「「慰撫」自体に異議を唱える清く正しきフェミニズム映画。身につまされる部分もないではなし(笑)。」ドント・ウォーリー・ダーリン じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
「慰撫」自体に異議を唱える清く正しきフェミニズム映画。身につまされる部分もないではなし(笑)。
これは「観る前」に考えていたことで、「観た後」に思ったことではないので、いちおう書いても許されると信じたいが、予告編が流れた瞬間の第一印象は、「ああ、これって『ステップフォードの妻たち』のほぼリメイク、もしくはバリエーションなんだろうね」というものだった。
『ステップフォードの妻たち』は、アイラ・レヴィン原作、ブライアン・フォーブス監督の75年の映画で日本ではDVDが『ステップフォード・ワイフ』のタイトルで出ている(僕は、小説を読んでからDVDを観た)。
より一般的には、ニコール・キッドマンが主演した2004年のリメイク版のほうが知られているかもしれない(こちらは未見)。
あらすじにはあえて触れないが、中身を知っている人なら誰しも、きっと僕と同じことを思ったはずだ。
で、実際にどうだったかって?
これについては、それこそネタバレになるので、書かないほうがいいんだろうな(笑)。
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少なくとも、本作が筋金入りのフェミニズム映画、アンチミソジニー映画であることは、観終わった人なら誰しも同意してくれるはず。
ただ、出来が良かったかどうかについては、意見が分かれるかもしれない。
この手の「ネタのある映画」「世界観に違和感を覚える映画」としては、いろいろと物足りない部分が多かったのも事実だ。
冒頭のパーティー・シーンはちっとも引き込まれないし、
「何かがおかしい」と気づくイベントが間遠で、緊張感が持続できない。
最初に「からっぽの卵」という興味深い謎をせっかく設定できたのに、
そのあとにつづく「現象」が、物理的には不可能な「幻視」に近いものばかりで、
「オチ」に続く道筋の可能性が、何パターンかに限定されてしまう。
ヒロインが追い詰められていく過程も、比較的唐突かつ急激に悪化するので、
いきなりメンヘラった感じがどうしてもしてしまう。
僕がバカなだけかもしれないが、最後まで観てもよくわからなかった部分も、結構あった。
なぜ「本部」にはあんな「機能」があるのか?(ある根拠がまったくわからない)
毎日、男たちは結局どこに出かけて何をしていたのか?
ヒロインが目撃した飛行機事故は、なぜ起こったのか?
なぜ先生はあんな不都合なものを持ち歩いていたのか?(必要がない)
ラスト近く、なぜ例の人物の奥さんは、彼にあんなことをしたのか?
あとからわかる「ルール」に照らしてなお、得心のいかない部分が多すぎる。
とはいえ、ここまで言っておいてなんだが、個人的に、この映画には結構感心した部分もある。
かなりクセのつよいフェミニズム映画でありながらも、それなりに先方の主張したかったことは、すっと腑に落ちたからだ。
自分はふだん、SNSなどで強硬な主張を連投しているツイフェミやミサンドリストの投稿を、鼻白む思いでそっ閉じするタイプの人間なので、あまりその手の主張の強い映画だと「ドン引き」してしまうことが多いのだが、今回は不思議に語り口についていけた感じがする。
要するに、「ネタ系映画」としてはいろいろ素人くさい部分が気になったが、「われわれを説得しようとする映画」としては、相応にきちんと機能していたように思えたのだ。
たぶん、物語が「ポリコレに侵食されて汚染されている」と感じる映画は、吐き気と嫌悪感で観るのがつらくなるが(『サスペリア』リメイク版、『SW8』、『アラジン』実写版などなど)、物語が「とある主張を伝えるためにわざわざ組み立ててある」映画なら、意外に違和感なく、すっと胸に入って来るということなのかもしれない。
この映画で断罪されているのは、じつは男性による支配だとか、女性への役割の押し付けだとか、そういった「通り一遍」の「アメリカの古風な家族の理想」に対するジェンダー批判だけでは、必ずしもない。
むしろ、そういう不平等に対して「声をあげようとする女性」に対して、
「何をそんなに怒ってるんだ?」
「考えすぎじゃないのか?」
「そこまで世の中ひどくないぞ?」
「おいおい、不安定なのは君のほうなんじゃないかい?」
と、「なだめ」「慰撫し」「説得してくる」男たちの「上からの態度」そのものに、敢然とNOを突きつけるのが、この映画の本願だからだ。
要するに、『ドント・ウォーリー・ダーリン』だって? なめないでよ、って話だ。
そして、その「慰め」や「説得」という営為は、日々、僕が妻に対して行っていることでもある(笑)。
社会に対しても周辺環境に対しても、これまでの人生で大して不満を抱いたことのない僕にとって、常日ごろから社会の不正義に怒り、職場の不道徳に怒り、定期的に不可解な激情を募らせている妻は、エニグマそのものだ。
で、こちらも相応に理屈ばった人間ではあるので、妻からつっかかられると、ついつい反論というか、説得を試みてしまう。「タイムラインだけ見てないで、検索で両派の意見を俯瞰的に見たほうがいいよ」とか、「多数派が問題視していないことが気になるのは、自身の社会不適応が原因って可能性もあるよね」とか。……感じ悪いかな? まあ感じ悪いよね。
