君たちはどう生きるかのレビュー・感想・評価
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幼い頃から、アタリマエに宮崎駿監督の作品を観て、生きてきて。
私を含めた多くの方が、自分を形成する上での視点や思考に
宮崎監督の作品のイメージや信念が影響され、生きていると思います。
君たちはどう生きるか。を観た感想は宮崎監督への
「ありがとうございました。お世話になりました。」そういった気持ちでした。
ぜひ、多くの方に映画館で観ていただきたいです。
【以下、個人の感想】
子供向けの作品をずっと手掛けられてきて、飛行シーンと空想活劇が得意な
宮崎監督が今、誰に向けて創ったのか。
「君たち」をこども達に向け、メッセージ性の高い映画を創ると考えていた、
私にとって今作の創造点には驚かされました。
歳をとられ昔のようなワクワクするレイアウトや作画は減り、
映画のテンポ、構成もどうしても老いや才能の枯渇が感じられ
過去と比べたときのそうした変化は、私にとって、良いものと受け止められず
躍動感・リズムがない宮崎さんの作品は、劣化と思い、複雑な心境で
今作を含めた最近の映画を観ておりました。
それでも、現在のご自身を高い位置から俯瞰され、自分の現在地を
作品の魅力に変え、過去の作品をオマージュした世界で
ご自身の半生を強烈なメッセージで「魔法」にしてしまう。
そうした宮崎監督のイメージには感じたことがない、驚きと新しいワクワクを
この作品でもらいました。
・眞人が石で頭をぶつシーン
・御屋形様の様相と口にしたセリフ
・インコたちの暴動
さいご
塔が崩壊し、鳥が世界へ飛んでいくシーン。
先頭を走ってきた宮崎監督の「ひとつのイメージ」が伝わり、
感謝と少しの寂しさを覚えました。
また宮崎駿作品を映画館で会えるように、楽しみに、楽しみに
言葉にすることで、また会えることをイメージしています。
宮崎監督は最高のエンターテイナー。
本当に多くの素晴らしい作品を創っていただき
ありがとうございました。
エンディングからが物語の始まり
「君たちはどう生きるか」のコペルと同じ年代の眞人を主人公に、宮崎駿のメッセージが伝わる。
戦時中の資産家と庶民とか都会と田舎の格差や、亡くなった奥さんの後添えに妹と一緒になる事が当時は普通にあったのだ、など今の若い人には多少わかりにくい点があるかもしれない。
しかしながら「今頃軍は大慌てだよ」と語る父は軍需産業で肥え太り、学校へ寄付し得意気なことなど、主人公・眞人の心情やこの時代の状況が早い段階で画面から伝わるのは流石。
母が遺した古い本「君たちはどう生きるか」を読み進み涙する眞人を抱きしめたい気持ちになりながらテンポよく話は進む。
後半、存分に宮崎ワールドのイマジネーションが広がる。
塔に続く道や森はもののけの、異世界は風の谷のようでもあり迷宮は千尋っぽく、死の国の海に浮かぶ船団は紅の豚を思わせるし、火はカルシファ、木の骨組みを壊す大佐はカリオストロの時計塔(^^)数々の作品をオマージュしながらキャラクターが躍動。その中で、様々なことを吸収していく眞人の成長。
命が生まれる、命を頂く、メタファーが描かれるこの世界とあちらの世界。。。
ラスト。私は全てはエンディングの後に始まるのだ、と受け止めた。
眞人は母の遺した「君たちはどう生きるか」を支えに成長するだろう。戦争で利益を上げた父やその価値観とどう向き合って行くか、noblesse obligeを彼なりに消化して平和な未来を生きる友が持てるだろうか、と想像が膨らむ。
そうして、さて私はどう生きようか、どう歩けばこの世界が誰もが生きやすい世になるだろうか、と宮崎駿から宿題をもらった気分だ。全体に語り過ぎないところがすごく雄弁。たくさんの人に伝わるといいなあ。
(ストーリーまとめ追記)わからないけど楽しい
みなさんのレビューみて評価の低さにびっくり
一度観ただけじゃわからないのって
私の中では普通だし
考察YouTubeを観たりもう一度鑑賞して
楽しみたいと思える作品でした。
ただ、どんぐり共和国で今後人気出そうなキャラは
あんまりいないかなぁ?
青鷺は可愛くないしね
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ここから追記
2回目鑑賞後 自分なりのストーリーまとめ
難しい考察はナシの簡単なストーリーです
(2回みただけですのでミスには寛大でお願いします)
主人公 眞人は空襲により、入院中の母を亡くす
死体はみつからず、、
一年後、父と疎開するが疎開先には
新しい母 ナツコ
ナツコは、眞人の母の妹であり地方の裕福な家庭のお嬢様
お腹には新しい命が宿っている
疎開先のお屋敷には沢山の老婆やがいて
眞人の父のお土産の食料に喜ぶものの、眞人にはあまり
関心を示さず
父は、財力で周りに圧力をかけるタイプの人間で
眞人は新しい学校でも、都会から来た金持ちとして反感をかい、喧嘩をふっかけられる
喧嘩の帰り道にマヒトは自分の頭に自分で石で打ち付け
大怪我をさせる(学校に行きたくないから?)
