太陽と桃の歌のレビュー・感想・評価
全55件中、21~40件目を表示
変わりゆく時代と家族の崩壊になす術なし
スペインのカタルーニャ、3世代にわたり桃農園を営んできた大家族に突き付けられた立ち退き命令。桃の木を伐採しソーラーパネルを敷き詰めるというが、土地に関わる契約書の類がなくなす術なし。
祖父、父、息子、そして叔父さん、叔母さん、各々の思い、抵抗、反発、挙げ句の大げんか。
それと平行して淡々と描かれる彼らの日常生活がまぶしかった。愛おしかった。
最後の収穫を終える頃、巨大な重機の騒音が間近に迫っていた。
そう、これは変わりゆく時代と家族の崩壊が何ともやるせない秀作だった。
タイトルなし(ネタバレ)
スペイン・カタルーニャ地方の桃農園。
親子三世代の大家族で桃以外の作物を育てている。
ある夏の終わり、若い地主から、土地を明け渡すように言われる。
先代の地主とは、永代に貸し付けを受けられるよう約束したのだが、口約束で契約書がない。
若い地主は、「農園を更地にしてソーラーパネルを敷き詰める、農家のみなは管理人として、そのままこの土地に残ってよい」という・・。
という物語。
桃農家も三世代に渡るので考え方がそれぞれ異なる。
一家の中心、中年の長男は農家として続けたい、続けられなくても今夏限りの収穫はしっかりやりたいと張り切る。
彼の息子、長男の学生もその思いは強いが、一家の中心の父は、息子には学をつけてほしいと願っている。
一家の中心の長男の妹夫妻は、どちらかというとソーラーパネル派だ。
だからといって無理強いまではしない。
これら農家と起業家の対立を背景に、大家族の世代間差も多く盛り込まれているが、それぞれのエピソードが短いこともあり、なかなか登場人物ひとりひとりに集中できず、やや散漫な印象が残りました。
祖父と孫娘の関係に『木靴の樹』を思い出したり、ラスト、ショベルカーで桃樹が倒されるショットなど心に残るショットもありましたが、少し食い足りない感じでした。
生きるって不条理に囲まれること
一見のどかな農家の家族(親族)にいろいろと不条理な出来事がわいてきます。
農地を奪われる=仕事が無くなる。でも農地に立つソーラー関連の仕事になら就ける。
丹精込めた作物が買い叩かれて誇りも捨ててしまいたくなる農家たち。
学問が大事、勉強しろと言われながら家業をしっかりやれと、どうすりゃいいの状態の娘。
きょうだい仲たがいでいとこと遊べずプンプンの娘。
そんな局面に置かれながらも血の繋がった者同士だからこそ(義兄弟も含みます)のなあなあと、そこはキッチリさせなきゃの行きつ戻りつ。
何処にでも起こり得る難問ですね。
美しい風景に誤魔化されがちですが、人の内面を描いた良作に感じました。
ただ、無音状態や展開の遅さ、関係性の説明不足など、体調によっては寝落ちの危険性もはらんでいます。
それにしても土地の権利関係は当事者同士が存命のうちにキッチリしとかなきゃならないのはどこの国も同じですね。
教訓を再認識しました。
太陽(光パネル)と桃の歌
ソーラーパネルって本来は環境のためのものだったはずが、設置のために伐採など本末転倒なことをしてみたり、今やトラブルの象徴のひとつというイメージ。
これが映画になるってことは、世界中どこでも起きていることなんだなぁ。
明るそうなタイトルだし気候も良いのに、一族を取り巻く環境がヘビー。
契約書を交わすことがなかった時代の事を発端に、ギスギスと家族が分断されていって、関係ない子供たちも巻き込まれて観ていてずっと嫌な気持ち。
テーマは現代の問題で良いのだけど、ソーラーパネルに絞った方が良かったかなぁと思う。
作物の買い叩き問題も同時進行だと家族の精神的負担も大きいし、ピニョールと農協がグルにも見える。
もっと軽いノリの騒動かと思ってたから、期待と違いすぎてうーん。
ビター
怒りの桃🍑🍑🍑
家族の中で孤立していく男は、自分の不器用さを環境や人のせいにして棚上げしてしまうもの
2024.12.19 字幕 アップリンク京都
2022年のスペイン&イタリア合作の映画(121分、G)
太陽光パネル事業によって紛糾する農家一族を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本はカルラ・シモン
原題の『Alcarrás』は主人公ソレ一家の住む町の名前のこと
物語の舞台は、スペインのカタルーニャ地方にある田舎町アルカラス
そこには地主ピニュール(ジャコブ・ディアルテ)から土地を借りて桃農園を営んでいるソレ一家がいた
