あのことのレビュー・感想・評価
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本作を衝撃作と呼ぶことをやめるところから始めたい。
主人公の硬質な佇まいも、寄る辺のない世間の冷たさも、主人公がぶつかる壁の理不尽な高さも、すべてを飾ることなく提示しているのがいい。目を覆いたくなるようなシーンもあれば、当惑するような裸のシーンもあるが、どれも映画ならではの虚飾とは程遠く、2022年の日本での公開作では『セイント・フランシス』と並んで、何を見せるか、何を見せないかという映画のリテラシーを更新する作品になるのではないか。 手法的には『サウルの息子』、内容的には『4ヶ月と3週と2日』に通じるのだが、堕胎にまつわる先達には『ヴェラ・ドレイク』やソダーバーグの『ザ・ニック』、前述の『セイント・フランシス』などがあって、手法が変われど脈々と受け継がれ、叫ばれるべき女性たちの主張とテーマがある。時代設定は 60年代のフランスとしても、現代に連なる物語として、特に若い人たちがこれをフラットな気持ちで受け止められる世の中になって欲しいと乞い願う。
かつてない忘れえぬ映画体験となった
映画芸術の最も素晴らしいところは、自分にとって未知なる世界を垣間見せてくれる点だと思う。その意味で本作は衝撃的だった。男性の僕がいま、スクリーンに映し出された可憐なヒロインと秘密を共有し、徐々に増していくお腹の膨らみを感じている。そして彼女の「出産しない」という決断を叶えるにあたっての長く過酷な道のりに寄り添っている。かつて映画を通じてこんな視覚的な経験を生きたことがあっただろうか。印象に刻まれるのは、人にはなかなか打ち明けられない悩みを抱えた彼女の押し黙った表情。それにもかかわらず常に眩く射し込んでくる陽光。両者のギャップは一見すると残酷なようにも思えるが、ふと僕にはこの陽光が原作者アニー・エルノーが若き日の自分に向けて注ぐ一つの励ましの眼差しのようにも感じられた。と共に、本作は決断の重さを描いた物語でもあり、エルノーの忘れえぬ記憶や痛みがここには強烈なまでに焼き付けられているのである。
違法の堕胎を望む女学生の苦闘を疑似体験させる衝撃作
予備知識なしでぼんやり観始めて、大学生の主人公アンヌが1940年生まれという台詞があり、「ジョン・レノンが生まれた年だ」などと反応し、そこでようやく1960年代の話だと思い至った。 スタンダードサイズの画角は、古い時代のルックに貢献しているだけでなく、プレス資料に「(オードレイ・)ディヴァン監督が本作のアスペクト比を1.37:1にしたのは、カメラとアンヌを完全に同期させるため」とあるように、4対3(1.33:1)よりわずかに広いだけの画角により、両脇の視野が限られるぶん観客は被写体の姿に集中し、やがて彼女の視点に、さらには内面に同化していくような感覚になっていく。そしてもちろん、望まない妊娠をするが、中絶が非合法の時代において堕胎の試みが何度も失敗するなか、週が経過するにつれて焦りが募り、そのことで頭が一杯になり視野狭窄に陥る感覚や閉塞感も、このアスペクト比によって強調されている。 ディヴァン監督はこれが長編2作目で、ヴェネチア国際映画祭の金獅子賞受賞という快挙。2週間早く日本公開された「ファイブ・デビルズ」もレア・ミシウス監督の第2作だし、フランスでは女性監督の躍進が続いている印象で、これも歓迎すべき傾向だ。 【12/13更新】初回投稿時にレイティングに関して誤った記述があったことをお詫びします。当該部分を削除しました。
12週後...‼️
予期せぬ妊娠という事態に陥った女子高生‼️60年代のフランスで中絶は違法‼️なんとか進学して勉強を続けたいヒロインは、中絶の道を探る・・・‼️異性関係、交友関係、学業など、揺れる乙女心の焦燥を描いた佳作なのですが、もうチョット身ごもった生命への愛着があっても良かったと思います‼️2007年のルーマニア映画「4ヶ月、3週と2日」の方が圧倒的に名作でしたね‼️
望まない妊娠と「女性」という立場