怪我を知った父は、さらに財力や力によって学校に圧力をかける。老婆やや、ナツコは献身的に眞人を看病するも
眞人は孤独感に苛まされ誰にも心をひらけない
新しい家で頻繁に姿を見せていた青鷺が
いつからか、眞人の夢の中の出来事
空襲の中、母を呼び叫ぶシーンを真似するようになる
眞人の夢や意識が青鷺とリンクし、
母に会いたいなら付いてくるように誘惑される
つわりの中、森へ消えるナツコを目撃し
一旦は見送るも
部屋で母が自分に贈ってくれた
『君たちはどう生きるか』をみつけ、読み耽る中
帰らないナツコが心配になり探しにいく
そっけなくあたっていたナツコに対して
ここで初めて『心配』の感情が湧いてくる
ついてきたキリコ老婆ゃと一緒に屋敷に入り
青鷺と再会し、
謎の主(大叔父)が青鷺に、ナツコのもとへ眞人を案内するようにと言い渡し
地下の世界に沈んでいくとそこには
若く逞しいキリコさんが。
キリコはこの世のものではない者たちが沢山いる世界で
魚を捕り、捌き
亡霊のような人たちと、ワラワラという命の源のような妖精?に食べ物を与えてる
ワラワラが熟し、空に上がり新しい命に生まれ変わろうとする時にペリカンがワラワラを食べようとし、
火を操るヒミ様に焼き殺される
ペリカンは死に際に、
この海には食料がない、ワラワラを食べなければ生きのこれない、しかしそのせいで焼き殺される
と話す 食物連鎖のバランスが崩れてきている示唆
キリコと別れ青鷺とナツコを探す
そこでヒミと再会し、自分の母だと気づく
産屋にいるナツコと再会するが
そこで初めて帰れ!とナツコに拒否され
『ナツコかあさん!』と叫ぶ眞人
眞人に母さんと呼ばれて正気を取り戻すナツコだが
力つきて、眞人もヒミも倒れる
目を覚ました眞人は大叔父と会い
この世界の危ういバランスが今にも崩れそうだと知らされる。この世界を保つ後継者になって欲しいと言われ
自分も、ナツコのお腹の子もそのためにこの世界に呼ばれた事に気づく
しかし、眞人には
世界のバランスより、目の前の大切な人の命を守る事が先決であると言い、
ナツコとヒミを助けに戻る
世界を自分のものにしたいインコ大王に阻止されながらも
ヒミと再会し、再び大叔父の元へ
大叔父は3日に一度積み木を積み上げ自分なりの良きバランスで争いのない世界を作り上げろと眞人に言うが
眞人は拒否
それを聞いていたインコ大王が積み木ごと破壊し
世界が崩れ落ちていく。
青鷺の力を借りながら
元の世界のドアへと辿り着き
ナツコとも再会し、それぞれにもとの世界へと戻る
ヒミは、自分が火災で死ぬと知りながらも
火って素敵、あなたを産む
と言い残し。。。
元の世界に戻りインコの世界のものは普通のインコへ
塔は崩れ落ち ペリカンはこの世に放たれる
この世ではインコはフンをするので皆
糞まみれになりながらも笑顔で再会を喜び合う
そう、この世は汚いことも沢山あるが
だからこそ美しいのだ
数年後、戦争は終わりこの街を去る
汚くも、美しく
残酷であり、尊いこの世界を眞人は生きる
それが世界のバランスなのかもしれない
眞人の中にも自分で怪我をしながら言わない狡さと
命懸けで義母とお腹の子を助けに行く正義があったように
善と悪
美しいだけの世界などないのだ
それでも平和を願い、幸せを願い生きる事を
忘れてはいけない
君たちはどう生きるか
との問いに戻る
以上
レビューというよりは
自分のためのストーリーのまとめでした
『わからない』という意見が先行してしまっている事がとても残念に思います
私もわかってないところ沢山あるけど
今までの宮崎駿作品だってわからないところ沢山あったのにこの作品ばかり指摘されることに疑問
わかるより、感じろ。です。
それなりに楽しかった
ネタバレ含むけどいいすかね?ストーリー難解。宵の国?と現世、時空を超えた場所に繋がる洋館。取敢えずアオサギは名前の通り詐欺か!って言うビジュアルでした(笑)もうね、色んなジブリ作品がオマージュされてる様な映像・キャラクター・シーンのオンパレード。シン・ジブリって誰か言ってたけど、言い得て妙だと思います。ロリコン出てこない宮崎駿作品?と思ったけどちゃっかり出てきます。でも子供向けじゃないなぁ。全然子供喜ばないと思う。あ、そうだ。ジブリ作品オマージュだけどルパンVS人造人間とかのオマージュも存分にあります。映像もいつものジブリとは違うテイスト沢山入ってて、一瞬宮崎作品である事を忘れますね。物語の始まりが戦時中である必要がどこにあったんだろう?とか、時系列がちょいと複雑でしっかり整理していかないと無理がある。米津氏の歌は確かに素晴らしいが、逆に庵野氏の匂いがプンプンしてくる。キムタクの声、ダメ。大竹しのぶ氏達の声は素晴らしいので余計に残念。ここまで読んでくれた人は評価が両極端な事が分かってくれると思います。ジブリ全部見てる人はこのシーンは●●のオマージュだ!このキャラクターは荒地の魔女と湯婆場だ!見たいな感じで2時間楽しんで下さい笑
いつかこの映画を振り返りえる事があるのかな
宮崎さんが引退を撤回して長編に挑むと聞いた時には、不安しかありませんでした。ジブリは解散状態だし、監督もお齢だし、しかも原作が「君たちはどう生きるのか」(当時は原作と聞いていた)とは余りに売れ筋を外した路線。本当に完成するのか、完成したとして、説教くさい映画を、鈴木さんお得意の宣伝ガンガンでヒットさせて、がっかりさせられる人を大勢生むのではないか。そんな不安でした。
ですから一切宣伝をしないというのは驚きでした。恐らく監督の、事前情報なしで映画を見てそれぞれに考えて欲しい、という意図だと思います。鈴木さんは本当は宣伝したかったかも知れませんが、映画の脚本で「色々あったけど、あんたは俺の友達だよ」なんて言われたら、好きにさせちゃろうと思ったのかも知れませんね。
今も書いたように、あのキャラは誰、このものは何を意味していると想像するのも楽しみ方の一つと思います。しかしそういう分析的な見方では無く、イギリス児童文学的な不思議な世界観と成長物語に浸るというのも良いかも知れません。
事前の不安は半分当たりで半分外れでした。全体としては、最高とは言い難い出来ながら、所々にはっとするシーン(冒頭とか)があり、あの年での映画の作り方として、工夫した結果だと思います。