農園を開いたのは祖父のロヘリオ(ジョゼ・アバット)で、今では息子のキメット(ジョルディ・プジョル・ドルセ)が中心になって経営をしていた
農園の手伝いには、キメットの妹ナティ(モンセ・オロ)の夫シスコ(カルレス・ガボス)や、キメットの息子ロジェー(アルベルト・ボッシュ)が加わっていた
キメットにはもう一人の妹グロリア(ベルタ・ピポ)がいたが、彼女は別の場所に住んでいて、キメットとの仲は最悪だった
ある日のこと、夏までに土地を開け渡すように言われた一家は、ロヘリオが交わした契約書を探し始める
だが、口約束で交わしたもので、先代はもうおらず、証明するものがなかった
そこでピニョールは「パネル事業の管理者」を打診するものの、短気で頑固なキメットは聞く耳を持たずに暴力的に反発してしまう
その後、ピニョールはシスコと話を進め、彼はその方向性に同意する
だが、キメットはそれを不服としてシスコと喧嘩沙汰になってしまう
ナティは呆れ、キメットの妻ドロルス(アンナ・オティン)も悪化する家族関係にため息を漏らしていた
映画は、この大人たちの物語と同時に、キメットの末娘イリス(アイメット・ジョウ)とナティの双子の息子ペレ(ジョエル・ロピラ)とパウ(イザック・ロピラ)がはしゃぐ様子が描かれる
また、キメットの長女マリオナ(ジェニア・ロゼ)は、友人たちとダンスチームを組んでいて、農園を手伝う気はさらさらなく、反抗期の真っ只中にいたりする
物語は、キメットの一人相撲から徐々に悪化する様子が描かれ、シスコ一家のみならず、自分の家族からも距離を置かれる様子が描かれていく
ロジェーもだんだん手伝わなくなり、友人たちとナイトクラブで朝帰りをしたりするし、マリオナもダンスをやる気が失せて、パーティーをボイコットするようになってしまう
挙げ句の果てには、農園の強行取り壊しが行われてしまい、キメットが呆然とするシーンで物語は終わりを告げる
太陽光パネルに関しては、詐欺に引っかかってるなあと思いつつも、農園の収入悪化から避けられない事態になっていた
パネルによって、この土地の温度が上昇し、農作物は育たなくなってしまうので、この事業がこの土地で行われた以上、切り替えざるを得ない
とは言え、パネルがどのような影響を与えるかを知っているのは先進国の一部の人だけなので、このような方法で痛い目を見るのはここだけではなかったりする
映画は、ほぼ演技素人が集まって家族を演じているのだが、その自然さには驚くばかりだった
イリスが奔放すぎて、モザイクが入りまくるのだが、これはまあ仕方のないことかもしれない
いずれにせよ、家族がおかしくなっていく過程を描いているのだが、頭が回らずに短絡的な思考しかできないと、いずれは全員を敵に回すことになってしまうということを描いていた
パネルの是非よりも、地主に対する態度とか、一緒に働いている人への敬意などは全くないので、いずれは破綻した一家なのかもしれない
劇中で子どもたちが歌う歌が印象的で、彼らがあの歌をチョイスしてしまうのも流れのひとつなのだろう
船頭は常に高いところから状況を見て、自分を支えてくれる人に敬意を抱かなければならないと思うので、粗暴な言動で高圧的になっていないかを振り返る意味では「鏡」のような作品なのかもしれません
太陽と桃の歌(映画の記憶2024/12/20)
地の糧、歌う人々
高橋久美子さんのルポ「その農地、私が買います」(ミシマ社刊)を思い出した。高橋さんの本は愛媛のミカン農家(高橋さんの実家)が農地を太陽光パネル設置場所に転用することを食い止めようとする話だった。
地主のピニョールにしても、そしておそらく農家自身、この映画で言えばソレ家の人々も、作物を植え収穫することと、太陽光パネルでエネルギーを集めることの本質的な違いに気づいていない。地から糧を得るためには、地面にコストをかけなくはならない。それは種子であったり肥料であったりするし、もちろん人的資本であったりする。一方、太陽光パネルは、地面に届く直前の太陽エネルギーを収奪する。エネルギー供給を遮られ、手をかけてもらえなくなったパネルの下の土地はやがて痩せてパワーを失っていく。
太陽光パネル事業が一方的に悪と言っているわけではない。ただその土地のことを長期的に考えていくにあたって、一方の当事者である農家は経済的に追い詰められていたり後継者難であったりすることが多く、一方の当事者である太陽光パネル業者は末端の開発担当やオペレーション担当に過ぎず事業全般を見渡せる情報や戦略を持ち合わせていないことが多い。だからこの映画の様に二世代をかけて育てた立派な桃の木を斬り倒しどの様な採算や効率が得られるか誰も承知していないパネルの設置が、十分かつ慎重な検討なしで進むこととなる。
