君たちはどう生きるかのレビュー・感想・評価
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事前情報0で観た
米津さんが曲を担当している以外事前情報なしの状態で観ました。
開始3秒くらいで“この時代の話か・・・“と正直がっかりしました。
しかし、想像した内容とは異なりこれまでのジブリ作品を彷彿とさせるシーンが盛り込まれた世界観、声優もジブリに携わった事のある方も登場し胸に込み上げるものがありました。
大伯父のセリフ「3日に一個積み上げればいい(※正確には違うかも)」は宮崎駿監督が3年に1度作品を作っていたから、という考察を読んで改めて感動しました。
「君たちはどう生きるか」というセリフ、宮崎駿監督は作品を通しこれまで私たちに監督としての人生を見せてくれていたように感じますし、大伯父のように跡を引き継ぐものが必要だと感じているのかも知れません。エンドロールでは新しい宮崎作品を観れるのはこれで本当に最後かもしれないという想いに苛まれ自然と涙が出ました。
パンフレットが発売したらまた観に行きたいと思います。
それまで色々な方の考察も読みたいと思います。
喪失と受容、命が糧で共生している世界、死生観
めっちゃネタバレしているので、まだ見ていない人は
読まないでください。
生きるとは、命を糧にして他の犠牲の上に生きている、それを日頃意識しているでしょうか。
私はもう人生の折り返し地点を過ぎているので時々己の死や死後を思います…
生きているということは死ぬ存在でもあるという事です。
そして人は他の存在に依存して生きています。
火事から救い出したいと思っていた母を救うこともできず、母にソックリな叔母を母としてその実家の屋敷に移り住む。大好きな母と似ていてでも他人で少しなまめかしくて、手を取られてお腹を触らせられて義母というより、母に似た他人としか思えません。
また叔母が父に後妻に入ると言うよりも…叔母の屋敷に父と入るのは…主人公マヒト目線で見ていると…まるで父を引き込み招き入れた女主の牙城に囲われる様な感覚に陥ります。
マヒトは坊っちゃんのくせに、大勢にボコられた後に自分で大きな傷を作るくらいの知恵があります。奴等と共に行動をしなくて良いという特権を生み出す引きこもりがマヒト。
そう、ここは、
トトロのサツキが…一人っ子の男の子で、
母は生還せず病より酷い火事で亡くなってしまった世界線。
サツキの様に饒舌ではなく、カンタの様にあれやこれや用事を言いつけられたりする田舎の農家の子でもない。おまけに唯一の頼るべき父親の一番は今や後妻になる叔母。
そう、主人公の少年の冒頭目覚めた顔は、アシタカに似た目をしていると思ったけれど…つまりは拠り所を得ていない一人ぼっちの目をしている。(本当は愛され守られているのに。)
パズーのように動くと思ったけど、自律していても、生かされている事に気づいていない目をしている。
多分昔宮崎駿は、女の子のために千と千尋を作ったと言っていたけれど、男の子のためには既にラピュタがあると言っていたけれど、
人との繋がりの中で生きる事を描くために、人との繋がりを拒否して生きている所からスタートさせなくてはいけないと感じて描いた作品なのかもしれません。
火垂るの墓は絶望で終わることにより人に気付きを与えるのですが、宮崎駿は絶望というエンディングではなく、
希望と他者への理解や慈しみを掴み取る冒険活劇を感じてほしかったのではないでしょうか。
セキセイインコ達が包丁を持っていてもどこか可愛らしいというか、悪ではなく、彼らなりの生きる為に行動している様に感じます。
なんだかどこにも悪人はいない、そして、大オジはまるで石に支配されて生きているまるで隠れたところで人を操作している様な気になっている引きこもりの王の様に見えました。
私にはとてもシンプルな映画に見えたのですが、
人によって感じ方は違うのですね。
難解と思う人とはこれまでの生き方がちがうのかな…と思いました。
母は死んだことを苦しんでいなかった、そう思えた事がマヒトにとって大切で、とても母親の存在と最期が子どもにはかけがえのないものだということを感じます。
少なくとも宮崎駿の世代にとってはとても大事でした。親を親ガチャと言われる時代には意味が通じない映画なのかもしれません。
米津が主題歌じゃなければ劇場には来なかったかもしれません。でもとても面白かったです。
タイトルが全てを物語っている
最初のシーンから圧倒された。千尋からポニョからジブリでは登場人物が走る場面が今までにもあったが、一人称視点で描かれたのは初めて見た。街ゆく人は歪み、対して目指す病院の燃え盛る情景は鮮明に目に映る。事前情報の全くない状態でどんなものだろうと考えていたら最初のあの場面で一気に物語に没入させられた。
「ジブリ世界」に行く前、まひとは喧嘩で負け、自分で自分の頭に傷をつけた。彼はどう話したとしても父親が「自分でつけた傷」だと信じず騒ぐであろうとわかった上でそうしたのだ。その傷こそ彼の「弱さ」、「汚さ」の証左であり、大叔父の提案を「自分は汚れているから」と断った所に繋がってくる。
また、ジブリ世界では同じく頭部に傷を持つキリコが登場するが、彼女はその傷について戦ってつけられた傷だとしていて、「強さ」、「勇猛さ」の象徴となっているキリコの傷と、「弱さ」「汚さ」の象徴となっているまひとの傷で対比がされている。
そしてアオサギとは嘘をつかないまひととつくアオサギで対比されている。だが、先述した通り嘘はついていないが「弱さ」が見えるまひとに、アオサギは「弱虫」と煽っている。そしてその後にタイトルの元となった「君たちはどう生きるか」を読んだまひと。まひとはこの本の読前と読後で明らかに行動が変わっている。
この作品はまひとの成長を描いていて、作中で成長したまひとは「弱さ」の象徴である傷を受け入れて、「弱さ」を抱えながら人として現実で生きていくことを選んだ。そんな、1人のまだ青い少年が一人の人として生きていこうとするまでの成長を、一つの例示として描いたのだ。そして、それがタイトルにつながってくる。
「この少年はこのようにしてこの現実で生きていくことを選びました。
さあ、君達はどう生きるか」
もっといい映画はたくさんあります
まずメッセージ性はすごく高いと思います。
各キャラクターが誰を、何を象徴していて、彼らの行動にどういう意味があって、展開、エンディングから監督が伝えたいものは何か。
それを感じたい、考えたい人にとってはとても面白いんじゃないかと思います。
これが漫画や小説だったら私は楽しく読んでいたでしょう。読後感も良いものだったと想像できます。
しかしタイトルの通りこれはアニメ映画であり、わざわざお金を払って劇場で観ていると考えると、私としてはイマイチと言わざるをえません。
開始数分でアシタカは呪われて村を出ましたし、シータは空から降ってきましたし、千尋は名前を失いました。その後の冒険のボリュームとその面白さたるや。
一方で今作の主人公「眞人さん」は、結構お家でグダグダしています。体感、20〜30分でしょうか?もっと?私は辛気臭いという印象を受けました。早く本筋に入れよと。
あとは好みと見方の問題です。
この映画を「冒険活劇」と取るのであれば、この映画はとにかく辛気臭くて、展開とメッセージの出し方が雑です。
冒険活劇はわかりやすいストーリーの裏に、実はそこそこ深いメッセージがある、というものが多いかと思いますが、メッセージが「メッセージ」として結構露骨に描かれている印象でした。もちろん比喩の皮は被ってますが、それが逆に雑さというか、こなれていなさを感じて、私はなんだか悲しい気持ちになりました。
身体が動かなくなったベテランアスリートを見るような感覚でしょうか。。
この映画を「宮崎駿による黙示録」と取るのであれば、お世辞抜きにめちゃくちゃ面白いと思います。特に2回目です。冒頭に書いた通り、いろんなものがいろんなものとして描かれていると思います。
監督の言いたいことはなんだろう?何を表現しているのだろう?