「君たちはどう生きるのか」。宮崎さんが子供のころに読んで感銘を受けた本なのでしょう。監督の「俺はかつてそう問われ、こう生きてきたぞ」とでも言いたいようなストーリー、(リトルニモ含めた)セルフオマージュのオンパレードでした。年を取ってから、かつて「君たちはどう生きるのか」と問われたことを思い返して欲しい。そんなメッセージと受け取りました。
最後ですが、うちの奥さんは鳥恐怖症なので、ちょっとお勧め出来ないなと思いました。(何を考えているのか分からない目が怖いんだって。この映画を見て納得。)
賛否両論
主人と、小学生の娘二人と観ました。
下の娘には退屈な二時間であった様です。(誰が観ても分かりやすい映画を好む主人も同じく。)
くすりと笑える&ワクワクする要素もあまり無いですし、説明が皆無なので小さい子供や低学年には不向きでしょうか…。
一方、上の娘は、何度も涙を流していていました。
「途中、吉野源三郎さんの原作とは、全く違うな…と思ったら、観終わった後、初めて吉野源三郎さんの君たちはどう生きるかを読み終わった時と感じたことが一緒だったからビックリした。
(娘は吉野源三郎さんの君たちはどう生きるかの大ファンで、去年、読書感想文も同作にして、この一年で何十回も読み返している経緯があります)
色々な思いで胸が苦しくて切ない…」
と。
間も無く思春期を迎える娘には心揺さぶられ、感じるものがあった様です。
この映画の感想を敢えて一言でまとめるなら、
「私は正直に自分軸で生きたい」
だそうです。
そして私の感想ですが…
多くは語りませんが、映画を観てこんなに泣いたのは、何年振りだろう。
映画としては、少し荒い部分が要所要所でありました。ですが、宮崎監督、最後の作品だとしたら、
個人的には、風立ちぬより相応しいと思えた作品でした。
(風立ちぬも素晴らしかったですが。)
またすぐ観たいです。
なぜパロディまみれだったのか
わざとである。
「どっかで見たキャラ」「どっかで見た演出」「どっかで見たアングル」が大量に散りばめられており、「ジブリあるある」を自分でやってるような映画である。
最初は「ネタが尽きたか。自分の過去作品からアイデア拾ってくるとは」と思うかもしれないが、もしこのセルフパロディ要素が全て「わざと」だとすると妙に辻褄が合う。
おそらくハヤオは「ジブリあるある」をこの映画で意図的にやっている。
その中を旅させることでこの世界(ジブリ)は厳しい現実から一時的に逃れるための虚構であったと、ある種の自己否定をしている。
ただそれだけではなく、ジブリを見て育った我々や影響を受けた次の世代のアニメ監督などの「確かな存在」に対して石(意思)を託し、「現実と向き合い自らの意思で考えよ」「次に目を向けよ」と背中を押しているのだ。
つまりこれは「ジブリを見てきた君たちはどう生きるか」が本当のタイトルだったというわけである。
「やがて忘れるだろう。じゃあな、トモダチ」
エンドクレジットの「助監督 片山一良」の文字を見て・・・
【以下、制作体制に関する公式の発表がされていない状態での憶測であることを自覚しつつ、あえて断言する】
エンドクレジットの「助監督 片山一良」の文字を見て、映画監督・宮崎駿が死んだことを確信し涙することのみが、真に宮崎駿を愛した者のとるべき唯一の振舞いである。
「君たちはどう生きるか」と題された2時間余分のアニメ映画を監督したのは、宮崎駿ではない。
実質的な監督は、助監督とクレジットされた片山一良さんである。
このアニメ映画には、宮崎駿が手をかけた痕跡が殆どない。
宮崎さんは、レイアウトをチェックしていない。
芝居の内容もチェックしていない。
色彩の設計も投げている。
撮影処理やカットのタイミングの指示も出していない。
アニメの演出家の第一の仕事である、作打ち、色打ち、撮打ち、恐らくは美打ちも、自ら行っていないということである。
部分的には絵コンテすらも人に任せている可能性がある。
宮崎さんが確実に手を下した領域は、大方の絵コンテとイメージボード、絵作りが終了した後のポストプロダクション(アフレコ、音楽、音響)である。
宮崎駿の過去作の制作体制はもちろん、一般的なアニメ制作と比較しても、このような関わり方をした人間を演出=監督とクレジットすることは、一種の詐称である。
このような体制になった経緯、及び現在の宮崎駿の状態については、いくつかの可能性が予測される。
1度目の鑑賞中、宮崎駿は制作の序盤で死んでしまったのではないか、という疑念が脳裏に浮かんだ。
2度目を観終えた今もその可能性を捨てきれず、5%ほどを占めて残っている。
宮崎駿は冒頭20分の絵コンテを切り、全体のイメージボードを描いたところで死んでしまった。
プロデューサー鈴木敏夫は未完成のその作品を、旧交のある片山一良、及び宮崎吾郎、米林宏昌らの共同演出によって制作し、宮崎駿の死を秘匿することを決意する。
未完の映画を託された演出家たちは、宮崎駿になりきろうと宮崎の監督した過去作、更にはアニメーター時代の宮崎が担当したパートを律儀に勉強し直し、宮崎駿が思い描いたであろう映像を考えて絵コンテを描き、演出する。
しかし、残されたイメージボードの断片を繋げてはみるが、シーンとシーンの間に説話的持続が生まれない。
「長靴をはいた猫」や「どうぶつ宝島」の宮崎パートを引用しても、真似事の虚しさが漂うばかりだ。
凡才の物真似が帰結するのは、宮崎駿の抜け殻のような映像でしかなかった。
しかし公開前後に宮崎駿の直近のコメントがサイン入りで公表されているのをみると、どうやら宮崎さんは死んではいないらしい。
次点で思いつくのは、製作途中で宮崎さんは大病を患い、絵コンテを描くことすら不可能な状態に陥った可能性である。これが15%ほどを占める。
小説「君たちはどう生きるか」の著者・吉野源三郎の孫にあたるライターが、自身の招待された関係者試写に宮崎駿が欠席していたことを記事に記していることも、宮崎さんが病床に伏せている可能性を想起させる。
或いは、病気ではないが体力面の問題で、以前のように作画の修正を乗せることが不可能であることを自覚したために、自ら描いた絵コンテを後身の演出に丸投げするスタイルに振り切った可能性もある。
