「純愛女とフィルム・ノワール男」別れる決心 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
純愛女とフィルム・ノワール男
韓国映画の骨太な展開力は言わずもがな、繊細な演出にうっとりする。ヘジュン刑事とソレが取調室で高級な寿司を食べるシーンが印象的だった。寿司を食べ終えた二人が夫婦のごとき阿吽の呼吸で机の上を片付けるシーン。ほんの些細な描写だが、これから起こる破滅的な不倫劇をコミカルかつクリティカルに予示している。携帯や腕時計やApple Watchといったデバイスの運用も見事なものだった。
錯綜に錯綜を重ねながら破滅へと転がり落ちていく脚本、首の皮一枚でギリギリ意味が繋がり合う物語構成はいかにもパク・チャヌクらしい。しかし彼は『親切なクムジャさん』『オールドボーイ』のような、どんでん返しのカタルシスで強引に魅せるやり方からは既に脱しており、丁寧かつ丹念に疑惑と憂鬱の楼閣を築き上げていく。そしてそれは出口を見出せないままエンドロールへと暗転する。そういう意味では韓国映画らしくない韓国映画だった。
全体的にシリアスな色調ではあるものの、不意に挿入されるザクロやスッポン等の小道具が張りつめすぎたサスペンスにほんの少しの抜け感を与えていた。
探偵や警察といった「謎解き役」的職業に従事するハードボイルド・ガイが謎多きファム・ファタールに翻弄されるという構図は、40〜50年代ハリウッドのフィルム・ノワールを彷彿とさせる(というか直接的な参照項だろう)。ただ、本作の場合、ファム・ファタールは最後までハードボイルド・ガイの所有物にならない。
言ってしまえばフィルム・ノワールというのは男のマッチョな欲望を満たすための、メチャクチャ出来のいいAVみたいなものだ。素性の知れない美女に振り回されることでまずマゾヒズムが刺激される。そしてそれが女に対するミソジニー的苛立ちに変転する寸前で、美女の謎が暴かれる。武装解除された美女はなす術もなく自らの心も体も主人公に捧げる。そして最後は主人公が女のために重傷を負ったり命を落としたりする。エロスを突っ切ってタナトスまでをも満たす贅沢っぷり。アメリカ人俳優としては背が低く、見目もそこまで優れているとはいえないハンフリー・ボガードがフィルム・ノワールの代表的名優となり得たのも、まさにそのルックス的な敷居の低さ(=自己投影の容易さ)が理由の一つだといえそうだ。ゆえに受け手は作品のマッチョ的快楽に心から没入できる。
ヘジュンもまたこうしたフィルム・ノワールに内在する「男の欲望」を強く抱く人物だ。しかしその欲望は終ぞ完全に実現されない。仏閣でのデートのあたりまではほとんど完璧なフィルム・ノワールの作法を踏襲していた物語だったが、以降は気まずい肩透かし、掛け違えが次々に起きていく。
たとえばソレの2番目の夫。こいつは本来ヘジュンがどうにか片付けるべきだった人物だ。「寝取られ」という屈辱を面と向かって味わわされたのだから、ソレは全力でこいつを叩きのめしてやる必要があった。しかしそうするより先に2番目の夫は何者かによって惨殺され、晴らされぬ屈辱だけが中空に漂い続ける。ますます謎を深めていくソレに対するヘジュンのミソジニー的苛立ちは、妻やちんちくりんの女刑事への無視や無関心として露呈する。
あるいは深夜の山上でヘジュンがソレと共に彼女の母親の遺灰を撒くシーン。山上、男、女という構成はソレが1番目の夫を禿山の頂上から突き落とした冒頭シーンを思い起こさせる。ソレに背を向けて遺灰を撒くヘジュンも、もちろんそのことを知っている。知った上で彼女に背を向けている。ソレが次第に近づいてくることを悟りながら、ヘジュンは一瞬覚悟したような表情を見せる。そこには「女のために死ぬ」という彼のタナトス的欲望が映し出されている。しかしここでも彼の欲望は満たされない。ソレはヘジュンを優しく抱きしめ、2人は熱い接吻を交わす。
ラストシーンでは、ソレが生き埋めにされた砂浜の上を、ヘジュンがその名を叫びながら彷徨する。ソレがなぜ彼のもとを去ってしまったのか、という点にはさまざまな議論がありそうだが、私はヘジュンが徹頭徹尾フィルム・ノワール的な思考体系から抜け出せなかったことが原因にあると思う。
ソレは最初からヘジュンのことが好きだった。それだけだった。そこに勝手に疑惑を持ちかけ、勝手にファム・ファタールの幻影を見てとったのはヘジュンだ。ソレもそのことはよくわかっていて、だからこそ彼の関心を引くべく謎めいた女を演出し続ける必要に駆られた(「あなたの未解決事件になりたい」というセリフが好例だ)のではないか。しかしヘジュンは気がつかない。フィルム・ノワールの文法に従って相手を都合よく幻想化するばかりで、彼女それ自体を見ようとしない。だから彼女を失った。
これは純愛女とフィルム・ノワール男の滑稽で悲痛なすれ違い劇なのだと私は思う。