次元を超えるのレビュー・感想・評価
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気になる方は一人で観てね
■ 作品情報
豊田利晃監督による「狼蘇山シリーズ」の集大成。第54回ロッテルダム国際映画祭出品作品。監督・脚本: 豊田利晃。主要キャスト: 窪塚洋介、松田龍平、千原ジュニア、芋生悠、渋川清彦、東出昌大、板尾創路、祷キララ、窪塚愛流(声の出演)、飯田団紅、マメ山田。
■ ストーリー
修行者・山中狼介が、宗教家・阿闍梨の家を訪れたのちに行方不明となってしまう。山中の恋人・野々花から捜索依頼を受けた暗殺者・新野風は、法螺貝に導かれるように狼蘇山で邂逅を果たす。狼介と新野は、鏡の洞窟で対峙し、時間も空間も次元も超えていく。(ごめんなさい、自分でも何を書いているのわかりません。)
■ 感想
冒頭から漂うオカルト的な雰囲気には、正直引き込まれるものがあります。これは期待できるかもしれないと心躍らせ、SFやサスペンスの要素も垣間見え、いったいこの物語がどこへ向かうのか、ワクワクしながらスクリーンを見つめていました。
しかし、期待は裏切られ、物語は完全に理解不能なカオスへと突入します。宗教的、哲学的、あるいは精神的な何かを表現しようとしているのかもしれませんが、それが何であるのか、全く掴むことができません。意味ありげに続く無駄に長いカットの連続は、意図的に物語の進行を妨げているとしか思えず、その遅すぎるテンポは、集中力を容赦なく削いでいきます。おかげで、わりと早い段階から理解が追いつかず、方向性を見失い、覚醒を保てませんでした。
今思えば、この作品自体が観客に一種の呪術をかけているのではないかとすら感じるほどで、自分はまんまとその術中にはまったようです。もはや他の方のレビューを読んで、深く考えを巡らせて理解を深めようという気力すら湧きません。
鑑賞後、後席から聞こえてきたご婦人方の「なんだかごめんね」「いいよ、のんびりできたから」という気まずい会話が、この映画のすべてを物語っているように思えてなりません。基本「ぼっち鑑賞」の自分は、誰にも迷惑をかけることなく、この異次元の映像体験を完遂できました。それにしても、まあまあの客入りでしたが、いったい何人の人が次元を超えられたのでしょう。自分は小指を失いたくないので、一生超えられなくていいです。
【”極悪阿闍梨、そして法螺貝と呪術と狼。”今作はぶっ飛んだサイケデリック&サイコキネシス作品であり、ぶっ飛んだ世界観に圧倒された作品でもある。豊田監督、又吸っちゃったのかな!ホント、スイマセン!】
ー いやあ、今作は凄かったですねえ。
冒頭から、お笑いの人だと思っていた千原ジュニアの怪し気な阿闍梨の振る舞いの数々と、あの金髪を振りかざしての、数々の呪術対決。
ナイス、キャスティングだと思う。
そして、何度も何度も挑戦してあっさり負ける弱っちい阿闍梨。(渋川清彦)
可哀想なのは、小指をちょん切られた東出昌大演じる妻に逃げられ、子供に馬鹿にされているという男である。絶対に豊田監督の東出昌大に対する意地悪だと思う。クスクス。
豊田組常連の松田龍平演じる幽霊野々花(芋生悠)に極悪阿闍梨殺しを頼まれた殺し屋と、極悪阿闍梨とのサイコキネシス対決も、マア凄いのである。松田龍平って、ヤッパリ目が怖いよね。
あ、そうだ。主役は、窪塚洋介演じる狼介だった。ゴメン、忘れてた。恋人野々花が自殺した事で、極悪阿闍梨の元に来た狼介も、サイコキネシスパワーが、コレマタ凄いのである。
そして、窪塚洋介演じる行者を”ロースケ、ロースケって言っているから何のこっちゃと思ったら、アンタが狼かい!”と思ったのである。ー
<今作は、どこかの次元にぶっ飛んでいった行った人たちの意識が、呪術によるものであったとか、トニカクぶっ飛んだ世界観に圧倒された作品である。
