「この国の-1.0にむけて」ゴジラ-1.0 critique_0102さんの映画レビュー(感想・評価)
この国の-1.0にむけて
1954年の驚動に戻るまで70年かかったということだろうか。
今回の作品は、つい先日まで放送されていたNHKの朝の連ドラのことを考えると、万太郎と寿恵子の物語のようにも思えてしまう。それはそれでいいと思う。確かに二人の情愛はあの作品とこの作品では異なっているのだから、あの作品を下地にこの作品を見るのも悪くはない。なにせ、あんなに万ちゃんに尽くした寿恵ちゃんの命が奪われてしまった・・・と思っていたら、最後に笑顔を見せてくれたのだから(しかし、これがこの作品では大切な鍵になるのだが)。また、あのドラマを観ていた者は、あき子になった園ちゃんを感じていたかもしれない。それはそれでいいだろう。
さて、この映画である。
前回の「エバ的駄作」とは決定的に違うものがある。それが何か2時間余りずっと考えていた。作りは至ってシンプルだ。ストーリーも単純。登場人物もあまりにもわかりやすい。
しかし、じつはそのわかりやすさにこそ、簡単には理解し得ないものが隠されているのだろう。
おそらく、おそらくなのだが、あのエヴァ・ゴジラと決定的に異なるのは、「ゴジラ」に存在する私たちの「負債」を物語に徹底的に織り込んだということではないのか。
前回の「ゴジラ」。自分は次のように書いていた。
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可能であれば、60年かかってもかの問題を超克できないでいるこの国に、あえてセンセーショナルなタブーをぶつけて欲しかった。希望なき身も蓋もない最後から、何が見えてくるのか問うて欲しかった。でなければ、エヴァファンが喜ぶだけの、薄い映画にしかならないだろう。
1954年のゴジラを、今ここで問う意味を、3.11とフクシマの後にきちんと問いただして欲しかったと思うのは自分だけなのだろうか。
*映画終了後、自分の目の前で「すっごーく面白かったねぇ〜〜」と躊躇いもなく彼氏に笑顔を振りまいていた女の子。この時点で、この映画は、失敗作だと確信した。これは人の心の悪と罪に、届いていないのだと。ゴジラは我々自身であることが描かれていないのだと。
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今回の結末は明るいようでいてじつは重たいものがある。いまだ不分明な将来に託すあり方が最後に待ち受けるのだが、実はそれが笑顔の中にしかない。その笑顔によって生きることを徹底して描き込み、それによってかえってその辛さを滲み出そうとしているかのように思える。
約束された生から一転、約束されてはいなかった死へと落ちる。一般にはこのように生と死を捉えたいと、人は願うだろう。しかし、この物語は、誰もが約束されてはいない生をいかにして生き抜くのか、むしろ約束されている死をどのように迎えようとしているのかに焦点を当てている。
典子の無事を人は安堵する。いささか予定調和的で、陳腐なまでの結末は、だが、このようなありきたりの流れにこそ、徹底して生き抜くことを主題化しようとした意図があったのではないのか。周りから嘲られ生と死のはざまに苦悶する霧島もそうだろう。その霧島に生きることへの光を見出させる橘もまたそうだろう。典子とて、自らの意思とは無関係に一人の生を引き受けなければならなかった。
だから、私たちは至るところで生を根扱ぎとするものに出会う。
それにどのように向かいあわなければならないのか。
その「根扱ぎ」がゴジラという表象を通して立ち現れてくる。
しかし、この国は、1954年以降、その表象を捨ててしまった。ゴジラを通して表象されていたものをも捨ててしまったのだ。だから、ここにも「負債」がある。1954年が始まりだとすれば、その後は絶えず負債を増やし続けたということか。
かつて『永遠のゼロ』という無意味な数字で生と死を美化する反吐が出るほどの小説・映画があった。それもまた負債の一つだろう。
(このバブル世代の監督は、この自らの負債を消しにかかったのだろうか?それとも、なおそれを自らの負債として返済することをあえて拒んだのだろうか?聞いてみたい[2024.5.14追記])
1954年のゴジラは、10年の戦後の復興と繁栄があまりにも表面的なものだということを思い知らせるものだった。そして、その時代は「核」から逃れることはできないということを私たちに突きつけた。私たちの成長は、死の延長線上にあるということがリアリティを持って物語の中で語られていたのだった。ゴジラはその表象であったのだ。
しかし、私たちは見事に忘れた。ゴジラを忘れ、私たちを忘れた。
私たちは、「東宝チャンピオンまつり」にうつつを抜かした。いまだに続いている「VSシリーズ」はそれに目を向けようともしなかった。私たちは、恣意的にゴジラを飼い慣らし「ゴジラの映画」にしたのだった。
今、70年を経て問わなければならないだろう。
「ゴジラ」とはそのような存在だったのだろうか。私たちは、ゴジラを了解可能なものとして手元におきたかったのだろうか。
違う。最初の作品のセンセーショナルな印象は、私たちの理解を超えた、いわば不条理な絶対的な存在でしかなかったはずだ。しかし、それでいながら絶対的に外在化できない存在でもあったはずだ。
1954年以降、私たちはゴジラを整理し了解可能なゴジラをひたすらに求めたのだった。あまりにも整理しすぎたその姿に初回の破壊力も衝撃も、もはや探すことはできない。それは現代的な技術で対峙するものを透明化しようとするテクニカルな姿でしかない。
あの駄作、「モダン」を追求した結果、安っぽい別作品のコピーになってしまった。それに対して、今回は極めて「クラシック」な問いの中で「ゴジラ」の意味内容を投げかけている。残念ながら前作は、エヴァ的な審級でしかそれを判断し得なかったところに最大の「不幸」があった。
負うたものはここで返済されるのか。
70年の負債は、70年前に立ち戻ることによって帳消しにはされない。
もしそうしなければ、負債をそのまま引き受け、「ゴジラの映画」ととして生き続けることを望むのだろうか。
ゴジラを外在化などできない。
ゴジラは私たちそのものである。
私たちの罪であり悪、
私たちの希望であり良心、
徹底して受容しつつ抗う存在、
私たちの生と死の表象そのものなのだ。
ゴジラを「ゴジラの」映画から解放する。
「ゴジラ-1.0」
この物語は1954年よりも以前のものではあった。
しかし、と同時に、この物語は1954年に立ち戻らせるものであった。
1954年のゴジラを再表象するということ、それがこの作品の使命ではなかったか。
「-1.0」という数字の意味は、この国の戦後の在り方を再考させるものでもある。