シック・オブ・マイセルフのレビュー・感想・評価
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バカカップルのチヤホヤ獲得レース!
思っていた以上にコントだった。SNSでバズりい!みたいなレベルの話でなく、バカなカップルがどっちが目立つか、チヤホヤされるかのマウント合戦を始めたら、競争ばかりがエスカレートして、もう周りは見向きもしなくなってるんだけど、気がついたら超お似合いのカップルだったみたいな。こういう関係性が不健全なのはよくわかるが、かといって不健全な関係だからやめろというのは他人の勝手な説教であって、結果、割れ鍋に綴じ蓋だけど似たもの同士でお好きにどうぞみたいな話もあっていい。承認欲求がテーマであることは間違いないが、もっと根深い依存と共依存の寓話としてとても面白くみた。こういう皮肉に満ちた話はただ意地悪に撮られると気分が悪くなるだけだったりするが、いい距離感といいセンスの監督なんじゃないかな。
現代人にとって決して他人事とは思えない突き抜けた異色作
ノルウェーから届いたこの異色作の主人公は、「私に注目して!」という思いが誰よりも強く出てしまう人。それゆえ恋人や友人らが注目を集めているだけで気に食わないし、どんな手段を使ってでも望み通りの境地に立とうとする。すなわち、本作のテーマは現代人の多くが身に覚えのある「承認欲求」について、ということになろうが、しかしそこから予想されるSNSの承認機能を使った「いいね」合戦には決してならない。あくまで現実社会を舞台に、顔と顔を合わせた場所で「もっと!もっと!」が発動していくのが面白さというか、事態の深刻さというか。この自我の暴走ぶりや自己破壊を不快に感じる人もいるかもしれないが、でも危ない橋をどこまでも渡っていくヒロインの突き抜け方やその代償、決して安易に人を糾弾するような展開には陥らない構成、小気味良い会話のテンポ感を失わない脚本の妙なども相まって、興味深い”人間探求”的な一作に仕上がっている。
サイコホラーでブラックコメディ
SNSと動画共有サービスが普及して以来、過剰な承認欲求や自己顕示欲に対する風刺は映画やドラマでたびたび扱われてきたが、本作の女性主人公シグネほど強烈なケースは滅多にお目にかかれない。 周囲の関心や同情を引くために病気を装ったり自らの体を傷付けたりするのは、「ミュンヒハウゼン症候群」と呼ばれる精神疾患。シグネの場合、副作用で皮膚病になるのが確実なロシア製の抗不安薬を飲み続け、服用の事実を隠して「原因不明の難病を患ったが健気に闘病している自分」をアピールし、歯止めがきかなくなっていく。 オスロを舞台にした若い女性の生き様という点で「わたしは最悪。」に似ているなと思いながら観ていたが、鑑賞後に当サイトの矢崎由紀子氏の評論から、製作会社も同じだと知った。ノルウェーのOslo PicturesとスウェーデンのFilm i Vastが共通しているようだ。この手の話が北欧の映画界で近年のトレンドなのだろうか。2作品の空想や幻覚のシーンの使い方にも類似性を感じた。 監督・脚本のクリストファー・ボルグリはこれが長編第2作。1作目の「DRIB」(2017)は日本未公開ながら、予告編を見たらかなり面白そう。配信で鑑賞できるようになるのを願いつつ、次回作も大いに期待。
理想と現実のギャップ