思わず、”豊田監督、又、吸っちゃいましたか!あのピストルはご自分のですか!”などと、不埒な事を思ってしまった作品である。ホント、スイマセン(ギャグじゃないよ!)>
<2025年10月19日 刈谷日劇にて観賞>
なんか次元を超えた気がします。
中年のナルシシズム。
Meditationが足りない🫥
次元を超える
映像も意識も時空も次元も超えてるとは見えない🫥
TRANSCENDING ならインターステラー並みの先達クリストファー・ノーラン監督的な新しい感覚が欲しい🫥
法螺貝を幾ら吹いても飛びはしない。
せめてディジュリドゥを2時間吹くと飛べるだろう🫥
修験者と修行者とは違うわけで、躊躇しているなぁ🫥
レビュー6
(^ω^)
次元を超える
豊田利晃監督が、長編フィクション映画としては「泣き虫しょったんの奇跡」以来7年ぶりに手がけた作品。
2019年に発表した短編「狼煙が呼ぶ」にはじまり、「破壊の日」「全員切腹」など近年の「狼蘇山シリーズ」と呼ばれる作品群の集大成となる長編で、
窪塚洋介と松田龍平を主演に、行方不明になった修行者とその捜索を依頼された暗殺者が繰り広げる、時空を超える壮大な追跡劇を描く。
孤高の修行者・山中狼介が、危険な宗教家・阿闍梨の家に赴いたのを最後に消息を絶つ。
暗殺者・新野風は、山中の恋人・野々花から捜索を依頼され、山中の行方を追う。やがて2人は法螺貝に導かれて狼蘇山で対面し、次元を超えて鏡の洞窟で対峙する。過去から現在、そして未来を駆けめぐる2人は、日本から地球、さらに宇宙へとたどり着く。
修行者・山中役を窪塚、
暗殺者・新野役を松田、
阿闍梨役を千原ジュニア、
野々花役を芋生悠がそれぞれ演じるほか、渋川清彦、東出昌大、板尾創路、祷キララらが顔をそろえる。
次元を超える
2025/日本
小指に乗って宇宙へ
雑である。会心の駄作!
初レビューです。ネタバレあり、考察マシマシです。
私は映画には詳しくありませんが、オカルトを全面に出しながらSFを切り口にしている、と恋人が指摘していてなるほど、と思ったのでレビューしてみます。
私が個人的に気になったことは
①カメラワーク、時間感覚
②視覚効果偏重
③モチーフと役柄のアンバランス
です。
①前半の撮り方は新野(松田)をドキュメンタリーのように撮影しており立場がはっきりしていたと思いますが、彼が途中術が使えるようになってからはカメラワークが阿闍梨(千原ジュニア)や山中(窪塚)を映す際と同じような形で撮影されており、「術を使える人間」をひとくくりに表現しているように見えました。殺し屋は銃を使って遠隔攻撃をする。つまり銃という術式ありきの術師であると言い換えることができます。最後に阿闍梨は銃口の中に山中を見た。そのようにみれば、新野に術師としての経歴がもともと備わっていたことに不自然さはないと思います。ですがそのような術師としての条件を満たしたとはいえ、阿闍梨・山中・新野の三者は、術者として何に則るかという点において全く異なる位相に基づいて行動しています。
阿闍梨は宇宙のエネルギー=法則的自然
山中は精神のエネルギー=円環的自然
新野は魂のエネルギー=天然的自然
を起源に据えた術を使用しています。単純に同じ空間的な現れとして関わっているからといって、これらの全く違う理念に則った3人が同じ技法で表されることには、違和感しかありませんでした。その技法とはカメラワークが主ですが、空間の表現と時間の表現がちぐはぐだと思いました。宇宙のCGがすごかっただけに、他の映像の時間感覚が長く感じる。あのテンポ感では、現実世界と精神世界が同様の時間感覚で表現されているように思いました。
②視覚効果の偏重についてです。
死霊にもかかわらず作中での「狼=導き手」の役割である山中の彼女がどの人間とも関係の必然性が薄いと感じました。彼女との関わりを通して、彼らには重要な示唆が与えられる描写たくさんあるのに、、なんで気づいてくれないんだ…と術者に対してモヤモヤ。術者なのに…魂への理解度は相対的に高いはずのに!!