レイアウトを見ると自分で手を入れたくなってしまうので、作画を本田雄に一任するに止まらず、それをチェックする演出家を別に立ててしまったわけだ。
鈴木敏夫は、宮崎さんが既に次回作を構想していると公表しており、それを敷衍した岡田斗司夫は、このスタイルを次回以降も採用することで、ジブリは今後量産体制に入るとの予測を立てている。この可能性が最も現実的で60%ほど。
逆に、後進に演出を任せた今作の出来に怒り狂った宮崎さんが、やはり自身で全てをコントロールするしかないと、従来のスタイルに戻して次回作を手掛けようとしている可能性、これが案外しっくり来て、一縷の望みも相俟って、一番イメージしやすい想定である。
これが残り20%。
というわけで、上記の予測で行くと、80%の確率で映画監督としての宮崎駿の寿命は尽きているわけである。
本作を褒めている人はもちろん、貶している人すらも、本作を宮崎駿が監督していると想定している時点で大いに間違っている。
宮崎さんを真に愛した者であれば、「君たちはどう生きるか」の中に映画監督・宮崎駿の死を直感し、追悼の念を込めて涙しなければならない。
不思議の国のアリス(ナツコさん)を助けに行くお兄ちゃんの成長物語
不思議の国のアリスのオマージュだと思う場面がちらほら。
ならば、アリス役はマヒトのように思えるがたぶん違う。
ナツコさんは作中で誰に呼ばれたか明白になっていないが物語の作りから姉であるヒサ子が戻って来てくれる事を願い搭にいき、不思議な国に迷いこんだと思われる。
助けにいったマヒトが冒険の中で成長し、ヒサ子さんを思いやる事ができ、お義母さん呼びができるようになり、現実に向き合えるようになった、という話なのだろうと思う。
だが、この現実に向き合えるようになるというのは言うは易いが成すのは難しい。
日本が大敗してその時の東京は焼け野原。何もないところのスタートだ。
魔法使いの大おじからの積み木もない。むしろ帰らない選択しもあったかもしれない。しかし、そんな所へなぜマヒトは戻ったのか。
自分より大人のはずのナツコさんをマヒトは躊躇なく助けに行ったのはなぜか。
ナツコさんが妊娠しているからだ。
赤ちゃんについての言及はなかったがナツコさん=妊婦=家族の新しい命がある。
腹違いの下の子だ。
名前を出さない時点で複雑な気持ちがあるのは、想像するに余りある。
マヒトはそれでも現実に帰ることを選ぶ大人に冒険を通じて成長した。そんな話だと思った。
眠いから大味の感想まとめ。また編集するかも
田舎•森•海•塔そして迷宮•••世界がどうなるかは••
まあ、ひどい言われようです。。(期待と違ったからってお金と時間の無駄遣いは言うなら、ただの悪口みたいな評価に時間を費やすのはどうなの?って)
自分が期待していたのは、昭和10年代頃の日本の元風景だっただけに、不思議の国のアリスのような西洋風な風景が散見されることにまず、がっかりしました。自分の印象では「ハウル」の範疇にはいるかなぁ。
これは、きっと子ども向けとは言えない「風立ちぬ」のカウンターなのでしょう。
ただ、今作が子ども向けかというとそれもまた違うような。
とにかくもっとシンプルにストイックに軸がぶれずに「物語」を進めてほしかったというのが個人的な感想です。ベクトルがあちこちに散らかってしまったような。。
ストイックにというのは、こちらが勝手に描いている監督には「日本の自然」をノスタルジックに描いてほしいという思いから遠くはなれてしまったからです。むしろ、水や光の色を巧みに表現しつつ、日本古来の伝統をエッセンスに交えた世界観を描く次世代の監督作品から逆にインスパイアされて迷宮入りしてしまったんじゃないかと邪推すら覚えた次第です。
ゆっくりと流れる序盤に予想されるような戦争後の田舎を素朴に描いただけでよかった。いくつものシーンがこれまでの総決算的なものに見えてしまうのです。
もっと、足下の物語が欲しかった。まぁこれは個人の趣味なんですけど。
監督がこの世に未練なく「後継者」として託せる次世代を見つけることを求められる要素(ハウルにも感じた)が垣間見得ることに共感できる視聴者もいれば、私のように個人的な事情を商業ベースに乗せたことに対して興ざめする者もいることでしょう。何も世界をすくう必要なんてないのにって思うんです。
キャラクター表現については、取り上げるとすれば、、
いくつもの象徴を掘り下げることはなしとして、自分は主人公が喧嘩のあと自身で傷をつけたこと、多くの朗らかなばあやの最後尾に唯一人背筋のシャンとしたキリコさんがタバコを嗜み、料理上手で逞しい人柄に魅力を感じました。
今際の際にある夏子さんが「呪い」を宿したような表情に違和感を感じた人もいるのではないでしょうか?あの時の夏子さんには、今敏風のキャラクターが見えた気がします。これまでの「怖い」モノを不気味ではあっても、怖く描かないできたはずなのに「あれっ?」って。。
あと、声優に関しては、あいみょん(個人的に好き)は流石に違うだろって思いました。(泣き叫ぶ声) もののけ姫の声以来、制作側?(監督とは言わない)の趣味の一貫だと理解したいところです。人の暖かさを描くジブリ作品に「甲高いヒステリックな声」はふさわしくないというのが私の見解なので。
そう言う意味では、他に上がる声優人にも違和感はありませんでした。キムタクはすぐ分かったけど、ハウル同様、我をださずに上手に演じていたし、菅田将暉もはまっていたと思います。(勝手に)
本来は、制作の背景やこれまでの作品を踏まえず中身そのもののレビューをすべきだと思っていて、ネタバレも控えたいし、悪評をわざわざ書くのもどうかと思っていたのですが、わざわざ揶揄するための言葉を探す論評があまりに多く、情けないなと思います。
それこそ、作品内の皮肉の対象(インコ)に身を窶してるようなもんだなと。
意味が分かれば意味分かる
おそらく宮崎駿の最終作品
100年200年たっても名前が上がるような監督と同じ時代に生きてた事や
子供の時から大人になった後も充分アニメ映画を楽しませてくれた事に感謝。
今回は分かりやすいラピュタとは違って一般人に向けて作られていないという印象
では誰に向けて作ったのだろうか?
