「当事者(かもしれない)として」そばかす Fさんの映画レビュー(感想・評価)
当事者(かもしれない)として
アセクシャル、アロマンティック、ノンバイナリー、次々と増えるカタカナの分類名がもうよくわからない人に見てもらえたらいい作品が出てきたな、と思い嬉しいです。
私が自覚したのは約10年前、飛鳥井千砂さんの『アシンメトリー』という作品を読んだ時に脳内に稲妻がピカリ。「これだったのか〜!」と今までのすべてに辻褄が合う経験をしました。
それからは佳純のように生きています。まさにあんな感じ。擬態まではしないけれど謎な部分を多くしてカモフラージュ。
結婚を催促されるのは万人共通、好意を向けられたとき相手の望むとおりの「異性愛者の演技」をすればいいのにできずに関係が消滅したり、レズビアンだよねと聞かれるのもまさに実体験。
必要ないし求めてもいない、ただそれだけのことでありながらも、わかりやすい"難"がないと異性(同性)のパートナーがいないことがなぜなのか、興味を持たれて解明しようとされてしまう。とはいえたったひとりで荒野で生きるわけにもいかず、人間社会で生きていくには自分がどういう人間かわかってくれる人が多い場所を自分で作るしかないんです。
この在り方に寄り添ってくれる作品が出てきたのなら、それもまた良いことなのかなと思いつつ、映画と同じくまだ答えは出ていません。
理想は『千と千尋の神隠し』に出てくる銭婆のような穏やかでひとりでも大丈夫な老後。
さて、そうなれるのか、一寸先は闇の人生になりそうだなと思います。今アセクシャルやアロマンティックを自覚している人も、もしかしたら違う人生を歩むかもしれない。性自認とは難しいものです。
全体的に書き言葉なところ、ちょうどいい存在がポンポン出てくるところが引っかかってしまい、佳純が保育園で働く描写もちょっと微妙だなと思いつつ、恋愛や婚姻、生殖、生命を育むことを拒絶しているわけではない、というスタンスの説明には最適だったのかもしれません。
あの作品はまあ、上映環境がわかった時点で引っ込めて普通のやつを出しますね、私なら。その方がリアリティがあったかも。
マジョリティの否定ではなく、ただそっとひとりで生きていくことはできるし、案外歴史や文学の中に同志らしき人たちがいるんですよね。
とにかく、鑑賞できてよかったです。
あちらこちらに自分のような人間を代弁するキャラが出てこなくてもいいとは思っていますが、あるとやっぱり嬉しい。製作していただきありがとうございました。