<映画のことば> 大半の医師は中絶に反対だ。 女性には選択権がないと考えている。 (中絶藥ということで他の病院が注射したエストラジオールは)流産防止の藥だ。 別に「セクハラ」とかなんとかいう意図は、評論子にはまったくないのですけれども。 物理的に妊娠して子供を産む機能が備わっているのは女性の側だけであって、その機能が(状況によって)入れ替わったりしないというのは、高等動物としての人間についての客観的な事象であると思います。 (その点、雌雄同体になっているような原始的な動植物とは、決定的に違うわけで。) まして、女性は、その機能維持のために、毎月毎月、頭痛や体のだるさなど、男性にはない不快な体調不良を我慢してもいる―。(男性である評論子には、もちろん経験はありませんが、人によっては、動けなくなってしまうほど重いこともあると聞きます。婦人科系の病気で外科的な処置(手術)を受けた女性から、反面、いつでも気兼ねなく、好きな温泉入浴が楽しめるようになったと聞かされたこともありました。男性の評論子には想像すら難いのですが、そんな不自由・気苦労もあるようです。) そういう物理的な「違い」というのはどうすることもできない訳ですし、これからも、未来永劫そうでしょうから、その中で真の「ジェンダーフリー」を実現するのならば、そういう物理的な「差異」を認めた上で、意識の上での「フリー」を図っていくしかないことになるのだとも思います。 (その意味では、「女性医師が産前産後休暇をとると、ただでさえ長時間労働が恒常化している医療現場は回らなくなる」―などという近視眼的な理由から、男性受験者に加点したり、女性受験者を恣意的に減点したりしていたという某医科大学の入試は、論外。) 本作は、私が参加している映画サークルが、地元で公開された作品の中から毎年選ぶベストテンの一本として、2022年に選ばれた作品でした。 上掲のようなジェンダー問題も背後に透けて見えるかのような本作は、充分に、佳作と評することができると思います。評論子は。 (追記) ちなみに、日本でも人工妊娠中絶は、妊婦自身がすることでも(自己堕胎)、医師が行う場合でも(業務上堕胎)も、原則としては違法行為であると言ったら、レビュアーの皆さんは、驚かれるでしょうか。 (実際には、母体保護法の、いわば拡大解釈によって、その手の手術は広く行われていることは、周知のことと思います。) (追記) ものの本によると「堕胎罪の保護法益については、胎児の生命・身体、母体の生命と身体、性風俗、人口維持に対する国家的利益など種々のものを考えることも可能であるが、現行刑法は、胎児の生命・身体と母体の生命・身体の双方を保護法益としていると考えるべきである。自己堕胎・同意堕胎を処罰しようとしていることは、胎児の生命・身体を保護法益としていることを示すものであり、第三者堕胎を自己堕胎より、また、不同意堕胎を同意堕胎より、さらに妊婦を死傷に致した場合、重く処罰しようとしていることは、母体の生命・身体を保護法益としていることを示すものである」(斎藤誠二編著、八千代出版「改訂刑法各論」1990年)とされています。 残念ながら、そこでは、産むこと・産まないことについての女性の側の意思(決定権)は、微塵も省(かえり)みられてはいないようで、法律は(少なくとも刑法は)、その水準のことは何も考えていないということに、どうやらなりそうです。
妊娠して子供を下ろす事を疑似体験出来ます。
重苦しい展開で ドキュメンタリーのようなカメラワークで助けてくれる人もほとんど居ない状態で刻々と生まれる日がカウントダウンされて行くとかUSJのアトラクションかと思うくらいのある意味アトラクションムービーでした! ラストのアレには下手なホラーよりもウワってなりました(寒っ)
頭を巡るヌーヴェルヴァーグの作品の数々
フランス映画は一般的に恋愛に奔放な印象だったわけだが、1960年代まで法律で中絶が禁止されていたと知った時の衝撃。
救いがない
中絶が法律で禁止されていた頃のフランス1960年代の、妊娠してしまった女子大生の話。 全く産む気のない主人公がなんとか中絶しようと必死になる話。なんの罪の意識もない主人公に、相手の男性も真剣に考えていない様子。友達にも関わらないほうがいいと突き放される。誰にも共感できないし、同情もできない。救いがない映画。 ガムちょうだい。もうないと言って、自分のかんでるガムをあげる。それをもらう主人公。ヒエ〜 仲のいい友だちだって、かんでたガムはもらえないよー。 中絶してトイレで産み落とした時、友達にハサミを持ってきてもらい、自分できれないから切って、と頼む主人公。友だち可哀想。いやよねえ。私なら頼まれても切れないかも。 あまり観ていて気持ちのいい映画ではない。
ホラー風味で撮られた新味。
またも堕胎の是非を問う系かと思いきや、 社会派でなくホラー風味で撮られた新味。 胎児の命への訓戒憐憫を語らないバチ当たりな潔さが怖い。 実際そうか?とも。 女子寮にデパルマ臭も。 上等に見えて際物、だから劇場で見ねばだった。