おそらくは本当のアニメ関係者や業界人へ向けて作った遺言じゃないだろうかと思えた。
エンドロールに総務部や財務部の名前まで出しているのもそういう事だろう 関係者や業界の人の為に向けて作られているのが強い。
・不思議な世界を産み出した大叔父は宮崎駿または高畑勲だろうとは感じる
世界を作り続けて来たが業界自体に限界を感じている
新しい担い手に自分の世界の後を次いで貰いたかったが 次の世代に全てを任せる事に決めた 完全引退宣言
不思議な世界に繋がる塔の声が聞こえるのは『血筋を引いた人』だけ
・血筋を引くのは少年 つまり宮崎駿や高畑勲の弟子筋
少年は戦闘機を見て美しいと言ったりしているので、宮崎駿本人も投影されている気もするが
自傷したりしていたり言葉数の少なさも庵野秀明を色濃く連想させるが
ジブリを引き継ぐ事はせず 自分の世界を進む事を選んだ
・アオサギは鈴木俊夫そのものだろう
人を誘い込んで 騙して 嘘ばかりつく冷酷なプロデューサーだが
そういう人間も綺麗事だけじゃない業界では必要であり、友人だと言うこと
近年 鈴木俊夫は 庵野秀明にべったりでなんとか取り込もうと必死だった所も共通している
・不思議な世界の中で浮かび上がる事を夢を見てるが実際は地獄を見せられているペリカンは堕ちたアニメーターやアニメ製作関係者
(彼らも本来はまっとうな事をしたかったが、純真無垢なホワホワ?を食い物にしないと生きていけない)
ペリカン達は【俺たちは作られた】と嘆いているが
『我を学ぶ者は死ぬ』という代物に殺到していた
宮崎駿のインタビューでも言っているが
『アニメ製作は自分や他人を傷つけ、磨り減らす。
私も若い才能を何人も殺してきた』と言っている
ペリカン達はアニメ制作をしたい!と望んでしまった人達の成功を掴めなかった多くの人達だろう
アニメの世界に縛られながら 本望でも無いことをさせられ続けている
・インコはアニオタやその界隈か
不思議な世界(アニメの世界)にインコをたくさん連れてきたのは大叔父だが増えすぎてしまったという。
増えすぎたインコは 世界を製作者から奪って自分達の都合の良いものに変えようとしており これは2次創作作家やその手の業界なども含んでいると思う。
『インコは子供を食べられない』というのは
コミケ作家やいわゆる萌え豚と呼ばれる界隈でも唯一 手を出していけない物が法に触れる児童ポルノなので、インコがそういう界隈のメタファーなのはほぼ間違いないかとは思う。
正しく言えばアニメという【技法】を愛している訳ではなく、自分の性処理や疑似恋愛の欲求を満たすためにキャラクターや作品をポルノに改変・消費する界隈の人達
・キリコさんはおそらく宮崎駿と二人三脚だったジブリの名物女性スタッフだった人だろうと思うが
分からなかったのは母親とナツコ母が どういう事のメタファーだったのか良く分からなかった
少し話がそれるが【京アニ事件とペリカンの死因】が酷似している。
純真なホワホワ(少年少女)を食い物としているペリカン(アニメ製作者)は火に焼かれて死ぬ。
これだけでは、かなり辛辣なメッセージに見えるが
病院で新しい命(作品)を身ごもっていたであろう母親も火に焼かれて死んでいる。
火で巻かれて死ぬことより産み出せることが素敵だと別れ際に母親は言う
宮崎駿はいわゆる商業アニメを毛嫌いしているものの、当事者達の物を作りたいという気持ちや気概は否定しきれなかったのではないかと見えた。
京アニ事件の犠牲者にはアニメ会のベテラン、ジブリに縁深いアニメーターも亡くなっているのだ。
●この映画はストーリーラインがグニャグニャしており どこが本筋なのか不明。
明確なメッセージがあるわけじゃなく
今のアニメ業界を投影・比喩・描写した パッチワーク的なポエム作品なんじゃないかと思う
業界関係者達に
僕達が好きだった業界はこんなになっちゃったけど、どうすんの?
殺しあいながら犠牲を出してやってくの?
やってくんだね? 頑張ってね!