眞人さんのお家での暮らしも、冒険に旅立つまでの過程を丁寧に描いたといえます。
彼の心の動きとは何か。彼の行動や発言が何を表しているのか。
そしてこの映画は何を表しているのか。。
他の方の考察や評価、この映画に至るスタジオジブリと宮崎駿のバックグラウンドを含めて考えるのであればとても面白い作品だと思います。
繰り返しになりますが、これが進めるペースを自分でコントロールできる小説や漫画であれば私は楽しんだと思いますが、これは2時間縛りつけで展開スピードは提供側任せの映画というコンテンツです。
キャラクターの顔も、情景も、音もスピードも、全て決まっている中で、出てきたものに対して私はあまり良い印象を受けませんでした。
同じ条件下で存分に楽しませてもらった他の映画や、私が大好きな過去のジブリ作品と比較したら、「つまらない」という感想になります。
誰にでもわかるエンタメの中に深いメッセージを隠すのがかっこいいと思ってるので、この作品は好きではありません。
メッセージを無理矢理アニメ映画の形に押し込んだようなものでした。
まあ、何を求めるかによります。
考察等々を読んで2回目見れば面白いのではないでしょうか。
うーん
観てすぐの感想
うーんわからない 正直つまらない
序盤の火事のあたりは描写もすごくて良かったけど、
途中から映画というより絵画を見てる気分だった。
要素要素に宮崎駿の人生が詰まってるとは感じたけど、
それがストーリーと結び付かなくて作品としてなにが伝えたいのか分からなくて難しいと感じた。
劇中で主人公が『君たちはどう生きるか』を読むまでと、読んだ後からの描写が本当に違った。
でも、よく考えたらあえてそうしてるとしか思えない。
あの館に入ってから、どんどん物語が分からなく、つまらなくなっていった。
主人公は自分の意志というより周囲に流されてるようにみえるし、
突拍子もなく新しいキャラクターが登場してくるのもよくわからない。
あの世界は壮大な絵画のように美しいのに、単調でつまらなかった。
なんでそう描いたのか、わかるためにもう一度見たい。
*2回目鑑賞したので備忘録
わりとシンプルな話だった気がする!1回目のときは映画に人見知り?してたのかも。スッと入ってきた。
もしかしたら自分が大人になってあれこれ考えながら見てしまってただけで、子供はすぐに理解できるのかも。
読書してからあきらかに主人公が変わってるし、行動力もあった。ごめん。
何度見てもたぶんこの読書のシーンが映画の中で一番好きかもしれないな。
火事のシーンと産小屋のシーンはやっぱり描写がすごくて良い意味でアニメーションを見てるなと感じた。
夏子さんが大っ嫌いと言ったことだけが引っかかってる。夏子さんの言葉というより、真人の言葉だと思った。
直前の会話で真人は夏子さんのことを「母親じゃなくてお父さんが好きな人」って言っていたからこそ「母さん」と呼ぶ変化が心に刺さる。
アオサギは初見はただ怖くて気持ち悪いだけに思えたけど、だんだん愛着がわいてくる。いつのまにか芽生える友情も理屈じゃなくわかるって感じがする。
記憶がある真人に対して、マズいよ。でもどんどん忘れてく。あばよ友達!的なこと言ってたのすごい好きだったし切なかった。忘れちゃうんだ。
ジブリ作品は子供の時におきた不思議なできごとはぜんぶ忘れちゃうことになってるので、自分にも忘れてるだけで不思議な冒険をしたことがあるのかもと思わせてくれる。
冒頭のタイトル『君たちはどう生きるか』が出るシーンで流れる音楽が挿入される箇所に共通点がありそうで気になってる。読書のシーンと、石が崩壊するあたりのシーンで流れてた気がする。
大叔父様は謎なんだけど、あの世界はやっぱり綺麗だった。鳥たちも天国だ〜みたいなこと言ってたし。だからこそ、そんな楽園のような場所じゃなく現実の、戦争が起きてる自分の世界に戻る選択をするのが対比になっているのかな。
綺麗だけど、ひとりで寂しそうだったな叔父様。
真人は友達を作るって言ってた。えらい。友達なんかいらないと思ってただろうに。
あともう1回くらい観ておこうかな。
たぶんファンタジーだって知ってから観たら見え方が違う気もした。
いまの私がみるべき映画だった
今私は2ヶ月前に初めて出産したばかりだ。
とても応援された気持ちになってしまった。
宮崎駿が作ってきた世界は今までとても美しく可愛く強かったが、本当はこんなに不穏で気持ち悪いものだったんだよって提示し続ける。
そのなかでいつも以上に可愛く描かれる、白いわらわらは赤ちゃんの産まれる前の姿だと思った。妊娠初期のとても小さい頃とか。産むまでの葛藤がペリカンに見えた。食べてしまうペリカンにも悩みや正義がある。
いつもなら母性で包んでくれた、母は協力してくれるが少年というかただの人のようだし、完璧なものであるべきとか外から主張するインコはいるけれど、主人公は傷ついていても自分とは違う変な友達がいてそれでいいと言う。そして完全なる世界を変える力はなくたって、みんなその白い欠片は持っているのだ。過去の分岐を変える必要はないと母とババアは言う。
世界と母性と無垢さを美しく書いてきた人が、そうじゃなくてもいいって言うときに、可愛さや綺麗さを残してよかった、美化ではないのしたのは子宮と胎児だけなのかもなぁ。(あの庭は子宮で痛みは陣痛だろう)
現実に戻ったら、外部から小言を言うインコはとても小さく可愛くなっていた。禁忌なあの部屋は生まれる前の生命をいじることだろうか。
次の世代を産む人を励ます映画だった。
いや、まぁ、こう見えちゃったけど、別にそうじゃなくてもよくて、エンドロールで泣いていた私は勇気をもらったので感謝をどこかに書いておかなければとアカウントを作った。
いつか子供にこの映画の意味がわかる人間になって欲しい
レビューをみて心配しながら娘と鑑賞。
結果、最高に面白かった。夏休み中、もう一度家族で観る約束をした。
小説を読む子なら小学生でも理解できる映画。が、昨今の読みやすさに特化したものしか読まない子(我が子)には後妻と母親の関係など直ぐに理解できない場面もあったようだが、そこはジブリ。十分に楽しむことはできたよう。
ミレーの種をまく人や他ジブリ作品を彷彿とさせるような映像美も楽しめる。
尚、たまに絵本のよう、と下げる意味でのレビューを見るが、いやいや絵本て凄いんですよ、と声を大にして言いたい。
後ろの席の小学生男児は終わっていの一番「面白くなかった!」と大きな声で叫んでいて可愛かったw彼のご両親も「ほんと意味わかんない」などと仰っていたので、映画に求めるものが違うと、確かに星イチも有り得る映画。
