「日本初公開。犯罪者たちの日々をポリフォニックに描く、イオセリアーニ群像劇の第一弾。」月の寵児たち じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
日本初公開。犯罪者たちの日々をポリフォニックに描く、イオセリアーニ群像劇の第一弾。
うーん、これは難物だなあ(笑)。
ちょっと体調が悪くてうとうとしてしまったこともあるけれど、とにかく筋が追いづらい。
個々のシーンで何が起きているのかは、ぎりぎり理解できる。
だが、あまりに脈絡なく、いくつものキャラクターの行状がしりとり式で数珠繋ぎに呈示されていくので、だんだん何が何だかよくわからなくなってくる。
冒頭と結尾を締める、ニコラ・ズラビシュヴィリの三拍子の軽妙なピアノ曲。
複数のキャラクターの動きをポリフォニックに追う、あえてナラティブの慣例を無視した語り口。
日常のちょっとした面白さをスケッチ風に扱う、とぼけて洒脱なテイスト。
犯罪者やホームレスといった「はみ出し者」への温かい眼差し。
ジョージア人らしい、酒と歌(ポリフォニー)に対する徹底したこだわり。
作劇法自体は、まさに「いつものイオセリアーニ」で、初めてこの群像劇スタイルを試みた時点で、すでにほぼ完成形に仕上がっていることに驚かされる。
ただ、とっつきの悪さは、これまで観てきたなかでは『皆さま、ごきげんよう』に匹敵する感じだ。
たぶん、話の大筋として、「19世紀に描かれた女性のヌード画」と「18世紀に絵付けされた平皿」が、どう盗まれ、どう流転していくのか、という「モノ」ベース以上の何かが見出せないというのも大きいだろう。
それ以上の「語りたいこと」が見えてこないので、えんえん犯罪者たちの奇妙な行動録を断片的に見せられているうちに、ほぼほぼ退屈してきて、ふっとこちらの意識が遠のくものだから、余計に何が何だかよくわからなくなる、という悪循環(笑)。
「人」ベースでも、「物語」ベースでもない、感情や思い入れや語り手のエゴを排した、純粋で非連続的な語り口の斬新さを称揚するのなら、大いに褒めどころのある映画なのだろうが、普通の劇映画としてはさすがに観ていて疲れてしまった。
べつにけなしているというよりは、このほぼ同じ枠組を用いながら、故国ジョージアへの熱いノスタルジィや、階級を超えた愛すべき人々の交流、倦み疲れた中高年への「旅」とデトックスの薦めといった要素がふんだんに織り込まれた『素敵な歌と舟はゆく』や『日曜日に乾杯!』のほうが、格段に映画としては楽しめた、という話だ。
逆にいうと、『月の寵児たち』の時点でほぼ独自様式としてのイオセリアーニ群像劇の「型」は確立されていて、後年の作品ではそこに監督が折々に強調したい主張を織り込んで、べつべつの作品に仕上げていったということだ。
その作品毎の「伝えたいこと」が、他の作品よりは希薄に感じられるぶん、とっつきも悪いということなのだろう。
「わかりにくい」「つながりがブツブツで追いにくい」という作劇上の「ツン」に加えて、とぼけたテイストで淡々と綴られているわりに、出てくるキャラクターがどいつもこいつも救いようのない犯罪者ばかりというのも、作品にのめりこめない要因のひとつだ。
一番目立つキャラが、どうしようもない飲んだくれでDV野郎でストーカーでマヌケのハゲ男。後段で事故って、観客全員がみんな「ざまあ」と思うくらい、いっさいの共感の余地のない屑である。
いっぽう彼の妻の父親は、小学校で音楽教師をやりながら、裏の仲間たちと銅像破壊の爆弾テロに全てを駆けている。
ほかにも空き巣強盗団、アラブ人のアサシン、娼婦、汚職警視など、おおよそまともな人間は出てこない。パリの「裏社会」で、その日暮らしを送るろくでなしばかりだ。
問題なのは、これらのピカレスクな面々に「可愛げ」があんまりないことで、そのへんが後年のイオセリアーニ群像劇と大きく異なるところだ。