というただの遺言だと思う
後は制作時期がコロナだったのも大きいと思われる。
コロナは戦争そのものだと良く言われるが ガラリと変わった価値観や社会の先で、これからの人達はどう生きていくのだろうという宮崎駿の単純な疑問がタイトルになっている。
戦争が終わり現実に返されて映画は終わる
※アニメ視聴者を現実に帰らせて終わらせる という終わり方は高畑勲イズムだが、庵野秀明も最後のエヴァで継承していた。宮崎駿もそれに倣ったのだと思える
ーーーー
作品の感想
◆私的な考えを言うならば 宮崎駿 本人の総括は風立ちぬで完成していたにも関わらず
今作を作った理由は やり残したこと=先輩が認めてくれる作品を作りきれてなかった点にあると感じる。
表の話に裏の設定をつけるのではなく
裏に話のラインを引いて、それを隠すように表にストーリーを乗せる、この形は高畑勲の傑作【かぐや姫】を強く意識している。
かぐや姫は水彩画のような手法が凄いと言われることが多いが、全くもってソコではない。
それは綺麗な包み紙を見て【凄い綺麗な作品だね】と中身を見もしないで言っているに等しい
かぐや姫のアイデアは並の作家では指の先すら届かないウルトラCのアイデアだった。
(高畑監督がかぐや姫で何をやろうとしていたかは、別のレビューを読んでいただきたい)
後輩の宮崎駿は高畑の遺作となった かぐや姫で作家としての文学的力量とアーティストとしての姿勢にコンプレックスを植え付けられたはずだ。
魔女の宅急便で高畑から叱責を受けた後は明らかに作風は変わり、かぐや姫の後 高畑が亡くなってからは更に文学やアートとして深みを持たせたアニメに傾倒していっているのも明らかだった。
宮崎駿も見た目だけの作品を作る人間ではないのだが、高畑にはとうとう認めてもらえないままお別れすることになってしまった。
そんな彼が最後にやりたかったのが亡くなった先輩が喜びそうな作品、先輩にまたあーだこーだ言われそうな文学的・芸術的なアプローチに挑戦したという事が実に泣ける師弟愛なのである。
大人であれば好き嫌いは別に楽しむことは出きる
子供は大人になった時に見返して楽しめれば良い
混ざり合う世界の中で
生と死
国と国
現在と過去
さまざまな世界でそれぞれの常識がある。
死の世界での殺生の可否や、人を食べるインコの世界など。
違う世界で生きていた人が他の世界に入り込んだとき、常識の違いや価値観の違いなど必ずずれが生じてしまう
インコの世界に入ってしまったまひとや、死の世界でわらわらを食べることになったペリカンなど
そして少しずつ生まれたズレがやがて大きな破壊を引き起こす
それはどんなに大切にしていたとしても一瞬で崩れ去る
守られていた均衡もズレによって導かれた、誰かの大きなたったの一手で。
それは国同士の戦争や生から死への一手かもしれない
そんな世界で、君たちはどう生きるのか
というような解釈で見ていたが、やはり甘かったように思う
宮崎駿監督と登場人物との関連性の考察をみてなるほどと思いました。
傑作!
最高でした。少し長文になってしまいますが、感想と解説、、というほどのものでもないですがそれを少し吐き出させてもらおうと思います。
まず、第一に本当に面白かった。ストーリーが全く分からなくても美しく躍動感のある映像が私たちを楽しませてくれる。前半は好奇心を煽り、「もっとよく見せろ!」と叫びたくなります。それが中盤になると一変、何もかもを曝け出した素晴らしい冒険の数々が押し寄せてくる。説教くささは殆どありません。私たちに一瞬の休む隙も与えず、まるで急上昇と急降下を繰り返すジェットコースターのように楽しませてくれます。
そして第二に本作の前半から中盤に渡る本筋でもある眞人と母親について。この映画の前半から中盤における本筋は簡単に言ってしまえば主人公の眞人が実の母の死を受容し供養して、夏子お母さんの愛情を受け止めるという話です。夏子お母さんは最初に会った時から主人公に一心に愛情を注いでいます。眞人のことを愛する姉の子供で自分の子供とも捉えている。これは前半の夏子を注意深く観ていれば確かなことで寝顔を愛おしそうに見つめていたり(眞人を憎んでいたり嫉妬していたら寝顔を見てあんなに愛おしそうな表情はできない)、わざわざ食事を作ってあげている(悪阻で寝込んだ後のご飯が美味しくないのは夏子が今まではご飯を作ってくれていたから、父親を好いているだけの女であれば眞人と同じ食事を共有したくないので二人で外で食事をするはず)。その後塔の中に入りますが最初、塔に入った第一の目的は母親が本当に死んでいることを確かめるためでした。しかし、母親がどろどろに溶ける姿を見て母親が死んだという事実を受け止めます。そこからは目的がお父さんの好きな人(夏子お母さん)を探すことに変わりますが依然として実の母親に対する気持ちは残っている。しかし、ヒミに殺されたペリカンと話し、ペリカンを土に埋めることで母親の供養をして母の死を乗り越えます。その後、ヒミに連れられて夏子お母さんと会いますが、夏子は眞人に「大嫌い」と言います。しかし眞人は髪を振り乱し、鬼のような形相を曝け出した本心でも夏子が眞人のことを大切に思っているということに気づき夏子を母として受け入れます。
最後に本作の設定や中盤から後半に渡る本筋である宮崎駿と宮崎吾朗について。まず、この大叔父様というのは宮崎駿を、眞人は宮崎駿の息子、宮崎吾朗を、そしてこの塔はスタジオジブリを暗喩しています。大叔父様は塔を作りその中で自分の創作世界を必死に守っていますがこれに限界を感じ、血縁である次世代の有望な若者である眞人にこれを継いでくれと頼みます。しかし無情にもこれを断られ自分の創作世界の核である積み木をインコの王様(スタジオジブリの人間)に壊されます。大叔父様にとっては塔の中こそが世界の全てで「積み木が崩れると世界が壊れる」なんて言いますがそんなことは全くなくただの脅しに過ぎなかった。塔を出ると眞人が隠喩するものは一転、我々観客に移り変わり、宮崎駿とともに崩れ去った塔からはたくさんのスタジオジブリの人間が飛び出して私たちに糞を引っ掛けて多大な迷惑をかけてきます。それでも大衆はインコ(スタジオジブリの人たちの作品)を見て綺麗ねという。しかも最後には宮崎駿が私達に積み木を渡してきて「そのうち俺を忘れることはわかってる、しかしどうか俺のこと忘れないでくれ」と言ってくる。誠に勝手で滑稽で面白い。
最後の本筋がわからないと話が終わったのにダラダラと続いているように感じるかもしれませんが、実際には終盤は宮崎駿の悪あがきが見れて非常に痛快です。
宮崎駿流ホラー&ハウルの声に一途な純愛を求めるならNG
まず、宮崎駿がホラー映画に挑戦したらこんな感じ。ワラワラというマスコットキャラが唯一可愛いものの、ススワタリやこだまのような単純なのに唯一無二で独創的なデザイン性は皆無で何かのCMで見たような何番煎じもされた造形でがっかり。なにより、他の人外キャラクターが総じて気持ち悪くてホラーを過剰演出してばかりで、画面を見ていると具合が悪くなります。まあ、ホラーなら仕方ないことです、エクソシストやムカデ人間とかもあの気持ち悪さが魅力なので。ただ、私はホラーを見に行ったつもりではなかったので、ハマらなかったです。
また、2人の女性を愛するキャラクターにハウルの声優である木村拓哉さんを起用したのはなんの意図でしょうか? 木村拓哉さんは声優さんではないのもあり、やはりハウルと同じ声に聞こえます。なので、ジブリでは一途なキャラクターを演じてほしい個人的希望がある人にはしんどいかもです。不倫とかではないし時代背景の問題ですが、姉妹で同じ男性に嫁ぐのを現代の純愛モノを楽しむ感覚で楽しむのは無理なので、時代モノだと割り切れる必要があります。
母を失い父が再婚するというデリケートな状態の未成年男子に突然自分の腹を触らせてあなたの兄弟ができるんだぞ受け入れろと迫る継母は私の価値観では好きになれませんでした。主人公はなぜおかあさんと呼べるようになったんでしょう?
