「この映画の私的解釈と、感銘」君たちはどう生きるか komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
この映画の私的解釈と、感銘
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
この映画『君たちはどう生きるか』を観ました。
結論から言うと非常に感銘を受けました。
しかし、この映画『君たちはどう生きるか』は、宮﨑駿(宮崎駿)監督が分かり易くは劇中で説明していないので、私的な解釈を交えて、なぜ私がこの映画を見て感銘を受けたのか、書いてみます。
この映画『君たちはどう生きるか』は、先の戦争中の日本が舞台です。
主人公・牧眞人は、戦争中に母・久子がいた建物が焼け、母親を亡くします。
その後、主人公・牧眞人の父は、戦争中に兵器工場で儲けます。
主人公・牧眞人は、疎開も兼ねて東京から父の兵器工場近くの母の実家の屋敷に父と共に越して来ます。
その時に主人公・牧眞人は、牧眞人の父が再婚した、牧眞人の新しい母・夏子に出会います。
牧眞人の新しい母・夏子は既に父の子を宿しています。
牧眞人の新しい母・夏子は、後に火事で亡くなった実の母・久子の妹であることが明かされます。
牧眞人が父と共に越して来た母の実家の屋敷には、離れに塔があることが分かります。
離れの塔は、本好きな優秀な大叔父が建てたと新しい母・夏子から説明されます。
牧眞人はこの新しい疎開場所で、学校の周りの生徒と軋轢が出来ます。
牧眞人は学校内の軋轢から逃れるために自分の頭を少し大きな石で打ちつけ、多量の出血をさせ、(口では否定しながら)周りの生徒から攻撃されたと父を含めて暗に伝えます。
ある時、屋敷の中でアオサギが牧眞人の前に現れます。
アオサギは、火事で亡くなったはずの牧眞人の実の母・久子が本当は生きていると伝え、何度も離れの塔に牧眞人を導こうとします。
その後、新しい母・夏子が離れの塔の付近で行方不明になります。
牧眞人は老婆・キリコと共に新しい母・夏子を探すために離れの塔の中に入って行きます。
牧眞人は塔の中でまたアオサギに攻撃を受けるのですが、以前に作ったアオサギが落とした羽を使った矢でアオヤギのくちばしを射抜き、アオサギを無力化させます。
くちばしを矢で射抜かれたアオサギは、サギ男へと変貌します。
映画をここまで見て、私的には3つの疑問が立ち現れます。
それは、
Q1.アオサギとは何なのか?
Q2.主人公・牧眞人が自分の頭を打ちつけ大きな出血をさせた意味とは?
Q3.大叔父が建てた離れの塔とは何なのか?
の3つの疑問です。
この3つの疑問は映画を最後まで見てもしっかりとした説明はなく明確な答えは不明のままです。
しかし、以下に(私的)解釈出来ると思われます。
A1.アオサギとは、世界から離脱したい欲求のメタファー(暗喩)だと解釈されると思われました。
主人公・牧眞人は、潜在的には実の母・久子が生きていて欲しいと願っています。
そして口には出しませんが、実の母・久子が戦争中の火事で亡くなった原因は戦争にあると思っていると感じられます。
さらに、父がその戦争に兵器工場の経営で加担していることも、暗に牧眞人には違和感があると解釈できます。
そんな父が新しい母・夏子と子を宿したことにも、牧眞人には違和感あると思われます。
牧眞人は、そんな世界から逃げ出したい離脱したいと暗に望んでいると思われます。
そして、牧眞人が世界から逃げ出したい離脱したい欲望のメタファー(暗喩)がアオサギであると解釈されると思われるのです。
A2.さらに、牧眞人が自分の頭を打ちつけ大きな出血をさせた理由は、(そんな世界に立ち向かわず)離脱したい行動の現われとして解釈出来ると思われます。
最後に大叔父が建てた離れの塔とは何なのか?
