「トランスジェンダー×バスクのひと夏。ココちゃんの未来に待ち受けるのははたして……。」ミツバチと私 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
トランスジェンダー×バスクのひと夏。ココちゃんの未来に待ち受けるのははたして……。
まあこんだけ可愛かったら、しょうじき男の子だろうが女の子だろうが、もはやどっちだって良さそうな気もするし、ほっといても実際にはめちゃくちゃモテそうだけどね。
僕のなかでは、デビュー当時の牛田智大(ピアニスト)以来の衝撃度だったな……。
個人的にトランスジェンダー界隈に関してはまるで詳しくもなければ、おおむね関心もないのだが、純粋に主役のソフィアちゃんがあまりに美しいので、つい観に行ってしまった。
実際、眼福ではあったけど、お話としてはちょっと地味だったかな?
あまり音楽が掛からないこともあってか、何回かつい寝落ちしてしまった。
最近のトランスジェンダーがらみの言論は、傍目から見ても結構「荒れ気味」の場だったりするので、生半な知識では感想を言いづらい雰囲気がある。
とくに歌舞伎町のジェンダートイレ問題以降は、フェミニズム界隈が真っ二つに分断されて、悪しざまに言い争っている様子はなかなかにえげつなく、同じ女権の信奉者でも、男性への生理的な警戒心が思想のベースにあるかないかで、ここまで意見が正反対になるものかと興味深く見守っている。
なので、旧弊なおじさんである自分は、本作のトランスジェンダー要素については深入りしないことにする、というか、したくとも怖くてできない。
ただ、これだけ可愛い子を主役に据えながら、かならずしもココちゃん(アイトール? ルチア?)に観客が感情移入しやすいようには作られていないという点は、監督のバランス感覚なのかなあ、と。
ココは、我を押し通すし、おおむね機嫌が悪いし、トランスジェンダーが不安定さのいちばんの理由だとしても、結構扱いづらい子だ。
実際の子育てだと、この程度のやりづらさならいちいち気にしてなどいられないだろうが、第三者的視点で映画の登場人物として見ているぶんには、そこそこストレスのたまるキャラだと思う。
要するに、この映画では、トランスジェンダーの子どもの抱えている苦しさを描く一方で、そういう子供を育てていく親御さんの大変さや精神的な疲労感も、きちんと描いているということだ。
この映画で、ココちゃんを「天使のような子」としては描かず、「周囲に軋轢を生みかねない子」として描いている、ある種のフェアネスは、そのままラストにおける「なんとなく不穏な雰囲気」とも直結している。
最高潮にストレスフルな失踪劇のあと、事態はいろいろなゴタゴタを吹っ飛ばして(いくつかの肝要そうなシーンを力業でスキップして)、妙に唐突な感じで収束するのだが、これで本当に事態が収束したのかというと、どうもすっきりしない、というのが個人的な感想だ。
周りの大人に「この問題を粗雑に扱ったら大変なことになりかねない」という強烈なインパクトを与えることには成功したのだろうけど……。
根本的な問題は何も解決していないだけでなく、ココちゃんのなかでもいろいろなことがぐるぐると渦巻いたまま、家族はバスクでのひと夏を終えてフランスに戻っていくことになる。いろいろな問題は先送りになっていて、宙ぶらりんの状態は変わらない。
見過ごせないのは、次の3点だ。
●ココちゃんのなかでは、すでに希死念慮が生まれている。
(生まれ変わったら女の子になれるのではと純粋な気持ちで考えている)
●思い切った行動を取れば、周りの大人を慌てさせられることを知った。
●基本的に自分を曲げない性格だし、かなりの癇癪持ちである。
さらに、今はまだ中性的なルックスで美貌に恵まれているからいいけど、お父さんのむくつけき外見から考えても、そのうちどこかのタイミングで身体はぐっと骨ばってくるし、むしろ男性的な特徴が強く出てくる可能性のほうが高いのではないか。
そうすると、ココちゃんは今どころではない真のアイデンティティ・クライシスと、いつの日か向き合わなければならなくなる。
それらを踏まえたうえで、エンディングのクレジットロール後半でさらさらと聴こえてくる河の水音のことを考えるとき、これが単なる美しいバスクの自然を彷彿させるだけの環境音のように、僕には思えないのだ。
これは、死を誘うオフィーリアの水音だ。
ココちゃんはふとしたきっかけで、水際を踏み越えてしまう子かもしれない。
たとえいまの危機を乗り越えても、次の危機は乗り越えられないかもしれない。
僕にはこの水音が、ココちゃんのこれからの未来に待ち受ける暗い影を想起させる、とても怖くて不吉なBGMにしか聴こえなかった……。
それと、もう一点、気になる点がある。
主演のソフィアちゃんもまた、トランスジェンダーだってことでいいのだと思うが、まだ第二次性徴も現れていないうえ、自我がどこまで固まっているかもわからない子に、こういう「性自認のあやふやな」役どころをやらせて、周囲との激しい軋轢を追体験させるのって、本人になにか悪い影響が出たりはしないのだろうか?
