そして光ありきのレビュー・感想・評価
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セネガルの未開の民の生活を描く、イオセリアーニ流群像劇(やってることは普段とだいたい一緒)
なんか、すごい映画ではあった。
『ミッション』とかもそうだったけど、アフリカの未開人、みんな上半身裸。
しかもこれ、ドキュメンタリーではない。
れっきとした劇映画だ。
出演女優全員が、おっぱい放り出しで出ているわけだ。
そんな映画、そうそうないんじゃないだろうか。
おばあちゃんのしなびたおっぱい。
お母ちゃんのでかい垂れおっぱい。
若き女豹たちのロケットおっぱい。
うーん、壮観!!(笑)。でも、ちっともエロくない。
もともと黒人にはまったく欲情できない体質ではあるのだが、
それにしても、あっというまに「見慣れて」しまった。
「裸が当たり前」で暮らしている人たちをしばらく観せつけられてると、
観てるこっちもだんだん「裸がエロく思えなくなってくる」ものなんだな……。
映画は、西アフリカのセネガルを舞台にとっている。
そこの森で暮らす未開の民、ディオラ族の日常をオールロケで生き生きと描き出したものだ。
ドキュメンタリータッチかと思いきや、そうでもない。
なにせ出だしで、首チョンパになっている黒人の生首(理由はよくわからない)を、村の呪術師が薬草と猿の面の皮を煮だした謎汁でふたたびつないで、男を生き返らせるシーンとかがいきなりあるんですから。
指宿温泉の砂風呂みたいなところで、まさに「首の皮がつながって」生き延びた黒人は、ゴホッと一回咳をする。ほとんどなんの前触れもなく挿入される非現実的な復活劇。
さすがにいささか衝撃を受けたが、要するにイオセリアーニはこのシーンを入れることで、「これは作り話だ」「劇映画なんだ」という点を観客に強調してみせているのだろう。
それに限らず、全体のノリはどこかぽわっとしていて、民話風で、牧歌的だ。
恋のさやあてをする10等身くらいの女戦士たち。
落ちてきた果物を優雅に食べる、寝てばかりのダメ男。
子供を連れて出奔した妻を追って旅にでる男(さっきとは別人?)。
タイヤをめぐって血みどろのガチバトルする女の子たち。
子どもの出産と、それに伴ってトコロテン式に村を追放される老婆。
その際に、神託の巫女としてふるまわなければならない少女の苦悩。
実際よくあることなのか、作り話なんだか、判然としないエピソードの累積。
われわれは、セネガルについてはほとんど何も知らないから、
どこまでが「ほんとうにありそうな話」かすら、判断がつかない。
ただイオセリアーニは、「ディオラ族の礼儀や慣習に反することは絶対にしなかった」と言っている。
ある程度の「リアル」に立脚したうえで、「ディオラ族の理解が得られる」範疇でイマジネーションを膨らませて(まじない、民話、口頭伝承、神話ベース)作り上げた「劇映画」ということか。
ここで重要なのは、『そして光ありき』が「異色作」でありながら、同時に、いかにもイオセリアーニらしい映画に仕上がっているということだ。
オールアフリカロケで、唯一の「非西欧」を描いた作品。
一見すると、フィルモグラフィ上かなり特異な位置を占める映画のように見える。
しかし、イオセリアーニのやっていることは、驚くほどにふだんと同じ。
まったくの平常運転だ。
長く続いてきた生活文化への敬意と憧憬。
それが喪われていくことへの惜別と反撥。
群像劇として、ゆるやかなロジックで紡がれるそれぞれのエピソード。
ほぼ素人もしくは無名の俳優たちで組み上げられたキャスティング。
若干の暴力性を秘めつつも、牧歌的にこだわりなく描かれる民の日常。
若者たちの恋のさやあてと、本気の追いかけっこ。
異常に足の長い美女へのこだわりと、美しく愛らしい子供たちの姿。
したたかで力の抜けた、それでいてある種の迫力をも備えた老人たち。
現実に紛れ込んでくる寓話めいた超自然的エピソード(生首つなぎのシーンは、たとえば『皆さま、ごきげんよう』の「秘密の花園」や、『四月』に出てくる愛に呼応する水道&ガスコンロ、『汽車はふたたび故郷へ』の伝書鳩通信や人魚などとほぼ同質のものだ)。
象徴性をはらんだ動物たちの存在(ワニとかアフリカハゲコウとか。コウノトリは、毎回イオセリアーニの映画に出てくる「署名」のような動物で、タルコフスキーの黒犬のような役回りだ)。
男性以上に勤勉に働き、狩りも行う女性陣の生活力の高さと、洗濯を行いつつ音楽に興じる男性陣という対比(監督のジョージア時代の作品でも、勤労に従事する女性たちと、歌うのが本業のような男性たちを対比的に描いていた)。
