「無題」ブロンド Raspberryさんの映画レビュー(感想・評価)
無題
現代文化は思考よりもイメージが雄弁だ。エンタメ業界はいつだって「思考なきイメージ」の氾濫が大手を振っている。イメージをもてはやし賛美すると同時に、臨界点を過ぎると集団で弾劾し非難する。『ブロンド』というタイトルは、そういうイメージ偏重主義の揶揄か。
聖マリアやキリストの絵画のように、型やイメージは、時代の移行と共に変化する。マリリンモンロー のイメージも歴史の移行期に変換されてきた。
ウォーホルの有名なモンローは、表面的には愛されるアイコンへのオマージュのように見えるが、死や腐敗、暴力といったテーマが潜んでいる。
アイコンのイメージが編集されるプロセスは、人間の歴史のプロセスだ。
男性社会のおぞましさ、欲望に搾取される性、見る側が支配する消費社会。制度的にも習慣的にも受け入れてはいけない。我々は、それらとはっきりと決別するプロセスの中にいる。だから今、砕けた心を掻き集めるようにしながら愛を希求するイメージにマリリンモンロー を編集したのだろう。
しかし、この手法(誰もが知っているアイコンを使ってかわいそうな人を語るという手法)は『ジョーカー』と同じで、今の映画界の流行りのようで好きじゃない。伝えたいことはわかるけど、仰々しい演出で鑑賞者に決まった感情を提供するのはブルジョワ的。映画はそもそも大衆のものだ。
(私が言うブルジョワ的とは、お金に余裕のある人がほどこしを与えて悦にいる態度を指します)
ミッキーマウスがどんな役に扮しても許されるように、マリリンモンローというアイコンが、女性の苦難を全て引き受けた物語だとすれば、本作は全ての女性の物語かもしれない。私にも共感する場面がいくつかあった。しかし、同じ痛みを見いだして共感することにどんな意味があるのだろう。思考なき快楽か。鑑賞者に与えておけばいいという作り手のブルジョワ思考がやはり透けて見える。
マリリンモンロー という実在の人物がフィクションと現実と織り交ぜて描かれることは、死者を踏みにじり公然と虐めているようで見ていられない。私はやっぱり、実在の人物を取り上げることには、もっともっと慎重であるべきだと思う。
表情豊かなアナが魅力的で見入ってしまったけど、アナを鑑賞することによって、私も見る側になって消費しているという矛盾をどうしたものか。
冒頭から少し見て私は見ることできなくなりました。最後まで見てないのに評価できませんが、なぜこんな役をアナは引き受けたんだろう。マリリン・モンローを巡る言説と同じようなことを、オードリー・ヘップバーン(の映画)にも最近感じるようになりました