劇場公開日 2024年4月5日

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「生きることの縁(えにし)」パスト ライブス 再会 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0生きることの縁(えにし)

2025年2月28日
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鑑賞方法:DVD/BD

<映画のことば>(英語)
「私たち、あの頃は、まだ幼かった。」
「12年前に再び会えたときも、まだ子供だった。」
「今はもう子供じゃない。」

<映画のことば>(韓国語)
「あなたの記憶のナヨンは、もういないの」
「そうだね。」
「でも…。あの日の少女はいるわ。
いま目の前にいなくても、消えたわけじゃない。20年ほど前、あなたの元にあの子を置いてきたの。」
「そうだね。まだ12歳だったけど、僕はあの子を愛した。」
「私たちは、前世できっと何かあったのよ。だから今、私たちはここにいる。」

幼少の頃の淡い思慕と、長じてからの成熟した大人同士の恋愛観・結婚観―。
ヘソンとノラ(ナヨン)との埋めがたい歳月の隔たりは、とりも直さず、二人の関係性の隔たりを体現して余りがあったということでしょう。

作中でノラ(ナヨン)とヘソンとによって語られる「イニョン」は、日本語に訳すれば「摂理」とか「運命観」とか。あるいは「前世から続く縁(えにし)=人間関係」みたいな意味になるようですけれども。

少なくとも、本作のノラ(ナヨン)とヘソンとの関係性については、容易には測りがたいような、もっともっと深淵な意味が含まれていたように、評論子には思われます。
そこに、生きることの縁(えにし)を感じ取ったのも、評論子だけではなかったことと思います。

そして、自らの意思・選択によるものとはいえ、生活する国が変わり、すなわち生活環境や言語、習俗・習慣、価値観のパラダイムに大きな転換を余儀なくされる「移民」ということによっては、そういう「深淵さ」に、いっそうの深みが与えられ、ノラ(ナヨン)としての今の人格を大きく規定されていたことにも疑いがないかとも、評論子は思います。

本作は、評論子が入っている映画サークルの2024年中に札幌で公開された映画のベストテン集計結果を発表する催しの席上で、会員のお一人が「男の自分でも、キュンキュンしてしまう」「私的にはベストテンに入って欲しかった」と言っていたことに関心を惹かれて鑑賞することにしたものでしたでした。

その発言に違(たが)わない秀作で、もし事前に鑑賞できていれば、評論子のベストテン順位にも変わりがあったことは間違いのない、いわば「ダークホース」の一本だったことを、付言しておきたいと思います。

<映画のことば>(韓国語)
「僕たちの来世では今とは別の縁(えにし)があるのなら、どうなると思う?」
「分からないわ。」
「僕もだ。その時に会おう。」

(追記)
二人にとっての24年の歳月を経ての再々会、おそらくは、そしてそれが最後になったであろう再会の場所は、24年前に遊んだときと同じように、やはり石のモニュメント(後世に残る不朽の記念物)の前-。

それは、それは、二人の想いが、実は後世にまで残る不朽のもの(モニュメント的なもの)だったことの象徴でもあったように、評論子には思われました。

(追記)
いささかカンニング的で、面映(おもは)ゆいのですけれども。

本作のDVDに収録されている特典映像の「運命に導かれて」と題する関係者インタビューにおける本作のセリーヌ・ソン監督の発言によれば、同監督は、本作では「他人と暮らすことの意味を表現したかった。ノラとアーサーとの関係性は本作の核心だが、本作を観た人全員に、それぞれの感情を抱いてほしい。同時に人生や愛、そして物事の考え方について、新たに気づくことがあれば嬉しい。」と、コメントしていました。

ノラ(ナヨン)今の夫であるアーサーとの関係性や、そして、彼女の想いの中にはヘソンへの思慕…それを「愛(異性愛)」と言ってしまって良いのかどうかは、ひとまず措くとしても…が20余年の歳月を経ても、なお炎々と残っていたことなどに思いを致すと、セリーヌ・ソン監督のその意図は、本作では見事に開花しているとも、評論子は思いました。

例えばノラ(ナヨン)の中では「幼少の頃のヘソンに対する淡い思慕」と「長じてからのアーサーに対しての成熟した大人同士の恋愛観・結婚観」というものとは、決して両立し得ないものではないのだろうとも、評論子は思います。
(評論子が今の夫のアーサーの立場でもしあったとすれば、少なからず「ヤケる」ことは間違いがないでしょうけれども・恥)

<映画のことば>
結婚とはお互いのオムツを替え、同じお墓に入ること。トイレを共用する関係でもある。

(追記)
多くのレビュアーが正当に指摘しているとおり、本作ではアーサーが「いい旦那さん」過ぎるので、お話として成り立っているという部分もあったと思います。

本作の冒頭で、明け方近くなってからバーに現れたノラ(ナヨン)、ヘソン、アーサーの3人の関係を周囲の客があれこれ憶測するシーンがありましたけれども。

その場面での、アーサーの「どっしり」ぶりは、刮目すべきことだったのかも知れません。

別作品『あまろっく』では「どっしりと構えたお父さんぶり」がキーになっていましたけれども。
やはり、「どっしりと構えた男」というのは、こんなにもカッコいいものなのかも知れないと、評論子は思いました。

(追記)
お互いに幼かりし頃のヘソンとナヨンとの間の思慕は、大人の都合(片方の家族の外国への移住)によって脆(もろ)く引き裂かれても、お互いが子供同士であってみれば、抗(あらが)うことのできない、運命・宿命といったものだったことでしょう。

心の奥底にヘソンへの思慕を熱く秘めていたからこそ、ナヨンはヘソンには何も告げずに(告げることができずに)、彼の前から忽然と姿を消すという選択をしたのだと、評論子は思います。

24年の歳月を経て、夫をもつ身でヘソンと再会したノラ(ナヨン)の心中(心の奥底)は、往時と、そうは変わっていなかったのでしょう。

その意味では「結ばれなかった初恋は、いつの日にもいちばん美しい思い出」というレビュアー・ななやおさんのコメントは、もうそれだけで、本作のエッセンスのほとんどを言い尽くしてしまっているのかも知れません。

的確なレビューで、そのことを改めて思い知らせてもらったということについては、末尾ながらなおやなさんのハンドルネームを記して、お礼に代えたいと思います。

(追記)
「初恋を美しい思い出として、心の奥にしまっている男にとっては、全身で共感してしまい、もうヤバい」というレビュアー・bionさんのコメントには、評論子も往時を思い出して「全身で共感」してしまい、本当に「もうヤバい。」という状態です。

往時は中学生ということで、もう今を去ること半世紀も前のお話なのですけれども。

思い切って声をかけてみたものの、彼女の返事は「今はお互いに距離を置きましょう」みたいな返事だったと記憶しています(あまりのショックに、アタマが真っ白…よく覚えていません)。

それが、半世紀も経た令和の今になって「今は距離をとって」と書かれたポスターが公権力によって街中の至る所にベタベタ貼られているというのは、これは、実は、コロナに名を借りた評論子への嫌がらせなのではないかと、勘ぐってみたりもしています。

こういう思い出を引きずっている評論子には、たまらない一本でもありました。

末尾ですが、ハンドルネームを記して、bionさんへのお礼に代えたいと思います。

talkie