葛藤を一人称視点で浴びる
2022年劇場鑑賞96本目 優秀作 73点 結論、観る人が等身大で衝撃的な体験をできる怪作 60年前のフランスでの物語で、主人公は当時大学生で教員を目指している優秀な生徒だったが、ひょんなことで妊娠してしまう。当時のフランスは法律により中絶が禁止されていて、まだ勉学に励みたいので出産し育児する気も無ければ、中絶し捕まる気もさらさらない。そんな中で葛藤する彼女の決断までの数ヶ月を凄まじい臨場感で体験させられる作品 部屋で自分でどうにかしたり、医者に最初は頼ったり、手に負えなくなって闇医者に頼ったり、みてるこっちまで痛すぎるよ 最後のトイレでのシーンはもう悶絶した 当方ちゃんと映画を劇場鑑賞し初めて22年で5年目くらいのまだまだ歴は短いものですが、数年前から作品を判断する上で欠かせないポイントが衝撃的であるで、これは内容でも演出でも演技でも音楽でもなんでもいいのですが、作品それぞれの色やベクトルで個人的にひっかったポイントが残り続けるものは自ずと評価が高く、今作はそういった意味で例に漏れずまさしく衝撃的な内容に演出に演技で、残り続ける作品に間違いなくなります 是非
鼻につく
やはり私はヨーロッパの映画祭との相性が良くないことを再確認。 この映画の良さがよく理解できない。 まず鼻につくのがヒロインの被害者面。 悲劇のヒロインにでもなったつもりだろうか。 こと妊娠に関しては確かに女性に大きな負担を強いる不公平さはある。 だが、それを差し引いても自らの身から出たさびには違いなく、 一方的に中絶できない制度を嘆き反発するのには反感を禁じ得ない。 第二に自らの子に対する愛情の片鱗や性への尊厳がないことに唾棄する。 フェミニスト活動家にありがちな天上天下唯我独尊、 自らの思想にかなわないものはすべて悪という思想と同じ匂いを感じる。 昭和のドラマのように必要性の薄いシャワーシーンや赤裸々な表現の乱発も 表現の自由とやらでゲージツなのかな。
孤独な戦い
1950年代のフランス。 妊娠した女学生が堕胎のために奔走する様子がたんたんと描かれる。 当時中絶が重罪だったことで医者から見放され、アンヌ(Anamaria Vartolomei)は誰にも打ち明けず、ひとりで向き合って苦しみぬく。 その意味で、17歳の瞳に映る世界(2020)やムンジウの4ヶ月、3週と2日(2007)よりも見ていてつらかった。 ほとんど恐怖映画。 2022年にノーベル文学賞を受賞した仏作家アニーエルノーの自伝小説L'Événementの映画化──とのこと。ウィキによればアニーエルノーは著作のほとんどが自伝だそうだ。 妊娠を誰にも言わないところに特有の気質を感じた。 個人差もあるだろうが、依頼心がなく、すべて自分の問題として解決しようとするところにフランスの冷徹な個人主義を感じた。 エルノーの親はカフェ兼食料品店を営む労働階級だったそうだ。迷惑をかけまいとする頑なな自立心が、フランス人らしくもあり作家らしくもあった。 ウィキ情報だが、ダルデンヌ兄弟のロゼッタ(1999)を引き合いにしている批評家がいて、はげしい共感をおぼえた。 近接カメラのリアリティ表現も、ひどい条件下で不屈の人物像もたしかにロゼッタだった。 この映画は2021年のヴェネツィアで金獅子賞、併せてAnamaria Vartolomeiの演技も賞賛された。監督はAudrey Diwan。もとは脚本家であり、長編の監督は2本目だそうだ。 個人的に創作物に子宮感覚なんてないと思っているが、この映画は女性が監督していることがよくわかる映画だった。 17歳の瞳に映る世界(Never Rarely Sometimes Always)を見たときもそれを思ったが、妊娠の話だけに、どうしようもなく顕われてくる生理的情緒があった。 どこが──という指摘はできないが、たしかに女性が描いている(監督している)ことが解った。 ただ、それはAudrey Diwanが有能だからであって“女性だから”ではない。 すなわち、この映画は女性が監督をしていることが解るけれど、それは女性だから女性感覚や痛みを体現できた──のではなくAudrey Diwanの脚本家のキャリアと演出家としての力量によってそれが体現できたのだった。 (いい映画があり、監督が女性で、堕胎を描いている──となるとフェミ界隈が寄ってきて女性感覚や女性権利を標榜してしまうが、女性であることの前段に映画技術がある──ということを言いたかった。) 中絶ができる限界期をあらわすように週毎にテロップが入る。 編み棒で掻きだすも失敗し、お金をつくって闇稼業の堕胎婦のところへ。 全体を通じて彼女は泣き言を言わず誰のせいにもせず愁嘆場もなかった。 その強さを支えたのは向学心だったにちがいない。 見た後で原作がアニーエルノーという作家で2022年にノーベル文学賞をとったというのを知って腑に落ちるものがあった。 一種の“ファイター”を描いていると思う。彼女の体験は“戦った”としか言いようのないものだった。
