「偉大なる初代に比肩する、国産ゴジラの最高傑作!!」ゴジラ-1.0 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
偉大なる初代に比肩する、国産ゴジラの最高傑作!!
㊗️第96回アカデミー視覚効果賞受賞🏆おめでとうございます🎉
私自身が大のゴジラファンの為、この先文字数制限ギリギリまでの超長文になります。ですので、先ずはじめに私自身が本作について「賛」側である事と、全体的な評価を簡潔に。
【最凶のゴジラ像と監督お得意の昭和の世界観を、ハリウッドにも引けを取らない驚異のVFXで描き出し、愚直なまでの反戦メッセージと絶望に立ち向かう人々の姿を描いた美しき人間讃歌。山崎貴監督の集大成にして最高傑作!】
❶ゴジラのビジュアル
まず、何よりも今作のゴジラのビジュアルが素晴らしい!初お披露目の時点で1発で惚れたし、「これぞゴジラ!」と言える王道のフォルムだと思う。VHSで“平成vsシリーズ”に魅了され、“ミレニアムシリーズ”を劇場鑑賞してきた世代としては、正に理想のゴジラがお出しされた。
本作にも多大な影響を及ぼした、国産ゴジラの前作、庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』によって“新しいゴジラ像”が打ち出されて以降、アニメ映画やテレビアニメシリーズでも、とにかく「新時代のゴジラを作ろう」と、ゴジラのビジュアルや設定が“亜種”と表現した方が適切なのではないかと思えるくらい多種多様になってしまった。
とはいえ、【どんな見た目や立場さえも受け入れて、尚も主役として君臨する事が出来る唯一無二のキャラクター】という懐の深さがゴジラの最大の魅力でもあると思うので、「個人的には合わないけど、コレが良いって言う人達も居るんだし、これもまたゴジラ」と割り切ってきた。
しかし、やはり心の奥底では「vsシリーズやミレニアムシリーズみたいなカッコいいゴジラが見たい!」と常々思ってきたし、そういった欲望を、少なくともビジュアル的な面では満たしてくれるハリウッドの“モンスター・ヴァース”を鑑賞する事で、溜飲を下げてきた。
とはいえ、やはり国産ゴジラにこそ、一度原点に立ち返っていただいて、王道の直球勝負をしてもらいたいと思ってきた。
そんな中での本作は、正に砂漠でオアシスに辿り着いたかのような感覚だった。
この一点に関してだけでも、山崎貴監督に盛大に感謝の意を表したい。
必殺技の放射熱線の描写も抜群だ。エネルギーのチャージが始まると、尻尾の先端から背鰭がせりあがり、口からは空気を吸い込んで、チェレンコフ光で青く光った背鰭が一斉に引っ込むことで、前方に勢いよく熱線が放たれる。
監督曰く、今作のゴジラは原爆で誕生した経緯から、放射熱線にも原爆のインプロージョン方式の原理を応用したそうだ。自身にも反動でダメージが入る為、連続しては撃てないという諸刃の剣、正に必殺技というのがまた熱い。だからこそ、人間側はそれを逆手に取って作戦を実行する事になる。熱線の直撃だけでなく、爆発の余波すら尋常ならざる被害を齎すというのも、破壊神としての威厳があり申し分ない。
出現前には必ず、深海魚が浮袋を膨張させ、死体として浮かび上がってくるというのも、ゴジラという“破滅”が訪れる前兆として素晴らしく、姿を見せずに不穏な空気が漂い、一気に緊張感が走る。
容赦なく人々を踏み潰し、瓦礫の下敷きにする。熱線の余波で亡くなった人々に関しては、ゴジラにとっては認識すらしていないという無情。レーティングに引っ掛からない範囲内で、キチンと犠牲が描かれている。
更に驚くべきは、そういったゴジラの襲撃シーンを、大戸島の呉爾羅のシーン以外は、全て昼間を舞台に描いている事だ。
誤魔化しの効かない中で、今の日本映画界の技術と少ない制作費で全力で描き切るという潔さに、惜しみない拍手を贈りたい。
こういった表現の数々を拝めるだけで、既に鑑賞料分のリターンは貰ったと思う。
❷ゴジラの倒し方
