べるかな…みたいなところも
あまりに綺麗すぎるというか
なんというか
前作もラストがうーーーんだったので
みんなにおすすめ!絶賛!ではなかったものの
もう一度観たいと思えたけど、
今回は全体通して妄想と現実の行き来が多かったり
至るところでよく分からないが積み重なっていって
もう1回観たいとは思えなかった
残念だった
確かに歌が多い…
ジョーカー、ジョーク
そりゃ、そうなるよね
体力MAXで行くべき
私には合わなかった。
1は何度も見たし、曲も好き(That's life 好きだからレディーガガ版が聞けたのは嬉しかった)だけど、ずっと歌ってなかった?シナリオも1見てる前提だし。
妄想と現実を行き来してるのはある意味ジョーカーらしいとは思ったけど、あまり繰り返し過ぎると疑心暗鬼になってきて、現実すらも疑ってしまうからちょっと多すぎでは?と。
二度は見たくないな。初めの方は少し眠ってしまった。だから体力MAXで行くべき映画です。
ハッピーエンド
10/11@Tジョイエミテラス所沢、10/14@MOVIX昭島(10/4ジョーカー@丸の内ピカデリー)
本作は世界的に酷評されたことで有名である。私はジョーカー1が公開された当時、主人公(アーサー)にひどく感情移入してしまい、珍しく劇場で2回観賞したことを覚えている。今回も本作公開に合わせて、予習のために丸の内ピカデリーで1回、DVDをレンタルして自宅で1回観賞した。
率直な感想としては、予想とは反対方向へ進んでしまったが、完成度が非常に高いなという印象である。
5名の殺人を犯したアーサーは留置場で生活していた。同施設内で生活していたリーから言い寄られる形で恋に落ちていく。その中で裁判は進んでいき、アーサーとリーの関係も揺れ動いていく。
前作では、アーサーの日々の暮らしから、ジョーカーに変貌するまでを描いた。1人の心優しい青年が殺人を犯すまでの過程をこれ以上なくリアルに描いていた。観客はアーサーの境遇に同情するし、殺人に関しても、悪者というよりむしろよく敵に立ち向かってくれたというような気持ちにさせられる。アメコミではダークヒーローであるが、前作では正義のヒーローとして描かれていた。
ところが、本作ではジョーカーの存在を否定するようなつくりになっている。アーサーは、前作での下克上的な行いにより、一部の人々のヒーローとなった。本作では一部の人々の代表がリーにあたる。彼女はアーサーではなく、ジョーカーを愛する女性である。性行為の際に、メイクを強要するのは象徴的なシーンである。アーサーはリーに嫌われないよう、ジョーカーであり続ける必要があった。
本作は前作と大きく方向転換した。アーサーは過去の過ちを冷静に受け止め、更正したいと思う反面、大衆からはジョーカーとしての振る舞いが求められる。最終的にアーサーは、ジョーカーの存在を否定し、元のアーサーとして生きることを選択する。しかし、これは世の中では受け入れられず、社会的に見捨てられる結果となった。
公判でゲイリーと話すシーン。アーサーはここではじめて本当の被害者の存在に気付かされる。本当の自分を友達と言ってくれた人物に背き、ジョーカーとして振る舞うことを受け入れた。この後に最後の公判があるが、アーサーの目にカメラがアップしていくシーンがある。このシーンの前まで、最後どちらに転ぶのか私は分からなかった。しかし、目線はどこか自信がないのを見て、理解できた。
映画の中の群衆も、この映画の観客もジョーカーを観たくてきた。しかし、アーサーが選択したのは、元の優しい青年として生きていくことだった。映画としての世界的な評価も、映画内での群衆からの評価もまったく同じものとなった。監督は、当然これを見据えて作ったのだろう。
歌唱シーンが多く、ストーリーの進行を若干邪魔してしまっている感があるが、アーサーとリーの心情を表すのに効果的である面もある。
全体として、前作から完成度はまったく落ちていない。各シーンのセリフや登場人物の細かな仕草など、複数回観ないとその意味に気が付かないようなカットが多い。