視覚表現として、新野に彼女が見えていること・新野、阿闍梨、山中が彼女を同じように知覚されるような表現でした。半透明にすることで幽霊感を出す、という方向ではなかったので、より幻覚感があって面白かったです。ただ、視覚表現として映画内で一貫していると、それは実体として感得されてしまうのではないでしょうか。
彼女は山中の方を「成仏させて」「殺せ」と言っているんですが、山中側は5年前に彼女は死んでいて、彼女は死霊だ、と彼女のことを説明する。二人とも死霊なのか?と思うんですが、状況的にそういうわけでもなさそうで、山中は生きていて、山中の彼女は死んでそう。
新野の目の前で彼女が電車に轢かれるシーンでは、彼女が電車に掻き消えるように表現されています。その後血飛沫が新野の顔に付着しており、彼女が実体なのか死霊としての存在なのかはハッキリしないまま新野は突き動かされるように殺し屋として殺しに行きます。銃を扱うようなめちゃくちゃ人間の肉体に信頼を置いているような人間が、死霊として現れた彼女の言うことを聞いて平然と術を使うようになるのは、なにか必然性がないと納得しづらいな…と思います。新野にとっての山中の彼女がどういう位置づけなのかハッキリさせてほしかった。
死霊として役柄がハッキリ定まっている彼女を描写することは、今回の術者三人にとって「主観においてどのように幻として現れているのか」を間接的に表現するのにいい材料だったのではないかと思います。だからこそ消化不良です。途中、殺しの依頼で口座に振り込んだ宣言してくる死霊ってなんなんだ?と、ギャグとして消費しちゃいそうになった自分に焦りました。彼女、めっちゃ重要なはずなのに、なんで術者たちはスルーしてるんだ?と。そこが解消されてほしい。あと、鉄平という不良みたいなのも術者として出てくるんですが、まぁ力がない。滝の麓で、呪おうとしてるはずが浄化の術をかけてるし。鉄平ギャグはめっちゃ面白かった。なんなら、ギャグ路線で進んでくれてもよかった。
③モチーフと役柄のアンバランスについて。これまでのところで触れてますが、役柄が曖昧に感じる。この映画も一つの物語=フィクションなのに、映画の外側を想像力のレベルで喚起させられたのはつらい。せっかくなら物語の必然性がある方が、宗教のようにこの映画に熱中できたのに。北斗七星、法螺貝、小指、六角形、鏡、ビビッドな宇宙など、蓋然性の高い多様な象徴が出てくる。けれども、役柄の方が柔らかくセリフも少ないので能力や術の方が典型として強調され、「結果的に術者の幻覚はやはり狂気によるものである」ということが露呈した形として受け取りました。たんに次元を超えるといっても、人間は肉体を持っていてだからこそ超越に価値があるわけです。(作中のどこかのシーンで、生きているうちに悟らないと意味がない!と叫ぶシーンがあったように)そういう、肉体との葛藤が小指のシーンでもう少し描かれていたり、肉体と対決するシーンが新野に用意されていれば、観客としては感情移入しやすかったなぁ、と見終わった後に素朴に思いました。
また、死霊のモチーフが出ているにもかかわらず、内的描写が魂ではなく精神のみに割かれていることにも違和感を覚えました。ただ、これは阿闍梨との比較のためにも山中という人物描写を丁寧にするためにも必要だったのかなぁと思いました。
精神については山中の精神世界が何度か出てきます。鏡張りの部屋のような空間とも言えない空間で、山中はそこで静かに一点を見つめている。2-3回その描写が長尺で出てくるのですが、2回目?で「Come back again.」とだけ告げてくる真理らしき老人(マメ山田)が、ビビッドな背景を伴って山中の前に現れます。この山中の体験は、阿闍梨が科学者と協力して山中を研究所らしきところに監禁し、光源を浴びせ脳波を測ることで、「次元を超える境地」を科学的に引き出そうとして起きたことです。この精神世界の表現は、格子状の六角形の網や法螺貝の象徴性を使って表されます。
山中は、精神を普段から自分自身の像で満たしていて、外に興味がない。内面のそれが自分なのか徹底的に懐疑していたからこそ、内側に突如現れた超越への誘惑に飲み込まれることなく自分の臨界点を把握することに成功するわけです。ビビッドな異物としての真理との対面が終わってから彼の精神がどうなったかは、その後新野が山中の精神世界に迷い込むシンクロニシティによって、山中の精神が不動であることが明らかになる。だから、彼の元々の悩みは死人の声が聞こえ、心の雨に打たれると死んだ知り合いの顔が浮かぶことにあったのに、死んだ人だから死霊だ、と平然と新野に返事していたわけですね。彼女が死んだことを他の人間に指摘された場面では精神世界で取り乱してもおかしくないのに。並大抵の精神力ではない。