そして、異世界では謎の石と契約すると現実の平和の均衡を保つ役目がその血族に与えられるという設定が唐突すぎて意味がわかりませんでした。新海誠のすずめの戸締まりの閉じ師と似たような存在ですが、閉じ師もなぜ閉じられるのかよくわかりませんでしたが、石と契約して云々はさらにまったくわかりませんでした。石の気まぐれなんでしょうか。
そこで、これは宮崎駿の生み出したジブリ13作品を基盤としたジブリと宮崎駿の自叙伝だと思うとたしかに解釈できます。
だけど、それなら見に行きませんでした。
少年の冒険活劇だから見に行ったのであり、宮崎駿の自叙伝なら見ませんでした。
また、この映画のテーマの1つである“1人の男性を愛してしまう姉妹、その子どもと破れた方の姉妹(つまり叔母)の関係、葛藤” も、現在公開中の「アイスクリームフィーバー」の方がよほど納得できました。
なので、この評価で失礼します。
『死の島』をはじめとする、数々の絵画のモチーフは好きですが、それなら美術展に行きますし。
宮崎駿の自叙伝を見たい方には星5の映画だと思います。
理解できた上でお金返して欲しい
ジブリ、宮崎駿、これらのワードを取り除いて映画と向き合っていただきたい。いったい、これ、何が面白いの。面白くないよなって話題にするために、俺はお金を支払ったのか…逆であってほしかった。とにかく不快。
世論への考え→①理解できるできないで面白いは決まるのは確実。こうやって話題にでてるわけだし。決まらないならまず論争にならない。②想像する、自分なりの解釈ができる映画→別にどの映画でもそうですけど?なんか"特別"が強くて笑える。③これはアート→知らんがな。こちとら総合芸術見に来てるんすけど。美術館でやってくれ〜。
ただ前情報なしで映画鑑賞できたのはよかった。でもそれは、この映画じゃなくてもできることだな。
子供向けではありません。
タイトル通り、お話の導入までの下積みが長く、またキャラクターや背景をそのまま受け取れないハイコンテクストな作品ですので、子供向けではありませんでした。
少なくとも、寝る前に読み聞かせていた絵本を勝手に読み進めてしまうとか、小説や物語を貪るように読むような子でないと厳しいと思います。
以下、ネタバレを含みます。
初見なのでキャラクターや背景が何を表しているのか、まだ掴めていない部分もありますが、少なくとも大叔父は宮崎駿自身で、隕石は想像力、積み木は宮崎駿自身が作り上げてきた映画、もしくはスタジオジブリではないかと思います。
塔の中の世界は宮崎さん自身(大叔父)がかつて美しいと感じて取り入れた物(海、帆船、鳥たち、魚たち、青鷺、ヒミ、キリコなど)を表しており、時間が経つにつれて自分の悪意や美意識と現実の捩れの影響を得てしまうのではないか、と解釈しました。
キリコは大叔父が見染めたんでしょうか、可愛らしい上等な(奉公に来る女の子には買えない)ワンピースが吊るされているそうです。
キリコやヒミが成長していないところを見ると、一度塔の中に取り込まれるとイメージ体だけが塔の中の世界を保つために取り残されるのかな、という風に考えています。
さらに言うと、本体が再度取り込まれるとイメージ体の、大叔父が美しいと感じ時の姿のまま動くことになるのではないか?とも思いました。
ラストで母であるヒミとキリコが元の時代に戻っていくシーンが?でしたが、本体がイメージ体として動いているので、本体を取り込んだ時期に戻してやらないと戻れないのだと思います。
インコ人間が楽園のセキセイインコを見て「ご先祖様」と言っていましたが、楽園が世界を生み出す場所なのだとしたら、世界はイメージ体が解き放たれる場所なのでしょうか。
青鷺はどういう存在なのか、インコたちは何を表しているのかなど、疑問が尽きませんので、もう一回見てこようと思います。
映画における要素の重要性
一切の情報を明かさず公開して賛否両論が渦巻く中での鑑賞。
物語は眞人という少年が地獄に迷い込む話、みたいなのが簡潔な物語のあらすじだ。
全て観て、大変驚いた。
伏線を全て回収せずに謎を謎のまま終わらせたのだ。
よく映画の中には「これはあなた達が考えて下さい」と投げ、皆が考察するみたいなものがあるが、これはマジで何にも言いようがない。
いろんな魅力的なキャラもいる。
だが、物語としてあまりにも破綻しすぎている。
これに★5を付ける人は、ジブリと宮崎駿というブランドを過大評価しただけだと思う。
しかし衝動的な感覚だけかもしれないので、今の状態ではこの評価。
難しい。
【生と死】【あの世とこの世】壮大な宇宙観の物語
◎ストーリー
戦時中、母を火災で亡くし、父の再婚を機に2人で継母・夏子の実家でもある立派な屋敷で暮らすことになる。ここは母の生まれ育った屋敷でもあった。真人が屋敷にやってきた時から不思議な出来事が度々起きるようになる。ある日、夏子が敷地内の森の中から帰って来なくなった。真人は、アオサギの仕業だと感じ、夏子の大叔父が建てたと言われる敷地内の不気味な塔に入り、夏子を探しに行く──。