A3.(このことは後に明かされますが)離れの塔とは、世界から離脱した人達が、「悪意」のない理想的な世界のバランスを理論化し実現しようとする場所なのだと解釈できると思われます。
くちばしを矢で射抜かれたアオサギは、サギ男へと変貌しますが、その後、サギ男は主人公・牧眞人と老婆・キリコを離れの塔のフロアより1つ下の階層に導きます。
離れの塔より1つ下の階層には海が広がり、大量の帆船が漂っています。
牧眞人は島に流れ着き、「ワレヲ学ブモノハシス」と書かれた門を、大量のペリカンに押されて開けてしまい、ペリカンに襲われます。
しかし矢についていたアオサギの羽のおかげで、牧眞人はペリカンに食べられずに済みました。
その後、牧眞人は老婆・キリコの若い頃のキリコに出会い助けられます。
キリコは漁を行い、牧眞人と共に大きな魚のハラワタを取るなど解体します。
そして、白く小さいふわふわとしたワラワラにその魚を解体して出来た食料を分け与えます。
また帆船に乗ったのっぺらぼうの黒い乗組員たちは漁が出来ないことをキリコが説明します。
白いワラワラはキリコが与えた食料を食べて空へと飛んでいきます。
ワラワラはその後、上の世界、つまり人間世界に到達して人間の生命として誕生するとキリコは説明します。
しかしワラワラが地上に達する前に、大量のペリカンが飛んで来て空を飛ぶワラワラを食い散らかします。
それを阻止するために、海中からヒミ(若い頃の牧眞人の実の母・久子)が現われ、火でペリカンを燃やし空飛ぶワラワラを助けます。
ただ、その火はペリカンだけでなく、少なくないワラワラをも燃やすことになるのです。
ここで4点の疑問がわきます。
Q4.ペリカンとは何なのか?なぜアオサギの羽を持っていた牧眞人はペリカンに食べられなかったのか?
Q5.キリコが行っている漁の意味とは?
Q6.帆船の黒いのっぺらぼうの乗組員とは何なのか?
Q7.なぜヒミ(若い頃の牧眞人の実の母・久子)はペリカンだけでなくワラワラも燃やしてしまっていたのか?
それぞれの答えの解釈は以下になると思われます。
A4.ペリカンは世界から離脱した(せざるを得なかった)ある一つの行きつく先のメタファー(暗喩)だと解釈出来ると思われます。
ペリカンは世界から離脱し追い詰められ、ついに人間生命の誕生(ワラワラ)をも食い散らかす存在として現れます。
そして、アオサギは世界から離脱したい欲求のメタファー(暗喩)です。
だからこそ世界からの離脱の存在としてアオサギと同類のペリカンは、アオサギの羽を持っていた牧眞人を食べることが出来なかったのだと考えられます。
A5.キリコの漁の意味は、自分たちが生きる為に生命を殺し対峙する、つまり世界に立ち向かう行動のメタファー(暗喩)として解釈出来ると思われます。
キリコの漁の肯定は、実は世界に立ち向かう人々の肯定につながります。
しかしこの肯定の先には、世界に立ち向かうための争いや、その先の戦争の肯定も暗に示しています。
つまり、キリコの漁の肯定は、牧眞人の父が世界に立ち向かい兵器工場で財を得ていることを延長線上で肯定しているのです。
A6.そして、帆船の黒いのっぺらぼうの乗組員は、(世界に立ち向かうキリコの漁とは逆に)世界から離脱した存在の一つのメタファー(暗喩)と解釈できると思われます。
帆船の黒いのっぺらぼうの乗組員は、同じ離脱の存在のペリカンのように追い詰められて人間の生命の誕生であるワラワラの上昇を食べ尽くすことはありません。
しかし帆船の黒いのっぺらぼうの乗組員は、ペリカンと同じ離脱の存在として、(キリコの漁のように)世界に立ち向かえず、生命の殺傷から目を逸らし、ただ漁をしたキリコから食料を買い取る者として振舞っています。
A7.そして、ヒミ(若い頃の牧眞人の実の母・久子)は生命の誕生を守る母としてのメタファー(暗喩)だと解釈されると思われます。
しかし、ヒミ(若い頃の牧眞人の実の母・久子)は、生命の誕生を守る優しい理想的なだけの母という存在ではありません。
ヒミは、時に、生命の誕生のワラワラをも焼いてしまう、苛烈な母としてのメタファー(暗喩)でもあるのです。
映画が進み、牧眞人はヒミ(若い頃の牧眞人の実の母・久子)やサギ男らと共に牧眞人の新しい母・夏子を離れの塔の中でついに発見します。
この過程で新しい母・夏子が、ヒミ(若い頃の牧眞人の実の母・久子)の妹であることが明かされます。
離れの塔の中の新しい母・夏子は(お腹の中の胎児を含め)、牧眞人から拒絶されていることを暗に甘受しています。
そして、新しい母・夏子は、牧眞人の離れの塔からの救出を激しく拒否します。
その過程でも1つの以下の疑問が現れます。
Q8.インコの存在とは何なのか?