ただでさえ、内側に、壊れやすい繊細な部分を抱えている子たちだ。
こういう「啓蒙的」な映画に出演させることで、却って心のなかの大事なところを壊してしまったら、それこそ元も子もないというか、本末転倒もいいところだと思うんだが、ちゃんとケアしながら作ってるんだよね?
あと、「裸を見られたくない」って設定の子どもの入浴シーンとか水浴シーンとかが何度も何度も出てくるんだけど(ぎりぎりバストトップはガードされてたような気もするが)、「観客サーヴィス」としては100%正しいとしても、ソフィアちゃん的には大丈夫だったのかな?(まあこの映画では、女優さんは中年から婆さんまで、分け隔てなく容赦なく脱がされてるんだけどねw)
本人の境遇に近ければ近いほど、純粋な子供はそのぶんキャラクターとの同化も容易になるし、作品から受ける影響も大きくなる。ソフィアちゃん自身が気づかないような心の傷を負っていなければいいのだが。監督その他スタッフが、しっかりケアして作品づくりをしていてくれたことを信じたい。
その他、ちょっと思ったことなど。
●おばあちゃんとルルベル叔母さんの見分けがあんまり付いていなくて、途中までかなりストーリーラインを誤解して観ていました(反省)。
●8歳でおねしょというのも、メンタル的にはけっこう心配かも。それとも性による尿の仕方の違いとか、なにか関係しているのか?
●ミツバチの生態や性分担を、トランスジェンダーを扱った映画で家族や人間社会のメタファーとして出してくるのは、けっこう危なっかしい気もするなあ。ハチって、女王バチの生殖活動を支えるためだけに、群れがひとつの生命体として奉仕する生物だし。こういう「個」がまったく尊重されないうえに性差に極端な役割差のある昆虫を、家族や人間社会と安易に重ねていいものなのか。
●芸術家を目指す娘ですら、お父さんが地元の女性たちの裸を写真に撮っていたことを気に病んでいるのか。そういうものなのかな? しかもその生成物としての作品『シルフィード』を自分の作品と偽って審査に提出するという歪みよう。ただ、ココと家族の物語という流れでは、ちょっと余分なエピソードだった気もする(監督は敢えてワンテーマに絞らなかったと言っているが)。
●いくら子供のほうも乗り気だからとはいえ、その子の性自認を明確にするようなドレス姿を、いきなり予備動作もなく親族全員が集まるダンス・パーティでお披露目するってのは、個人的にはなんぼなんでもやっちゃいけないと思うんだけど、僕の考え過ぎか?
●ラストの失踪シーンは、完全にビクトル・エリセ監督、アナ・トレント主演の『ミツバチのささやき』を意識したものだろう。何より、同じバスクが舞台だし。邦題も含めて、「美貌の子役×バスク」ということで「なるべく寄せていこう」としてるのは伝わってくる。もうすぐビクトル・エリセの新作も久しぶりに公開されるしね。
●ただ、あのシーン、個人的には今ひとつ受け入れがたかった。そこまでの抑制した作劇をかなぐり捨てて、唐突に「あざとい」名前呼びイベントを力業で発生させていて、そこのギャップというか、「ここだけ作り手のやりたいギミックが剥き出しになってる」のがどうも居心地悪いというか。やるぞやるぞと観客が息をのんで待ち受けるような「仕掛け」が、そう巧いものだとは、僕は思わない。
●パンフ読んでると、ふつうに役としてのココちゃんや演者としてのソフィアちゃんは、全部「彼女」表記なんだね。ふむふむ。
●やたら逆光のシーンが多くて、(せっかくの)ココちゃんの顔も陰になってることが多い映画で、最後はまばゆいばかりに光が順光で当たって、その美しい顔をきらめかせている。
そこには、ルチア(光)という「真名」とともに、監督の「祈り」のようなものがこめられているのだろう。
僕もまた「彼女」の人生に幸い多からんことを切に祈ります。
共感ありがとうございました。この映画に限らず、大変読み応えのあるレビューで、かつ、深い考察がなされていて、とても勉強になります。フォローさせていただいたので、今後ともよろしくお願いします。
この映画の主役のソフィアさんは、名前からすると女性名なので、女性がトランスジェンダー役を演じたということかと思っていましたが、レオンのマチルダ役のナタリー・ポートマンが後年、不快感を表明していることと同様なことがあるかもしれないですね。