「他の例に洩れない「ほっこり映画」」ゴヤの名画と優しい泥棒 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
他の例に洩れない「ほっこり映画」
<映画のことば>
私はあなた、あなたは私だ。
あなたが私を存在させ、私があなたを存在させる。人類は集合的なもの。私は一個のレンガで、あまり役に立たない。小さな一個だが、無限に積めば、家ができ、家は日陰を提供できる。そして、世界が変わるんだ。
初老の一人の庶民に過ぎず、息子の素行の悪さなど、家族的にも市井によくある問題を抱え、その意味でも本当に庶民的な庶民に過ぎなかったをなかったケンプトンが、その粘り強い運動の結果、ついには年金生活者について、放送受信料の無料化を勝ち取るなど、他のイギリス映画の『フルモンティ』、『ブラス!』『天使の分け前』『ウェイクアップ!ネッド』などと同様に、「社会は庶民が主役」というポリシーで、本作も貫かれた一本であったと思います。評論子は。
観終わって、気持ちが「ほっこり」という点で、充分に佳作と評することができるとも思います。
(追記)
【放送受信料問題のイギリス版?】
邦題からはまったく予期していなかったのですけれども。
しかし、いざフタを開けてみたら、なんと某国営放送の放送受信料問題のようなお話でした。
あちらの国では、本当に調査機器をクルマに積んで、テレビの有無を調べて歩いていたのでしょうか。
日本でも、某国営放送関係者は、衛星放送のアンテナが上がっているかどうか、双眼鏡を片手に実地に見て歩いているという話もありますけれども。
(追々記)
【イギリス映画なのに、いかにも東洋的な正義感?】
彼が将来を信じている息子の罪に、ケンプトンが多くを語らず、小言の一つも言うでもなく、その身代わりを引き受けたこと、本作がイギリスで製作された作品であるにも関わらず、評論子には、極めて東洋的な正義感が看て取れるようで、面白いと思いました。
「葉公 孔子に語げて曰く、吾が党に直躬なる者有り。其の父 羊をぬすみて、子之を証せり、と。孔子曰く、吾が党の直なる者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直は其の中に在り、と」(論語・子路篇13/18)
(葉公が自慢して孔子に、こう言った。私の村には正直者の躬という者がいて、その父親が羊を盗んだことを、子である自らが証言したのですよ。どうですか。正直者でしょう、と。
それを聞いて、孔子は、こう答えた。私の村の正直者は、そうではありません。仮に父か子かが盗みを働いたとしても、父は子のためにその事実を隠し、子は父のためにその事実を隠すことでしょう。人としての本当の正直さというのは、そんなことではないでしょうか。)
外国育ちとのことですけれども。それでもイギリス人の監督が、こんな、いかにも東洋的な考え方(正直さ)の映画を作ったことを、評論子は、面白くも思いました。
なお、ついでに言えば、裁判長の警告にも関わらず、ケンプトンに対する名画窃盗疑惑のくだんの陪審の結末か、こんなに「浪花節的なもの」だったことも、ずいぶんと東洋臭いと思われました。実際「誰でも芝刈機を返すのは遅くなりがちなものだ」という理屈がもし本当に通用するなら、今の日本でアタマの痛い刑務所の超満員問題はたちどころに解決して、これに悩んでいる法務省矯正局の幹部は、さぞかし枕を高くして安眠できるようになることでしょう。
本作はイギリス映画ということですが、そんな、いかにも東洋的な正義感が垣間見えることも、興味深いと思いました。評論子は。