その塔はあらゆる世界、宇宙を繋ぐ不思議な塔で、そこから真人の摩訶不思議な冒険が始まる。
◎感想
死の世界、動物との共存などのテーマを散りばめた宮崎駿らしい作品である。『千と千尋の物語』をはじめ、他の宮崎駿作品とも通ずるところが……。時間を忘れて夢中で見てしまった。だけど、見終わった後の余韻や高揚感は、過去作品と比べると劣る気がする。今作の評価が分かれる理由の一つに、スピリチュアル要素が大きく関係しているのではないだろうか。スピリチュアルや輪廻転生、あの世この世の話が嫌いな人にとっては、訳の分からん物語、あるいは白けてしまうかもしれない。だけど私のように、目に見えない世界を信じている人、興味関心のある人にとっては、とてもワクワクする世界観になっている。
そして、“君たちはどう生きるか”。
これからの未来を生きる若者へ──。というタイトルには、世界は君たちの手によって作られていくというメッセージが。平和な世界にするのも、不安定な世界にすることも君たちの手にかかっているのだと。
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⭐️⭐️以下ネタバレのレビューと考察⭐️⭐️
義母の夏子と真人の実の母は姉妹だったということだろうねど、真人にとっては複雑だっただろう……。
黄泉の国で出会う、火を魔法を使う女の子は実の母がの幼い頃の姿だったということか……!?
真人の窮地に彼女が現れ真人を助ける。そして、最後のシーンのセリフではハッキリとそのことを口にしている。
キリコさんはあの仕様人のお婆さんの生まれ変わる前の姿?
白いモフモフした物体(名前なんだっけ?)が、これから生を受ける人たちというのもなんだか感慨深い。
ちょっと謎が多かったり、話の筋が合わないことも多かったので★4つですが、それでも宮崎氏の強いメッセージ性を感じました。
ラストメッセージ
今伝えなければならない想いを最後に全部詰め込んでくれた。
そのメッセージをどれだけ受け止められるかで評価が分かれる作品。
まだまだ描きたい、伝えたい事がある中で抗えない老い。後継者の難しさ。残る世界の危うさへの不安。現実問題をも投影した宮崎駿の集大成としては最高傑作だと個人的には感じました。
印象的だったのは鳥たちの描き方。
欲を持てば人間のように醜くなり飛ぶことも出来ない。元の姿になれば自由に空を飛べるが糞を撒き散らす。
美しさと汚れと儚さこそが生命。
生命への畏敬の念が宮崎駿作品全体のテーマだった気がします。
終盤のセリフと描写には宮崎駿の想いが詰まっています。
主題歌も良かったです。
もう彼の作品が見れないと思うと切なくて自然と涙が出ます。
想いを引き継いで行きましょう、皆で
ジャムパンのシーンに感じ入った。
宮崎駿監督は、ちゃんと汚いものは汚く、臭いものは臭く描くのが好きですね。千と千尋の神隠しに近いがあれほどエンタメしてなくてメッセージ性が強いと思います。
眞人は自傷も厭わないし、自分を汚物で汚すことも厭わない、あるいは何者かを殺傷することも厭わない。それだけ母の死が大きく自分をないがしろにした自暴自棄。
夏子は夏子で眞人の最も信頼ある人物、彼の父の様に裕福さや安心の暮らしを眞人にアピールして受け入れられたいのに、そもそも眞人は母そっくりな姿で現れた挙げ句父の様に振る舞い、母の愛した男と愛し合う夏子に心を開けない。
眞人には自分がやってる事への罪悪感が確かにあるのに意固地で表に出せない。これ見よがしに自傷して父に甘えても夏子は拒絶する。戦時中にしてはあり得ない位恵まれた生活を送れているのにそれも態度で反発する食事シーン。それでも眞人と何とか分かり合いたい夏子への酷いお見舞い。そこに垣間見える子供の未熟さ。
その結果として、あの世界に閉じ籠った夏子の吐き出した本音は眞人が初めて生で触れた己の罪深さそのもの。ここではまだ罪悪感や贖罪から夏子を母と叫ぶ。夏子は大人で、眞人へ酷い本音をぶつけた自分に思わずハッとして、何とか弱った心で姉の声に応えようとするところが私は好きですね。
あの世界で、人に助けられなければまともに生きることも出来ない眞人が己の小ささを思い知りながら周囲の人達の愛に気付きながら、自分を破壊して再誕させる物語に感じられました。夏子も眞人とは違う形で自身を再誕させている。
あの汚ならしいジャムパンの食べ方、母を相手に子供の純真な幼さがよみがえったんでしょうね。それにあの時、我が子へ口を拭うものを母が差し出してました。あれは眞人と夏子への愛に溢れるシーンなんだと思ってます。
あれ最後のシーンで夏子も眞人もインコの糞まみれになったのに、次の瞬間顔がキレイだったのは、母の愛と同じく拭ったんですよ、母から貰った愛を同じく母である夏子に返した事で親子になれたシーン。ここに生きてたシーンだと勝手に思ってます、あの汚ならしいジャムパンのシーンw
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