たった一人で戦う12週間。
望まぬ妊娠をした大学生のアンヌ。 1960年初めのフランスの大学生(生まれたのは1940年) 当時フランスでは人口中絶は違法だった。 フランスでは痛ましい事件の後、 1975年に中絶が合法化したそうです。 その映画は望まぬ妊娠をして、産まない決意をしているアンヌ。 妊娠を知る3週目から、「あのこと」の起る12週目までを、 徹底してアンヌの視点で描いている。 原作は2022年のノーベル賞文学賞を受賞した アニー・エルノーの私小説「事件」。 古今東西、女を悩ます珍しくはないが、生死に関わる重大事。 望まぬ妊娠。 そして中絶。 今も古くて新しいテーマだ。 昨年にはアメリカの連邦最高裁は中絶の権利を禁止した判決を下した。 また逆戻りだ。 だからこの映画はタイムリーで、是非考えてほしい。 「女性だけが、苦しむ固有の問題だろうか?」 受信したアンヌが医師に相談すると、 「中絶手術を行えば、自分も法律で罰される」 「運命を受け入れなさい」と、諭される。 映画は赤裸々に女性の肉体をレンズに晒す。 アンヌは自らの手で、長い金属の棒を突き刺し、出血するが それでも胎児は流れない。 違法な闇中絶の女に300フランも払って痛い思いをして、 「明日、流れる」と言われたのに、またしても胎児は流れない。 もう自分でなんとかするしかない・・・ 遂にトイレで流れるものの大出血・・・救急車で運ばれる。 女だけがこんな苦しい思いをしてる不安にさらされ、 身体を傷つけて心を痛めて・・・と不公平だと思ってしまう。 「どこまで女の権利を無視したら気が済むのか?」 映像(カメラ)があまりにも衝撃的で息が詰まる。 女優にここまで演じさせても良いのか? 疑問にも思う。 たしかに臨場感迫る映像。 実際の中絶手術では、覆われている部分まで写している。 演じる女優もたまったものではない。 ここまで肌(器官?)を露出する事で、伝わる部分はあるけれど・・。 あまりにもセンセーショナル映像だ。 (ここまで表現しなければ、伝わらないのか!!) その結果のいくつかの賞賛が与えられた。 ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞。 主演のアナマリア・ヴァルトロメイも、 セザール賞最優秀新人女優賞受賞。 アナマリアはきっと今後もこの映画をステップに、 良い役に恵まれて大女優へと成長するだろう。 (去年たしか、アフターピルが日本でも認可された記事を読んだ) 今調べたら、来院不要のオンライン診療で24時間対応。 最短当日郵送。クレジット決済。 セックス後72時間以内で一錠服用=10,780円よりとある。 (お金とネットが使えれば、可能だが身体に危険はないのかな?) それでも日本ではトイレで産み落として殺してしまう事件が 絶えない。 本人が無知なのか、行政が頼りないのか、親に相談出来ないのか、 貧しいのか!! きっと複数の要因があるのだろう。 「17歳の瞳に映る世界」2020年(アメリカ) アメリカは州によって法律が違う。 人工中絶が合法のニューヨークまで中絶に向かう17歳の少女と従姉妹。 2人の友情と決意が胸に迫った。 この映画、とても良かった。 「主婦マリーがしたこと」1988年(フランス) 視点は違うが堕胎を生活のために行った主婦マリーは 夫に密告されてギロチンにかけられる。 「4ヶ月、3週と2日」2007年(ルーマニア) この作品も友達とたった2人で中絶に挑むドキュメンタリーのような映画。 カンヌ国際映画祭、パルムドール受賞した。 「あのこと」の監督オドレイ・ディワンの談話として、 「ヨーロッパのいくつかの国で、この映画を見て気を失った男性がいた」 と、話している。 「妊娠中絶がこういうことなのだと、全く理解していなかった」 と言ったそうである。 女性は妊娠・出産に命懸けのリスクを抱えている。 そして女性が今産まないで、仕事(キャリア)や勉強を優先したい。 その事を社会が男性が自分のこととして考えて、 社会全体が女性の身体を守る。 そういう意識改革が出来たら、一番意義のあることである。