初代では、芹沢博士が開発した“オキシジェン・デストロイヤー”という水中の酸素破壊剤によって、博士と共にゴジラは葬られる。しかし、これは人智を超えた超兵器であり、他の作品でも度々ゴジラへの対抗手段として、こういった超兵器が使用されてきた。
だが、本作ではシリーズ史上最も武器の乏しい状態で、人類は神殺しに挑まなければならない。
そこで提案されるのが、フロンガスによってゴジラを深海に急下降させ、水圧による圧死を図るプランと、バルーンによって急上昇させ、減圧によって過負荷を掛けるプランを合わせた“海神作戦”だ。
最終的に、漁船団の助太刀や幻の戦闘機「震電」による特攻と、それによって熱線を吐けなくなったゴジラが、自らの熱線のエネルギーが体内から漏れ出す事によって、その肉体を崩壊させていく事になる。
ゴジラという超常の存在に、人間は知恵と勇気と団結力を用いて、1人の犠牲者も出さずに勝利する。シリーズ史上最もリアリティーのある方法で、最も美しく勝利したと言えるだろう。
❸愚直なまでの反戦メッセージ
山崎貴監督の作風として、「何でも登場人物に台詞で説明させてしまう」「役者にオーバーな演技をさせ過ぎて、演技プランや演技指導が出来ていない」という悪癖がある。今作でもそれは健在で、確かにもっと映像だけでスマートに見せられたはずのシーンは数多く存在する。
しかし、吉岡秀隆演じる野田博士の反戦メッセージに関してだけは、あれで正解だったと思う。
「この国は、命を粗末に扱い過ぎた。装甲の薄い戦車、供給不足で餓死や病死が大半を占める戦死者数、片道分の燃料だけで脱出装置すら付けない戦闘機での特攻。
だからこそ、今回の作戦では、1人の犠牲者も出したくない。未来を生きる為の戦いをする!」
正直、目頭が熱くなった。
本作のクライマックスで展開される“海神作戦”の参加者である船員達は、皆戦争を“生き残ってしまった”人々だ。
そして、全員もれなくそれに対する罪悪感を抱えて生きている。「生きて帰れ」と家族や友人達に願われて戦地に赴き、無事生還を果たしたはずの人々が、「死ぬべきだったかもしれない」という罪悪感に苛まれながら生きている。敷島の台詞にある通り、彼らにとっての戦争は未だ終わっていないのだ。
だからこそ、今作のゴジラは、彼らにとって強烈な戦争のメタファーとして描かれており、ゴジラを倒す事で、ようやく彼らにとっての戦争も終わりを告げたのだ。
クライマックスの敬礼は、ゴジラという畏敬の存在を屠った事に対する謝罪であり、同時に戦争の被害者や払われた犠牲に対する鎮魂の意も込められていたように思う。
❹音楽の使い方
伊福部昭さんの楽曲は勿論の事、佐藤直紀さんによる楽曲の数々も素晴らしく、また掛かるタイミングも神懸っていた。音楽の良さだけでも、先述した台詞や演技に関するマイナスポイントを大幅に補っている。特に伊福部楽曲は、今作の為に再録までし、シーンに合うよう微妙にテンポ感まで調整したらしく、そういった面でも気合いの入れようが凄まじい。
❺ラストシーンの解釈による、本作の受け止め方の違い。
これは、典子の奇跡的な生還について。ライト層とファン層とで、受け止め方に180°の違いがある。
一見すると、ハッピーエンドと受け取れるし、そこで賛否が分かれもする。「安易なハッピーエンドにガッカリした」と。
私自身、ゴジラ銀座襲撃時に浩一を守る為犠牲になるという描かれ方の容赦なさに「やってくれたよ、山崎監督!」とテンションが上がりもしたし、海神作戦決行当日に電報が届いた瞬間、ラストが読めてしまい少々落胆もした。
また、初見時は首のアザがアザには見えず、縛り残しの髪の毛か、治療用の管が刺されて肌色のテーピングで固定されているように見えた。
しかし、2度目の鑑賞で、病室での明子の表情や態度に違和感が生じた。これは、明子役の永谷咲笑ちゃんの最高の演技のおかげなのは間違いない。それに気付いた瞬間、初めて本作を「怖い」と認識した。
それは、シリーズファンにはお馴染みの【ゴジラ細胞(G細胞)】についてだ。