この作品で一番重要なところは、何度も描かれる主人公シグネの妄想と、現実が剥離していくことだろう。 注目を集めようと薬物摂取により皮膚疾患に陥るが、そのことでシグネが期待する結果は少々過剰だ。しかも、シグネ自身の能力を大幅に越えたものまで存在する。自身の能力を過大評価しているのだ。 さすがにそうはならないだろ、というレベルの妄想の連続は、ある意味で恐ろしい。薬を飲み続けることよりもコチラのほうがホラーなのだ。 自分が注目されないのは、環境やチャンスや周りのせいなどではない。単純に自身の能力不足、あるいは活かし方を間違っていることに全く気付かない。 しかも、病気になるリスクを全くといっていいほど計算に入れていない愚かさまである。 シグネは友人や恋人のささやかな成功を、些細なことと貶すが、彼らは自身の能力により得た成功であり、根本的にシグネとは違う。こんな簡単なことさえ分からないシグネに現実など見えるはずもない。 作品とは直接関係ないことであるが、観ていて気付いたことがある。ここ数年話題の、自分の愚行をSNSに上げる行為についてだ。回転寿司の醤油差しをなめたりするアレね。 彼らは簡単な善悪の判断も出来ないバカなのだと漠然と思っていた。しかし実際は善悪の判断はついていて、悪いことだからSNSに上げているバカなのだと気付いた。 自分と彼らの感覚が離れすぎていて、少し考えればそうだよなということに今まで気付いてなかった。 まあ、そんな奴らのことを深く考えたりしないからね。
どう考えても行き過ぎた欲求
承認欲求が題材の映画だけど、ここまで体を張って心配されたい、注目を浴びたい!と思うのは根性あるな、と思った。 こんなことをしたら周りの人はこんな反応をしてくれるんだ、という経験から全てが周囲の反応ありきの行動、言動になってしまっているのは見ていて痛々しかった。主人公の承認欲求の発端はどこなのだろう。生い立ちが少しでも描写されていたら共感できる部分があったのかもしれないが、この主人公の言うことなら真偽が怪しいな、となってしまう。現実と妄想の区別がついていないし、見ていてもところどころこれはどっちだ?と困惑した。 最後、友人から思っていた反応をもらえなかったというのはすごくリアル。実際そんなに深く同情してくれないし、ましてやおかしくなった承認欲求モンスターなんて友達にいてほしくないだろう。彼氏はずっとそばにいたけど、あれは似たもの同士なのかな。盗品アーティストって何だよ。はみ出し者同士で仲良くやってるカップルは意外といるし何だかうまくいってそうというのも現実感がある。 20代女で、周囲の人間はみんな何かしらのSNSで自分の日常を発信して、誰かからの反応を伺って一喜一憂している世界にいる。確かに、体調不良をいちいちアピールするかまってちゃんはいるし、あの子よりも充実した生活を送っているという確証欲しさに発信と監視をやめられない人もいる。方向性が違う承認欲求だから、彼女たちがこの映画を見て何を思うかはわからないが、現代の風刺としては良い作品だったと感じる。
クリスティン・クヤトゥ・ソープの怪演は必見!
このポスターや予告の「最狂の承認欲求モンスター」というのは、 どうなんでしょう? 私は本質的な表現ではないと感じました。 というのも、主人公が精神疾患であろうということは、 物語の途中で何となくわかりますし、主人公に対する違和感が積み重なる ことで尋常な精神状態ではないと気づくはずです。 それをモンスターというのは、いかがなものか?と思うわけです。 主人公はお父さんを毛嫌いしているのですが、 要は主人公に興味を持ってくれない・・・ということが、 彼女の精神状態に起因しているんですね。 で、同居している彼氏もそんな感じなので(彼氏自身も似たようなものですが)、 どんどんどんどん思いはエスカレートしていき、疾患となったように 思うわけです。 ホラーとしてよりも、主人公が何故そういう状態になっていったのかの 考察を深めていくと、実に遠い世界の話ではないことがわかります。 承認欲求が強い人には意識を向けてよくコミュニケーションをとったほうが 良い気がしますね。 北欧ならではの画質・色合いの質感や、 主人公を演じるクリスティン・クヤトゥ・ソープの怪演は必見です。
どちらも過剰。薬量も自意識も。
