「眉間のシワ」逆転のトライアングル つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
眉間のシワ
原題「Triangle of Sadness」は眉間のシワのこと。苦労すると眉間にシワが寄った人相になる的なことらしい。邦題は「逆転のトライアングル」で、映画の中で起きる出来事を想起させるようなタイトルになっているが、リューベン・オストルンド監督が本当に描きたかったことはむしろ「苦労が人を変える」ということにあるんじゃないかと思う。
でも「眉間のシワ」っていう邦題じゃあ、いくらパルムドールでも売れないよな。「眉間のシワ」て。
簡単に書くとこれで終わっちゃうので、なんで私が「苦労が人を変える」というテーマにたどり着いたのかをつらつら書くことにしよう。
着目したのはチャールビ・ディーン演じるモデルのヤヤ。彼女のラストシーン、掃除のおばちゃん・アビゲイルに対して「あなたには感謝してる」「あなたの為にしてあげられることを考えていた」というセリフ、登場した時のヤヤからは考えられないセリフであった。
ヤヤは無自覚に傲慢なモデルとして登場する。同じくモデルの彼氏・カールとの食事ではスマホに夢中で、「私がご馳走するわ」と言ったことも忘れ、仕方なく会計したカールの苦言には逆ギレ。
相手を慮る態度とはほど遠く、グルテンを摂らないのにパスタを注文し、インスタ用の写真を撮る。当然食べない。生まれついての自己中みたいなキャラクター、それがヤヤだったのだ。
船が遭難して、ヤヤの価値であった美しさなど何の意味もなくなる。不器用で力もなく、役立たず。グルテンの塊みたいなクラッカーを、カールが身を売って分け与えてくれることに縋り、生きていくことがやっとの状態はヤヤにとってショックな状況だろう。
他人のことなどどうでも良かった自分が、他人の情に頼って何とか生きている。そのことが、彼女を大きく変化させたのが、上に書いたラストシーンに集約されるのだ。
食べ物を入手することも出来ず、力仕事も向いていないヤヤだが、アビゲイルのリュックを借りて島内を探検するうち、遭難したと思っていたこの島がリゾートであったことが判明する。
後をつけてきたアビゲイルも同様に事実を知るが、そんな折にヤヤはアビゲイルに感謝するのだ。
この状況から脱出出来たら、多分みんな遭難する前の生活に戻るのだろう。ヤヤはモデルに復帰し、アビゲイルはまた低賃金でキツい仕事に就かなくてはならなくなる。
それ以前に、やりたい放題の女王だったアビゲイルは他のメンバーに仕返しされてもおかしくない。
いっそ、原始的でも頂点に君臨出来る今の状態を続けたい、とアビゲイルが考えてもおかしくない状況だし、現にリゾートへの入り口を見つけたヤヤに襲いかかりそうなシーンでもあった。
ヤヤがそんなアビゲイルに気づいていたのかは分からない。アビゲイルが自分の後を追ってきていたことさえ気づいていなかったかもしれない。
それなのにヤヤは今まで支えてくれたアビゲイルに、何か、恩返しになることをしたいと考えていたのだ。
自分に出来ることは、ほんの些細なことしか無いかもしれないけれど、それでもアビゲイルの苦労を軽減できるのなら…。
そんな風にヤヤが考えることになるなんて、最初に想像できただろうか。
アビゲイルは遭難前に苦労してきて、遭難というまた違った苦境に立たされ、能力が開花したことで傲慢さをさらけ出すようになった。
これもある意味「苦労が人を変えた」という変化なんだろう。
それに対してヤヤは遭難という苦労の中で、他人の有り難さや自分の無力さを痛感し、生きていくというシンプルな目的の為に、沢山の他人の力を借りていることを自覚した。苦労の中でも明るさを失わない人、自分に出来るベストを尽くそうとする人、自分が苦しい時にも他人の面倒をみられる人。
いつもの生活の中では気づけなかった諸々に、ヤヤは気づき、等身大の自分と向き合い、他人を思いやる気持ちまで獲得したのだ。
アビゲイルの「苦労が人を変えた」があまり良い方向に進んでいるとは言い難かったのに対し、ヤヤの変化は間違いなく良い変化だと言えるだろう。
監督はあえて誰か一人に焦点を当てないことで、映画の中で語られることを大袈裟に表現しない方法をとったのだと思う。
ヤヤの良い変化だけを切り取ると、なんだか胡散臭い説教映画になってしまうし、なんなら人間の愚かさを皮肉った部分の方が多いし、面白い。
しょーもない人間たちの群像に、キラッと光る微かな希望。そんな風味の映画だった。