母も子も幸せになれる社会よ来てくれ
主人公は1940年生まれだ。 昔が舞台とはいえ、人生と引き換えに出産したくない、という主人公の言葉が 昨今、とりだたされている少子化や、女性の権利、自立、 もしかすると結婚という制度の問題点に対して、 答えをだしてしまっているのではないか、と感じつつ観た。 それも自業自得だとして、男性との間にあるリスクの差は、 生物的にではなく社会的に、 ずるい、や無責任、を越えてもはや雲泥がホラーの域。 戦慄するほど、納得できず、社会制度でのフォローを! と言わずにおれなかった。 また、産めば人生が終わる、はすなわち、 産むのは「いつか」の「いつか」が、 「最後に仕方なく」という意味にもとれ、 子供目線で考えた時、複雑な思いにもかられる。 母と子の権利は同時に守られないのか。 やはり社会制度でのフォローを! である。 「プロミシングヤング・ウーマン」とテーマは同じであると感じるが、 「プロミシング」で男性はかなり下劣に描かれている一方、 こちらでは抑えられたごく普通の人物像として表現されている。 ゆえに女性がヒステリックと浮き上がり、 追い詰められた感のすさまじさがリアルでなおホラーであった。 長らく色々映画を見てきたが、初めて途中、直視できなかった場面もある一方、 主人公と同年代の男女、昨今の問題うんぬん論じる人が見たならば、 一体どういった感想を持つのかも興味が尽きない。
青少年向け性教育映画
本作も評価が高かったので興味が湧き観に行ったのですが、かなりエグい作品ではありました。恐らく独り身の初老の男が観るべき作品では無かったのかも知れません。 というか、もっと若い世代の人達に観て欲しい作品だと思いました。 本作は1960年代の話で、私からするとついこの前の物語であり、それでこういう法律が成立している先進国の国にあったという事実があり、社会は不公平で理不尽であり、悪法も法なりという事実は子供(十代)知っておくべきだという切実なメッセージを含んだ作品だったと思います。しかし、恐らく世間の思惑は逆行していて、むしろ大人達は子供には見せたがらない作品の様にも感じられます。 全然比較にはならない例えかも知れませんが、バカで幼稚な悪戯の動画をSNSに投稿したニュースなどが氾濫していますが、何が良い悪いの話ではなく、若気の至りというか、ちょっとしたお遊びやミス程度のことでも、思っている以上の大事となり相当の痛い目にあったり、それにより人生にとって大きな痛手となり得るってことを、若者は知っておくべきだと思うので、こういうキッツイ作品こそ十代の青少年達に見せておくべき作品のような気がしましたね。それにより“責任”の意味を少しは学べるかもと期待します。 でも本来学ぶべきバカでクズで幼稚な人間が観てどういう影響を受けるのかは分かりませんが、ショック療法として少しは暴走のブレーキになるかも知れませんしね。
優先すべきことを見失わず行動した大学生の記録
私が当然の権利だと信じて止まず、そうではない世界があること自体信じられないと思っても、世の中はそうでもないことがいくらでもある。でもこの映画はそういったことの是非を考えることからは切り離して、ただ一人の大学生が自分の優先すべきことを見失わず、自分の頭で考え、不安に押しつぶされそうになりながらも行動した記録として鑑賞したい、そう思った。まだ若い大学生であり、行動は手探りで危うい。できることは今よりずっと限られている。観ていてやきもきする。でも彼女の鋭い目にエールを送りたい。 「あのこと」とは、口に出しにくい過去の出来事をほのめかす時に使うものだ。時間的、空間的、心理的に一定の距離をおくことに成功したからこそ、「この」でも「その」でもなく「あの」と言えるようになる。邦題がそれとなく示すものはとても深いと思う。
テーマと手法が完全一致のクレバー作
とてもミニマルな中に(スタンダードでもあり)小さな世界が詰まっていて、それが窒息するように(ウィークリーテロップも相まって)なっていく共感性。 教室、宿舎の部屋、庭、道、世界は狭い。広い空間は映されない。人生と引き換えの時限爆弾を抱えた若い女性のカウントダウンで追い込まれていく様。身体と顔とアクションだけでこのテーマを見せきっていく。心の痛みだけでなく、身体的痛みもいやというほど突きつけてくるだろうと思ったらそうなった。これは、痛い。キツい。映画表現は切り捨てることだと再認識した。
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