小さい子は、200分座り続ける事自体が難しいかもしれない。
題名の通り「どう生きるべきか」を少しでも考えたことがある方なら年齢に関わらず楽しめるし、今はまだ理解しきれない娘にも、後々この映画や原作が糧になることを願っている。
因みに映画2本分位の言いたい事詰め込んだよ、なボリュームでお腹いっぱいにはなるので、私はcospaの面でも大満足である。
が、これも確かにゴチャゴチャしてると感じる人もいるかもしれない。
君が、誰か他者ではなく、君自身を生きるヒントにと
作られた映画、届けられた映画。
そういう感想を持った。
この映画のタイトルは『君たちはどう生きるか』だけれど、1937年出版の吉野源三郎の著書とは別物だ。
敢えて、『君たちはどう生きるか』としたのは、「この本は今、若い人たちに再び手に取られて、読まれなければならない」と宮崎監督が強く感じたからではないか。
かつて「君たち」の一人に過ぎなかった宮崎駿少年と、少年眞人が、この本から受け取ったことはあまりに大きいのだろう、もしかするとこの現実世界を生きていく「よすが」となるほどに。
大きいからこそ、具体的には描かれなかった。そこは描いてしまいたくなかったのだ。
この映画をキッカケに実際に読んで、受け取る体験をするよう願っているのではないか。
大叔父の塔が崩れたのは、「誰かが作り上げた虚構の世界」、もしかするとアニメーションの創作群、それらよりも「君と一冊の本」との結びつきのほうが素晴らしいんだよ、人生にはよっぽど大事なんだよ?と諭す寓意があるのではないか。
本当に素晴らしい一冊との出会いがあれば、(眞)人は生きていける。
大人たちが性欲のまま動き淡い想いを踏みにじり、かと思えば独善だったり人生のレールを敷いてくるような醜い世界であっても。
他者の悪意や冷笑も、自身に渦巻く悪意も、どちらも制御不能であっても。
それが一番言いたいことなんじゃないかと受け止めた。
その他思いつくままに書き留めると…
・思いもかけず関わってくる他者も、なんだかんだと行動や時間を共有し交流することで情が湧き、もはや無関係ではいられないし、友情や絆のようなものだって生まれてくるだろうこと。
・自分の手を動かして、ナイフで削ることで武器を作れること。だがコツを掴むまで練習しないことには、その物は道具や武器として用をなさないこと(アオサギを射抜こうと弓矢をこしらえる場面)。
・人と、自然という「異界」との親しさは、里山的、田園風景的な(自然)環境の中でしか育まれないこと。
・男性にとって、母親は永遠に「はじまりの女性」なのだということ。
・威圧的な他者(インコ王)、神のような存在(大叔父)がruleする世界は、所詮は他人の「世界」であってそれは「君自身」がゼロから関わった世界ではない。 それを譲り受けるのではなく(それは例えば「とても流布した他者の見方」をそのまま信じることにもあてはまる。そうするのではなく)、未熟でも不完全でもとにかく君の実感、思うままに重きを置くこと、信じてみること。
君自身オリジナルの内的世界(観)を少しずつ築いていくことのほうがよっぽど価値があること。
この荒々しい、悪意に満ちた世界にあって、それは簡単ではないとしても。
私が勝手にそんなメッセージ、思いを宮崎監督から受け取った。
なので、この映画に関するいくつかの考察を検索やTwitterで読んでからも
「いやいや、自分はこう思うね」
とどこかに書いてみたくなりました。
眞人は部屋を出た。
私も「君たち」の一人として、「どう生きるんだい」、その監督からの問いかけに、まずは書くことで答えてみたくなった。
この先も、この映画を見たから出力された行動、動いてみようという衝動が、湧いてくるかもしれない。
私にとってはそんな映画。
いつもの、 ぶっ壊せ。自由に生きろ
本当に、いつもの駿です!!
ナウシカ原作組や、もののけ姫ガチ勢、駿ヲタにしか気付かれなさそうな比喩が沢山あります。
観ようによっては唯のファンタジー。
2行目にあたる人々は立派な駿ヲタなので大丈夫です、トトロやラピュタを想像してる人は止めておきましょう。
詰まるところ、いつもの、
先人達の作った都合のいいルールなどぶっ壊せ。自由に生きろ。というメッセージ。
表現方法は、今までの作品の総括で、芯は同じもののオリジナルでありながらそれとは違う進化を遂げています。
特に序章の炎表現なんかは息が詰まる程の衝撃を受けました。最初こそ母親を亡くすショックや戦禍の凄惨さをぼやかしつつ爆撃等の恐ろしさを伝えているかと思ったけど、アレはその程度では無かった。国を失ってしまう、やるせ無さ、痛み、苦しみ、恐怖、のような、激情の二重表現だった。
最近よく見かけるジブリ好きすぎて影響受けたりパクっただけの作品とは一線を画し、強烈な宮崎駿というオリジナリティを感じられて幸せでした。
個性の嵐に打たれた衝撃、これだよこれ 宮崎駿に求めていたのは!
まるで攻殻機動隊の笑い男、ライ麦畑でつかまえてを体現したようでした🌾
最後にジブリの大将として
グッズ化されるであろうキャラクターが沢山🤣ぬい化を待っています笑
以下、
▼比喩設定📝メモ
※個人の解釈です。
・青鷺=嘘つき、戦後の天皇、弱点は第七の羽🪶つまり現日本国憲法第7条(国事行為について内閣の承認が必要)
・母親(火の使い手)=火の国、母国、戦争により死亡
・新しい母親(母親の妹)=敗戦後GHQによって作り直された現日本国 、義母とは呼んでない多分、新しい母親、色々な制約や悪意あるしがらみにより病んでいて子を産みたくない(継がせたくない)、白い絡みつく紙はそれらの比喩、囚われ身動き取れないでいるところを主人公(未来ある若者)によって解放される
・舵輪柄の女性(お婆さん、黄色)=真の意味で自立した人間、黄色は自由と幸福、自分の意思で動き地を踏みしめて歩ける人
・帆船(↑の舵輪柄の女性も含む)
自分の意思で生きている人達、風来坊、荒波に揉まれ彷徨い沈む船もある
・帆船にのる黒い影の顔無し集団
社会の集団として生きる人達、集団で漕ぐ船は大きくて安全、でも自分たちで獲物を狩れない(判断できない?もしくは判断できても動けない)意思や個性の表れである顔が無い
・ペリカン(何でも食う、死人)=他人を未来の子供達すらをも食いものにし暴利を貪る人間、または無自覚に誰かの犠牲の上で何も考えず生かされている人間、望んでなくともそうなってしまった人間達
※ ペリカンが火を恐れる理由が分からないから違うかも→一応、生者を貪り生きる亡者なので単純に光が嫌いor亡者(悪意ある老輩)たちにとって戦前の日本が眩しすぎるとか戦争がトラウマ???