ゴジラ細胞の設定は、『ゴジラVSビオランテ(1989)』から取り入れられた設定で、ゴジラの驚異的な生命力や再生力を担う細胞である。
その後も『ゴジラVSスペースゴジラ(1994)』では、宇宙に渡ったモスラに付着した細胞がキッカケで、ブラックホール内で結晶生物と混ざり合った結果、スペースゴジラが誕生した。
『ゴジラ2000ミレニアム(1999)』では、細胞内の再生力を司る物質に“オルガナイザーG1(以下OG1)”という新しい固有名詞が付与され、更に「ゴジラ以外の生命体では制御出来ない」という設定も追加されてきた。
実は、私が本作のラストのトリックに気付けなかったのは、このOG1の設定があるからでもある。「ゴジラ以外は制御出来ない、怪獣レベルでようやく物になるような驚異の細胞が、たかが人間如きに付着し融合したら、即座に宿主は乗っ取られて死亡するだろう?」と。
だが、思い返してみれば、本作のゴジラはミレニアムゴジラより耐久性に劣る。
内側からの攻撃に特に弱く、高雄の砲撃でもダメージを喰らい、再生部分は他の箇所とは色味の違う不完全な状態だった。
となると、典子がまだ肉体や自我を保てている事にも説明がつくし、明子は本能的に何かを察して、典子に近寄らなかったのではないかと考える事も出来る。
ところで、私自信が引っかかっているもう一つのシーンについての考察も付け加えておきたい。
それは、海神作戦前夜、浩一が特攻覚悟の心理状態で明子を迎えに行ったシーン。
自宅にて明子から絵を渡された際に、突然明子は泣き出してしまう。浩一も訳が分からずなだめるが、もしかすると浩一が典子と同じく帰らぬ人となるかも知れない事を敏感に感じ取って涙を流したのかもしれないし、そう受け取るのが普通だろう。
この“子供ならではの敏感さ”が典子について働いていた物だと考えるとどうだろう?
翌朝、明子が澄子さんに面倒を見てもらっている敷島宅に、電報が届く。それが何故このタイミングなのかを考えてみると面白い。
つまり、前日まで典子は生死不明の重体、もしくは昏睡状態だったのではないかという事だ。だが、典子がゴジラ細胞と融合した事で、突如劇的な回復を見せ、意識を取り戻した。明子が突然泣き出したあの瞬間に。あの瞬間、明子は離れた場所にいる典子が“私の知る母ではない存在”になってしまった事を感じ取っていたとしたら?と考えると、あの涙の意味が違ってくる。
❻ゴジラの放射能汚染について
今作では、敷島をはじめに多くの人間がゴジラと至近距離で接している。しかし、彼らが被曝によって身体に異常を来す描写はない。
しかし、ゴジラの拘り抜いた描写からも分かる通り、山崎監督は「分かっている側」の人間だ。銀座襲撃後の荒地で政府の調査員がガイガー計器で放射能濃度を計測し、絶望的だと理解している描写まであったのだから。
GHQの報告内容や政府の調査員の反応から、時代的に見て政府間では放射能の恐怖は認知されているが、一般にはまだまだ認知されていないのだと思う。
つまり、敷島達はこの先決して長生きは出来ない事を映像だけで観客にキチンと示しているのだ。今作は一見するとハッピーエンドだが、典子の首のアザは勿論、目に見えない部分も徹底してバッドエンドのスタイルを貫いている。
それはつまり、山崎監督からの「描いてないけど、分かりますよね?」という観客への信頼の証だろう。実は、説明していない部分にこそ、今作の本質があるのだ。
❼まとめ
そんな絶望感漂うラストを見届けて、改めて本作のキャッチコピーが生きてくる。
“生きて、抗え”
これはつまり、この先も続くであろう人類とゴジラという“神”であり、“戦争”の具現化であり、核を弄んだ人類の“被害者”である存在との戦いを、両者共に生きて抗い続けろという事なのだろう。
色々不備も目立つ作品である事は否定しない。しかし、それでもやはり令和初ゴジラが、ハリウッドにも引けを取らない驚異のVFXで描かれ、愚直なまでの誠実な反戦メッセージを孕んで世に放たれた事が嬉しくて堪らない。
山崎貴監督、お疲れ様です!ありがとうございました!!