劇場公開日 2024年2月9日

「仄かな希望、生きるチカラを、胸の裡にそっと宿らせてくれる傑作。」夜明けのすべて ドミトリー・グーロフさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5仄かな希望、生きるチカラを、胸の裡にそっと宿らせてくれる傑作。

2024年2月9日
PCから投稿
鑑賞方法:試写会

生きるということは「どうにもならないこと」。どんなに頑張ってもなかなか思いどおりにならない。そんな「制御できないもの」といかに折り合い、遊ぶか。本作は、そこのところを焦らずに語っていく。

ファーストシーンは、意表をついて藤沢さん(上白石萌音)の長いナレーションから始まる。加えて、彼女のこみあげる怒りや恥じ入る謝罪のことば…。ときに深いため息までも交えたそれらの「声・音」に、いつしか耳そばだてている自分に気づかされる。

「声・音」に続いて印象的なのが、数々の「映画的記憶」とでもいうものだ。

劇中「おじいちゃんたちが宇宙に行く話」「月に向けて親指を立てる話」といった映画絡みのセリフも出てくる(『スペ●●● ●●●●●』『ア●●●』のこと?)が、そんなフレーズだけでなく、むしろここで言いたいのは16ミリフィルムで撮られた豊かな映像が喚起してくれる個人的な妄想のたぐいだ。

たとえば、室内から扉の間口越しに映し出された戸外は、思いがけずジョン・フォードの『捜索者』や小津安二郎の『晩春』を連想させる。また何度も挿入される列車の遠景シーンは侯孝賢の『珈琲時光』を思い出させてくれる。それは、いずれも純粋に映画そのものを推進する“チカラ”としてひたすら美しく、心地よい。
特に中盤の、山並みを背に画面左から右へと走り抜けていく列車のロングショットでは、大好きな『東京物語』の尾道のシーンと不意に「記憶」がダブり、泣いてしまった。このあたりから涙腺の緩みは加速してゆく…。

山添くん(松村北斗)が、早退した藤沢さんに忘れ物を届けるため、職場の制服をごく自然に羽織り、チャリをゆるゆる転がして(このシーン、山添くんの表情と自転車のスピード感が絶妙!)坂道を下るあたりで涙腺決壊。以後ラストシーンまで波状的に涙がこみ上げ…。映画でこれほど涙してしまったのは『わが谷は緑なりき』以来かも(苦笑)。

一方、藤沢さんがサンドウィッチや蜜柑をほおばりながら歩く、あるいは部屋でポテチの缶に口をあてて一気食いするといったシーンでは、彼女の人となりがさりげなくあふれ、思わずにっこりほっこりしたりもする。

このふたりの関係は、『はじまりのうた』のキーラ・ナイトレイとマーク・ラファロの結びつきに近いか。親友とも恋人とも違う。ここで三宅監督のことばを借りると、やはり「同志」と呼ぶのが一番しっくりくる。自分とは異質の人とどんなコトバを交わし、異なる生活感や価値観にどう橋を架けるか。そんなふたりの会話が実にスリリングだ。その向こうにゆるやかな連帯感が広がる。映画のラスト、ふたりの関係性は時や場所を超えて、山添くんのナレーションでゆるやかに閉じていく。

三宅監督はインタビューなどで、本作を「『特別な人』の『特別な話』にならないようにしたかった」と語っている。「主人公たちはいずれも前進しようとする人」で「相手が困っている時、何かできることがあるんじゃないかと小さなアクションを起こす。それは必ずしも正解と限らないがチャーミング」なのだと。

けっして他人事でも例外的なことでもない。日々暮らすうえで、私たちが否応なく感じさせられる無力感や幻滅。それにどう向かい合い、かすかなりとも希望を見出していくか。本作は、そこを考えるチカラを与えてくれる、私たちの心にそっと寄り添いながら。

映画終盤、「移動式プラネタリウム」に主な登場人物が一堂に会する“見せ場”があって、ここでも泣いてしまったのだが、その時ふと思い出したのが木下順二の戯曲『子午線の祀り』。壇ノ浦の戦いであえなく散った平家武将らの姿を、天空の運行と対比させつつダイナミックに描いた叙事詩だ。
そしてもう一つ。この「移動式プラネタリウム」内で“天空”を捉えたショットは、無限な宇宙の「拡がり」よりも、カメラが収める「狭さ」をむしろ感じさせた。この印象は、映画『晩春』で室内から窓越しに捉えられた裏山の景観を観た時に感じたものと同じだ。

私たちがふだん眺める光景はごく限られた狭いものに過ぎない。そこに、人の意思とは無縁の“天空からの視点”を加えることで、新たな風景・人々そして自分の立ち位置が立ち上がってくる。それは歴史的人物であろうと無名の自分だろうと変わりはない。

本作を観終わった後は、だれしも自分のキモチがちょっぴり変わったことに気づくだろう。映画に心から「ありがとう」と言いたくなった。

※監督のティーチイン付き試写会にて鑑賞(あまりにも泣いてしまったので、もう1回、劇場で観直します)。

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ドミトリー・グーロフ