<映画のことば> 「ウソをついていた。 『謎の病気』じゃあないの。 こんな状態になったのは、リデクソルを大量に飲んだから。」 「病気で注目を集めようとしていたけれど、ウソだなんて。イカれてる。 自分を哀れんでいるだけ。 正気の沙汰じゃない。」 本人は「謎の奇病」と言っているのですけれども。 それは、重篤な薬物依存、薬物の過剰摂取の故であることは、彼女にも認識はあったはずです。 (現にネットで、自分が使おうとしている薬物の副作用の情報を集めていたようですし、シグネの「病院嫌い」も、その実は、受診で薬物依存を指摘されることが分かっていたからのようです。) 本作の製作国・フィンランドでも、問題になっているのでしょうか。薬物の過剰摂取は。 時あたかも、日本でも(女子高生などを中心として市販薬のおーばーどーず(Overdose 過量摂取)が問題とされている昨今、その意味では、日本でもタイムリーな作品なのかも知れません。 それにしても、彼女の行動の端々から垣間見える彼女の自己顕示欲の強さからすると、その自己顕示欲が充分には満たされてこなかったことの、いわば「捌(は)け口」とし て、その方面に暴走してしまったといったところが「正解」だったのではないかと思われてなりません。評論子には。 つまり、「人の目を惹(ひ)きたい」という彼女の意欲が、本作の全編を通じて透けて見えるようにも思われました。評論子には。 食物アレルギーの虚偽(過大)申告したり、たまたま主役になった「あの救命活動」でも、普通なら彼氏に頼んで自宅から取り寄せてでも着替えて帰宅するのが普通かと思いますけれども。 しかし、彼女が(あえて?)そのままの服装でなに食わぬ顔で街を歩いて帰るという彼女の「神経」は、その異常さを見て話しかけて来た人に、自分の功績を吹聴するきっかけを作りたかったからだろうとも思いますし。 家に帰り着いてからも、彼氏にすがることなく、彼が気づくのをむしろ待っていたかのような彼女の振る舞いは、少なくとも「フツー」ではなかったように思われます。 (あとには、他人の犬にちょっかいを出して、「あの事件」を「再現」するかのような振る舞いもありました。) ケネディ大統領がダラスで暗殺されたとき(1963年)、パレードのオープンカーに同乗していた妻のジャクリーンは、空路でホワイトハウスに帰着するまで、夫の血が着いた洋服を着替えなかったそうですけれども。 同じく「着替えない」でも、その意味には、天と地ほどの違いがあるなぁと思った評論子でした。 自分を取り上げる映画の撮影中に、発作を装って、スタッフ一同の面前で倒れてみたり、痙攣(けいれん)までしてみせたり…。 枚挙に暇(いとま)がなかったというべきでしょう。 シグネのそういう人間性とも相俟って、遂には人を廃人にまでしてしまうという薬物依存・薬物依存の危険性・恐ろしさを、そんなに「声高に」というわけではなくても、静かに暗示していることは、冒頭の映画のことばに、ものの見事に昇華していると、評論子は思いました。本作を観終わって。 描かれている内容はともかく、映画作品としては、その点では、佳作と評するに足りる一本でだったとも思います。
観て、考えることに意味のある映画
笑ってしまうほどに現代人(と括るのもあまり良くない気もするが)のイヤな部分をこれでもかと見せうけられ冒頭から胸糞ブースト全開。だが見続けているうちに「今したいことをしている」という刹那的であっても素直で正直な主人公の生き方がどこか羨ましくも思う。この世の中に正しいことでは決して無いが、重大な犯罪とされることはせずに自分のなりたいように(未来への想像力の欠如、モラルに反していることには不快感がハンパないが)しているところは尊敬するレベルだ。 現代において、いかに注目されるかをアイデンティティにしていたり、したいと思っていなくても無意識下でそれに縋っていることは誰しもあると思う。それは悪ではなく、自覚することが出来るかできないかが重要だ。良くも悪くも人は独りで生きることは難しいし、何かに所属しているという実感こそがアイデンティティを形成する一つとなるのか。
みーんなグロテスク…かも?