・墓の主=神、天皇(昭和天皇を含む以前の)
・ワラワラ=受精卵😂未来の子供達、臓が好きとか生々しいんよ…👌👈
・インコ(外来種、日本国民が国内に連れ込んだもの、駆除された日本烏🐦⬛に取って代わり増殖し放題、現在の空王)=戦勝国、軍事主義者。日本に生まれる子は準植民地の労働力として育てる為、子を産む新しい母親(戦後日本)を食え(潰せ)ない。母親(戦前の日本)と主人公(現日本国の若者)は御馳走😋大好物💰搾取するのみ。
・大叔父=先人達、日本を創ってきた人達
・積み石の石=先人が積み上げてきたもの、日本国憲法や社会システムなどの一つ一つ
・積み石=不安定でギリギリ生きながらえている、明日には崩れるかもしれない、というかすでに壊れて始めている歪な日本社会
・インコの王様(ストーカー監視、破壊者)=戦勝国のリーダー、アメリカ合衆国🇺🇸。大叔父(過去)から主人公(未来)へ渡すはずだった善意の積み石🇯🇵を積み損ねて一刀両断にした、結局王様以外のインコ(軍事主義者)は生きていけず普通の姿に戻り現世界に戻った。共存しているとも言える。
・主人公=君たち、日本国民。悪意も善意も持ち合わせた未来ある若者たち、悪意ある石を見分けられる
・父親=王配、もしくは盲目的に天皇を信じる人達、男は馬鹿だねってのが駿の持論なとこある。
※念の為、私個人は天皇の存在を支持します。
普通に面白かった
初日鑑賞後にぼろ泣きしてる人のインタビュー映像見てどんなもんかと鑑賞。
時代設定が戦時中だったんで火垂るの墓的ヘビーな内容だったら嫌だな〜と思って若干萎えてたら、疎開先の継母(母の妹?)屋敷で不気味な青鷺にチョッカイかけられ、さらに後妻の失踪をきっかけに空から降ってきた不思議な塔の鏡の国のアリスとダリの絵みたいな怒涛のファンタジー展開で安心した。
基本色々と説明がないので深く考えたら意味分からんだろーと思い何も考えずに見てたんで楽しめた。
色々隠された意味やら象徴があるんだろーが一回見て全て理解はできないと思う。
おそらく岡田斗司夫が考察やら解説してくれるだろーからそれを見てからもう一度見ようと思った。
君たちはどう観るか?いや鑑賞レベルに達していない…残念!
映画やアニメーションを製作して仕上げる人達には尊敬を致しますm(_ _)m
そしてその内容がどうであれ、やろうとして取り組んだ姿勢には頭が下がります。
今作の宮崎駿作品は確かに冒頭のシーンの動きや演出は目を見張るものがあり、流石と思いましたが、後半につれてあれ?あれ?と
変わってゆき…最後は過去作を取り混ぜたような脱出劇的なアプローチで斬新さは感じませんでした。
まず、なぜ何故火事が起きたのか?
隕石はどういう類のものなのか?
祖父ではなく親戚の大叔父に設定した意図は?
鳥ばかり出てきたが火の鳥のオマージュ?
塔の世界とその下の世界の規模の差がありすぎて…個人レベルなのか地球レベルなのか設定がよく分からず…などなど
疑問だらけで鑑賞終わりました。
極めて身内レベルのお話で冒険活劇とは言えず、それならそれで予告があれば良かったのですがあまりにも狭い世界の物語になっていて感動というものは得られませんでした。
よく言うカタルシスが設定されていないのも監督とスタッフとの意思の疎通が計れず訳の分からないことになったのでしょうか?
例え今作がエンタメでも、そうでないシュールで個人的なイメージの世界でも僕としては受け入れてやろうと劇場に足を運びましたが、結果としては全体に不完全燃焼であり
シナリオも起承転結が散らかっていて
タイムループだとしても伏線すらチープなものになってしまい、乱暴に言えばシーンの組み直しや展開の演出次第ではそこそこの完成度には持って行けたとも思いますので構成スタッフ、演出スタッフの技量も足りなかったのかも知れません。
試写で監督がOKを出していたのかと思うと余計に疑問符が続いてしまいます。
これで前衛アニメーションとか言われても違うと思いますし、総集編だと言われたらあーそうなんですか。で終わっちゃうのでそれは全国ロードショーで広くお金をいただいて上映するよりもインディーズで良かったのではないかと思います。
未来少年コナンやナウシカのあのパッションは素晴らしかったので逆に今回がっくり来てしまいました。
リベンジで次回あともう一度完成度高いものをお願いしたいところです。
宮崎ワールドに入り込めるか
2時間があっという間に終わってしまう、宮崎ワールド全開の映画だと思いました。前知識ゼロだったので、始まるまではすごーく不安でしたが、なんてことはない、始まったらあっという間に引き込まれて、中だるみもなく終わりました。
終わりかたも尻切れ気味?な気がするし、あれってナンだったんだろう・・なんて部分もあちこちらにあります。けど、なんか、いろいろもやっと考えながら家路についたのって、そう言えばラピュタやナウシカを映画館で見た帰りがそうだったな、となんか懐かしい気分になりました。また、この作品、エンドロールにテレビ局やら広告代理店が出てきません。出てこないと、こんなにもスッキリするもんなんですね。マスコミさんの名前なんて、見る側にしてみたら全くいらない情報なので、これは本当に好印象でした。いらない情報が出てこなかった分、声優が誰だったのかなど含め、エンドロールをきちんとみたりと、自分のイメージとのすりあわせを始めることができました。
今の若めの世代に宮崎さんの世界観が刺さるかは、微妙かも知れません。なので、賛否両論 あるのだと思います。ただ、私は宮崎さんの作品はこれで良いと思います。マスコミを使わない分、宮崎さんの自由度が格段に上がると思いますし、マスコミを使わない選択は、ジブリしかできないやり方だと思います。次回作以降も是非続けてもらいたいと思いました。
タイトルなし(ネタバレ)
まずは、冒頭のマヒトが母の病院へ走って向かうシーンが鳥肌モノです。映像がとてもきれいで、さらに人の死が伝わってくる描写、その最初冒頭何分かだけで、映画の世界に引き込まれてしまいます。
物語はマヒトが母を失ってからはじまります。マヒトは母を失ったことで自暴自棄(?)みたいなものになり、生きる意味を失ったんだと思います。その証拠として自分の頭に石を叩きつけるなどの、自暴に走ったのだと思います。しかし父親は新しい妻ができたりと、マヒトとは真逆です。そんな父親にマヒトは不信感を抱き、新しい母(ナツコ)にも敵対心を見せます。そんなマヒトが異世界へ飛び冒険をします。最終的な異世界の王から「この世界の王を受け継いでほしい」と頼まれます。異世界には若き日の母が生きており、現実世界よりも幸せのはずです。最初のマヒトなら承諾していたかもしれませんが、マヒトはアオサギやキリコさんなどとの冒険により成長したことで、母がいなく、これから火の海になる現実世界に生きる決意を決めたのだと思います。最後の「東京に帰った」というのはその後もちゃんと生きたんだと示したのだと思います。
