「とはいえ自己肯定はほどほどに」2つの人生が教えてくれること 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
とはいえ自己肯定はほどほどに
人生にしっぱいしたわたしは、大きな節目となる分岐路に“多様性”という悪魔のささやきがあったことに気づいている。
たとえば大学進学にしっぱいしたときには「学歴なんてなくたって大丈夫、篠沢教授よりはらたいらのほうが賢いじゃないか」というささやきによって、気分をとりなおした。
就職にしっぱいしたときには(今の風潮に即して言うなら)「企業人よりYouTuberのほうがずっとかせいでいるぞ」と時事にあてはめて、じぶんをなぐさめた。
不登校や中退や離職や離婚や事故、あるいは逮捕にいたるまで、概して人はじぶんの都合のいい方向に考えることで気持ちを保とうとする生き物だと思う。
そのとき根拠となるのが“多様性”だ。
たとえば、
──昔ワルやってても更生してリッパになった人がいるではないか、おれもそれの類だろう。とか、──ぜんぜん芽が出なかったのに、遅咲きで花を咲かしたひとだっていっぱいいる、おれもそんな奴だろう。とか、しっぱいや窮状を多様性ととらえ良い方にかんがえる。
そうやって、わたしはどんどんジリ貧へと身を落としていった。わけである。
たしかに人の幸せは多様なものだから、いい大学へ行くとか、いい会社へ入るとか、結婚してこどもをそだてるとか──かならずしもそういった王道を行くひつようはない。
ただし、王道を行かないのなら、じぶんをマネジメントする能力とか、人にはない才略が要る。
そして齢五十になって、思い返してみるとあの時のしっぱいも、あの時のしっぱいも、すべてくつがえすことができなかった──ことに気づくのである。
えてして、もはやとりかえしがつかなくなってから反省をする、わけである。
──
人生まさにこれからってときに妊娠が発覚──したばあいと、しなかったばあいを交互に見せていく映画。
どっちがいい/わるい──という対比はしない。どちらにも一長一短、山があり谷がある。途中で、どっちがどっちか解らなくなるが、それが殆ど気にならない。すなわち映画は「人間万事塞翁が馬」という多様性を語っていて、どちらも肯定される。
そもそも妊娠は“しっぱい”ではないし、若くしてこどもを持つことが束縛のような見え方になってしまうことを避け、機会均等化している。でなきゃ映画にならんわけで。すなわち妊娠したナタリー(Lili Reinhart)も妊娠しなかったナタリーも、現実では成し遂げることが困難な別の人生を提供するヒロインとして存在している。
主演はブリタニーマーフィに激似のLili Reinhart。痩身へ傾倒する世相だが、だからこそしっかりした肉付きがよかった。
おそらく映画の訴求ポイントは自己肯定しなさいというところ。──だろう。しっぱいのように思えることでも、むしろそれを糧や反動のようにして頑張ろう──というメッセージを提供している。それはそのとおりであり、まったく意義はない。いい映画だった。
ところで、はやりなのか自己肯定というのが今すごく伸長している──ように感じる。帰国子女のロジックみたいなものがよく出回っている。だが、自虐とおなじで、自己肯定もほどほどにしなきゃいけない。
たとえば、映画をよく見るわたしはたびたび「日本の映画監督に見られる自己肯定はたまったもんじゃねえな」と思う。
逆に言うと、人生のしっぱいを認めているわたしさえ、映画を良いだの悪いだのとぬかす程度の自己肯定感はもっている──という話。である。