要するに、とぼけたノンシャランとした扱いのわりに、出てくる連中がみんな救いがたい共感性の薄いゴミばっかりなので、こんな連中をこんな描き方していいのかな、というのが先に立ってしまう。個人的にピカレスク・ロマンやろくでなしたちの滅びの物語は大好物なのだが、この作品に限っては、「扱われている対象」と「語り口」のギャップ、違和感のほうが大きかったということだ。
考えてみると、イオセリアーニのフィルモグラフィにおいて、本作から『群盗、第七章』あたりまではまだ、「とぼけた」「ノンシャランな」雰囲気より、「シリアスさ」「犯罪性」「ピカレスク」「ぎすぎすした人間関係」といった要素が勝っている気がする。
『素敵な歌と舟はゆく』あたりから、いわゆる「ほっこりする」「幸福な」要素が前面に立ちはじめ、イオセリアーニの独自様式が成熟・深化してゆく。
その意味では、初期のイオセリアーニ作品というのは、斜に構えたシニカルな笑いをまぶしながらも、社会や体制に対する「不満」や「怒り」や「破壊衝動」がどろどろと内でマグマのようにたぎっていて、それが表面化することを抑えきれなかったのではないか。
だから彼の作品では、ゴダールやブニュエルと同様に、街のあちこちで爆弾テロが頻発する。これはイオセリアーニの内なる破壊衝動の現われ、本当はろくでもない社会も幸せそうな連中もまとめてぶっ壊したいという苛立ちの現われだ。
いっぽうで、イオセリアーニ自身はジョージアの富裕階層の出身で、しっかり高等教育を受けているし、美術・音楽・文学といったハイカルチャーに関する豊かな知識と愛着を併せ持っている。本人は、むしろブルジョワジー寄りの人間なのだ(大半の左派文化人は富裕層の出身だ。彼らインテリ層の労働者に対する「申しわけなさ」が社会変革運動の中核となるのは、古今東西変わらない摂理である)。
この犯罪者や裏社会や下層民やテロリストに対する心情的(左派的)傾斜と、みずからの出自としての富裕層文化(芸術・音楽・文学)へのアカデミック(教養主義的)な憧れの「バランス」において、初期のイオセリアーニは若気の至りで「荒ぶって」いたし、それがだんだんとこなれて、両方をうまくバランスよく配せるようになっていった、ということだろう。
『素敵な歌と舟はゆく』は、ブルジョワジーと貧困層を幸せな形で取り合わせてみせる、まさに「素敵な」実験だった。そう考えると、得体の知れない衝動にかられて、パリの犯罪者集団やホームレスとの交流にのめり込んでいった主人公のブルジョワジー青年は、そのままイオセリアーニ本人の化身だということになる。だから、あの役は「自分の孫」にやらせるしかなかったわけだ(宮崎駿が『風立ちぬ』の声優に庵野秀明しか使えなかったのと同じ理屈だ)。
細部のモチーフに関しては、絵画と骨董と故買屋、アフガンハウンド&ダルメシアン、ヨウム、弦楽四重奏(弾いているのはモーツァルト?)、煙草を喫う少年、廃墟、ポリフォニー(多声合唱)など、イオセリアーニ印の呪物がふんだんに盛り込まれている。
モノクロームで過去に遡ってみたり、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのような蝋燭の明かりを用いたショットがあったりと、かなり技巧的な部分も垣間見える。
『月の寵児たち』はとっつきにくい映画ではあるが、けっして出来が悪いわけではなく、むしろ流麗な場面のつなぎ方や、あえて意味性や恣意性を排して、ポリフォニックにエピソードを積み重ねていく禁欲的な語り口は、すでにこの時点から高度に完成されてもいるので、そういう実験性を映画鑑賞のモチベーションとしている人なら、充分楽しめる作品だと思う。
ただ、個人的にはもうおなかいっぱい&くたびれ果てました。
だからまあ、いまさらの日本初公開なんだろうけどね(笑)。