物語中盤にでてくるインコは、勝手な憶測ですが現実世界の「大衆」だと思います。マヒトや若き日の母は異世界では人間です。それは今の現実世界で言ったら「才能のある人」たちと考えます。それを喰おうとしてるインコは才能のあるものを潰してしまう今の現実世界の「大衆」に当てはまると思います。
この映画は本当に難しい映画だと思います。鑑賞中ずっと考えて見ましたがなかなかわかりませんでした。でも映画は「観客が想像して最後のピースをはめるもの」と僕は考えるので、本当に面白い映画でした。
Y××ooのレビュアーたちはどうイキるか
2023年映画館鑑賞40作品目
7月23日(日)イオンシネマ石巻
6ミタ0円
監督と脚本は『ルパン三世カリオストロの城』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『魔女の宅急便』『紅の豚』『崖の上のポニョ』『風立ちぬ』の宮崎駿
原作はあくまで宮崎駿
吉野源三郎の小説『君たちはどう生きるか』はタイトルを借用しただけで中身は全く違う
だからコペル君は登場しないし子供に刺激を受ける無職のおじさんは登場しない
時代は大東亜戦争の日本
母を火事で亡くし父と共に東京から母の実家に引っ越してきた牧眞人少年
父は母の妹と再婚し継母は孕っていた
アオサギの手引きで母の実家屋敷の裏にある廃屋の塔に入っていく牧少年
天から降ってきた物体を大叔父が塔で囲ったのだ
塔の下の世界は異次元
海がありペリカンが人の言葉を喋りインコは擬人化していた
母は少女の姿で大人になった姉を姉だと認識していた
ばあやのキリコは若かった
大叔父は行方不明になり母も子供の頃行方不明になったが一年後帰ったきた
継母は孕ったまま塔の下の世界に
帰りたくない
牧少年が嫌いだという
なんだかよく訳のわからない話だ
単純明快を好む頭が硬い人には向いていない
幻想的な世界は好きだ
令和の不思議の国のアリスだ
あっちは夢オチだけど
全く宣伝をしなかったのはそれだけ宮崎駿に自信があったのだろう
宮崎駿の新作アニメ公開ってだけで十分だと
だからといって宮崎駿の方針を曲解し事前に情報を一切シャットアウトして鑑賞に臨むのは愚かなことだ
声優のメンバーを教えられただけで「ネタバレ」などと抗議する人たちにいたっては笑止
有吉の反論は概ね同意
声優が有名俳優ばかりなのは宣伝無しの保険だというトンチンカンな記事を書く信じられないほど無知なライターが世の中には存在するが実際はまるで違う
宮崎駿は声優専門の人たちの声が嫌いだからだ
「おヨーグルトですわ」みたいな人たちは宮崎駿の世界観にそぐわない
あとアオサギの声に菅田将暉くんのようなイケメンがやるのはちょっと抵抗感
ああいうのは大泉洋でいいんだよ
それにしても口の中にまた顔があるあの気持ち悪い生物はなんなの
ブラックジャックに出てきた人面瘡の一種かな
あれは殺人鬼の良心だったけど
声の配役
母ヒサコを火事で失い父と共に東京から田舎に引っ越してきた牧眞人に山時聡真
体内から火を出し花火を打ち上げたりするなど武器とするナツコの姉の子供時代のヒミにあいみょん
下の世界で漁師をしているキリコに柴咲コウ
シュウイチの再婚相手で孕っている夏子に木村佳乃
眞人の父で軍需工場を営む勝一に木村拓哉
塔の中で行方不明となり本の読み過ぎで頭がおかしくなったといわれる大伯父に火野正平
セキセイインコたちのリーダー格のインコ大王に國村隼
ヒミの花火で瀕死の重傷を負う老ペリカンに小林薫
ばあやのあいこに大竹しのぶ
ばあやのいずみに竹下景子
ばあやのうたこに風吹ジュン
ばあやのえりこに阿川佐和子
上の世界で人間の赤ちゃんになる魂のような下の世界の生き物のワラワラに滝沢カレン
塔の中の世界に誘う案内人のアオサギに菅田将暉
「魂の物語」として素晴らしい
宮崎 駿監督の「君たちはどう生きるか」を息子(小5)と観てきました。上映中息子が何度か横から「おもろない」「つまんない」と囁いてくるのを、「まあ、まあ」と宥めつつの観賞でした。
さて、私個人の感想としては、一言で言い表すのは難しいですが、「自分の奥底で、深いところで、頷くものがあった。」です。
私はラピュタやトトロなど、同監督の初期の作品が大好きです。子供の頃に観たこれらの作品は、セリフを憶えるぐらい繰り返し観るほど私を魅了し、その後の私の人生に多大な影響を与えたと言っても過言ではありません。
それと共にもう1つ、私の人生に大きな影響を与えたものがあります。それは、心理学者の故河合隼雄さんの著作と、そこで紹介されていた様々な児童文学の作品です。河合隼雄さんの著作に「子供の本を読む」と「ファンタジーを読む」という2冊があります。河合隼雄さんは「心」と「体」とは別の領域として「魂」というものの存在を仮定して、人の在りようを考えた方ですが、上記の2冊の中で魂を描いている作品として様々な児童文学を紹介されています。そこにはジブリがアニメ化した作品が「ゲド戦記」も「床下の小人たち(ジブリでは借りぐらしのアリエッティですね)」も「思い出のマーニー」も紹介されていたはずですし、「耳をすませば」のパンフレットでスタッフの方の好きな、あるいはオススメの本として紹介されていた「トムは真夜中の庭で」もありましたので、ジブリとこうした児童文学の関係は密接と言えますし、河合隼雄さんがよいと思われた作品との共通性は否めないものがあります。実際、宮崎駿さんと河合隼雄さんは対談などもされていましたので親交があられたのかなとも(詳しく存じ上げませんが)思います。
私はこの河合隼雄さんの著作で児童文学における「魂」の描かれ方について慣れ親しんでいたためか、今回の「君たちはどう生きるか」は、とてもしっくりと「魂を描いた物語」として観ることができました。そこには、私の忘れられないいくつかの夢で見た景色があり、昔この世のものとは思えない美しい海辺に立った日に感じた風があり、深く感動した児童文学の世界があり、16歳で突然逝ってしまった友人がいた。そういう映画でした。「魂」の世界を描いているのですから、その領域で観なければ訳が分からないのは当たり前だし、難しかったりつまらなかったりしても当たり前かと思います。この映画は主人公の傷ついた魂が癒やされるまでの物語とも捉えられるし、映画全体のストーリーが、宮崎駿さんの魂のお話と捉えることも出来ると思いましたが、(ここで言う「魂」は、「心」とは異なります)この物語を映画という形で作ることを可能にした宮崎駿さんの才能や経済的条件、関わったクリエイターさん達の素晴らしい力、鈴木プロデューサーの理解など全てに拍手を贈りたい。