おそらく、愛媛やカタルーニャだけではなく、世界中で再生可能エネルギーへの転換の大義名分のもと、この様なことが進んでいる。
この映画は告発しているのである。
映画の中で繰り返し人々に歌われているように「歌うのは土地のため」なのである。
失われゆく当たり前の景色
大きな事件、特別な出来事は起きずに
桃農家の日常の生活が積み重ねられていく。
動物、植物との共生関係、
何世代に渡って築き上げられる家族関係、
地域のお祭り、神への感謝
ホームパーティ、大家族みんなの食事、
どれも珍しくない景色かもしれないけれど、
立ち退きをきっかけとして、それらの関係性が崩れて全て失われてしまうかもしれない、
と思うと愛おしさ、寂しさを感じずにはいられない。
土地は単なる経済、生活空間ではなく、
そこに住む生物の魂、想いがリレーされていく場所でもあることを
繰り返される劇中の歌は訴えているようで心に染みる。
農業を頑張ろうとする息子への冷たい態度に示されるように
お父さんも次の世代からは変わらなければいけない、とは思っているけど、
興味のないようにみえたデモに参加したり、心中は常に大きく揺れ動いている。
何事も効率を追求し、早く新しくどんどん変化していくことが本当に正しいのか、
ささやかな疑問符を我々に投げかけてくれる。
言うこと聞かない人達
ヒューマンドラマの皮を被ったスペインの就農問題提起でしょうか
大家族の心境はよく描かれている、イリスちゃんメインだけど プールに強い陽射し太陽の恩恵は作物のみならずエネルギーにも スペインにもあのような砂漠のような土地が有るのですね、🍑もよく見えなかったけど平べったい、プラムに近い?
農業組合は無いのですかね、商品価値高いもの栽培したり機械化しないと農家はきっとキツイ でも一番辛いのは祖父だよね ずっと土地を管理してきたのにあんな簡単に、貴重な緑も減っちゃうしもうちょっとなんとかならないの〜と思ってしまいました
最初のシーン、最後のシーン
冒頭で廃車に乗った3人がかなり好きでした。
最後のシーンは(私にとっては)かなり衝撃的でした。子どもたちの声にのせて、おじいちゃんが歌い始めるところもかなり好きでした。
家族とは・・・・
一族の大勢が集まる場では
大なり小なりの諍いが起きるものと相場は決まっている。
葬儀の場では連続殺人が茶飯事、
結婚式では人間の本性がむき出しに。
前者の代表は〔犬神家の一族 (1976年)〕、
後者なら〔ウエディング (1978年)〕か。
本作ではカタルーニャに住む「ソレ」一家の最後の夏が描かれる。
祖父や大叔母、その子供に孫たちと、
三世代にわたる総勢十三名の大家族。
もっとも、一つ所に住んでいるわけではなく
桃農園の収穫をはじめとし、
ことあるごとに集まっては他愛のない会話を交わす穏やかな日々。
企業による果物の買い叩きはあるものの、
それ以外に取り立てての問題はなく、
今年の夏も過ぎて行くはずだった。
ところが地主から土地の明け渡しを迫られ日常は暗転。
桃の木を伐採し、ソーラーパネルを置き、
太陽光発電の事業を始めるのだと言う。
祖父が結んだ(と、言っている)土地の売買契約は口頭によるもので
エビデンスは残っていない。
地主から持ち掛けられたパネル管理人の仕事に妻と妹夫婦は乗り気も、
今まで農業一筋で生きて来た夫の態度は頑な。
一族は混乱し、ぎすぎすした空気が支配する。
そんな中でも、今年の収穫は始まる。
農園を核とした皆々での生活を続けたい目標は共通ながら、
目指す方向がてんでばらばらのため、
収束点は見い出せない。
なによりも家長として有効性のある打ち手を提示できないジレンマが
父親の心を蝕んでいく。
また、こうした時に限って、
今まで溜まっていた膿がじわりと表に滲み出る。
農業に先行きが無いことを認識し、
子供には学問で身を立てて欲しい父と、
まったく正反対に農業で一人前と認めて貰いたい息子の相克。
が、そうした苦境を表面的にでも救うのは、
やはり毎年のように営々として続けて来た収穫作業なのは象徴的。
とは言え、根本的な解決になっていないことを示唆する
ラストシーンは観る者の心を暗くする。
陽光に包まれた画面とはうらはらに
この一家が背負う将来の重さが、
重機がたてる不協和音と共に迫って来る。
ある一家に仮託した、普遍的な家族の物語り。
そこには血縁の疎ましさが煩わしさがある一方で
情があり、思いやりや絆もある。
が、それだけでは渡れない世間が
周りを取り巻いている。
描かれた世界の様相は
あまりにも重い。
24-146
全55件中、21~40件目を表示