大衆が望んだジョーカーの続編にはならなかったが、アーサーが元の自分に立ち返る、前作から始まって、本作で1周回って元の位置に戻ってくる。物語の構成として、まさに王道である。
説教されて反省できるほど我々観客の現実は甘いものではない
観たのは1ヶ月も前ですが、要点だけでも書き記しておきます。
1つ目は、壮大なミスリーディングに対する感動がありました。「思ってたのと違う」とか「がっかりした」とか言ってしまえば簡単で、そのような映画もあるのですが、大抵は作り手側の力量不足や、政治的都合等で、そうなっちゃってるものだと思います。ですが今作はトッドフィリップス監督による明確な印象操作を感じました。端的に言うと、我々は2019年のジョーカーの暴動シーンよりも、もっと激しい破壊や混沌、狂気が見られると思っていました。まず副題の「フォリアドゥ」=「二人で狂気に堕ちる」その相方はレディー・ガガ。素晴らしいミュージシャンですが、音楽やファッションから、狂気的なイメージがある。そんなレディー・ガガ演じるハーレイクインと組んで更なるカオスを見せてくれるのではと思っていた。だがそうではなかった。
リーも裁判所のまわりや、刑務所でジョーカー信者になっていた連中も結局は幸せなやつらでしかない。家族も仕事もあって、アーサーほど惨めではなく、自ら手を汚す覚悟もないやつらだ。そしてそれは我々観客も同じで、映画館で1900円も払えるようなやつらが寄ってたかってアーサーもっと暴れろと期待する。ユニクロの服を着てポップコーンとか買いつつ。
だからこそアーサーはクラウンメイクを施して裁判所に現れる。心優しく弱いアーサーは、みんなの期待に応えようとする。真の友達であったゲイリーとのやり取りは、怒鳴り声で遮り終わらせようとする。泣いてしまったらみんなの期待に添えないから。
トッドフィリップスがこのような映画にした理由はいくつも考えられる。
・2019年に秩序を破壊し暴動を煽るような映画を作ったが、コンプライアンスとやらの波に飲まれ、社会的責任をとらされた。暴動を起こして革命家のカリスマになったところで、結局誰からも愛されずに信者に腹を刺されて死ぬだけだと。死刑ですらなく、同じように狂ったやつに意味もなく刺されて死ぬだけだと。わかったら底辺生活がどんなに苦しくても秩序を乱さずに暮らしてろ、というメッセージを作らざるを得なかった。さながら村上龍が『共生虫』を書いた後に『最後の家族』を書いたように社会的責任を果たした。なぜならトッドフィリップス自身も成功者で、権力側に立つものだから。
・映画館に来る観客たち、自分を底辺側だと思っている幸せ者の偽善者たちに対する説教。お前らが期待するからアーサーはクラウンメイクで演じなければいけないのだと。アーサーは誰よりも心優しい青年で、殺人だってしたくなかった。極限まで追い詰められて身を守るために人を殺めたに過ぎない。それでも殺人をしてしまったことは重すぎて、心が壊れてしまっていたが、劇中最後には、己の罪を悔いている描写もある。なのに、暴れることを期待し、「自分もジョーカーだ」という気分になっている下らないやつらが休日に顔に化粧水でも塗って映画館に来るから、だからアーサーは苦しんだのだと。
とても印象に残っているのが、私は劇場の後ろの方に座っていたのだが、はじまるギリギリに前の方の席な鮮やかな長髪金髪の女性がツカツカと入ってきて座った。その女性は、映画が終わりスタッフロールがはじまるや否や勢いよく立ち上がり出ていってしまった。見たかったものが見れなかった苛立ちは多くの人に共有されているのだと思う。
だが暴動を起こしてもいいことはない。秩序を守って暮らせというメッセージは届いたのだろうか。
2019年からの5年間。この社会に虐げられてきた者たちは、ジョーカーに救われ続けてきた。誰もがアーサーに感情移入をして、マレー銃撃シーンから暴動シーンを繰り返し観て毒気を抜き、この辛い現実をなんとか生きてきた。辛くなったらジョーカーの終盤を観ればまたがんばれた。
