草原に抱かれてのレビュー・感想・評価
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アルスの決断は結局…?
内モンゴル自治区の都会に住む主人公のアルスがエレクトロニックミュージックのミュージシャンをしながら生活を営んでいるのだが、ライブ中に母から電話がかかってくるくるもライブ中のために電話を取ることが出来ない。ライブが終わりアルスは母に電話をかけるも母は電話をかけたことすら覚えておらず、息子の声を聞いても"どちらさんですか?"と話し息子すらわかっていない。
アルスは母の異常事態を察知し、母が暮らす兄夫婦が住むアパートの一室を訪ねるのだが、母はアパートの一室が柵で封鎖されたまるで独居房のような部屋で生活をしていた。
何も事情を知らないアルスはどうして母をこんな部屋に入れるのか理解が出来ない。一緒の時間を過ごすことで、次第に母がアルツハイマーを患い"草原に行きたい"がために行き先もないまま徘徊をするという理解不能な行動を取るためにこれ以上迷惑はかけられない諸事情からやむを得ないというのだ。
状態に見かねたアルスは母を引き取り母が行きたいと話す"草原探し"の旅へ、かつて住んでいた自宅に戻りその家を拠点として母の思い出の草原探しのヒントを探る日々がスタートするのたが、かつて住んでいた自宅ですら母は覚えていない、亡くなったの夫の衣服ですら何もわかっていない。
住んでいた家は電気もガスもないため、電気は自家発電するしかないが肝心の蓄電機が使えないために急遽地元の便利屋というべきだろうか、駆け付けた女性に助けてもらうと家はやっと生活ができるような状態になっていくが、母の病状は悪化していく一方。再び徘徊癖がはじまったために流石のアルスも手を焼いた結果、母が徘徊しても迷わないためにロープで自身と括り付けるしか方法が見出だせなかった。それではせっかくの独居房のような部屋から開放したのに、囚人のような生活であることに変わらない生活が戻ってしまった。展開していくにつれ母はティーンだった頃に撮影したであろう樹の下をバックにした写真を手に思い出を語り始めると、アルスはこの樹がひょっとしたら母の記憶が蘇るのではと思い、旅のゴール地点が思い出の草原探しから思い出の樹を探す旅へと変わってゆく。
通り掛かった遊牧民に思い出の樹が写る写真を見せ何処にあるか訊ねたところから、遊牧民の方々と共に過ごす夜でアルスが馬頭琴を演奏すると少しずつだが眠っていた記憶が蘇ると、下の息子(アルス)は音楽の才能があると遊牧民の女性に自慢気に話すシーンで、恐らくだがわたし個人的な見解になるのだが、アルスは母がいるべき場所はこの遊牧民の方々と共に生活をすることではと気付く。
アルスは母の記憶が蘇ってきたことがわかったところで今まで括り付けていたロープをついにナイフで切ると、母は焚き火を囲むようにして踊る遊牧民の中へと消えていく。
前述したが、恐らくと前もって書いたのは何で?となるからだ。シビアに考えたら介護放棄するシーンでもあるため、賛否両論あってもおかしくない。だからこそ、アルスはどう考えたかを推察するしかないとしたら、アルスは結婚するまで遊牧民だった生活に戻してあげることが真のゴールだと思って括り付けていたロープを切ったのなら、"苦しまないで、もう自由になったからね"とも伝わる。
母を遊牧民のところへ預けてから、遊牧民の方から教えて貰った母の思い出の樹を探す旅が再開するとやっとの思いで母が探していた思い出の樹を見つけ感慨深い感情で樹に近付くと触って感触を確かめると母の代わりに原題である"へその緒"に辿り着けたといったところでエンディングになる。アルスが叶えたかったものとは何か、介護放棄にも故郷に帰してあげたにも、結論は分かりません。
草原の記憶、暮らし、家族を繋ぎ止める
モンゴルの映画だから草原で日本語タイトルが、いまいち。でも美しい草原の記録は貴重。
タイトルは臍の緒のようなもののこと。実際や母がいなくならないよう親子で縄で命を守るため繋がっているのだが。息子たちが生まれた時の臍の緒、母が生まれた時の祖母との臍帯。生命を繋ぎ、世代を作り。今は古い写真で記憶を手繰り寄せる手綱。
認知症なのか子ども返りして記憶の曖昧な美しいモンゴルの草原の母。子どもの頃の草原に両親と住んでいたゲル大きな木の下、そこが家だとそこに帰りたいと。
都会でミュージシャンの下の息子。草原の暮らしができなくなったのか望んでかおそらく国家政策及び経済のため、子どもの教育とかもありそうな中途半端な街暮らしの上の息子一家。
下の息子がすっかり記憶の彼方の草原の暮らしに母を連れて帰る。この事で草原のモンゴル人としての暮らし、記憶、家族の系譜が息子の世代にインプットされつなぎとめられる。
草原で知り合った電気屋の娘の家は未だ大家族で羊を飼ってくらす。
いろんな人、酔っ払いの羊飼いとか、
迷い子の羊のために柵を乗り越え入った牧地の主人とか、
息子と母とか、
出会い、別れる時、バシッと重厚な音がするくらいの抱擁をするのが印象的でその力強い抱擁やアイコンタクトにそこに、草原に暮らしてきた、これからはそうもいかなくなりそうなモンゴルの悠久の人々の歩みと記憶を強く押し留めるような強い繋がり連帯を感じた。主人公の親子は夢うつつのなかで母と子が、子と父になり甘美な子ども時代の情景、うっとりするような歌声、さまざまな自然の音、などが去来する。この親子だけではない、電気屋大家族の暮らし方や、母親が袖を通してどうしても欲しいと言った商店の娘さんが母親のために作ったという、丁寧に作られたモンゴル服、など叶うならこのまま伝えていきたいもの、記憶の中でだけでも生き続けてほしいものが散りばめられていてこれが臍帯として幾重にも重なる。かたや、草原に威圧するように屹立する風力発電の巨大風車や民族の言葉を正確に話し警察に通報すると脅してくるドローンたち、結びつけた紐が解けてしまうものたちも、すでにそこに当たり前に存在している。
次に見るモンゴル映画は草原が舞台でも草原なんちゃらというタイトルにならないことを願いつつ。美しい映像堂々たる役者さんたちに感謝。
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