「十五人のフツーの男たち」ヒトラーのための虐殺会議 ジュン一さんの映画レビュー(感想・評価)
十五人のフツーの男たち
ナチス政権下のドイツで
1942年に開催された「バンゼー会議」の始終。
そこには政府の高官十五名が集まり、
「ユダヤ人」の対応につき協議。
しかし、その場の面々
『ラインハルト・ハイドリヒ』
『アドルフ・アイヒマン』
『ルドルフ・ランゲ』等の名前を見れば、
会議の内容は(後世の我々にとっては)自ずと明らか。
が、もっとも驚かされるのは、
後年「ホロコースト」として糾弾されるそれが、
あたかも現代のビジネスミーティングのように決められていく過程。
其処に、人間の心の奥底に潜む恐ろしさを垣間見る。
映画は会場の別荘からは一歩も出ぬ、
ほぼほぼ{ワンシチュエーション・ドラマ}。
二時間強の尺を会話で埋め尽くす、
かなり{ドキュメンタリー}に近い造り。
全ての登場人物が縦横に発言するため、
最初の内は顔と名前を一致させようと必死になるが、
中途から、いやそんな努力をしなくても、
本作は十分に堪能可能と思い直す。
すると不思議に、個々人の政治的背景やキャラクターが
却って浮かび上がる。
会議が開催される前から、既にして交渉は始まっている。
思惑を尋ねる者や、懐柔、根回しが其処彼処の小集団で行われて。
一方で主催者は、自分達の意志をなんとしても通したい。
中途の
武官と文官との対立、
もっともらしい数字の提示、
頭を冷やすための小休止、
席を離れての個別交渉、
オフサイトでの会話。
意見は頻発するものの、
声を荒げる者はおらず、皆が紳士的に振る舞う薄気味悪さ。
そうしたことが繰り返され、
議事は次第に纏め上がる。
しかし、鑑賞者の側は、
その経緯に神の視座で触れる時に、次第に怖気をふるう。
多くのユダヤ人を死に追いやる方策を会話しているにもかかわらず、
その雰囲気は新たなブロックチェーンを作り出すかのように、
ドライでビジネスライク。
省益を取るために交渉し、少しでも
我が方に有利で負担の少ない条件に帰結させようとの思惑は重なりつつ、
議題さえ異なれば、我々も至極普通に討議している雰囲気と近似ではないか。
会議が終了し、出席者達は一息ついた風に会場を後にする。
中には、この後で一杯どうですか、との算段をする者さえ。
しかし、当然のように、我々の心は晴れない。
時勢と立場が変われば、自分達が
何時、あちら側の人間になってもおかしくはないのだ。