そもそも、魂のお話というのは、商業的な視点とは相容れない部分がある、ましてや尺も決められ、観客動員数も気にして作る映画などという媒体でそれを作るのはかなり難しいと思います。その難しさは、これまでのジブリ作品で随分感じたところです。魂の世界の出来事は、例えば今回の作品で出てくる石の数が13であることに、いろんな方がいろんな考察をされていますが、魂の世界でそれが13と決められる時、それは作り手が何かを意味して13と決めるのとは違って、魂が13でなければいけないと言ってくるようなものです。それはその魂の器である人でさえ、その理由がわからなかったりします。実際に宮崎駿さんが石の数に意味を持たせていらしたかはわかりませんが、魂の世界のことを例えて表現するならそういうことだと思います。また、魂の世界のことを商業的なものを意識して改変するということをわかりやすく言えば、誰しも不思議な夢ぐらいは見たことがあるかなと思いますが、その夢の中で例えば白い衣の老婆から石ころを渡されたとしますよね?その夢の体験が意味もわからないけど、深く感動して目覚めたら涙が出ていたとして(何らかの魂の体験)、それを作品にする時に、「老婆に石ころじゃ売れないよね」なんて、美しい少女に青く光る石を渡されるように変えてしまうことが、いかに魂の世界から離れてしまうかということだと思います。
そういうのが、「君たちはどう生きるか」には、だいぶ少なかった。それが素晴らしかったです。売れることを目的にしたら実現しなかったはずです。
ですので、この作品の中に出てくる物ごとや台詞を、こういう意味だと考えることはあまり意味がないのかも知れません。それより自分の中の魂の世界とリンク出来たら、深い体験になる映画ということかも知れませんね。
それでは、なんの意味があるの?と思うかも知れませんが、私は魂の物語として必然的に描かれたシーンが沢山見つけられたし、些細なシーンにも魂が癒やされていく過程で意味あるエピソードとして宮崎駿さんが描かれているのを感じましたので、とてもわかりやすく感銘を受けました。
これまでの作品で見たことがあると感じた数々の場面を、焼き直しと捉えた方は沢山あるかも知れませんが、
私にはそもそも宮崎駿さんの中には「君たちはどう生きるか」で描かれた魂の世界があり、これまでの作品にそこから切り取ったものを入れて来られたんだなと感じます。だから、全くそれは気になりませんでした。
だいぶ前から宮崎駿さんは、魂の世界を描きたかったのではないでしょうか?でもそれは映画としてのエンターテイメントを考えたら難しかった、その葛藤の痕跡があり、思いに反して観客にわかる受ける形にしなくてはいけなかったという悲鳴が聴こえていたから、自分はハウルとポニョは違和感が強いということかなと、今回の作品から感じところです(あくまでも、個人的な感想です)。そのあたりの作品では、「人にしたいの?キャラにしたいの?」というのが掴めない登場人物や、これは何かを示すためにだけ描かれているような登場人物だなと感じたことがあり、違和感がありました。
今回はそうではなく、主人公が生きている現実世界での周囲の人達の、主人公に対する愛や思いやりが(それが正しいかそうでないかとは関係なく)きちんと受け取れました。魂の世界に引き込まれていく人が現実世界にちゃんとよい形で帰還するためには、ここをきちんと描かないといけないんだということをよくわかって作られていることに安心しました。千と千尋やハウルでの親の描かれ方ではなかったです。そして、親だって一人の人として苦しみ悩み生きている存在であることをこの映画の登場人物から感じ取ることも出来ました。理想の親を体現するキャラクターでも、現代的な親の何かを象徴させるための登場人物でもなかったです。
長々と書いていますので、鬱陶しく感じられる方もあるかも知れませんが、今回の本作を通して、魂の世界を描いた素晴らしい児童文学の作品に再び光が当てられるといいな、最近書店から消えつつある作品もあるので、そう思います。
もし、児童文学の中の魂のお話なんていうのに、なんぞや?と思い、興味を持たれる方があったら、是非河合隼雄さんの著作を読んでみられるとよいのではないかと思います。
1つだけ、「君たちはどう生きるか」に物足りなさを感じるとすれば、それは非凡な感じがしなかったということでしょうか?もし仮に私が魂の物語を作れと言われたら、勿論こんな完成度にはならないですが、ざっくり同じような構成で同じようなストーリー展開のものを作るだろうなと感じるところです。そのぐらい古典的でオーソドックスな「魂の物語」の雛形みたいなところがありました。ですがそれでも、これをアニメーションで作ったことの意味は大きいし、それは宮崎駿さんの晩年でしかなし得なかったかもしれないと思います。
そして、改めてアーシュラ・K・ル=グウィン(「ゲド戦記
」原作者)や、ミヒャエル・エンデ(「モモ」や「はてしない物語」作者)、フィリパ・ピアス(「トムは真夜中の庭で」作者)といった素晴らしい児童文学を生み出した方々の類まれなる才能に脱帽する次第です。これらの作品を読み、クリエイターとしてこんな素晴らしい作品を自らも生み出したいと願った純粋な監督の情熱が、「君たちはどう生きるか」から垣間見える気がしました。
ある種の方には共感を得られる感想だといいなと思います。
失われた物語の中で
吉野源三郎の同作にインスピレーションを受け,オリジナルストーリーとして制作された宮﨑駿の最新作である今作の評価は真っ二つに分かれることになった。これまでのジブリにあるような「物語」としての側面は大きく後退し,アニメーターとしてのパーソナルな表現が前面に押し出されている結果だろう。『風立ちぬ』で引退を宣言した宮﨑がそれを撤回して監督した今作はあまりに自由で伸び伸びと作られている。次世代へのメッセージを含んだ「遺書」とすら呼べそうである。アニメーター宮﨑の自己開示,それは物語というよりイマジネーションに満ちた混沌だった。フェデリコ・フェリーニが『8 1/2』で撮りたかったものを,宮﨑はアニメーションで表現したように思える。
冒頭では東京が燃えている。ジブリが自家薬籠中の物としている「火」の描写は『風立ちぬ』から地続きである。そしてそれはたとえ空襲による火災であったとしても,「偉大な破壊」(坂口安吾)であるがゆえに美しい。病院にいる母のもとへ走る主人公・眞人はもちろん宮崎駿その人である。履き物を慌てて脱ぐ仕草や階段を駆け上がる動きなど,アニメーションのお手本のようなシークエンスには誰もが目を奪われただろう。しかし,病院の火災により眞人の母は命を落としてしまい,彼は疎開することになる。眞人が東京から離れると画面から戦争の影が消える。まとめると,前半が現実パート,後半が虚構パートというふうに切り分けることができるだろう。そして現実と虚構の往還,すなわち児童文学によく用いられる「行きて帰りし物語」の形式によって物語が展開する。「行きて帰りし物語」では「向こう」へ行くために「通路」が必要である。それらは『となりのトトロ』では「小径」,『千と千尋の神隠し』では「トンネル」として表現されてきた。今作においては「塔」が「通路」であるのと同時に宮﨑にとっての重要なメタファーとなっている。塔は疎開先の森の中にひっそりと建っているがこれは人が作ったものでなく,空から降ってきたものだという。人智を超えた存在である塔はおそらく「物語」の暗喩だ。そしてそれを人が建造物すなわち言語や法体系でコーティングしている。神の言語で書かれた物語を私たちが読むためには,低次元の言語や体系を必要とするからである。