妻からは、「あんたが腹を立てないのは、世間様を心底見下してるからよ」って言われてます(笑)。
基本的にうちの夫婦はかなり仲のいいほうだと思うが、それでも妻とのあいだで、社会事象に対する感覚の違いや、感情の起伏の相違がある点は、日々実感せざるを得ない。
個人差、個体差を超えて、やはり「性差」というものは存在するんだろうな、というのが、もともとは赤の他人の女性と、20年以上ひとつ屋根の下で暮らしてきての、僕の体感的な結論である。
そんななかこういう映画を観ると、「妻」サイドが普段感じている感覚を強制的に追体験させられているようで、いささか居心地の悪い思いにとらわれるわけだ。
とにかく、妻は日によって、機嫌がよかったり、悪かったりする。
僕は365日、ほぼ上機嫌なので(妻には多幸症よばわりされている)、そんな妻のいらだちがよくわからない。だからつい声をかける。「あんまりいらいらしなさんな」。
でも、『ドント・ウォーリー・ダーリン』で、旦那が奥さんにおんなじようなことを言ってるのを観ると、切羽詰まった気分のときにああやって上から可哀想な子みたいに扱われると、猛烈に腹がたつんだろうなあ、と素直に思う(笑)。
言い訳がましいが、男サイドからすると、日によって相手の機嫌が違うというのは、それ自体が結構な脅威なのだ。日によって、ゴール地点や、認容の範囲が異なっているということだから。
それを「気配で察しろ」というのは、ほぼ気分に変動のない人間にとっては、なかなかに気を遣う、とまどいの多い作業だ。
急に機嫌の悪くなる妻に当惑する旦那。
旦那にとりなされるほどにいらだちを募らせる妻。
この映画は、そういう男女間の微妙な機微というか、感覚の差異を、結構生々しく描いている。そのことが、僕としても体感的に納得できるので、語っていることも抵抗なく受け入れられる。そんな感じだ。
ヒロインがなりふり構わず突き進める「真実の探求」に関しても、映画を観ているあいだは僕もヒロインの味方のような気分になっているが、考えてみればふだんは思い切り「旦那側」の人間だったりするわけだ。
僕からすれば、「世界の真実の探求」など「陰謀論」と紙一重だし、
「正義」は「暴力の正当化と暴走」を促す最大のリスクにしか思えない。
みんなが騙されたまま幸せなのに、その「真実」を暴くことになんの意味がある?
エセ宗教を信じている人を無理やり脱会させることに、本当に正義はあるのか?
バレないままならみんなが幸せだった不倫をすっぱ抜くことに、正義はあるのか?
僕は基本的に、調和した噓のセカイで穏やかに生きられるなら、それはそれでいいんじゃないか、と思ってしまう人間だ。
そういう人間にとって、この手の「隠された真実の暴露」を主眼とする映画は、なんとなく普段の自分を「責められている」ようなこそばゆさがある。
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この映画が、「フェミニズム映画」として意外に良く出来ていると思う理由は、ほかにもある。
たとえば、このヒロインは終始ブチ切れ、ボロボロに追い詰められていながらも、思いのほか冷静さを保っているように見える。
最後まで声を荒らげたりせずに、必死で自分を抑え、アンガーコントロールを遂行して、夫や上司に「何かがおかしい」と訴えつづけ、理解してもらおうと試みている。
これは、「分断」を生まない最低限のルールであり、礼儀である。
彼女は、独りよがりに興奮しているように見えても、常に夫や社会に対する姿勢がぎりぎりのところで「フェア」なのだ(本来的に「インテリ」だからだろうね)。
だから、観ているこちらも、抵抗なく彼女の闘いを応援できるわけだ。
それから、物語の最後まで、主人公夫婦は、「愛し合う」ことを諦めない。
これも僕が感心したことのひとつだ。
すべては愛から始まっているし、「不正」や「嫉妬」はあっても、そこに「憎しみ」はない。
ヒロインは、すべてを知ってなお、愛を手放さない。
味方と敵の切り替えが、よくある映画のように短絡的ではない。
裏切りへの怒りと恐怖が、「情」によって曖昧模糊なものに複雑怪奇に歪められる。
これは、結構生々しい、男女のありようなのではないかと思うのだ。
観終わってみて、街の住人たちのバックボーンを考えてみるのも楽しい作業だ。
なぜこうなったのか。なぜこの街に来ることになったのか。
もしかすると、大半が本作の「ヒロインとヒーロー」のような関係性だったとしたら?
(ひと組だけ、はっきりとその理由が明らかになる夫婦がいて、その理由は大変に納得のいくものだ)
アメリカという国は、ある意味、日本以上にマッチョで古風な国でもある。
古くからウーマンリブが勃興し、日本より女性の社会進出や女権の尊重が進んでいる一面もあるいっぽうで、国民の半分が共和党を支持する、キリスト教的な「理想の家庭像」が尊重される土地柄でもある。
そんななかで、本作で描かれるような「ユートピア」には、ジョークでも揶揄でもなく、明快に一定の支持があって、多くの国民が「本当はこうあってほしい」と真面目に考えていることを忘れてはならない。
この「理想世界」の不条理を暴き、脱出への渇望を募らせるヒロイン(およびオリビア・ワイルド監督)の闘いは、われわれが考えている以上に切実で、命懸けの営為なのだろう、と思わざるを得ない。
僕個人にとっては、男として十分に考えさせられる映画でした。