のんき者やぐうたら者、はみ出し者に向けられる温かい視線。
自由に暮らしているだけの民を強制的に排除し、追いやろうとする公的な権力への怒りと、ある種の諦念(イオセリアーニ映画の登場人物は常に、地上げに対して命懸けで抵抗したりはしない)。
官憲に粋な形で抵抗してみせる、名もなき民の底知れぬパワーと気概。
そして、全体に横溢するブラックユーモアと、いわゆる「ノンシャラン」な感覚。
素材はちがっても、料理法も、目的意識も、ほぼ一緒。
それが、『そして光ありき』の本質だ。
ある意味、本作はイオセリアーニ映画の二つの潮流の「潮目」に位置する映画だとも言える。
ひとつは、ジョージア時代から続く、古い民族文化・故国の自然と、名もなき民の生活ぶりや音楽、祝祭をフィルムに焼き付けようという、「エスニシティ」をめぐるセミ・ドキュメンタリー的な流れ。
もうひとつは、パリ移住後の『月の寵児たち』以降、イオセリアーニの代名詞ともなった、難解だが気楽さのある、パッチワーク&タペストリー風に仕上げられた「群像劇」の流れ。
「エスニック」を見つめる流れは、パリ移住を機に祖国への民族主義をはみ出して、新たな視野を獲得する。バスクを描いた『エウスカディ、1982年夏』(83)や、イタリアの片田舎を描いた『トスカーナの小さな修道院』(88)といった小さなドキュメンタリー・フィルムを経て、イオセリアーニの眼差しは、『そして光ありき』で遂にアフリカの辺境へと至る。
一方、ここでいったんヨーロッパを飛び出したイオセリアーニ流群像劇の流れは、ふたたび『蝶採り』(92)でヨーロッパへと戻ることに。
「アフリカ」という完全な「異国」まで至り、振り切れるところまで振り切れた二つの流れは、今度はイオセリアーニ自身の故国への帰還によって、ふたたびジョージアへと持ち込まれ、ドキュメンタリーとしての『唯一、ゲオルギア』と、群像劇としての『群盗、第七章』へと結実する。
その意味では、ジョージアを描くために監督を始めた男が、いったんテーマを膨らませ「拡散」し尽くしたからこそ、またジョージアを描くことに再集中できたとも言えるわけで、イオセリアーニにとって『そして光ありき』は、一度はどうしても通らなくてはならなかった場所だったのかもしれない。
映画の後半、ディオラ族は「文明の侵攻」を受けて、住み慣れた土地を追い出されることになる。
製材会社が、森の大木をどんどん伐採していくので、そこにはもう住めなくなってしまったのだ。
一方、出奔した妻子を追って、ロバ一頭だけをつれて村を出た黒人の青年は、「文明」に近づくほどに「ズボンをはかされ」「服を着せられ」裸族としてのアイデンティティを奪い取られてゆく。
再会は果たしたものの、彼が村に帰ってきたときには……。
ラスト近く、村を覆い尽くす●●と、それを対岸から双眼鏡で眺める白人たち。
村人たちが去り際に放棄された土地へと残す、恐ろしい捨て台詞。
そして、村で雨乞いのご神体だった木彫りの神像の、あんまりな末路(笑)。
ここで忘れてはならないのが、イオセリアーニがこの映画について評論家の宇田川幸洋氏に語ったという台詞だ。いわく、
「あの映画は、ジョージアでおこっていることを、よその土地を舞台にしてかたったものです」
要するに、そういうことなのだ。
本作でディオラ族が経験している受難と追放の物語は、そのままジョージアの歴史とも呼応するものだ。思い起こせば、イオセリアーニはかつても、「ジョージアみたいで郷愁を誘うから」という理由で、バスクやトスカーナの風俗をフィルムに収めたのだった。
彼は「異国」を見るとき、そこにいつも「ジョージアの影」を観ている。
未開の原住民を描く本作でも、彼のモチベーションはなんら変わらない。
そして、もちろんながら。
故郷を離れ、旅に出て、街に染まって文明化して、後で国に戻ってきても、もはや居場所すらない「根無し草」ののらくら者。だから町に戻って故郷の文化を「商業化」して売るしかないはみ出し者。
それは、イオセリアーニ監督自身のカリカチュアでもある。
この地が永遠に呪われますように
謎の薬らしきものをグツグツ煮詰めた鍋に干からびた猿の頭を入れ、
近くに無造作に置いてあった人の生首を身体に戻して謎の薬を塗ると、フーッと生き返る
男が家事、女が狩りをして男を選ぶ。働かない夫は捨てる
拾ったタイヤの取り合いで血を見たり
あれ?コーラの瓶を取り合う映画あったな…
子供達の本気のハンカチ落とし、子供の成長を木に記すのも直でナイフを頭に当てる
なんかもういろいろ凄くて面白かった
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