眞人が義母を探して通る道はまるで『となりのトトロ』に出てきた場面と酷似している。これだけでなく,『ハウルの動く城』の扉,『崖の上のポニョ』の船の墓場など,過去作品からの引用が多く見られる。それらは「ジブリらしさ」というサービス的な目配せではなく,明らかにコンシャスな反復である。特徴的なのは,眞人が異世界へ進んでいく際,そこに「老女」が同伴する点だ。『となりのトトロ』も『千と千尋の神隠し』も少女の成長譚という性格を持っているため,「大人」は彼岸へは行くことができない(サツキとメイの父親にトトロは見えないし,千尋が冒険している間,両親は意識を喪失している)。しかし,今作で宮﨑は屋敷に侍女として仕える老女を登場させた。もちろん彼女はキーパーソンであり「観測者」あるいは「守護者」としての役割を果たすことになる。眞人を映す「カメラ」であり,物語を受容する「観客」でもある。彼女は塔の奥へ進む眞人に「罠」という言葉を使うが,このワーディングはやや奇妙である。罠というのは,それを仕掛ける主体なしに存在しないためである。老女は「大人」でありながら,異世界への分水嶺で「罠」を仕掛けた何者かの存在を嗅ぎ取っている。また,彼女はアオサギが喋る様子を目撃する。アオサギだけではない。のちにインコも登場するがこれらは現実世界の「大人」たちに「バケモノ」として「認識」されるのだ。ここに従来の作品との違いがあるように思われる。「喋るアオサギ」も「インコの兵隊」も一般人に「見えている」とすれば,彼らは現実世界に存在するなにかしらの存在の表象だと推測できるだろう。序盤のアオサギは不気味な存在だが,その「着ぐるみ」を剥がしてしまえば無能な中年男性(=サギ男)である。翼を奪われたサギ男は粗忽でコミカルな存在,すなわち道化と化す。アオサギは,眞人を異世界へと導くトリックスターなのである。彼は大きな魅力のないキャラでありながらポスターに採用される存在感を持ち,最後には眞人と「トモダチ」になる。敵でも味方でもないトリックスターは「物語」への「水先案内人」なのだ。物語を信じる宮﨑にとって欠かせない存在だろう。
眞人たちが地底世界へ潜り込むとそこにはインコ帝国が築かれている。この「帝国」はおそらく「スタジオジブリ」だろうが,同時にそこは宮﨑駿の精神世界である。そこでは生者と死者が行き交い,過去と未来が混ざり合っている。過去の作品世界が引用としてでなく,メタフォリカルに重なり合いながら存在しているのだ。「わらわら」という存在が地底から「地表」を目指して飛んでいくシーンがある。わらわらはおそらく「受精卵」あるいは「物語のインスピレーション」だ。生命や物語は,厳しい淘汰圧を耐え抜いたものだけが存在しうる。それを食べる「ペリカン」たちは,生命や作品に「カネ」の匂いを嗅ぎつけた資本家であり,批評家であり,一般大衆でもあるのだろう。ジブリ作品にしてはやや造形の書き込みが足りないような気がするが,「創作」に関するプリミティブな考え方に触れることのできる重要なシーンである。地底世界には,「塔」(=物語)の中で姿を消した白髪の「大叔父」が登場する。彼はおそらく宮﨑駿本人だろう。だとするとここで矛盾が生じることになる。観客は眞人を宮﨑本人だと思っているからだ。しかし,実母の「ヒミ」,老女の「キミコ」が若かりし頃の姿で地底世界に存在していることから,その矛盾は特に問題視しなくて良いだろう。眞人は過去の宮﨑,大叔父が現在の宮﨑であるという推論はコロラリーとして容易に成り立つ。インスピレーション源の『君たちはどう生きるか』は「叔父」と「コペル君」の対話がベースとなっているが,本作では叔父が大叔父,コペル君が眞人に翻案されている。宮﨑は脚本をツイストし,叔父とコペル君のアイデンティティをも縫合してしまったのだ。それは「過去の自分」と「未来の自分」の対話でもある。すなわち本作は徹頭徹尾,宮﨑による内面の吐露だ。それは私たちに説教をする内容の映画ではない。むしろ「自分はこう生きた」という宮﨑自身の生の証明になっている。いい画を容易に描けるようになった宮﨑が,あえて背景やパースを崩して表現したかったものは,あまりに個人的実存だったが,国民作家によるそれはあまりに普遍性を獲得している。日本アニメーションの巨匠に許された自由な自己表現は,難解でありながら観客の心奥に訴えかけるものでもあったのだ。本作は児童文学としての性質を持っているため,むしろ子どもたちのほうが純粋に冒険譚を楽しめるのかもしれない。ロジックやクリティカルシンキングに馴染んでいない子どもたちは映画の混沌を混沌そのものとして受け止めることができるだろう。そんな純粋な作品を86歳にして作ってしまう宮﨑駿はやはり天才的な作家である。
終始荒唐無稽↩︎監督自身も意味不明と言及 結論何の意味もない。だが名作
タイトルでも言いましたが、間違いなくジブリ最高傑作です。だが難解。鑑賞後のカタルシスが凄いです。
今までの駿ジブリは子供でも楽しめるが大人も楽しめると言った様なスタンス。今作でも残っていますが、10年前の風立ちぬから若干路線変更しているように伺えます。特に血シーンや難解などストーリー構成でしょうか?
本作も風立ちぬも血シーンが有ります。
お子さんには若干ショッキングに映ると思います。後、本作はネットやら口コミやらで難解だからと言って視聴を控えるのはかなり勿体無いと思います。なので寝ている人が多かったです。前述した通りですが、本作は難解です。しかし難解でも美しいアニメーションや世界観で私を引き込んでくれてとても素晴らしいです。今までほぼ全てのディズニー映画、ジブリを鑑賞してきましたが、ここまで考えさせられる内容の映画はないと感じました。本作はハッピーエンドですが、考え方によってはメリーバットに捉える事も可能です。
ディズニー映画お得意のお涙頂戴的なハッピーエンド映画が苦手、だが、バットエンドも苦手な人にかなりおすすめできます。
以下、ネタバレを含みます。難解な点や面白いと思った所、考察など書いていきます。
①結局本当の母親は死ぬ。
母親は死にます。しかし異母と打ち解け合えた事によりハッピーエンド。義母は戻って来られる。私はいいと思います。2人で本音をぶつけ合うシーンでは躍動を感じました。
②鷺男の正体が謎。
映画を見る前、あらすじを見たので、こいつが大叔父かと思いましたが、見事に違いました。
他の口コミを見ていると弟説が浮上していて、私もこの説を推しています。
この鷺がラストシーンで「あばよ、友達」的な事を言っていました。最初は気が合わない。水と油→キリコに諭され、共に行動&協力し合う様になる(友達になる)→ラストシーンであばよ(別れを告げると共に、友達を辞め、家族になる、二重の意味)
が私の考察です。正直、口コミを見ないとコイツの正体は分かりませんでした。弟説が正しいとは
限りません。
③実母とキリコがなぜ下の世界にいるのか謎。
どちらも若返った状態でこの世界に留まっています。実母は鷺のいった通り、遺体がありません。
なので、成仏できず、この世界に留まっている?