A8.その答えは、インコとは、離れの塔の離脱した世界で、新しい理想的な世界を反転的に構築しようとする集団のメタファー(暗喩)であると解釈出来ると思われます。
インコは、帆船の黒いのっぺらぼうの乗組員らとは違って、キリコのように命を殺生することが出来ます。
しかしインコは、キリコとは違って、個々の生命(世界)に対峙しているとは思えません。
インコは、個性を無くした組織的な集団としてオートマチックになることで、個々の生命(世界)に対峙することなく殺生することが出来ているのです。
それが、世界からの離脱を経て、”新しい理想的な世界を反転的に構築しようとする集団”の意味です。
映画の最終盤で、主人公・牧眞人は遂に実際にこの離れの塔を作った大叔父に会うことになります。
そして、大叔父は牧眞人に、絶妙の積み木のバランスで成り立っている離れの塔の理想の世界の、継承者になってくれることを望みます。
しかし牧眞人は、自身の頭の傷を大叔父に見せ、自分にも「悪意」があることを示し、離脱した理想の世界を作る継承者になることを拒否します。
そして現実の世界に戻ることを大叔父にはっきりと伝えるのです。
このことにインコの大王は激怒します。
インコの大王は自分で理想の積み木を立てようと試みますが、すぐに積み木のバランスは崩れ、さらに怒ったインコの大王は自分の太刀で理想の積み木を真っ二つにします。
それによって離れの塔の中の、離脱した理想の世界は崩壊して行きます。
牧眞人とヒミ(若い頃の牧眞人の実の母・久子)とサギ男はそれぞれの年台の現実の世界につながる扉のある廊下へと逃げ出します。
そして、そこに若い頃のキリコと牧眞人の新しい母・夏子も逃げて来ます。
牧眞人と牧眞人の新しい母・夏子とサギ男は離れの塔に来る前の現実世界に戻ります。
そして、ヒミと若い頃のキリコは、牧眞人たちとは前の、ヒミが牧眞人を産むよりずっと以前の世界に、扉を通じて現実の世界に戻ります。
牧眞人と新しい母・夏子は、扉を抜けて牧眞人の父や屋敷の老婆たちと再会します。
サギ男も扉を抜け現実に戻りアオサギとなって飛び立って行きます。
インコたちも崩壊する離れの塔から現実の世界に殺到しますが、それぞれ可愛らしい小さなインコとして現実の世界に飛び立って行きます。
この映画は、牧眞人が世界から逃げ出す離脱する欲求を肯定しています。
また世界や生命の生死に立ち向かう若いキリコ(あるいは牧眞人の父)も肯定しています。
そして、(映画の初めの牧眞人のような)世界の離脱と(若いキリコのような)世界の立ち向かいの、間を取り持つ、ヒミのような時に苛烈になる母を肯定していると思われます。
一方でこの映画は、離れの塔の崩壊や大叔父の理想の継承の拒否で、世界からの全面離脱への疑義も示しています。
そして、世界や生命の生死に対峙する時の残酷さも示していると思われます。
火事で亡くなった実の母・久子の現実での不在の受け入れも示しています。
この矛盾に満ちた現実の受け入れと、離れの塔を通じたヒミ(若い頃の牧眞人の実の母・久子)との関係を含めた経験の記憶と、近しい仲間の存在により、辛うじて現実を生きて行くことに決めた主人公・牧眞人の姿に、個人的には静かな感銘を受けました。
今の現在、国内外を含め様々な場所で訳も分からず暴発している人々の存在があり、彼らを迂回させる一助にこの作品がなれば良いのにとも思われてはいます。
この映画は暗く重いですが、世界を伝え切ったところにも感銘しました。