かつて出会った事のある人々を思い出し、今彼女たちはどんな人生を送っているのかと思い巡らせてしまった。 とにかく自分を特別なものに見せたくて、話す言葉、立ち居振る舞い、眼帯や包帯の小道具に至るまで、自分を表現できる全ての手段を使って叫んでいたように思う。 私を見て と。 見てもらって、さてその先に何があるのか。 この映画の主人公には何もなかった。 その事実がとてつもなく残酷でグロテスクで、観終わった後はなんとも居た堪れない気持ちにさせられる。 巷に溢れるSNSの投稿は、今日も「私を見て」の叫喚で溢れかえっている。 誰に、何を、なぜ、見てもらいたいのか? それを答えられる者は、おそらく彼や彼女たちの中にはいないんだろうな。 私にもわからない。 ただ、彼や彼女たちをエンタメ代わりに画面越しで観ている自分が、この病気の一因なのかもとはうっすら気づいている。こんなふうに我を失わない自分で良かったと、そう安心するために、彼らには叫んでいてもらわないと。 なんてグロテスク。
発想が尖ってるだけで、映画としての作りが緩いし 映像の見た目もそん...
発想が尖ってるだけで、映画としての作りが緩いし 映像の見た目もそんな良くない気がするから 観てて少し退屈だった上に不快感が強い。 ただ注目を浴びたいが為に病気を偽る彼女と、彼女より注目を浴びていたい彼氏のお前らだけでずっとやってて下さい。みたいな感じは面白かった。 あと、もしこうだったらの妄想シーンのシームレスな入り方とかよかった。そこの部分映像の作りもカチッとしてて良い感じなのはワザとなのかな?(現実部分のほうはずっとうっすらモサついた印象がある) この映画でミュンヒハウゼン症候群のことを知ったので、それ自体はとても興味深いと思う。 ただ尖った題材だけに、もっと手練な監督に撮らせたら、、、と思ってしまった。 あとこの映画のポスタービジュアルは最高。 映画のテイストと内容を毒っぽくポップにビジュアル化されてて、このポスターで映画観たくなる最高なデザイン。こうゆう愛のある送り出されかたされる映画は幸せ。 映画館で鑑賞
異常な承認欲求から生まれるもの
承認欲求の塊でメンヘラな主人公 彼氏もなかなかに拗らせた人間 どこまで妄想で現実かわからなくなってくるけど まぁ、どこまででも良いかなと思えるくらいには 呆れてしまうほど。 一周まわっておもしろい。 意外とみんな、一歩間違えたらなりかねない。 ただ、承認欲求を満たすために現実を疎かにして壊してしまうのは本末転倒。 メンヘラはホラーで凶器で狂気だなぁと感じた。
人間とは
無色透明の人生なんて!濃縮された酸いも甘いも。アグレッシブさ溢れる生き様はNOと言えるか…どん底に垣間見える並々ならぬ悲壮感。渇望するかたちのない愛。負よりも不思議と気分は晴れやかに。至極の人の温かみにこれでもかと包まれる余韻が凄まじい傑作。
彼氏や皆にかまってもらえず妄想爆発のお姉ちゃん
もっと凄いところまで行くのかと思ってたら、最後は薬物中毒の施設に入ったところで終わった。う~ん、ちょっと不完全燃焼だった。
怖っ!