問題はキリコです。キリコは主人公と、同じく下の世界に投げ出され、最終的に若返った状態のキリコから駒?の様な物が渡され、現世で変身しています。若いキリコは若い実母と共に、違う扉へ姿を消しました。実母は若い頃、一度、下の世界に迷い込んでいたが、キリコはその様な事は言及されていなかった。↩︎言及されていたらごめんなさい。しかしなぜ2人ともこの世界にいるのか、さっぱり意味がわかりませんでした。若い頃のキリコさんはせんちひのりんの様な存在でした。しかし実母の死であの様に捻くれてしまったのでしょうか。
④主人公はなぜ自分の頭部に傷をつけたのか
本作のグロシーン。
お父様に車で送迎、おまけに高そうな服。
いじめの標的にされます。
河川敷で格闘しますが、ボロ負け、石で頭部に傷をつけます。自分で。これはいじめられてやり返す事ができないやるせない気持ちを表現しているのでしょうか?キリコにも同じ傷が付いています。又は肉親である父親に構って貰いたい幼さの現れ?トイストーリーのウッディの様に感じた。
結論
自傷行為をする事によって自分の悪と向き合う。
主人公を成長させる為、自分の悪意と向き合う。
これがこの作品のメッセージではないでしょうか
この作品について駿も意味が分からないと語っています。
この作品は一人一人自分自身の物語であり、人により
解釈が大幅に異なる。
衒学と人間讃歌の元、スタジオジブリはどう生きるか
何かと話題の宮崎駿監督の最新作「君たちはどう生きるか」を観てきました。
宮崎駿監督の作品としては約10年ぶり。スタジオジブリとしては約2年ぶりの新作で事前のセールスプロモーションを全くやらない。事前情報も無しと言う前代未聞のプロモーションが逆に話題となっていましたが公開から作品の内容に対しても賛否両論。
その真偽と言うか意見も観ないと分からないとあって、鑑賞をした訳ですが、で、感想はと言うと…個人的な一意見ですが、面白く無い訳ではないが、面白い訳でないw
一言言えば複雑だし、必要以上に難しくこねくりまわしている感がある。
ジャンルとしては冒険活劇ファンタジーらしいけど、正直それだけでは括れない難解さがあると思うし、また説明が不十分な点が多く、哲学的と言うか文学的な側面がある。
吉野源三郎原作で1937年発表の「君たちはどう生きるか」に感銘を受け、直接の原作ではなく、タイトルとして引用されているらしいが観る限りにはやはりその影響は多分にあると思う。
観る側の器量を試されるというか、実験的な作りは嫌いでは無いんですが、まあジブリっぽくはないんですよね。
長年ジブリ作品を観てきた者にすれば老若男女が楽しめる、ある程度明快な作品がジブリの信条かなと思うんですが、人間讃歌と言うテーマは変わっていないと思います。ただいろんな部分が挑戦的で観る側に突き詰めると言う感じ。
その兆候は「風立ちぬ」で庵野秀明監督を主人公の声優に起用された時にもあった訳ですが今回はもう全部がそうなっていて“どうしたこうなった?”と言うよりも”うるせえ〜どうせもう何作も作らないし作れないんだから、たまには好き勝手に作らせろ!”と言う開き直りな感じなんですよねw
いろんな不足点を埋めるように観る側の思考が錯誤するんですが、これって庵野監督が得意とする手法で「エヴァ:Q」でも観られた「衒学」(げんがく)かなと。
衒学とは知識がある事を自慢する事であり、知ったかぶりという言葉が一番近い。
何か裏がありそうな雰囲気を出すための演出であっても実際に裏は存在せず、観る側に衒学を漂わせると言うか。
まあ「お金を出して観る人が好き勝手に解釈していいよ」と言う答えだと思うし、だからこそ一切のプロモーションをしないのがプロモーションとなっている訳ですが、事前のプロモーションをやらないのは今までのジブリブランドがあればこそな訳で、これが普通の作品ならもう大爆死ですよw
作品としては「千と千尋の神隠し」「もののけ姫」「ハウルの動く城」的な感じもあり、今までのジブリ作品のセルフオマージュも多分にありなので観る側にいろんな問い掛けが仕掛けられている。
かと言って今までのジブリ作品のイメージで思い込むと手痛い目に合うので、一切のイメージを捨てて、全くの新作で観るのが正解かと。
それでもなかなか難解な作品ですが、声優キャストは結構ツボにハマるキャスティングでアオサギ役の菅田将暉さん。ヒミ役のあいみょん。ばあやのキリコ役の柴咲コウさんはかなり上手い。特に菅田将暉さんは熱演です。
宮崎駿監督は今後作品を作るのかは不明ですが年齢的な事を考えるとかなり難しく、スタジオジブリとしても新作が出来るのかは不明。2014年公開の「思い出のマーニー」で映画制作部門を解体し、一度アニメ制作から撤退しているので主要スタッフが抜けている分、「無為自然」的な流れになっている。
勿論、ジブリ作品が新しく作られるのは嬉しいし、勿論観に行こうとは思う。
だけど、ある程度のイメージの構築は仕方ない分、スカされた感は残念ではあります。
宮崎駿=スタジオジブリのイメージから結局脱却しきれなかったのは今更言っても仕方ないけど、スタジオジブリのブランドはやはり残して欲しいかなと。
もし、もう一回だけ作ると言うのであれば…庵野秀明監督で「風の谷のナウシカ」の続品を作るのであれば、個人的にはもう大歓迎ですw
私たちは、なぜ生まれ、どう生きるのか、━忘れていた魂の記憶を思い出させる、真の天才による世界で永遠に語り継がれる偉作
観終わって、子供たちの未来のために、自分にできることを精一杯やろう、と思う━。それが、宮崎監督からの問い、「君たちはどう生きるのか」に対する答えである。本作は、表面的な感想、評論、批評を、一切受けつけない。語る者は、監督からの問いに対する、自分なりの答えを見出し、表現してから語るべき作品だと思った。
これまでの宮崎作品のエッセンスが凝縮された集大成であるばかりでなく、今まであまり明確にされてこなかった重要なコンセプトが表現されている。それは、時空を超えたいのちのつながり(縁生)であり、生まれ変わり(誕生と死の循環・輪廻転生)であり、異次元世界(あの世・常世)と現実世界(この世・現世)が、力動的に共振・協働している関係の世界観である。
「君たちは『なぜ』生まれてくるのか」━。この問いに対する答えがあって、初めて、「『どう』生きるのか」、が出てくる。本作は、なぜ、悲惨なこの世に、それでも君は、自ら願って生まれてくるのか、が問われる(あの世は、ある意味、安定しているにもかかわらず)。その答えもまた、宮崎監督は描いている。本作は、私たちが忘れてしまった、なぜ生まれてきたのか、どう生きるのかを思い出させてくれる━いや、観た者が、それを思い出してくれることを願って生み出された作品だと言っても過言ではないのかもしれない。
プラトンによれば、私たちの魂は、生まれてくる前、レイテの泉の水を飲み、すべての記憶(あの世の記憶、過去世の体験と智慧)を忘却して生まれてくるという。しかし、この世にあるイデア(真実・永遠の真理)のかけらに出会うと、魂が震え(感動と呼ぶ)、求めるようになり、忘れていた記憶を少しずつ思い出す(想起する)ようになる━。本作の主人公もまた、忘れた魂の記憶を思い出す、試練の旅に出る。
なぜ、悪は存在するのか。悪の必然と意味もまた、語られる。あらゆるいのちとの共生、自然界の見えるいのちも、見えない異界のいのちも、すべてつながり生かされ、それぞれの役割を果たしている。無駄なもの、不必要なものなど何一つなく、秘められたいのちの可能性を開花し、謳歌し、すべてがダイナミックに調和し共生する世界のあり様を、宮崎監督の世界観とすれば、それは未来からやってきたヴィジョンであり、古代からあった永遠の真理であろう。だから、本作は、これから永く、世界で観られ、語り継がれるだろう。その必然と意味、力が、本作にはある。
宮崎駿は、日本の自然と文化に育まれた、間違いなく真の天才━genius:ダイモン・守護神と協働する「聖なる狂気」の人━である。
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