だがこの者たちは2024年にゴミくずのように扱われることとなった。2019年より地獄になった世界で、やっと新しいジョーカーが再び救ってくれると思って、低い給料から1900円払ったのに、あったのは長い長い説教だった。たびたび挟まるミュージカルシーンは苦痛でしかないと思う、2019年のジョーカーファンの客層には。
んー、さて。きつい現実をどうしようか。映画を観てもつまんないしな。ジョーカーが代わりに暴れてくれないなら、俺が現実でKILL THE RICHムーブメントを起こすか。そもそもフィリップスもホアキンもガガも、金持ちセレブだろ全員。社会の底辺がどれだけ辛いかわかってるふりしたセレブだろ。お前らに分かるわけがない。報いを受けろ…クソ野郎共
前作と別物として観るべし
ミュージカルときたか。。。
今作の大半はミュージカルだった。
前作のテイストが好きだったので、前の雰囲気のままに描いて欲しかった。
リーはきっと歌や言葉やその美貌で魅了してアーサーを再びジョーカーにしようとしていたのだと思う。その空想の世界とミュージカルはなんとなくマッチしていたのかもしれない。
アーサーを追いかけるカットから始まる。
その背中は、奇妙で歪で恐ろしい。
ホアキン・フェニックスという役者は本当に凄まじい人だと思う。この役をやるために肉体も精神もどれだけのものを追い込んだのだろう。本当に辛く苦しいものがあるのではないかと思う。そのくらい凄い肉体と演技だった。
ジョークも言えなくなりただひたすら同じ毎日を過ごすアーサー。本当にジョーカーだったのかと思うほどに気力がなくなってしまう。
ある日、リーと出会う。
リーは夢みがちな空想好きの女の子で、すぐ歌っちゃうし、すぐ嘘をつくし、、、。
アーサーを魅了してその世界に引き込み、再びジョーカーを呼び起こさせる。
人と人との間に愛は生まれ怒りは生まれ失望が生まれ、狂っていく。誰が悪いとかじゃなくて、人と人との重なり合いの中で狂気って生まれるのかなと思った。
ラストカットのアーサーの腹を刺した男性はずっとぶつぶつ言ってて、口を切ってたように見えたけど、見間違いかなぁ。俺が本当のジョーカーだと新たなジョーカーが生まれ、悪は次から次へと生まれ無くならない。ゴッサムシティに平和は訪れるのか。
映画ファンのために作成した映画ではなかったようだ。
この映画の正体が解ったのでレビューしたい。
ジョーカー1のテーマはごく単純で「何も持たない奴隷が金持ちや権力者に対抗する術は暴力しかない」とするものだった。
しかし世界中でヒットしたこのジョーカー1は、金持ちや権力者たちの多大なる不興を買ったことは間違いないだろう。
Showbiz業界なんて所詮は金持ちや権力者の後ろ盾がないとやっていけない業界である。
映画製作会社は彼らの冷たい反応に完全にビビってしまったのだと思われる。
そこでジョーカー2では、アーサーは女に見捨てられ、看守たちにレイプされ反抗心もなくなり、仲間であった別の弱者に殺されるという、金持ちや権力者好みのストーリとした。
ジョーカー2のテーマは「弱者は何をやっても無駄で金持ちや権力者には決して勝てない」である。
ミュージカル風に粉飾された映像には映画製作者の姑息さを感じないではいられない。
莫大な製作費を使ってでも彼らの機嫌を取り戻したかったのであろう。
また前回のヒットを利用してある程度は回収できると計算し、発生する損失もそれで彼らの機嫌を取り戻せるなら許容できると考えたのであろう。
世界中の映画ファンを裏切ってでも金持ちや権力者に媚びを売るアメリカのShowbiz業界の姿にリアルジョーカーを待望する気持ちが自然と沸き起こった。
映画ファンのために作成した映画ではなかったようだ。
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