上映開始時間を20分間違えて、 途中からになってしまったのだけど...。 いやいやいや、怖いわー。 これは最終的に彼女は、承認欲求病から抜け出せてんの??? なんか、もう、無理そうにしか感じなかったんだけど…。 まぁ、本来、誰かに認められたい気持ちというのは、 全くなかったら、それはそれで、ちょっと達観しすぎた人になっちゃうけど...。 SNS普及してからの、一般人が知らない不特定多数からも認められたい。 というこの風潮は、ちょっと、怖いよな。 ボタンひとつの承認じゃなくって、周りの知っている人に、 きちんと、言葉で認められた方がいいのにさー。 という現象の問題提起にしては、だいぶ怖かったよ...。
アホっぽい…(笑)
どうでも、いい(笑) 下らない内容(笑) ポスターとアホっぽい軽薄なイメージから、A24かと思ってたら違うのね(笑) アホっぽくて軽薄な同じ系統の映画では、 『ゾラ』や『ネバー・ゴーイン・バック』よりは、マシ(笑) 評価は2~3の間で迷ったんだけど… 過去、この映画より良くない『ゾラ』に3を付けちゃってる事☝️ 完ペキなアホ映画のまま終わらない事☝️ 主演のクリスティン・クヤトゥ・ソープの美貌に加点☝️ 以上の事から、甘め評価の3つ星。 100点満点で、55点ぐらい。 クリスティン・クヤトゥ・ソープは、ブリー・ラーソンやジュディ・グリアに似てると思います。
途中から何を求めて見にきたか忘れてしまった…
さぞかし嫌な気分になれて何度も苦い後味を噛み締められるんだろうとワクワクしながら行ったんですが、うん…、別に…そうでもない… もっととち狂って大暴れしてえらいこっちゃな展開になると途中まで期待してたのに、時速40kmの公道45kmくらいで走ってた感じでした。 もっとアクセル踏めるだろ! ウィンカー出さずに左折とかできるよ君は! ガードレール見たらウィリーするような人間ちゃうんか! ちゃうかったわ… 残念だよ…
認められたい、愛されたいという欲求が根深い所で狂気と歪みになり、壊...
認められたい、愛されたいという欲求が根深い所で狂気と歪みになり、壊れていく様子を描いているということと、 狂っている当人の悲痛な心の叫びが台詞中で描かれるという点で、宣伝文句にもあるA24の「パール」とよく似ていました。 向こうは連続殺人という手段を用いていたのに対し、 こちらはとにかく人の注目を集めるために、ネットでもリアルでも悲劇のヒロインを自作自演し続け、肉体的にも社会的にも取り返しの付かない事になっていくお話です。 こういう作品を見る度に思うのは、 パールもシグネも狂いたくて狂っているのではなく、愛されなかった経験だとか、周囲の輝かしく生きている人々との比較だとか、何か原因が奥深い所に存在しているはずで、 それを生み出す社会構造の中で生きている私達のほとんどが経験していくことであり、彼女らは本来は特別ではないということです。 (その感情を処理しきれなくなり、度を越した行動を取る点では特別かもしれません) 障害者グループやインクルーシブという福祉用語が出てきますが、物凄く広い意味で捉えるのなら、こういう心の闇を抱えた人も、障害者や病人という名前の付いたカテゴリーには入らないけれど、課題を抱えながら社会での共生を目指していく存在だというメッセージも含まれているのかなと感じました。
駄作であり傑作
出だしから主人公カップルがロクデナシとわかるエピソード。 次々と襲い来る不快感。 他人から注目を集めるために、自分の身体を傷つけるという思考が全く理解できない。 しかし、山頂から生配信で滑落死したり、コロナ禍でのノーマスクノーワクチン連中や、因縁つけての私人逮捕を繰り返す恐喝連中のふるまいなどを思い返すと、大差ないなと。 承認欲求というより、何物でもないくせに自分が世界の中心じゃないと気のすまないモンスター駄々っ子で、見苦しさと不快感しか存在しない。 SNS依存症や活動家、自爆系迷惑ユーチューバーがいかにクダラナイのかを示していて、「そう感じる風に作っている」と、よくわかる。 不快感への耐性がない人にとっては、まったく面白くないというか、「主人公ら早く死ねばいい」しか感想が出てこないであろう駄作とも受け取られる可能性があるんですよね。 その意味で、傑作ですね。
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