新野に関しては、もう少し精神的な描写を書いて欲しかったけど、彼の場合は精神よりも魂のほうが重要なんでしょう。(俺は俺の直感でやってる旨言ってたので)だから、彼女との交流をもう少し描いて欲しかった…。ただ、新野は最後銃を滝の前で暴発させて終わるというミステリアスなエンドをもって幕引きしているので、術を使えるようになったはいいものの、自分の魂しか信じてないので他の人の魂がどうなろうと知ったことじゃないのかもなぁ、と。自分は自分だ、だからそうする、という。だけど、実はそのスタンスは呪術を脱却する向きではなくて呪術を当たり前に前提とするという信念で動いている。他の二人がホラ吹き…宗教的な詐欺師としての葛藤を持っているのに対して、新野が当然のように他者の命を奪えるのには、こういった背景があるのではないかと思いました。ある意味で、呪術に対して傲慢なのは新野。
あと、同じ術師でも阿闍梨は宗教的に信者臭さが抜けていない。だから、信者に対しては傲慢に振る舞えるけれど呪術に対しては傲慢にはなれない。小指を捧げ続ける。姑息ですが、ファルスの象徴としての小指を捧げることに奮闘し、女性と金が降ってくる物語を阿闍梨は選び、頭を撃ち抜かれて強烈な力で捩じ伏せられたいと思っている。冒頭に出てくるヤス(東出)と同じマインドだ、と、山中との対比、新野との対決によってようやくわかる構成になっていて、不気味な宗教者が、一気に盲目な信者と同族であると示されるのは鮮やかだなぁと感心しました。限界まで精神と現実をまぜこぜにすれば、蓋然性はある程度ある状態で幻覚も見えるでしょう。「宗教は物語だ(フィクションだ)」という言い方も阿闍梨のセリフとして成立していたのも、なるほど、と思いました。ただ、こういう視覚描写をもっと聴覚や味覚などを総合して没入することができれば、最後のシーンの「全ては呪術なんだ!お前も呪術にかかっている!」という阿闍梨の叫びともいえるクライマックスのシーンが、観客にとってもっと切羽詰まった問題になったのではないかと思います。
本当にここまで考察できるいい映画なのに、表現の雑さのせいで駄作になっていると思ってしまって悔しいです。『次元を超える2』がでたら絶対に観に行く。
呪術合戦
怪しい宗教家阿闍梨と彼のもとを訪ねて行方不明になった山中狼介の話。
修験者の様な男が法螺貝吹いて、そして狼権化がなんちゃらと宣う宗教家が、道案内して貰うには小指がー…と始まって行く。
あんたは両手とも指揃ってますけど?と胡散臭さを感じていたら、えっ呪術?
そして彼氏を捜して欲しいのか敵を討って欲しいのか良くわからない女が…えっ?オカルトホラー。
それならそれで良かったのに、気づけば小指でSFファンタジーかコメディか…面白くも楽しくもないけどね。
途中異様に眩しいし、テンポが悪い上に結局良くわからんし、半分ぐらいの尺で良かったんじゃないかな。
祈りで始まり、祈りで終わる。その祈りは次元を越える
世界をウバイ返す!!あのクズ共から。。
静かな雨はこの世界には存在できないものたちの声、、、
それが聞こえる狼介(オオカミ)はあの世界の案内人。
SE映画みたいな現実、、、AIと呪術、、、
この世界に生まれ落ちた時点で、
すでに何か魔術的な術にかかっているのかもしれない。
新野風(殺し屋)は、あの物語の中で自分の直感を信じているようだったが、最後は祈るしかなかったように思う。何かに生かされている。僕らはちっぽけはにも感じる。
二人の狼が、次元を超えて、ぼくら観客をあの次元へ連れていってくれた。
あいつらが作ったこのクソみたいな世界を僕らの青に還す輪廻転生してまたあの女性に出会うまで、、、
なぜあの女性(野々花)は、死なないといけなかったのか、、、
きっとこの世界にいたくなかったのかもしれない。
阿闍梨(千原ジュニア)の呪術にかかった狼介、、
こんな世界を作った阿闍梨を否定、死後の呪いとなってこの世界を否定する者(野々花)。
殺し屋は、この世界に生きる者を死に誘う者→この世界を否定する者
阿闍梨もまたこの世界に生きる者を否定する。→小指で次元を超えさせようとする。
鉄平(渋川清彦)は、阿闍梨を否定する。インチキキンパツクソロン毛呪術師?
狼介は、今を否定している、女性がいなくなった世界。だから過去の女性との思い出を回想する、
この世界に生まれ落ちた者たちへのメッセージ
生半可に生きるな・・・血を出す、命を削って生きろと、、、
甘い、お前たちは、、、指くらいやけど、、指は絶対に落としてはならない。
そんな指落とすくらいで済む人生ではないと、そんな簡単にしたいならヤス(東出)みたいなクソな人生をおくればいいと、、まさに現実の東出のような生き様に、この世界にのみこまれるな!!
奪い返せ、自分の人生を、、、自分の世界を、
次元を超えて生きてみろ
と痛感してThe Birthdayの「抱きしめたい」で洗い流され心の迷いが浄化されてゆく。
優しくもある、心地よく包んでくるようなエンディング曲だった。
まさに100人いると、10人が刺さってくる映画だと思いました。映画館で見れてよかったです!!
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